第26話 姉というのはいつも横暴な生き物

「――さひ。あーさーひー?」


「………………………………あ?」


 自分が誰かに呼ばれながら、肩を揺さぶれているのを身体が認識した途端、今までどこかに出かけてしまっていた意識が戻ってきた。


 ぼんやりとした視界が徐々に定まっていくと共に、目の前で軽くひらひらと振られている白くて小さい手が真っ先に目に飛び込んできた。


「……おう。水鳥か。どうした?」


「もうっ、どうした、じゃないよ。さっきから呼んでるのに返事しないんだからっ。授業終わっちゃったよ」


 頬を軽く膨らませた水鳥の言葉を確かめるように、時計に視線をやる。


「……げ。もう放課後かよ」


 今日一日の記憶がまるでない。

 

「もうっ。ここ数日ずっとそんな感じだよ? 一体どうしたの?」


 少し嘘をついた。

 実はここ最近気が付いたら夜になって、朝になっていることを繰り返している。

 ぶっちゃけ、今日一日どころか、ここ二、三日の記憶は大分曖昧だ。


「いや……実は仕事がちょっと忙しくてな」


「ふぅん。で、本当は?」


「おい待て。どうして嘘だと断定した」


「どうしてって……旭、小説書くの大好きなんだから、少し忙しくなったからってその大好きな仕事で旭がそんなになるわけないもん。企画考えている時で、アイデアが出ない時でさえも楽しそうなんだから」


 なんだその変人を見る目は。失礼な。

 

「しっかりしてよね。数学の時間なのに英文読み始めたぐらいなんだから」


「え? マジで? 俺意識ない間にそんなことしてた?」


「してたしてた。数式の答えを問われて、アイムペンって」


「マジかよ……」


 そりゃ教師も驚いただろうな。

 問題の答えが斬新な自己紹介だったんだから。

 

「……はあ。とりあえず、帰りながら話す」


 俺がおかしくなってる原因は、間違いなく神奈との一件だ。

 あいつが出て行ったあの日から、ずっとぼうっと過ごしているような気がする。


 そのことを掻い摘まんで水鳥に説明すると、水鳥は白くて細い指を顎に添えた。


「つまり旭は一緒に住んでいた神奈さんが急に出て行って寂しいってこと?」


「違う。どちらかと言えば苛ついてる」


 まあ、部屋が広く感じるのも事実なのだが。

 それを認めるのはどうにも癪だった。

 そのことも今の俺の苛立ちを加速させている。


 トイレに入ってる最中にインターフォンが鳴らされ、神奈に任せればいいかと思って、出て行ったことに気が付いて慌ててトイレから飛び出たりだとか。


 創太といなりが部屋に来て、ゲームをする時にうっかり神奈の名前を出してしまって、舌打ちしてしまったのも記憶に新しい。


「信じられるか? あいつが置いていった小切手をあいつの下駄箱にぶち込んだら放課後には俺の下駄箱に入ってるんだぞ? あんなもん受け取れるかよ」


 どうしてあんな金額の押し付け合いを続けなければいけないんだ。

 剛速球でキャッチボールをしているようなもんだぞ。


「あー、旭ほどじゃないけど、神奈さんもここ数日覇気がないというか元気がないように見えたのはそういうことだったんだ」


「それだとまるで俺の方が落ち込んでるみたいじゃないか……」


 あの野郎……クラスメイトとして仲良く、とかほざいておきながら明らかに俺、というよりは小説家連中との関わりを避けてやがるし。


 いなりや創太がLAINEを送っても、返ってこないか一言二言だけ時間をおいて返ってくるかで会話を続ける気がないらしい。


 それでも、完全に無視することを徹底できていないのは、あいつらしいと言えばらしい。


「……っと、悪い。そう言えば、このあと打ち合わせが入っていたことを忘れていた」


 自宅の近くまで帰ってきてから、気が付いた。

 本格的に気合いを入れ直す必要がありそうだ。


「そっか。じゃあ、ボクはこれで。旭、あまり無理はしないようにね」


「ああ、悪いな。色々と」


 水鳥には今度飯でも奢ってやろう。

 俺は踵を返して出版社の方に歩き始めた。




「……はあ、あんたねえ」


 俺の原稿とついでに新しい企画のサンプル小説を読んだ紬が、片手で顔を覆いながら、盛大にため息をついた。


「ど、どうした? た、確かにあまり出来はよくないことは、自分でも自覚しているが……そこまでため息をつかれるようなものか?」


「あまりじゃないわよ! ぜんっぜん面白くない!」


「う、うぐっ……!」


 紬のあまりの剣幕に、俺は少し身を仰け反らせた。


「というかねえ……執筆に全く身が入ってないのが丸分かりなのよ。いつも以上に誤字脱字は多いし」


「………………」


 図星過ぎて、俺は閉口した。

 誤字脱字はそもそも気が付いてないからともかくとして、執筆の時にも無意識でぼうっとしている時間が増えた。


 それでも習慣で指は動いているらしく、意識が戻ってきた時に原稿が少しも進んでいないということだけはなかったが。


 結果はお察しの通りというわけだ。

 

「琥珀ちゃんのことでしょ」


「……ああ、そうだ」


 当然ながら、紬にも事の顛末は報告してあって、俺の今の状況がどういった原因で引き起こされているものなのか、分からないはずはない。

 誤魔化せるわけもないので、軽く舌を打ちながら、紬の言葉を肯定した。


「なんかすげーイライラしてモヤモヤするんだよ」


「琥珀ちゃんに?」


「それだけじゃなくて、俺自身にも」


 言いながら、思考を整理していく。

 

「あいつが決めたことで、あいつの家の問題だとか……そんなことで無理矢理納得して飲み込もうとしてる自分にも、腹が立ってしょうがない」


 執筆の時と同じで、なにかを悩んだ時は、考えをまとめるために文字にしたり口にしたりすることで案外簡単に整理出来てしまうことが多い。


 数学の問題を解く時には暗算では難しいのに、数式を用いてノートに書いていけばちゃんと解き方が分かるのと同じことかもしれない。


「……よし、あんた今から琥珀ちゃんのとこに行って話をつけてきなさい」


「は?」


「どうせ今のあんたじゃまともなもん書いて持ってくるなんてどう足掻いても無理よ。だからきっちり自分の考えを伝えて、琥珀ちゃんの考えを改めてちゃんと聞いてきなさい」


「だ、だが……!」


「あーうっさいうっさい! うじうじするな! 決めた! あんたがちゃんとこのこと解決するまであんたの原稿や企画は絶対受け取らないから!」


「なんっ!? お前自分がなにを言ってるのか理解しているのか!? そんな横暴が許されるわけ……!」


「それで上からなにか言われたら潔く辞職でもなんでもしてやるわよ。自分で言うのもなんだけど、あたし仕事出来るから、辞められて困ることになるのは会社の方よ」


 あまりの強気過ぎるもの言いに、文句を言おうとしていた口が塞がらず、俺はまるで金魚のようにぱくぱくとするしかなかった。

 

 こうなってしまった紬がてこでも動かないというのは、弟である俺はよく知っている。

 俺は金魚の真似をすることをやめ、諦めのため息をついた。


「……そもそも、なにかを言いに行こうにも、俺はあいつの家を知らないぞ」


「適当にデカい家を手当たり次第で当たっていくしかないんじゃない?」


 脳筋がすぎる。

 しかし……まさか、今からお前に話をつけに行くから住所を教えろと本人に直接聞くわけにもいかないし、無視されるのがオチだ。


「とにかく、話をつけてこないとあたしはあんたと仕事しないから」


「くっ……やはり暴挙が過ぎると思うんだが……」


 これ以上なにを言っても紬が心変わりをすることはないだろう。

 とりあえず、今日のところは帰って、早急に対策を練る必要がある。


「となると、まずは住所だな……ん?」


 出版社を出て、帰路についた俺がそう独りごちて前を見ると、この場には似つかわしくないメイド服を着た人物が立っているのが見えて、思わず足を止めて凝視してしまう。


「鷹村様、お待ちしておりました」


「寿、さん?」


 街灯に照らし出されたその人物は、神奈家に務めるお手伝いさんの寿さんだった。

 ただの街灯の光が、メイド服のせいで舞台のスポットライトにも見えてしまう。


「どうしてここに?」


「お嬢様のことで、お願いがあって参りました。差し出がましいですが、今お時間よろしいでしょうか?」


「はい。俺もあいつのことでちょうど聞きたいことがあったので」


「そうですか。では、移動しながらお話します」


 優雅な動作でくるりと踵を返した寿さんの後ろを付いていくと、寿さんはとある車の前で立ち止まった。


「どうぞ、こちらに」


「は、はい……」


 リムジンだと……!?

 まさか金持ちの象徴とも言えるこの車を現実で目にするだけじゃなく、自分自身が乗る羽目になるとは……。


 乗り込んで、自動で扉が閉まるのを確認してから、恐る恐る座席に腰を下ろした。


「そ、それで……話ってなんですか?」


「単刀直入に申し上げて、お嬢様のことです」


 静かに動き始めた景色を横目に、俺は言葉の続きを待つ。


「家に帰ってきてからというもの、目に見えて元気もなく、かなり落ち込んでいる様子でして……正直なところ、わたくしどもではとても解決出来そうな問題ではありません」


「……それは俺にもどうにか出来る問題かどうかは分かりませんが、実は、俺もあいつに話をつけにいこうと思っていたんです。住所が分からないので、どうしようもなかったんですが」


「そうだったのですか。それはお互いにちょうど良かった」


 俺は移動の揺れを感じながら、窓の外を流れる景色に目をやった。

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