BEER

〈殺伐感情戦線 第6回【冷蔵庫】〉


 かしゅ。

 力を込めてプルタブを引く。右手の力が抜けた瞬間に、コンビニエンスストアから帰る間中振り回されていたせいで溢れそうになる泡を受け止める。グラスに移し替えるのも面倒で、直接。仕事から帰って一番に飲むビール。私の日課。種類も味もとくにこだわりは無くて、ただ冷たい液体が喉を潤してほしいだけ。それでもお茶や炭酸水ではとても物足りない。酔いだけが私を逃がしてくれるから、酔いだけがずっと私のそばにいてくれるから、ビールを飲む。

 かしゅ。

 何度も何度も聞いた音だ。私が寝付こうとしたときにも、日の光が眩しい昼間にも、心地の良い朝からだろうと鳴る音。白くて細い指先の、血みたいに赤い爪がプルタブの輪の中にはまって、鳴る音。私が追い出した音、私が自分から追い出した音。それだというのに何度も何度も蘇る音。バイクがエンジンをふかす音や、テレビの馬鹿みたいな笑い声、隣室から時折ひびく怒鳴り声よりもか細い筈なのに、しっかりと耳に届いて、そして離れない音。

 かしゅ。

 姉さんが仕事で近くに来たついでにこの部屋に上がった時も、その音を立てていた。音を立てながら、冷蔵庫の中にひとつだけ残っている缶ビールを見て「まだ1本残ってんのになんで新しく買ってきたのさ」と伸ばした姉さんの手を叩き落してしまった。自分から追い出したはずなのに、自分だけがとらわれていて、たぶんあいつはもう忘れている。あんなメモを残したことすら。

 かしゅ。

 その音を立てて新しいビールを飲む私に姉さんはもう何も言わなかったけれど、多分色々なことを悟ったはずだ。二人ぶんの部屋の、一人分の空白の意味を、全て。私の色々なものを奪って、私が追い出したら素直に従って、もう二度と戻ってこなかったあいつ。煙草とビール以外の何かを買ってきたところを見たことがない、あいつ。へらへらと笑って、自分で生きようとせず、死のうともせず。ずっと私に求めるだけのあいつ。何かを差し出そうとしないあいつ。

 かしゅ。

 あの日もその音から始まった。あいつが何本目かのビールを開けた瞬間、何かが壊れるような気持ちのまま気が付けばあいつを殴っていた。多分「もう私からなにも奪うなよ」とか叫びながら。あいつが笑わずに固まるのを初めて見たのも、あの日だった。あいつは殴られた勢いで横を向いたまま、しばらくじっと固まっていたのだった。そして今度は気が付いたら、私は床に投げ倒されていた。あいつの顔が、私の顔のすぐ目の前にあった。あいつの酒のにおいの息が鼻先になった。

 かしゅ。

 あいつは笑っていなかった。でもあいつはすぐに立ち上がって、半分しか開いていなかったビールのプルタブを完全に開けてから、こっちを向いて笑った。あの笑顔。へら、とした締まりのない笑顔。ごめんなんて思っていない、ごめん、の声。ごくごくと飲み干して、あいつはもう一度何かを小さくつぶやいてベッドに入っていった。次の日もへらへらと笑っているんだと思っていた。へらへらと笑って私を仕事に送り出してくれるんだと思っていた。

 かしゅ。

 あいつが残していったビールを開ける。「ごめん、何も持ってないから、これで。ごめん」というメモとともに冷蔵庫の中に置かれていたビール。金色と青色のラベルが綺麗な、あいつみたいな、缶ビール。ごめんじゃねぇだろが、と呟きながらトイレに向かう。半分だけ閉まったトイレの蓋を押しあげて、その前にしゃがみ込む。そして、ゆっくりと缶を逆さにする。金色の液体が、真っ白な便器の中に吸い込まれていく。何も持っていないあいつが残した、最後の一滴まで。

 

 明日からはビールを飲むのをやめよう。

 あいつの筆跡のメモを握りつぶして、ゴミ箱に捨てた。




〈BEER 了〉

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