時計

〈殺伐感情戦線 第2回【笑顔】〉


 洗面台に置き忘れられた腕時計。別にブランド物でもなくて、かといって物凄く安物ってわけでもなくて、それなりの値段の、それなりの時計。そこら辺の雑貨屋で売っているような数千円くらいのものだ。銀色のベルトに色つきの石がはめ込まれた、今どきの可愛らしい時計。なんてこともない時計。私はその時計を手に持って歩き、ベッドに倒れ込む。昼下がりの部屋にはほの白い外光が溢れ込んできて、壁をゆるやかに染め上げている。ほこりが小さく舞っているのが見える。渦を巻くみたいにして、私の手の先の周りを、時計の周りを、くるくると回っている。どこにも行かないほこり。どこにも行けないほこり。そのほこりの中心で時計は、ふらふらと静かに揺れていた。盤面の裏に指紋がついている。外光に当てながらじっくりと回していって、その指紋の数をかぞえあげていく。ひとつ、ふたつ、みっつ。それが何かの意味を成すわけじゃない。そんなことはどうだって良い。ただ私はの残した指紋の数を、ただ何の意味も無く知りたいだけ。ひとつ、ふたつ、みっつ。全部あの人の指紋なんだろうか。誰かが重ねた手、誰かが掴んだ手、あの人の左手は誰かに触れていたんだろうか。それも、もう、分からない。私はただここにいるだけ。あの人の置き忘れた時計を持って、何の感動もなく、ただここに寝そべっているだけ。私もあの人の腕を掴もうとして、この時計に触れたことがあった。あの人の暖かな手首じゃなくて、冷たく拒むようなこの銀色のベルトに驚いたことがあった。でも、もう、手首には触れられない。あの人は私を置き忘れて何処かへ行ってしまったから。私はあの人の腕時計とおなじ。置き忘れられていくぐらいの、数千円くらいの、それなりの値段の、それなりの代物。じゃり、という音を立てて腕時計を握りこむ。手の中で冷たい。あの人の残したもの。私はベッドから立ち上がって大股で風呂場に行き、音を立てながら栓を閉めた。ボタンを乱暴に押して、湯を張る。じゃぼじゃぼじゃぼじゃぼ、という水音を聴きながら目を閉じている。まぶたの裏には、何も映らない。もう何も、映ることはない。この風呂場が吸った、私たちの嬌声も、汗も、涙も、体液の全部も、もう流れていってしまった。湯が5㎝くらいになる。私は時計をもう一度強く握りこむ。時計は私の手の中で徐々に、冷たさを失ってゆく。私は、手を離す。深い海に石を投げ入れた時のような音。広がっていく波紋が湯船の縁に当たる音。


 

 顔をあげた先に居る鏡の中の私は、満面の笑みを浮かべていた。




〈時計 了〉

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