カーズ・アンド・ガールズ・アゲイン

 運転席と助手席は、近くて遠い。

 向かい合うことも鏡越しに目を合わせることもできない、そんな場所。目の前の景色はほとんど同じで、それでも右目で見た世界と左目で見た世界が違うみたいに少しだけずれて、重ならない。カークーラーの風が当たるタイミングも、向きも、少しずつ違っている。私が毎朝着ている制服のような濃紺のトヨタ・クラウン・ロイヤルサルーン。その、運転席と、助手席。

「寝ててもいいんですよ」

 私がこの車の中で隣に座る相手はいつだって、

「ううん、景色を見てるから」

 近野ちかの。この人だ。

 プリファブ・スプラウトのカーズ・アンド・ガールズをふたりで聴いたあの3月のよく晴れた日から少しだけ時間が経って、カレンダーは2枚、めくられた。近野はあれからも変わらず朝、扉を出るとそこにいて、夕、正門を出るとまたそこにいる私付きの運転手であり続けている。それでも少し変わったのは、近野が黒いパーカーではなくて黒い半袖のシャツを着るようになったこと。

 それから私が、後部座席の左側ではなくて助手席に座るようになったことだった。

 私たちが言葉を交わすようになったから。

 近野が吸っている煙草の銘柄だとか、私の部活のことだとか、近野の休日の過ごし方だとか、そんな他愛もない話ばかりだったけれど、私たちは私たちのことを知っていくようになった。近野は決して自分のことを話したくないわけではなくて、むしろ何かを話したいけれど、何から、どう話せばよいのか分からなかっただけみたいで、訊けばいつでもすぐに答えてくれた。ちょっとだけ低い声と、明るい髪と、煙草のにおいと。毎日、往復二時間。月曜日から、金曜日。

 そして、今日は、日曜日。

 はじめてふたりきりで、学校以外の場所へ行く。

 海までドライブしませんか、と言い出したのは近野だった。家から車で1時間半くらい。学校よりもすこし遠い、隣県の大きな港。肌を刺すほどではなくて、でも包み込むよりは張り付くようなうっとうしい日差しが、まだ涼しい風に溶けて夏のにおいがする。フロントガラスから見上げた空はものすごく透明な青で、触れたら冷たそうで、それでも笑ってしまうくらい暑い、っていうのがいい。裏切られるみたいにして、その温度差がたぶん、私たちが夏を好きな証拠だったりするのかもしれなかった。つまりは、とても、海辺日和。

「夏の空だね」

 隣を見て、言う。近野もちょっとだけ目をこちらに向けて、そうですね、と応える。その瞬間、今までかかっていた曲がするすると止まる音がして、ジョン・レノンのハッピー・クリスマス・ウォー・イズ・オーヴァーに変わった。近野とずっと車にいると、たくさんの洋楽を覚えてしまう。

「夏の空だね、って言ったところなのに、ハッピー・クリスマスって」

 私がきちんと題名を覚えていたことに驚くように眉をあげて、そのままで笑った。

「シャッフル再生にしていたからですね。好きな曲に変えていいですよ」

「本当?」

 ええ、といいながら近野はカーステレオを指さす。そこにはかなり古いウォークマンが挿さっていて、やっぱり古い洋楽ばかりが入っていた。近野らしいな、と思いながら、でもやっぱり、とも思う。

「ねえ、私のスマートフォンから流しても、いい?」

 プリファブ・スプラウトのカーズ・アンド・ガールズもいいけれど、やっぱり、海までドライブするならこういう曲がいい。もちろんです、という近野の声を待ってから自分のスマートフォンを挿して、再生ボタンをタップする。

 ギターの澄んだ透明なストロークと、心地よいリズムのドラムスと、背なかを押すようなベースが溶けて、空中で、夏になる。

「何の曲ですか?」

 近野はまっすぐハンドルを握りながら、でも少しだけリズムに体をのせながら、尋ねる。

「スピッツだよ。スピッツの、渚」

 夏ですね、と近野が笑う。しずかなのに華やかな、あの笑い方で。夏のにおいが、近野の笑った横顔で飽和する。揺れる明るい色の髪で、はじけていく。

 私たちの旅は、夏の旅は、今日からはじまる。




〈カーズ・アンド・ガールズ・アゲイン 了〉

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