少女の盾

〈殺伐感情戦線 第12回【髪】〉


※李氏朝鮮では、女性の名前は公的の場においてすべて○氏という家の名前で表現されます。この物語でも便宜上実名ではなく〇氏という形で表現していますが、主人公の仁顕王后イニョンワンフのみ、こちらでの呼び方が主流なのでそれに即しました。また、名前の前に○○王后、淑媛、禧嬪などと付いているのは女性の身分を表す号でありこれも史料に基づいて同様に表現しています。


                  



              

 ひとりの少女が歩んでくる。

 頬を緊張に強張らせて。

 だが意外にもゆったりと威厳溢れる歩調によって。

 頬と額に魔除けの化粧を施して。チマ、チョゴリ、手を覆い隠すよう仕立てられた圓衫ウォンサム、大帯、花靴コッシンを身に纏って。朝鮮王朝において身分や年齢の全てを表す飾り髪、カチェを盛り付けて。

 そして、他の誰も触れることのできない冠を頭にいただいて。

 齢十四の少女が歩んでくる。

 1681年。粛宗スクチョン仁顕王后イニョンワンフ 閔氏ミンシの婚礼の儀。

 この日、朝鮮王朝史上最も不幸な王妃が誕生する。


                  §

              

 時は流れ1686年。鮮やかな王都、ソウル。

 月が明々と照る夜、さやさやと葉が揺れる音が戸の隙間から漏れ聞こえてくる夜、暖かいというよりは涼しいという形容が似合う穏やかな晩春の夜。仁顕王后イニョンワンフはひとり、とこの上で目を開けていた。

(お父様やお母様と暮らしていたころの何倍も人はいるのに、私は独り。一人にしてほしいというのに、こうして眠るとき以外ずっと傍に誰かがいる。ほんとうに可笑しいわね)

 婚礼の儀でみずみずしい可愛らしさを放っていた少女の面影を残しつつも、丸みがなくなり陰影の増した顔を緩めて彼女は嗤う。昼の日差しがゆたかに差し込むあの原色の宮殿で見れば芍薬もかくやという麗しさだが、一人きりになった途端に見せるこの表情は、涙をこらえるあどけない少女のそれにしか見えない。それもそのはず、彼女はまだ十九になったばかり。

 彼女はとてつもなく孤独だった。

 王国で最も美しく位高い筈の少女は、王国で最も孤独だった。

 すべては彼女の夫、粛宗スクチョンとあの女のせい。

 そして、この時代に生まれてしまった運命のせい。

 19代目李氏朝鮮王粛宗スクチョンの時代は西人派と南人派の権力争いがもっとも激化した時代でもある。その争いは一介の役人から高官、果ては王后にまで及んだ。西人派筆頭は粛宗スクチョンの母であり王太后、明聖王后ミョンソンワンフ 金氏キムシ。南人派筆頭は16代目李氏朝鮮王妃、荘烈王后チャンニョルワンフ 趙氏チョシ。19代目李氏朝鮮王粛宗スクチョンは母の言うとおりに西人派の仁敬王后と婚姻をむすぶもやがて彼女は天然痘により死亡。第二王后として迎えられたのが、

(私、なのですけどね)

 その暗い思考を遮るように濃紺の空にほの明るい光が差す。北漢山プカンサンがまとう静謐な空気にもすこしずつが入り、やがて音を立てて割れるようにぱっと朝日が、原色の王国に似合う原色の太陽が、全てを照らす。それと同時に彼女の部屋の戸も音を立てるのだ。

おはようございますアニョハセヨ仁顕王后イニョンワンフ殿下、朝の儀のお時間でございます。お召し物をお持ちいたしました」

 結局また一睡もできなかったと自嘲しながら「入って」と仁顕王后イニョンワンフは外の女官に声をかける。そうして入ってきた女官の手には貴族ですら触れることも叶わないほど高価なチマ、チョゴリ。

「失礼いたします」

 大勢の女官たちが手際よく、まるで着せ替え人形を飾り立てるかのように彼女を彩っていく。彼女はただ手を広げたり、脚をあげたり、裾を払ったりするだけ。何もせずとも王国最上級の絹によって身体にのしかかる重みは増していく。チマ、チョゴリ、圓衫ウォンサム、大帯、花靴コッシン。婚礼の儀のときと同じ形の服。最後に、自分の髪につけ毛を結いこんで編み上げるところまで同じ。それでもその服が意味するところは月と日ほどにも異なっていた。

「殿下、体調がすぐれないのですか?」

 侍女長が全てを整えてもなお浮かない顔をしている彼女の顔を覗き込む。それを振り払うように彼女は笑みを頬にはりつけた。

「なんでもないわ。今日もほんとうに素晴らしい天気ね」

 仁顕王后イニョンワンフは決して泣かない。仁顕王后イニョンワンフは決して怒らない。

(私は王后。他のどの女にも劣らない身分。私が仕えるのは、私が頭を下げるのは、粛宗スクチョン、私の夫ただ一人よ)

 そうして王国一着飾った彼女は、果物だけの簡易な朝食の後、朝の儀、書類の確認、謁見と次々に公務をこなしていく。

 初めての頃は右も左も分からぬまま、王后としての義務すべてに右往左往するばかりだったけれど、もう五年。仁顕王后イニョンワンフは誰に言われるでもなく淡々と己に課せられたことをこなしていく。どこを向いても敵だらけのこの宮殿で、彼女が学んだことは、持てるものを失うな、ということだった。だから、公務で失敗することは許されない。数えるほどの味方すら失うようなことがあってはならないから。王后であるという誇りのために、王后であるという証を失うようなことがあってはならないから。

 変わらない日々。変わらない公務。行儀作法や漢文、音楽など、厳しい嫁入り修行に耐えたあの少女の頃がひどく懐かしい。庶民の子らが遊ぶ声をききながらじっと筆を手にして耐えるのはつらかったけれど、毎日が新しいことに満ちていた。勉強は嫌いではなかったし、風の音や小鳥のさえずりを笛や琴で表すことのできる音楽は大好きだった。あの頃が懐かしい。

 だがそんな公務も、彼女にとっては苦ではない。

 彼女が心を擦り減らしていくのは、午前の公務でも、夜の共寝でもなく、午後の社交の場だった。


                  §

               

仁顕王后イニョンワンフ殿下のご到着でございます」

 宮殿内部に、公務を終えた女性や夫を送り出した女性たちが次々と集う。誰もがこれでもかというほど美しく着飾り、髪を盛り、宝石を纏って王の膝元を訪れる。これはただの社交ではない。西人派と南人派の派閥争いが激化する今、政治すら動かしうるのがこの大広間だった。王后ワンフはこの中で最も地位が高い。誰もそれを超えることはできない。それでも、蛇のように絡まる視線と、霧のように広がる内緒話が、うねっている筈なのに肌に刺さるのだ。

仁顕王后イニョンワンフ殿下、まだ御子がお生まれにならないんですって」

仁顕王后イニョンワンフ殿下、昨日は粛宗スクチョン陛下と一言もお話になっていないそうよ」

粛宗スクチョン陛下もおかわいそうにね」

 仁顕王后イニョンワンフ殿下が、仁顕王后イニョンワンフ殿下だから、仁顕王后イニョンワンフ殿下なんて。見えない感情と、聴こえない言葉が刺さるのだ。

「皆様、ご機嫌うるわしゅう」

 もちろん彼女もあらゆる感情を容赦なく殺す。我を捨て、ひとりの王后として胸を張り、首筋を伸ばし、背を伸ばし、一挙手一投足を見守られながらチョゴリが床を撫でるかどうかくらいの浅い礼をする。

「ご機嫌うるわしゅう、仁顕王后イニョンワンフ殿下」

 場に集うすべての女性が彼女に礼を返す。彼女そのひとではなく彼女の頂く王后という身分に対して、誰よりも丁寧に礼を返すのだ。

「さぁ皆様お顔をあげて。本日も素晴らしい天気ですわね。ご歓談をお続けになって頂戴」

 女性たちはもう一度儀礼通りに腰を曲げてから、顔をあげる。

 そこに、あの女の姿が無い。

張氏チャンシはどこかしら?」

「……!」

 場の空気ざっと固まる。息をすれば喉から血が出そうなほどの緊張感に、女性たちは笑みを作ったまま凍り付く。

 禧嬪ヒビン 張氏チャンシ。本名、チャン玉貞オクチョン

 仁顕王后イニョンワンフの夫、粛宗スクチョンの後宮。

 正室が側室の名を出したところで、身分は圧倒的に正室が上だ。どんなに足掻いても勝つことはできないし、周囲が気を使う必要はない。

 粛宗スクチョン張氏チャンシだけを愛しているのでなかったら。

 仁顕王后イニョンワンフが西人派で、張氏チャンシが南人派でなかったら。

「誰か、知らないの? 

 張氏チャンシはどこかしら?」

 出来る限り平坦に。彼女は何の感情も込めずにその名前を一つずつ発音する。

「あ、あの」

 女性たちの中で最も年若い――かつての仁顕王后イニョンワンフのような――まだあどけない者が進み出る。周囲の女性たちが気まずそうに顔を伏せることも気にせずに。ああ、私も五年前はこんな感じだったんだわ、なんて、彼女は人ごとのようなことを考えながら近寄ってくる少女をぼうっと見つめていた。

「何かしら?」

「恐れながら殿下、淑媛スグォン 張氏チャンシ様は粛宗スクチョン陛下のお部屋にいらっしゃいました」

 そうでしょうね。そう言って微笑む彼女の、風のない夜の宮殿の池より静かな声は、刃となって女性たちを追い詰める。

 張氏チャンシは賎民だ。

 それでも、仁顕王后イニョンワンフが嫁ぐ前からこの宮殿にいた。

 南人派筆頭は16代目李氏朝鮮王妃、荘烈王后チャンニョルワンフ 趙氏チョシの女官として仕えていた張氏チャンシは、だが、その美貌を買われて南人派に利用されることになる。当時勢力を弱めていた南人派の力となるために、張氏チャンシ粛宗スクチョンのもとへと送られた――というのは人々の憶測で。

 粛宗スクチョン張氏チャンシを、張氏チャンシ粛宗スクチョンを、ひとめで愛したということ。仁顕王后イニョンワンフが嫁いできた五年前、西人派の王太后が南人派の張氏チャンシを追い出したということ。王太后の死後、粛宗スクチョン張氏チャンシを呼び戻したこと。それだけが事実として仁顕王后イニョンワンフのもとに立ちはだかっていた。

 そうでしょうね。

 静かに仁顕王后イニョンワンフは微笑む。

(私は陛下に愛されたことなどなかった。西人派のお義母様のはからいで結ばれた、どう頑張っても政略結婚。愛されなかったことはもういいの、それでも)

 あの女。

 あの女さえいなければ。

 その時だった。

「ご機嫌うるわしゅう、王后殿下」

 扉の奥に、一輪の花が咲いている。

 高く盛った飾り髪、カチェに色とりどりの宝石をつけた花が。

 宮殿の花が、咲いていた。

「あら、遅かったじゃない。淑媛スグォン 張氏チャンシ

 王后よりもずっと身分の低い淑媛スグォンを強調して、仁顕王后イニョンワンフは彼女を歓迎する、ふりをする。先攻、仁顕王后イニョンワンフ。突如はじまった静かに燃える戦いに、周囲にはべる女官たちにまで緊張感が伝わる。

 だが張氏チャンシは当然とでもいうようにその攻撃をうけながす。他の女性たちと同じようにふかぶかと腰を折る。かろやかに後攻。

「お待たせいたしましたわ、殿下。陛下の御許みもとに参っていたものでして」

 口の中で小さく舌打ちをして、仁顕王后イニョンワンフ張氏チャンシに顔をあげさせる。

 夜の東海にほんかいのように暗い瞳。北漢山プカンサンに降り積もる雪のように白い肌。朝食のリンゴのように紅い唇。

 悔しいほどに、美しい、宮廷の花。

 野に咲いていた下賤の花。踏み潰され、手折られ、枯れていくのが関の山だったはずの醜い花。芸妓になれたら御の字の、醜い醜い下賤の花。固く乾いた土の中でも生きることが出来てしまう、薄汚れた花。彼女の夫の手によってどこまでも美しく気品のある女性へと成長をつづけているのだった。

 そう、彼女の夫の手によって。

 勝ち誇ったような笑いが、その瞳の中に浮かんでいる。

 仁顕王后イニョンワンフは決して怒らない。

 否、決して怒りを外に漏らさない。

(殺したい)

 呪い殺したい。絞め殺したい。縊り殺したい。刺し殺したい。王后である彼女にはおそらくそれが出来る。それでも、

「そう、陛下はさぞお喜びだったでしょう……下がっていいわ」

 彼女がそうしないのは。

(ほんとうに、どうしてなんでしょうね)

 本当は、気付いていた。

 負けたような気がしていくからだ。最後まで戦うことなく自分ではない誰かの力によって張氏チャンシを消すのは、自分の力では張氏チャンシに勝てなかったということを認めていくことになるからだ。

「ありがとうございます。美しい午後を、殿下と、王国に」

 そう微笑んで、去っていく張氏チャンシ

 彼女をこのとき殺しておくべきだったと後悔するのは、二年後のこと。

 すべてが既に手遅れとなった、二年後のこと。


                  §


 月が明々と照る夜、さやさやと葉が揺れる音が戸の隙間から漏れ聞こえてくる夜、涼しいというよりは暖かいという形容が似合う穏やかな中秋の夜。仁顕王后イニョンワンフはひとり、とこの上で目を開けていた。婚礼の儀でみずみずしい可愛らしさを放っていた少女の面影はもう、残っていない。齢はすでに二十二。

 もうひとつ二年前の晩春と異なるのは、外が騒がしいということ。

 その理由を、彼女はもう知っている。もう、知らないふりはできなかった。

「男の子だ! 男の子だぞ!」

 いつも私に花をくれた高官の声。すらりとした顔立ちの若君で、実力もあり、陛下にも重用されていた彼。

「陛下にお世継ぎがお生まれになった!」

 いつも私に牛車をだしてくれた武官の声。ふとい声と逞しい体つきで、腹の底から本当に楽しそうな声をあげて私の昔話をきいてくれた彼。

「男の子ですわ! お世継ぎの誕生ですわ!」

 いつも私の湯浴みの間、次に着るチマ、チョゴリを持って待っていてくれた女官。仕立てのいい布で髪を丁寧に吹き、重くこんもりとした飾り髪、カチェを結ってくれた彼女。

 誰もが、彼女のことを忘れている。

 彼女はとてつもなく孤独だった。

 王国で最も美しく位高い筈の女性は、王国で最も孤独だった。

 張氏チャンシが、子を産んだのだった。男子を産んだのだった。仁顕王后イニョンワンフが七年かけて産むことのなかった子をもうけただけではなく、初めての〈男の子〉を産んだのだった。

(もう終わり)

 正室の意味などもうどこにも存在していない。仁顕王后イニョンワンフがいる意味はない。病弱な彼女に、子を産むことが出来なかった彼女に、存在する意味などない。生きる意味など、無に等しい。

 その暗い思考を遮るように濃紺の空にほの明るい光が差す。北漢山プカンサンがまとう静謐な空気にもすこしずつが入り、やがて音を立てて割れるようにぱっと朝日が、原色の王国に似合う原色の太陽が、全てを照らす。それと同時に彼女の部屋の戸も音を立てるのだ。

おはようございますアニョハセヨ仁顕王后イニョンワンフ殿下、朝の儀のお時間でございます。お召し物をお持ちいたし……」

「下がって頂戴」

 侍女長の声に凜、とした自分の声を重ねる。

「殿下……?」

「気分が優れないの、本日の朝の儀はまことに勝手ながらお休みすると、陛下にお伝えくださいな」

 仁顕王后イニョンワンフは決して泣かない。仁顕王后イニョンワンフは決して怒らない。

(私は王后。他のどの女にも劣らない身分。私が仕えるのは、私が頭を下げるのは、粛宗スクチョン、私の夫ただ一人よ……そうで、なくては、ならないのよっ)

 でも今日だけは、我慢が出来なかった。

 彼女は侍女長たちの靴音が聞こえなくなると、細く美しい指で、小さな顔を覆った。あとに響くのは、静寂と、ときおりすすり泣く音だけ。

 張氏チャンシは男の子を生んだ。

 張氏チャンシが王子を産んだのだ。

 彼女の、負け。

 どう足掻いても勝てないのは、どう足掻いても超えられないのは、身分だけではなかったのだと彼女は知る。運命。愛。偽物だと思っていたあらゆる概念が彼女を襲う。運気。占い。虚構が彼女を喰らっていく。人生って理不尽、なんて笑えないときに、全てを賭して生きる時に、人生というのは本当に理不尽になるものなのだと彼女は知る。美貌も、努力も、地位も、知性も、すべてあの女に負けないのに。


 たった一瞬の歯車が噛み合った。

 それだけであの女は、私にはない全てを手に入れていく。


 1688年。張氏チャンシ淑媛スグォンから昭儀しょうぎに昇進。

 同10月27日。王子李昀イユン、後の景宗キョンジョン誕生。

 16891月15日。その功労によってピン、つまり側室の最上位に昇進。

 同日、李昀イユンが王世子すなわち王位継承者に確定。

 西人派の宗時烈そうじれつらが王世子確定に反対するも却下。

 宗時烈そうじれつ、南人派によって処刑。

 

 たった一瞬の歯車が噛み合った。

 それだけであの女は、私にはない全てを手に入れていくのだ。


                  §


 静かな、朝だった。

 その朝はいつか来る朝だと、彼女はもう知っていた。

 彼女に力が無かったことを、彼女はもう知っていた。

 誰も彼女を救えないことを、彼女はもう知っていた。

仁顕王后イニョンワンフ殿下、陛下がお呼びでございます」

 陛下の側近が直々に彼女の部屋を訪れる。

 その朝、仁顕王后イニョンワンフは眠れないまま床にいるのではなかった。婚礼の儀よりも、建国祭よりも、新年祭よりも美しく着飾って、腰かけていた。赤色のチマ、紫色のチョゴリ、朱色の圓衫ウォンサム、王国随一の職人らの手によって細かい刺繍のほどこされた大帯、婚礼の儀よりもたくさんの飾りをのせた花靴コッシン

 そして何より、いつもより高く、重く、大きく盛った飾り髪、カチェ。

 身分と年齢、美しさのすべてを表すそのかつらを載せて。

「ええ、行きましょうか」

 彼女はこの宮殿にきて初めて、噓偽りのない微笑みを浮かべた。その微笑みに側近が凍り付く。下心にまみれた微笑みも、涙をふくんだ自嘲も、この笑みには二度と勝てまい。

 それは、覚悟の笑みだ。

 誰よりも気高い、覚悟の笑みだ。

 側近の導くままに、禧嬪ヒビン張氏チャンシが子を産んでからほとんど足を運ばなくなった王の部屋へと歩んでいく。その足取りはなぜか軽い。

「陛下、仁顕王后イニョンワンフ殿下がいらっしゃいました」

「ご苦労であった」

「はっ」

 久方ぶりだな、と嗤う王粛宗スクチョンの隣には、しなだれかかるようにして座る禧嬪ヒビン張氏チャンシがいる。王をとりかこむように名立たる高官たちが彼女を見つめている。それでも彼女は笑みを崩さない。禧嬪ヒビン張氏チャンシはややたじろいだように、彼女の表情をうかがう。

 芍薬もかくや。

 薔薇すらも劣る。

 その微笑みに粛宗スクチョンは告げる。

「こたび、何故そちが呼ばれたか、分かっておろう」

 ゆらり、と場の空気が揺れる。だが彼女は決して揺れない。地に足をつけて、ただ前を見ている。ええ、と静かに腰を折る。なら良い、と粛宗スクチョンは口角を吊り上げる。

仁顕王后イニョンワンフを廃妃とする!」

 廃妃とするということは一国の政治体系が揺らぐということであり、それなりの理由が必要となる。禧嬪ヒビン張氏チャンシを呪い殺そうとした、嫉妬深い、あまりに恐ろしく、罪深い。愛したことも、愛されたこともなかった男が並べ立てる空虚な言葉を彼女は聞き流す。


 彼女はまっすぐに禧嬪ヒビン張氏チャンシを見つめていた。


 あまりにも美しく、あまりにも恵まれて、母親となり、神の恩恵をゆたかにうけて微笑む女、禧嬪ヒビン張氏チャンシを。

 呪い殺そうと思ったこともある。嫉妬深い、あまりに恐ろしい、罪深い?

 なんとでも言え。

 それでも今、この瞬間、この女に負けるわけにはいかなかった。

 最後だ。これが最後。最後の戦いになるのだ。

 禧嬪ヒビン張氏チャンシには届かないほど高く結った飾り髪、カチェが美しく見えるように彼女は背すじを伸ばし続ける。肩をゆるやかに落とし、胸を張り、彼女はまっすぐに伸びる。天を指し、ゆらぐ空気の中、彼女はろうそくの灯ほども揺らがない。

 髪はすべての命だった。飾り髪、カチェは命だった。

 朝鮮王朝において、華美なカチェこそが美しさと身分の象徴だった。

 頸の骨が折れて死のうとも、カチェだけは守り抜かねばならなかった。

 いつも通りのカチェを結っただけの、いつも通りの服の――それはしかし国内最上級のものばかりなのだが――たじろぐ禧嬪ヒビン張氏チャンシには負けない。負けるわけにはいかない。

 愛したかった、愛されたかった男の声を聴きながら、彼女はまっすぐに禧嬪ヒビン張氏チャンシだけをみつめている。

 カチェを盾にして。

 すべての視線を、感情を、思惑を、声をうけとめて。

 彼女はこの国で最も美しく、最も孤独で。

 そして今、最も強い騎士になる。

 

 許さないから。

 あなたを絶対に許しはしないから。


 言葉が終わる。


「もう一度告ぐ! 仁顕王后イニョンワンフを、廃妃とする!」

 

  禧嬪ヒビン張氏チャンシが先に、そっと目を逸らした。 


                  §


 廃妃となった仁顕王后イニョンワンフは実家に帰され、すでに実権を失った西人派のなかで極貧生活を送ることとなる。だが禧嬪ヒビン張氏チャンシもやがて、権力を拡大しすぎた南人派を恐れた粛宗スクチョンによって廃妃とされ、西人派の仁顕王后イニョンワンフが再び王后となる。彼女は極貧生活中に得た病と闘いながらも短い余生を鮮烈に生き抜いたという。

 彼女は、その余生の間、あのときの微笑みを覚えていただろうか。

 その答えはきっと、はい、だ。

 彼女には盾があるから。誰よりも美しく、薫り高い騎士となることができるから。


 ひとりの女性が歩んでくる。

 頬を緊張に強張らせて。

 だが意外にもゆったりと威厳溢れる歩調によって。

 頬と額に魔除けの化粧を施して。チマ、チョゴリ、手を覆い隠すよう仕立てられた圓衫ウォンサム、大帯、花靴コッシンを身に纏って。朝鮮王朝において身分や年齢の全てを表す飾り髪、カチェを盛り付けて。

 そして、他の誰も触れることのできない冠を頭にいただいて。

 齢二十七の女性が歩んでくる。

 誰よりも高く、誰よりも重く、誰よりも大きく盛ったカチェを載せて。

 かつて自分を守ったこの盾を戴いて。


 ただいま、私の宮殿いばしょ

 


〈少女の盾 了〉

 

 

 


 参考文献

 ・曺述燮「『仁顕王后伝』に現れる命運観」

 ・梅山秀幸「恨のものがたり―朝鮮宮廷女流小説集」

 ・李成茂「朝鮮王朝史〈下〉」

 ・尹貞蘭/金容権「王妃たちの朝鮮王朝」

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