第25話 始まりと終わりはいつも突然やってくる
神奈の父親がうちに来て、数日が経過して、六月に入った。
梅雨入りが近いせいか、今日は湿度が高く、どこかじめりとした空気を肌で感じる。
「師匠」
学校が終わって、いつも通り積んでいる本を消化したり、原稿を進めたりしていた、俺に神奈が話しかけてきた。
「ん、どうした?」
振り返ると、そこには真剣な顔をした神奈が立っていた。
「出来ました。読んでくれませんか」
差し出してきた右手には、USBメモリー。
前回、こいつの作品を読んだのは確かGWぐらいだったはずだ。
一ヶ月程度で文庫本一冊分の文章を書いてきたことを考えれば、かなりのハイペースと言えるだろう。
「分かった。読んでおく」
「はい、よろしくお願いします」
「一応言っておくが、俺の意見が絶対正しいってわけじゃないからな? 俺がダメだと言ってもこれを面白いという奴もいる」
「分かっています。でも、私は師匠から面白いという言葉を聞きたいんです。私が自信を持って新人賞に応募出来るように」
まあ、それがこいつなりのジンクスみたいなものなら、俺に出来るのは読んで感想を言うぐらいのものだ。
今回は父親のこともあったせいか、かなり気合いが入っているように見える。
「これも分かってると思うが、父親のことがあったからといって、同情して面白いなんて言わないからな」
そう言うと、神奈は一度目を閉じて、息を軽く吐き出して、ふっと力を抜いて、笑った。
「はい。だからいいんです」
「そうか。それなら早速読ませてもらう」
USBメモリーをパソコンに刺し、表示されたファイルを開くと、画面いっぱいに神奈の紡ぎ出した世界が広がった。
「……私、今からお父さんと会ってきます」
「なに?」
俺は思わず顔を上げ、神奈に視線を移した。
「この間はちゃんと話し合いが出来ませんでしたから」
「……まあ、ちゃんと言いたいことがあるのなら、しっかり伝えてこい。あの堅物そうな人に伝わるかは微妙だろうがな」
肩をすくめて、俺は再度パソコンに向き直った。
振り返る時に見えたくすっと笑う顔と、そうですねという呟きが、やけに印象的だった。
「……ふう」
画面に映る、了という文字を確認して、俺は顔を上げた。
読み始めてから三時間が経過していたらしく、外は日が長くなってきたとはいえ、薄暗くなってしまっていた。
「読み終えたんですね」
「おわっ!」
背後から聞こえてきた声に、慌てて身体ごと捻ると、神奈がいつの間にかソファに座っていた。
「ビックリさせるな……いつからそこにいたんだ」
「大体三十分ほど前からですかね」
「父親との話、そんなに長引いたのか?」
「いえ。話自体は早めに終わっていたんですが、師匠がまだ読み終えてないと思ったので、あたりで時間を潰して帰ってきたんです」
なるほどな。
軽く顎を引いて首肯し、椅子を回転させて身体を神奈の真正面に向ける。
「微妙ではないが、前よりはマシって程度だった」
「……そうですか」
ゆっくりと言葉を飲み込むような間を空けて、やがて神奈は穏やかに微笑んだ。
「さて、お腹も空きましたし、晩ご飯にしましょうか!」
ぱんっと両手を鳴らした神奈が冷蔵庫の中身を確認し始める。
……明らかに空元気、だよな。
「さっきも言ったが、俺一人の意見で作品の出来どうこうが決まるわけじゃないからな?」
「あはは、分かってますよ」
「……ならいいが」
まあ、本人が分かっていると言っているなら、これ以上俺がしつこく言うわけにはいかない。
自分の作品に芳しい評価がもらえなかった直後だし、空元気も仕方ないか。
こいつ、前も俺たちにバレないように部屋で暴れてたし。そういう暗い面は人に見せたくないんだろ。
「よーっし今日はがっつりハンバーグにしちゃいますよー! あははははー!」
……本当に大丈夫だろうか、こいつ。
嬉々としてハンバーグに入れる玉ねぎをみじん切りにし始めた神奈を見て、俺は一抹の不安を覚えた。
――そして……次の日、その不安は見事的中してしまうこととなってしまった。
いつものように、学校が終わってからの帰路。
途中でコンビニに寄ったせいで、少し帰宅が遅れてしまった。
「どうして目的のものだけじゃなく、新商品が出てたらついつい買ってしまうんだろうな」
紬やいなりもコンビニスイーツがやめられないと言っていた記憶がある。
などと、コンビニあるあるについてのんきに考えながら、神奈が先に帰っているはずの部屋の扉を捻った。
「……なんだよ。あいつもまだ帰ってなかったのか」
想像していたのとは違う感触に、首を軽く捻る。
仕方ないので、鞄から鍵を取り出して、鍵を開けた。
「さーて、着替えてとっとと執筆の続きを……ん?」
あえて口に出して、自分の思考を整理して、やるべきことを確認していると、テーブルの上に置かれた白い物体が目に留まった。
これは……手紙、か?
手に持って裏返すと、神奈琥珀という文字が書かれていた。
「なんだ? 一緒に住んでるのに手紙なんて変な奴だな……」
口にして、一緒に住んでいるという単語に違和感がなくなっていることに気が付いて、俺は苦笑した。
こんなことが当たり前になってしまうなんてな。
「ええっと、なになに……?」
――師匠へ。
突然の手紙で驚いたとは思いますが、直接顔を見ながら口にすると、言葉にならなそうだったので、こうして手紙にしたためておくことにしました。
いきなりですが、私はこの度、お父さんの言うことを受け入れて、ちゃんと自分の家に帰ることにしました。
「………………え?」
書かれていたことに、一瞬だけ思考が停止して、声にならない呟きが口から漏れた。
そのまま少しぼうっとしてしまったが、慌てて頭を振り、とりあえず続きを読む。
――この数日間、お父さんに言われたことをしっかりと考えて、自分のことを顧みて、これが一番いい選択だということが分かりました。
作家になることも潔く諦めようと思っています。
お父さんにも話しましたが、今回の小説が面白いと言ってもらえなかったら諦めるつもりでした。
薄々分かっていたんです。
私には師匠たちのような輝く才能がないということを。
それでも、諦めきれずに師匠のお家に押しかけて、迷惑をかけてしまいました。
実は私は、昔は引っ込み思案で人見知りでした。
そんな私を変えてくれたのが、師匠の作品なんです。
私もこの作品の主人公のようになりたい。
そう思えたから、今の私があるんです。
初めから終わりまで、無礼ですみません。
終わりぐらい、ちゃんと直接言うべきだということは理解しています。
ですが、前述の通り、師匠の顔を見ていると、ちゃんと言葉に出来るのかが不安で勇気が出ませんでした。
どうか、勇気の持てない臆病な私を許してください。
そして更に不躾なお願いになりますが、これからも学校ではよき友人、クラスメイトとして仲良くしてもらえれば嬉しいです。
長くなってしまいましたので、これで最後にしようと思います。
お世話になりました。
いなりちゃんと神先生にも、そう伝えておいてください。
――神奈琥珀。
「……………………」
読み終わり、所々になにか、液体が落ちた跡のようなものが残っている手紙から顔を上げた。
なんだ、これは。
込み上げてくる気持ちが言葉にならずに、胸の中で渦巻いている。
最後と書いているのに何故か、更に続いている文字に目を落とす。
――PS
迷惑をかけたお詫びと、今までの感謝の印として、こちらを受け取ってください。
「こちら?」
手紙の後ろから、もう一枚紙切れがひらりと落ちた。
拾い上げて、表を見る。
「これは、あの時の小切手……?」
あいつ……!
「ふざけるなよっ!」
紙切れの正体が分かった瞬間、さっき感じた言葉にならない感情が、怒声となって喉の奥から溢れ出た。
叫びはしたが、未だに胸を支配するこの感情がなんなのか、俺には名付けることが出来なかった。
こうして、俺と神奈琥珀の突然始まった同棲生活は、突然終わることとなってしまったのだった。
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