第8話 もう柑橘系の香りとか使えない

「……よし、ひとまずここまでだな」


 夜、晩飯を食べ終わった俺は、自室にこもって小説を書いていた。

 今朝書いていた新作ではなく、刊行中のラブコメを切りのいいところまで書き上げ、チェアに預けるように背中を伸ばすと、コキリと背中の骨が鳴った。


「新作だけじゃなくて、こっちの方もかなりいい感じのものが書けたんじゃないか? ふふふ」


 特にここのヒロインが近づいてきて、柑橘系の香りが漂うまでの描写なんて最高だ……!

 満足のいく出来になったラブコメを読み返していると、部屋の扉がノックされた。


「師匠、今大丈夫ですか?」


「ああ。ちょうどひと段落付いたところだ」


 控えめに扉が開いて、神奈がひょっこりと顔を出す。

 髪が少し湿っているってことは、風呂に入っていたのか。


「どうした? 髪も乾かさずに」


「いえ、今お風呂の中でネット小説を読んでいたのですが……気になることがあって」


「気になること?」


「はい。前々から疑問に思っていたのですが……どうしてネットで小説を書いてる人たちというのは、ヒロインの香りを柑橘系とばかり書くのでしょうか?」


 神奈からその疑問が放たれた瞬間、俺はマウスを動かして、さっきまで絶賛していた部分にカーソルを合わせ、デリートキーを連打した。


「……師匠、もしかして」


「なにがだ? 今何かあったか?」


 危ない……プロ作家の俺ともあろうものが、他の作家や書き手と発想が被ってしまうところだった……。

 

「や、やっぱり柑橘系の香りってのが想像しやすいし、読者に伝わりやすいんじゃないのか? サボンとか清潔感のある香りとか、知らない奴からしたらどんな香りだよってなるんだろ」


 自らの失態を悟られないように、努めて冷静に誤魔化しを敢行かんこうする。


「そういうものなのでしょうか? 勉強のために数作品ほど読んでみましたけど、必ずと言っていいほどに柑橘系の香りという単語が出てくるもので……」


「そ、そうか。勉強熱心なのはいいことだな! ほら、五月といえど、髪をしっかり乾かさないと風邪を引いてしまうかもしれないぞ。作家志望なら身体を大切にしないとな、うん」


 冷や汗をだらだらと流しながら、俺は神奈に促した。

 こいつが風邪を引いたら俺にも被害が被るかもしれないしな? 俺は師匠じゃないが、同棲している以上はお互いに体調を気を遣わないとな?


「そうですね。髪を乾かして、私も執筆しようと思います。おやすみなさい、師匠」


「あ、ああ。おやすみ」


「ところでさっきのは……」


「なにも言うな」


 神奈はなおも釈然としない顔をしていたが、俺の部屋から出て行って扉を閉めた。

 ふう……どうにか勢いでごり押してうやむやに出来たぞ……。


「しかし、描写が他と一緒になりがちになってしまっているのは……よくないな」


 勉強のために他の作家の小説を読んだりは当然するが……あまり他と被りすぎるのは……だが、描写を凝りすぎてもな……うーん……。


「……仕方がない。明日の放課後にでも、柔軟剤とかシャンプーの匂いとかを調べに行くか」


 全く興味はなかったが、これも小説のためだ。

 知識として知っておけば、執筆の幅が広がるだろうしな。




「ううむ……分からん」


「あ、師匠。これなんていい香りですよ」


「なんか甘い匂いだな、これ」


「これはバニラの香りですね」


「な、なるほど……分からん」


 甘くていい匂いだということは分かったが、それ以外の情報を聞いてもピンとこない。

 というかもう溢れ返っているいろんな匂いのせいで鼻がバカになってきてるような気がする。


「悪いな、付き合わせてしまって」


「いえいえ、これで師匠の作品が面白くなるのなら、弟子冥利ファン冥利に尽きるってものじゃないですか! それに今日は予定もありませんでしたし」


 学校が終わって、俺は神奈に付き合ってもらって、今こうして香りのことを知ろうと店を回り、芳香剤やシャンプー、柔軟剤まで多種多様の匂いを嗅いで回っているわわけだが……今のところ、成果はサッパリだ。


「次はこれなんてどうですか? フローラルな香り」


「ま、待て。ちょっと調べる」


 フローラルという言葉はもちろん知っているが、改めて言われるとなんの香りなのかパッと思いつかない。

 ほう……フローラルとは花の香りなのか……。


「で、お前的にこれはどんな印象だ?」


「うーん。私はあまり好きな感じではないですね。どちらかと言えば……」


 そこで言葉を区切った神奈が、しゃがんで別のものを手に取った。


「こっちのミント系の方が個人的には好きです。涼しい感じというか爽やかな感じで」


「ああ。通りでお前からはこれと似た匂いがするわけだ」


「……師匠ってもしかして私の匂いを覚えるほど嗅いでるんですか? それはちょっと……」


 両手で身体を抱くようにした神奈が、僅かに俺から距離を取る。

 

「み、妙な言い方をするな! 一緒に暮らしていれば匂いぐらい覚えるだろう!」


「でも私師匠の匂いってあまり嗅いだ記憶がないんですけど……」


「今まで家族以外と暮らしたことがないから嗅ぎ慣れてないお前の匂いは鼻に残るんだよ!」


「なるほど。確かに私の家にはお手伝いさんがいましたし、自分以外の匂いを嗅ぐ機会もたくさんありましたからね……」


「わ、分かったならいいんだ……って、何故俺の匂いを嗅いでいるんだお前は!?」


 警戒を解いた神奈が俺の隣に戻ってきたと思ったら、おもむろに俺に顔を近づけて鼻をすんすんと鳴らし、匂いを嗅ぎ始めたので今度は俺がバッと距離を取った。


「いえ、嗅ぎ慣れてない匂いは鼻に残りやすいとのことなので、試しに師匠の匂いはどんなのかなって……うん、確かに嗅いだ記憶がある匂いですね」


「お、おう……そうか……く、臭くなかったか?」


「いい匂いですよ」


「というか、下着は別にしても洗濯物は一緒に洗っているだろうが……つまり、今はこれがお前の匂いでもあるということだろ」


 わざわざ柔軟剤や洗剤を使い分けたりしていないだろうし、自分の匂いは自分では分かりづらいからな。

 どぎまぎしながら、神奈の横に戻ると、神奈が何故かもじもじし始めた。


「……どうした?」


「い、いえ……その……師匠と同じ匂いだと言われたら、意識してしまって……なんというか……は、恥ずかしさが込み上げてきてですね?」


「改めて言葉にするな! 俺まで恥ずかしくなってきただろうが!」


「全身から師匠と同じ匂いが……うぅ……!」


「だから言葉にするなって言ってるだろうが! それに同じなのは服の匂いだけでシャンプーは別物だろ! お前のはあれだろ、なんかこう……フルーツのような香りがするお高いやつ! 俺のはドラッグストアでよくあるやつだから全身同じ匂いじゃない!」


 俺たちはお互いに異性として意識しているわけではない、が……異性と同じ匂いをさせているということを認識してしまったら、どうしたって恥ずかしいに決まっている。


「し、師匠……私の頭の匂いまで嗅いで……?」


「だから誤解をするな! それは昨日ぶつかった時に偶然香ってきたんだよ! 意識して髪を嗅ぐなんて気持ちの悪い真似誰がするか!」


「そ、そうですか……偶然ですか……そうですよね」


「そ、そうだ。あくまで偶然だ」


 二人して沈黙すると、店内のBGMがやたら大きく聞こえた。

 俺たちは一体なにをやっているんだろう……。


「それでその……ど、どうでしたか? 臭くなかったですか?」


「お前それを俺に言わせてどうしたいんだ……冷静に考えろ。俺が、お前の髪の匂いについての感想を、言うことのやばさを」


 分かりやすく区切って強調するように言うと、神奈は慌てて両手を胸の前でわたわたと振った。

 髪も肌も白いせいで、紅潮した頬が余計に目立つ。


「ち、違うんです! 昨日の四時間目は体育で汗をかいたあとでしたので……! 女子として汗臭いと思われたくはないというか、なんというか!」


「あ、ああ。なるほど……そういうことか。まあ、臭くはなかった、ぞ?」


「あ、ありがとうございます……」


「……これ以上この話題を続けるのはお互いの精神的によろしくないと思うんだが、お前はどう思う?」


「その通りだと思います」


 俺たちは再び沈黙する。

 神奈は手に持ったままだったミント系の香りのサンプルをそっと棚に戻した。


「……帰るか」


「……そうですね」

 

 俺たちは微妙な気分のまま、ドラッグストアをあとにした。


「ところで師匠、昨日のあれってやっぱり――」


「なにも聞くな」 


 どんなに匂いを嗅いで鼻がバカになっていても、嘘の匂いだけは誤魔化しきれない。それが今日の一番の成果だった。      

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