大人と子供
〈殺伐感情戦線 第22回【欲望】〉
※児童に対する性暴力描写があります
大人になるというのは、背が伸びることでも酒や煙草を嗜んでも怒られなくなることでもなくて、すべてを知ったうえですべてを諦めることのできる者になることだと知ってしまった。
最後の一本になったポールモールに火を点けて、ゆっくりと煙を吸い込む。
目の前に広がるのは、崩れる筈なんて無いと思っていたコンクリートでできた、崩れかけた建物。そこに滅茶苦茶に描かれた、卑猥なスラングとイラストでできたグラフィティ。地面に散らばったガラスの破片をつま先で軽くつつく。
「モータータウン」「モータウン」の異名を取るデトロイトは、自動車の街。フォード、GM、クライスラーの3社が本丸を構え、1950年代の最盛期は人口180万人を超えていたらしい。だが1980年代以降、労賃の高騰のため各メーカーが生産拠点を海外に移転しはじめ、日本車やドイツ車の台頭による競争激化によってデトロイトは誰にも必要とされなくなってしまった。世界に、
ここではないどこかで私は産まれ、ここに私は捨てられ、ここで私は育ち、ここで私は働いている。無事に育って、私は大人になった。大人に、なってしまった。死んだ方が良かったんじゃないかって何度だって思う。今でも思う。でも私は大人だから、死んだ方がいいと知りながら生きてしまっていることを諦めている。
路地裏から途切れ途切れに聞こえるか細いうめき声に耳をふさいで、私は出来るだけゆっくりとポールモールを吸う。空はどこまでも青く、雲は白く速く、太陽の熱い昼下がり。完璧に美しい、映画みたいな昼下がり。目をとじて、時計の針の音だけに耳を澄ませている。私は大人だから、耳をすませば助けを求める声や弱いものを虐げて悦ぶ獣の声が聞こえることを知りながら助けることを諦めている。そして自分より弱いものを生贄に差し出して生き延びている。
そうして、息をふかく吸い込んで、
「1時間経ったわ。おしまいよ」
なんの感情もない平坦な声。意識せずにこの声が出せるようになったのも、つい最近だ。震えることも、強がってこわばることもない平らな声。しばらくすると、その声に応えるようにして路地裏から大きな身体が姿を見せる。
「短くねぇか? まだなーんにも楽しんでないぜ?」
上腕だけで私の胴まわりくらいありそうな巨漢が、ズボンのジッパーを上げながらにたにたと気持ちの悪い笑みを浮かべている。そんな答えにもすっかり慣れてしまった私は時計を見ながら淡々と告げる。
「十分お楽しみのようだったけれど。14:52、契約通りの1時間きっかりよ。さらに1時間の延長なら同額を頂くけれど、どう?」
気圧されない。強がっているようにも見せない。ただ対等に話しているということを示さなければ、この場所では食べられてしまう。あの子たちのように。
「ちっ。ケチなババアだ」
「1時間で200ドル、前払いで100ドル頂いているから100ドル頂戴」
男の乱暴な言葉に被せるように声をあげると、彼はポケットからぐちゃぐちゃになった100ドル紙幣を取り出して投げつけた。
「ほらよ」
偽札ではない。私は頷いて、口の端だけで笑う。
「どうも。またよろしく」
男の姿が見えなくなるまで注意深くあたりを警戒する。もっとも、こんな見捨てられた街に私たち以外の姿はないのだけれど。煙草を地面に振り落としてつま先で火を揉み消し、100ドル札をきちんとボディバッグの中に入れてから、路地裏にもう一人の影を探しに行く。
常に陰になっているせいで苔むして冷たい路地裏。人がいないせいでペール缶は生ごみの匂いを発しておらず、赤いビール瓶ケースだけが暗い路地の中で唯一の色彩のようにも感じてしまう。捨てられた自転車と、植木鉢。黴のにおいがツンと漂う室外機がこれから動くことはない筈なのに堂々と鎮座して、この誰の目にも止まらない死角を生み出している。
そこに、一人の少女が倒れている。
これが私の仕事だ。
スラムで捨てられた
少女は着ていたであろうシャツを全て破かれ、何も身につけていない浅黒い肌を露にされたままで転がされていた。脇を下にしてぐったりとしている。血がべっとりと太ももの付け根あたりに纏わりついている。ハンカチでそれを丁寧に拭ってやると、少女は体に刻み込まれた痛みを思い出すかのようにひっと息を飲んだ。あの頃の私と、全く同じ。
「ほら服。買ってきたから、着な」
近所のスーパーマーケットで売られていたペラペラの下着と少女には少し大きすぎるスウェットを投げる。ばさりと少女の上にその服が乗ると、少女はおもむろに身を起こした。黒い髪がちいさく丸く刈られていて、その隙間から輝きの薄いぼんやりとした灰色の瞳が覗いている。あばら骨はしっかり脇から浮き出て、消化の仕方を知らない腹は不自然な膨らみ方をしている。鏡で見た幼いころの私にとてもよく似ていて、だからこそ私は今日、この子を選んだ。
少女はもそもそと動いて、下着、スウェットを身につけていく。何かを考えてというよりは、手当たり次第にそこにあるものを身につけなくてはならないというスラムの子供たち特有の動きだ。それもちゃんと、覚えている。
「今日の稼ぎは25ドル。服はやる。また一緒に働きたかったら声をかけて」
男たちにかける時よりは少し柔らかくした、でも感情は込めない平らな声で少女に告げる。私の取り分のほうが圧倒的に多いが、それでもスラムのジャリどもにとって25ドルは大金だ。1時間犯されて、25ドル。それはこの奪われる側の世界で最も高い稼ぎになるだろう。こうして少女たちは私と同じ道を歩んでいくのだ。欲望を満たすために弱者を使い、欲望を満たすために使われるこの道に。かつての私もそうだったから。25ドルを少女の手に乗せて、私は路地裏を去る。それで全部終わりだ。何もかも。
「お姉さん」
少女は25ドルを握りしめると、こちらを見て言った。私は振り向いて、姿勢をくずすことなく少女を見下ろす。立ち上がってもなお胸の下ほどまでしかないジャリ。信じて、騙されて、裏切られて、全てを奪われて初めて大人になることができる可哀想な生き物たち。少女はその乾いて皮がめくれた口を開いた。
「死んで」
少女はそのまま真っ直ぐに私を見据えて、数秒立ち止まっていた。私も何も言わずにじっとその瞳の奥を見ていた。濁った瞳。諦めることを知った、でも諦めていることを認めてしまいたくない、大人と子供の境目の瞳。こうして彼らは少しずつ、認めてしまいたくないことも諦めて、諦めないことを諦めて、大人になっていく。
死んだ方がいいと知りながら、生きてしまっていることを諦めている。
耳をすませば助けを求める声や弱いものを虐げて悦ぶ獣の声が聞こえることを知りながら、助けることを諦めている。
奪う側になったことを知りながら、奪われるものを想像することを諦めている。
欲望に飲まれていくことを知りながら、その道を去ることを諦めている。
「無理」
私はそう小さく笑って、少女の頭を撫でる。
そうしてまた、私に奪われる獲物を探しに出かける。
景色が濁って揺らいだのは、きっと
〈大人と子供 了〉
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