nostalgia
〈殺伐感情戦線 第20回【時計】〉
「時間って、どうやって動いていくと思う?」
久しぶりに会った彼女がそう訊いたのは、よく晴れた春の日の午後だった。しっとりと汗ばむ暖かさで、私も彼女も着ていたカーディガンを軽く畳んで荷物の上に置いているくらいだった。二人の間にはティーポットと、カップがふたつずつ。結婚祝いと新居祝いを兼ねて私が彼女に持ってきたものだった。新居になって初めて会うというのに、どうして急に時間の話なんて。それでも彼女の顔がいつになく真剣だったから、私も幾分か真面目に答えることにした。
「まっすぐ流れていくんじゃない?」
彼女はゆっくりと噛みしめるように何度も、何度も頷いて「私もね、そう思っていたの」と呟いた。そう思って、いた? 私のその言葉を読んだように、彼女は続ける。
「でもね、違うって最近わかったのよ」
そう言いながら彼女はスカートのポケットから小さな箱を取り出してみせた。うすい紫色の上品なデザインの箱に白いリボンがすこし雑にかけてある。何度が彼女が中を開けてみたことが伺える。そのリボンをほどき、蓋を開け、彼女は箱の中からひとつの小さな腕時計を取り出した。金色のベルトとフレームに、白い上品で小ぶりな文字盤。よくある女性用の腕時計。その時計をじっと見つめてから、彼女は顔をあげて私を見た。
「ちょっとだけ長くなる話なんだけど、聞いてくれる?」
親友のお望みとあらば、とおどけた私に笑ってから、彼女はしずかに語り始めた。
「あれは3年前の夏の日のことなんだけど……」
×××
私のひいおばあちゃんが死んだの、知ってるでしょ?
102歳でもうすっかり目も耳も悪くなっていたけれど口だけは達者で、足腰も100歳を超えているにしては強い方だったと思う。だからもう少し生きているかなって親戚もみんな思っていたんだけどね、ちょっと風邪を拗らせてしまって、肺炎になった……って、言ったよね。それからはあっという間に死んじゃった。102歳だから誰も酷く悲しんだりはしなかったけど、おしゃべりなひいおばあちゃんがいなくなったのはちょっと寂しかった。
ひいおばあちゃんは親戚にそれぞれちょっとずつ遺産を残していて、私が貰ったのがこの裏に「nostalgia(ノスタルジア)」って彫られた小さな金時計だった。ほらここ、見える? ノスタルジア。可愛いでしょ。最初は時計かあと思ってがっかりしたんだけど。時計はいっぱいあるしね。でもお母さんが言う所によると、その時計は結構ひいおばあちゃんが大事にしていたものらしくって。お父さんが教えてくれた。それなら有難く貰っておくか、と思って大事に引き出しにしまっておいたの。
仕事に行くときは仕事用の時計をするし、お出かけの時はあんまり時計をしない
「人生で本当にピンチの時だけ、これを使いなさい。ネジを三回時計回りに回してから、押し込むこと――あなたを傷つける人から、あなたを守るでしょう」
人生で本当にピンチの時だけ? ネジを回して押し込む? 傷つける人から守る? 何が何だかさっぱり分からない。ひいおばあちゃんはボケてはいなかったと思うのだけれど、私が知らなかっただけなのだろうか。何だか御伽噺で聴いたことのあるような話だった。グリム童話とかに出てきそうなメモ、と笑って私はそれをもう一度箱にしまい込んでしまった。
それから私は仕事でも成績がよかったし、それほど大変な事件に巻き込まれることもなかった。ひいおばあちゃんがいなくなってしまって、一人ぼっちになってしまったおばあちゃんの面倒を見に行かなくてはいけなくなったことくらいが変わったことだったけれど、それも全然大変ではなかったし、むしろ帰る所があるのがとても有難かったの。つまりは時計を使うところなんて一つも無かったのね。毎日恵まれてると思ったわ。
私そのときガールフレンドがいたの、知ってるでしょ? バイセクシュアルのガールフレンド。職場の合コンで出会って、二人ともバイセクシュアルっていうので結構話があって、好きな女の顔のタイプとかで盛り上がっているうちにすっかり仲良くなって。いつの間にか付き合ってた。女の子と付き合うほうが気楽で好きだったの。男の子とだとどうしても色々と考え過ぎてしまうから、友達の延長線上、みたいな感じで付き合える女の子が良かった。こんなこと言うと他のバイセクシュアルの人に怒られちゃいそうだけどね。私は何事も気楽なのが好きだから。それで結構長いこと上手くいっていた。とてもね。彼女、可愛かったし、明るくて朗らかで、とてもいい子だった。でもちょっとずつ重荷になっていたのよ。何て言うんだろう、縛るのね。私を。そういうのが嫌いだから女の子と付き合っていたのに。何となくそれが嫌になってきて、私は彼女に内緒で女友達と遊んだり、また合コンに出たりするようになった。
でもやっぱり彼女、だんだんだんだんしつこくなってきたの。どこ行ってたの、何してたの、誰と話してたの、最初は一つ一つ丁寧に答えていたんだけどそれが毎日続くようになるたびに、面倒というか、もう、怖くなっちゃって。思っていたのと違うな、って、そればっかり考える私が嫌だった。28だし、仕事も順調だし、実家との仲も良いし。それなのに一人の女の子にずっと縛られているのは嫌だなあと思って。私は最初から真剣じゃなかったし。今思えば最悪よね、私。でもその時はとっても必死だった。
彼女がしつこくなればなるほど、私は合コンに行って、彼女が電話をかけてくればかけてくるほど、私の携帯電話はいつも電源が切れていた。合コンで出会った男の子とね、とても仲良くなったの。すごく収入も良くて、優しくて、男前では決してなかったんだけれどもうそんなのってどうでも良かった。彼女から逃げる口実が欲しかっただけだと思う。それを込みで考えても、やっぱりとてもいい男の子だった。
だからね、私その子に言ったの。結婚してって。
いいよってその子も言ってくれた。
やっと逃げられる、って思った。
だから私はあの子に、結婚するから別れて欲しいって言わなくちゃいけなかった。その時になってやっと思い出した――そう、時計があるじゃない、って。
1年ぶりくらいだったかしら、時計の箱を開けたのは。もちろん汚れもくすみも錆びもしていない、とても綺麗なままだった。メモもちゃんと残っていたわね。1年前と全く同じ文面で残っていた。幻でも夢でも無かったみたい。信じていたわけでは無かったんだけど、なんでだろう、やっぱり必死だったみたいね。とりあえずあの子から逃げなきゃって、それだけで必死だった。
私は仕事から帰ってきて、アパートの階段をタンタンタンと足音を立てて昇って、部屋の前で腕時計をつけた。
ドアの鍵を開けると、そこにはあの子がいた。
またいつものように色々と問い詰められるのだろう。そう思った瞬間ね、手が勝手にネジを巻き始めていた。3回、時計回し。そして。
押し込む。
一瞬、何が起こったのかが分からなかった。
目の前に広がるのは、見渡す限りの、無音。
大きな窓の向こうに落ちていく、赤い夕陽。
あの子が、いなかったの。
消えていた。まるきり、完全に。跡形も無く。影も形もない、とはこういうことを言うのだと思ったわ。私は腰の力がすっかり抜けてしまって、へなへなと床に座り込んだ。ひいおばあちゃんが書いていたことは本当だったんだ、と段々気付いていった。あの子は、この時計が消してしまったの? 私は慌ててあの箱を取り出して、もう一度メモをよく読んだ。
「人生で本当にピンチの時だけ、これを使いなさい。ネジを三回時計回りに回してから、押し込むこと――あなたを傷つける人から、あなたを守るでしょう」
でもメモはそこで終わりでは無かった。下の方の端が折れていたのね。そこをゆっくりと開くと、こう書いてあった。
「あなたを傷つける人は、このネジが押し込まれた時間に、永遠に閉じ込められるでしょう――生きることも、死ぬことも出来ずに」
ゾッとしたわ。ああ、私はあの子をほとんど殺してしまったのだと。そして殺してしまうことも出来なかったのだと。あの子は完全に消えたの。これは後になって分かった話なんだけど、私以外全員の記憶からも、あの子は消えていた。スマートフォンの連絡帳にも、あの子の名前は無かった。完全に消えた。あの子はあの時間、あの夕焼けの時間に閉じ込められてしまった。
それからは貴方の知っている通り。私は男の子と結婚して、新居に引っ越した。仕事は新しいプロジェクトの企画長を任されて、順調に続けている。子供ができたら少し休むかもしれない。実家ともまだまだ上手くやっている。
時計はずっと、机の上に出しておいてある。箱にしまってしまうのも、なんだか怖くって。それから時々、あの子を閉じ込めた瞬間が私の目の前をよぎるような気がするのよ。特に、夕焼け空の日は。
あの子のね、悲しそうな顔が目に浮かぶの――。
×××
「だからね、時間って寄せては返す波のようなものなんじゃないかと思っているの」
そう言って笑う目の前の彼女が、今、私は分からなかった。
いつでも淑やかでにこにこと微笑んでいる彼女が分からなかった。
「それから何でこの時計、nostalgiaって言うのかしらね。過去が寄せては返すように閉じ込められているから……? 分からない……。でもこれだけは、本当。今でもね、時々聞こえるのよ――。ごめんね……ごめんね……って」
〈nostalgia 了〉
百合小説短編集 Yukari Kousaka @YKousaka
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