走り出すのに訳はいらない
〈殺伐感情戦線 第19回【幸福】〉
※DV、暴力描写があります
電気のついていない部屋を背にして、
いつからこんなことになったんだっけ、と振り返ることはしない。
気付いたらこうなっていた。ずっと誰かに守られてなめらかに滑ってきた人生がある日突然目覚めたら夢だったように、電気をつけたらいなくなった霊のように、消えてなくなっていた。それだけのことだった。中学校にも高等学校にも行けて、大学にも進学できて、それなのにある日親からのお金が途絶えて初めて父親がリストラに遭ったことを知った。仕送りはもう無理だと言われた。バイトをしているから何とかなると思っていた。奨学金をとれば何とかなると思っていた。それでも月3万円は足りなくなるのだ。どうしても。バイトを増やしたくても授業とゼミのせいで増やせない。奨学生だから休みがちになるわけにもいかない。風俗だけには手を出したくなかった。教科書代が足りなくて毎週誰かに見せてもらうことになっても、一日1食しか食べられなくなっても、電気がつかなくなってカップヌードルのお湯すら出なくなっても、風俗だけは嫌だった。でももうどこにも行けない。私にはもうどこにも道がない。スマートフォンの充電が5%になって、バイブレーションが手のひらから肩に伝わる。太陽の炎は完全に消えて、吸う空気の隅々までが夜になっていた。
バイブレーションの余韻のまま、ゆっくりと右手を持ち上げて、画面を親指ではじくように点ける。顔に白い光が当たって、ベランダを照らす。そのまま検索ブラウザを開くと、親指でまた文字をひとつひとつ弾いていった。ありとあらゆる言葉を調べる時よりも、丁寧に。息を、止めたまま。
「 風俗 はじめ方_ 」
検索の虫眼鏡マークをタップしようとしたとき、充電のものではないもっと長くてしつこいバイブレーションが右手を揺らす。画面がブラウザから変わって、電話のキーパッドになる。受話器マークが緑色に光る。
「
電話だった。私は検索マークだった場所から指を離して、しばらく揺れるスマートフォンを見つめる。真っ暗になっていくベランダをほのかに染める光。そのせいでなぜか湊谷めぐみの笑顔を思い出して、どうしても切ることができなかった。
「………もしもし」
『瀬菜ちゃん?』
変わらない声。高すぎない、やわらかく、途中でふるえるような声。けれどしっかりとした芯はあって、誰よりもよく笑っていた声。
「めぐみ。どうしたの」
『ううん、ちょっとだけ話したいことがあって。ビデオ通話にしてもいい?』
4%になった充電をちらりと見てから、「充電ヤバいから途中で切れちゃってもいいなら」と返す。うんいいよ、すぐ終わるから、とめぐみの声が一瞬遠くなって、ビデオ通話に切り替わった。
めぐみは広い家にいた。電気もついて、アロマキャンドルらしきものも焚かれていて、お洒落な時計がかかった家。わたしの住むボロボロのアパートメントとは似ても似つかない家。めぐみは高校の時にできた親友だ。私と同じで、映画が好きだった。
「結婚、したんだっけ」
『そうなの。短大出てすぐ。瀬菜ちゃんは大学だからあと1年かあ』
めぐみは少し頬が丸くなったみたいだった。笑ったときに持ちあがる頬の肉がすこしだけ増した気がした。幸せなのだろう、すごく。私なんかとは違って。
「……久しぶりだね。急にどうしたの」
それが今の私への当てつけのように見えて、そんな筈は決してないのに、そんな気配すらないというのに、とげとげしい物言いになってしまう。お金も余裕も時間もない私。夫もお金も時間もあるめぐみ。どうしてこんなことになったんだっけと、考えは振出しに戻ってしまいそうになる。めぐみも私の言葉に少し引っかかるものがあったのか、ちょっとだけ悲しそうに笑ってから、口を開いた。
『ちょっとだけ見せたいものがあるの』
そういうと、めぐみは左手をゆっくりと広げた。
そこには照明の光を浴びて眩しいくらいに輝く指輪があった。
薬指の付け根。幸せの印。
最悪だ、と思った。
最低だ、と思った。
めぐみがじゃない。この世界が。同じ道を歩いてきたはずなのにこうも違ってしまえるこの世界が。口の中で舌を鳴らした。彼女の背後に置いてあるもうずっと見ていない砂糖の入ったペットボトル飲料が無性に気になった。パッケージが高校の頃と変わっている。中身はそんなに変わっていないのに、周りだけがどんどん変わっていく。私とめぐみみたいだ、と笑いそうになる。めぐみが嫌い。この世界が嫌い。
でもめぐみは、そこで、親指を静かに折りこんだ。
てのひらの内側に。ちょうど生命線の上に爪が重なるくらいに。
そして残りの指をその親指に覆いかぶせる。
その瞬間、スマートフォンは大きくバイブレーションを鳴らして真っ黒に染まった。充電が0%になったことを示す表示が赤く点滅していた。
でももうそんなことはどうだって良かった。
呼吸が荒かった。心臓がどきどきと鳴っていた。
私はあれを知っている。あのサインを知っている。
DV、ドメスティック・バイオレンスを受けていますというサイン。
家に夫がいて、助けが呼べないというサイン。
渾身の「S・O・S」。
私は何も考えずに煙草をベランダの床に投げ捨てて踏み潰した。ベランダ用のサンダルのまま部屋を横切り、机の上の小銭しかない財布をとってそのまま外へ飛び出す。
この世界が嫌いだ。
めぐみは私よりずっと豊かな暮らしを送っている。
この世界が嫌いだ。
めぐみは私よりずっと満ち足りた中暮らしている。
この世界が嫌いだ。
めぐみは私よりずっとおおくを持ち合わせている。
この世界が嫌いだ。
すべて持っても幸せになれないこの世界が嫌いだ。
この世界が嫌いだ。
めぐみだけが幸せになっていく世界が嫌いだった。
この世界が嫌いだ。
でも今は、彼女すら幸せになれない世界が嫌いだ。
この世界が嫌いだ。
めぐみが妬ましかった。誤ることなく道を歩んで。
この世界が嫌いだ。
めぐみを助ける。逃げる道も塞がれている彼女を。
この世界が嫌いだ。
走り出すのに訳なんて要らない。
走るのをやめない。
サンダルが途中で脱げても、裸足になっても、足の裏を傷つけても、踏みしめるたびに刺すような痛みが来ても。
走るのを、やめない。
そして私は、にぶく光る公衆電話ボックスの扉を勢いよくあけて。
世界を、壊すことにした。
〈走り出すのに訳は要らない 了〉
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