百合小説短編集
Yukari Kousaka
現代ドラマ篇
カーズ・アンド・ガールズ
私が最初にただいまを言う相手はいつだって家族ではない。
濃紺のプリーツを翻して駈けていく下級生たちを見ながらゆっくりと校舎を出る。雨に濡れた緑のにおいに充ちたゆるやかな坂を下っていく。校舎の外壁と同じ淡いベージュの正門を抜ける。そうして他の生徒たちに背を向けるようにして左に折れると、そこにはトヨタ・クラウン・ロイヤルサルーンが停まっている。ちょうど私が着ている制服のような濃紺のトヨタ・クラウン。
「ただいま」
私が最初にただいまを言う相手はいつだってこの車と、
「おかえり」
近野は背を愛車から離し、左手に挟んでいた煙草を携帯灰皿に押し込んでからその手を振った。手を振りながら近寄って、そのまま私の荷物をひょいと持つ。後は何も言わずに運転席に座る。私はエンジン音を合図に、何千回と握った後部座席のドアをそっと開けてすべりこむ。後部座席、左側。近野の顔がすこしだけ見える場所。
私がシートベルトを締めるかちゃ、という音を聞き届けると、近野は細い脚でアクセルをささやかに踏み込む。指はしずかにハンドルを回す。私はしずかに目を閉じる。からだが少しシートに沈み込む。
近野は父が雇った私付きの運転手だった。小学校低学年の頃はおじさんの「近野」だったけれど、ある日突然この女の「近野」に変わった。娘さんだよ、近野さんは体調を崩されたんだ、と父は言った。それ以上もそれ以下も知りえなかった。近野は何も語らなかったし、私も何も訊かなかった。近野は朝、扉を出るとそこにいて、夕、正門を出るとまたそこにいた。県境の家から都市部の学校まで毎日往復二時間の道のりをトヨタ・クラウンと共に走ってきた。おじさんの近野の頃からずっと濃紺のトヨタ・クラウンだった。近野がどこから来てどこへ帰るのかも知らなかった。けれども世界で誰より長く私とふたりきりの時をすごしているのはこの人だった。
近野が何歳なのか、なぜこの仕事をしているのか、運転手以外の時間は何をしているのか、訊きたいことは山のようにあった。煙草のにおいと、おかえりの声と、大きな変化のないファッションと、それくらいが私の知りえた近野の姿だった。
そっと目を開ける。
近野はただ真っすぐ前を見てハンドルを握っている。明るい色の髪がシートになびいている。窓をあけているのだ。冷たすぎない、淡い色のついていそうな風が広がる。カーステレオから、控えめな音楽が流れている。
「何の曲、ですか」
思わずだった。いつも目をとじて聞き流していた曲。それが近野の手によってえらばれているのだと思うと訊かずにはおれなかった。敬語、どうして、変、と思いながら慌てて付け足す。
「いや、あのいつも、洋楽で、知らない曲で、気になって」
「プリファブ・スプラウトのカーズ・アンド・ガールズです」
私の言い訳を無視して答える。
「え?」
「プリファブ・スプラウト。カーズ・アンド・ガールズ、車と女ばっかり追いかけてないで他のことをしろっていう感じの歌ですよ」
近野がおかえり以外の言葉を発したのは初めてかもしれなかった。私が熱を出して早退した日も、おかえりなさい、だけを言って私をしずかに車に乗せた人だった。おかえり、さえあれば事足りると考えているのだと思っていた。
「それって、車の中で聴く曲じゃなく、ないですか」
近野がバックミラー越しに私を見つめた後、ふっと笑った。華やかな笑い方をする人だった。楽しいのだと、面白いのだと、伝わる素敵な笑い方だった。私もふっと笑ってしまった。私と近野の笑い顔がバックミラーで重なった。
「そうかもしれない」
なめらかに景色は流れていく。カーズ・アンド・ガールズも。私達はガールズ・イン・ア・カー。ふたりきりの二時間。
笑ったときのまま柔らかくゆるんだ近野の顔を見つける。
「そうですよ」
私たちの旅は、今日からはじまる。
〈カーズ・アンド・ガールズ 了〉
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