第15話 銭湯帰りとご令嬢の家庭事情
「うん?」
湯が出ない、だと?
風呂掃除を終えた俺は風呂の給湯器のボタンを押して、首を傾げる。
試しにもう一度押し、なにも反応がないことを確認して、ボタンを連打。
「……ダメだ、壊れてやがる」
呟きを残すようにして、風呂を出る。
俺は頭をかきながらリビングに移動し、キッチンに立っている神奈を視界に収めつつ、呼びかけた。
「おい神奈、今日は銭湯に行くぞ」
「え? 戦闘……ですか?」
「違う、拳を構えるな」
仮に戦闘だったとしたら、お前の傍に包丁あるんだから俺の負け確定だろうが。
「そうじゃなくて、風呂だ。壊れたから今日は家の風呂は使えない。あいつには失望した」
「あ、お風呂ですか」
「そうだ。とりあえず修理は頼んでおくとして、今日はもう銭湯で済ませるしかないって話だ」
「そういうことですか、分かりました。えーっと……先、ご飯にします? お風呂にします?」
「まずはその構えたままの拳を下ろせ」
いつまでファイティングポーズ取ってんだこいつ。もしかしてやる気満々だったりする? 俺なにか怒らせるようなことした?
「飯の準備は時間かかるし、この時間なら飯食って銭湯が妥当だろうな」
「それならもう少しで出来ますから、師匠は執筆でもしててください」
「そうさせてもらう」
俺にとっては至福の時間だが、人と言葉によっては、飯出来るまで仕事してろというシチュエーションに変化するだろう。
……俺、この仕事好きでよかった。
それからしばらく晩飯が出来るまで、俺のキーボードを叩くカタカタという音と、神奈が包丁をまな板に当てるトントンという音が、リビング内で重なり合い続けた。
「そう言えば、明日からテスト週間に入りますけど……師匠って勉強の方はどうなんですか?」
「可もなく不可もなくだな。俺は別に学年で上位に入りたいわけじゃないし。というかテストなんてちゃんと授業聞いてノート取っておけば赤点なんて取るわけがない」
「そのセリフ赤点取っちゃう人からしたらケンカ売られてるようなものだと思うんですが」
「お前は毎回どうしてるんだ? 学年上位の神奈琥珀さん。お前毎回廊下に名前を晒されてるだろ」
うちの学校は成績五十以内の上位者の名前が廊下に張り出されるシステムだ。
こいつは毎回十位以内のところに名を連ねていたはずだ。
「晒されるってそんな嫌な言い方しなくても……私も普段から予習復習はしているので、慌ててテスト対策をする必要はないですよ」
「それも赤点取る人間からしたら十分嫌味になるだろ」
普段授業中に寝てて、今頃いろんな奴にノート見せてもらいながらヒイヒイ言ってる運動部連中に聞かせてやりたい。
銭湯に向かう道すがら、俺たちは雑談に花を咲かせつつ、夜と夕方が混じったような時間の中を歩いていく。
僅かに残った夕焼けが、刻々と夜に染められていく。
「着いたぞ。ここだ」
「ここが……私初めてです。銭湯に来るの」
「だろうな」
澄ました顔してたが、銭湯の準備してる時、遠足前日ぐらいウッキウキだったぞ。
もしくは推してる作品の新刊を買ってきて読む前のオタクみたいな感じだった。
「じゃ、またあとでな」
「はい、またあとで」
お互いにのれんを潜って脱衣所に入る。
俺も久しぶりの広い風呂だな。他にも客はいるが、リラックスさせてもらおう。
服を脱いで、浴場への扉を開くと、むわっとした空気が全身を包んだ。
湯に浸かる前に身体を洗ってから、足で温度を確かめるようにして、なみなみと張られている湯の中に身体を沈めると、
「あ゛ぁ……!」
無意識に小さく声が漏れてしまった。
まるでおっさんみたいだが、熱い湯に浸かった時の定番みたいなもんだ。お約束お約束。
時間が空いたら旅行にでも行って、温泉に入るのもいいかもな。
おおよそ高校生の思考ではないような気がしてならないが、それだけ温泉の魔力は老若男女に通ずるものがあるということだ。
俺はしばらくぼうっと天井を見上げて、湯船の中に少しだけ身体を深く沈めた。
風呂から上がり、共用スペースに行くと、牛乳が置かれた棚の前に立っていた神奈の後ろ姿を見つけた。
神奈は手を牛乳に伸ばしたり引っ込めたりを繰り返している。
「……なにやってんだ、お前」
「わひゃあっ!?」
後ろから声をかけると、神奈は軽く悲鳴を上げて、ぴょんっと飛び上がった。
いや、わひゃあって。
「し、師匠! もうっ、おどかさないでくださいよ!」
「お前が勝手に驚いたんだろ。で、なにやってたんだよ」
「いえ、その……本の知識や聞いた話では知っていたんですが、本当に銭湯には牛乳が置かれているんだなと思って……」
世間知らずだと思われるのが恥ずかしいのか、神奈は照れ笑いなのかはにかんでいるのか判断しにくい笑みを貼り付けていた。
今顔が赤くなっているのは、風呂上がりで頬が上気したせいと羞恥のせいの半々ってところか。
俺はそんな神奈を横目にふーんと相槌を打ちながら、コーヒー牛乳の瓶を二本取って、番台のおばちゃんにお金を渡した。
「ほら」
「あ。ありがとうございます」
「気にするな。世間知らずのお嬢様がいつまでも棚の前でうろちょろしてると、他の客が牛乳買うとき困るだろ」
「しーしょーおー……?」
ジトりとこっちを睨んでくるお嬢様をスルーして、蓋を開けて一気に中身を飲み干す。
火照った身体に冷たい飲み物は最強。異論は認めない。
神奈はしばらく頬を膨らませてむくれていたが、やがて諦めたようにため息をついて、きゅぽんといい音をさせて牛乳瓶の蓋を開けた。
「んぐっ、んぐっ……ぷはっ」
一足先に飲み終えていた俺は、手持ち無沙汰だったので神奈がこくこくと喉を鳴らしながら小さな口でコーヒー牛乳を飲み干していく姿をなんとはなしに眺める。
なんで牛乳飲んでるだけの姿なのに美少女ってだけでここまで絵になるんだろうな。不思議だ。
「ごちそうさまでした」
「おう。よし、帰るか」
二人並んで銭湯を出る。
そこにあるのは、完全に夜になって、来る時とは違う景色の道だった。
「それで、初銭湯はどうだった?」
「そうですね……広いお風呂はやっぱりいいものですね。実家のお風呂を思い出しました」
「おおう……マジでか」
銭湯並みの実家の風呂ってこいつの実家どんだけデカいんだよ。
「それだけデカいってことは、やっぱりリアルメイドとかいるのか?」
「あ、はい。専属シェフとか、お手伝いさんだとかも数名雇っていますよ」
すげえな……給料良さそう。
そうだ、実家の話が出たし、いい機会だから前から気になっていたことも聞いておくか。
「――神奈」
「はい?」
呼びかけると、神奈の暗闇でも街灯の明かりできらりと輝いている青い目がこっちを向いた。
「お前が俺の家に住むようになってから一ヶ月以上経つが……」
俺は言葉を区切り、立ち止まった。
「どうしてお前の家族はなにも言ってこないんだ?」
ぶわり、と風が吹いた。
神奈の白い髪が、さらりと風になびく。
「娘が家出しているというのに、一ヶ月以上もなんの音沙汰すらないのは、おかしくないか?」
「……」
一瞬だけ音が消えたが、傍を通る車の音が沈黙をかき消した。
「あ、はは。これはちゃんと話さないと解放してもらえそうにありません、よね?」
困り顔で笑う神奈に、俺は無言で答えた。
「……私のお父さんは今、仕事で海外に行ってるんですよ。今回だけじゃなくて、世界中を忙しく飛び回っていて、家に帰ってくることは滅多にありません」
「……そうだったのか」
と言ったものの、なんとなくそうなのではないかとは思っていた。
大企業のグループをまとめている社長なんだから、忙しくないわけがない。
「今回のことも、私はお父さんには話していません。お手伝いさんたちにも黙っておいてほしいとお願いをしています」
「なるほどな。それでなにも音沙汰がなかったのか」
これでようやく合点がいった。
「知ってても心配なんてしてくれませんよ。あの人は」
ふっ、と力ない寂しそうな笑みを神奈が漏らし、呟いた。
「……母親は? 両親揃って家にいないのか?」
「お母さんは……もういません」
「……悪い。踏み込みすぎた」
「いえ、師匠はなにも悪くありません。どのみちいずれはきちんとお話しようと思っていたんです。ただちょっと、タイミングが見つからなくて」
確かに、急にこんな話をするタイミングなんて見つかるはずがない。
内容が内容だし、気軽に口に出来ることじゃないからな。
「お母さんがいなくなってからというもの、お父さんはより仕事に打ち込むようになって……家にいる私のことなんてほとんど気にかけてくれません」
「そんなことは……」
「あるんです。だから現にこうして家にもほとんど帰ってきてくれてないんですから」
寂しそうとかじゃなく、今にも泣いてしまいそうな顔をして言う神奈に、俺はもうなにも言えなくなってしまった。
神奈の家のことに、部外者の俺がちょっと事情を聞いた程度で軽率に口を挟むべきじゃない。
言葉を探すように、視線を動かして、
「……コンビニでアイスでも買うか」
別の言葉を口にした。
「……ですね」
突然の提案にぽかんとしていた神奈だったが、やがてあはっと笑い、俺の提案を飲んだ。
どちらともなく歩き出して、暗くなった雰囲気をその場に置いていくように、俺たちの話題は自然とラノベや創作のことに切り替わっていった。
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