歴史篇
London Bridge Is Broken Down
〈殺伐感情戦線 第11回【霧】〉
『大気汚染で、いわゆるスモッグ(smog)という合成語が使われ、問題となったのは1909年、スコットランドのグラスゴーと言われ、石炭炊きの煤煙(smoke)と霧(fog)により、1063人の過剰死亡者が出たと報告されている。その後、最も有名な事件としては、1952年のロンドンスモッグ事件がある』環境省「大気汚染の歴史」より
『1952年のロンドンスモッグは、科学、大気汚染に対する公衆の認識、および政府規制への影響という観点から、歴史上最も重要な大気汚染の1つである』
“A retrospective assessment of mortality from the London smog episode of 1952: the role of influenza and pollution.”より(筆者訳)
⁂
ストランド。
綱や紐、絆、浜、座礁することを表すこの単語は、頭を大文字にするだけで一本の華やかな大通りへと姿を変える。
ロンドンで5番目に大きい鉄道
(ロンドン、それもストランドなんて何年ぶりかしら)
ジェイニー・ブレアは数ヶ月前に亡くなった母親の遺品整理のためにロンドンを訪れていた。幼少期からの憧れであったジャーナリストになったジェイニーは、世界の「今」を追いかけて飛行機に乗り、「明日」を求めて車を走らせていたが、「過去」と向き合った経験はあまりにも乏しかった。母親のそばにいたのも18歳までで、19でアメリカ合衆国の大学に進学してからはロンドンは遠い存在になってしまったから、というのもある。家族の仲は悪くなく、否むしろ良好で、彼女が母親と疎遠になっていたのもひとえにその多忙さゆえだった。それでもクリスマス休暇には帰省することがほとんどだったし、クリスマスに何か緊急の取材が入ったとしても、きちんと家族の誰かには電話をかけるのがジェイニーだった。
だから今回「過去」を見つめるために帰省するのは少しばかり緊張する体験ではある。ジェイニー個人にとって、そしてブレア家の長女としてのジェイニーにとって。
チャリング・クロス駅でしばらく人の流れを楽しみながらアイスコーヒーを飲んでいたジェイニーは、ずず、と液体の無くなった音がきこえ始めると、ネイルアートが施された右手指でぐしゃり、とそのプラスチックカップを氷ごと潰して近くのゴミ箱に投げ入れた。オスカー・ワイルド像も、ベンジャミン・フランクリン・ハウスも、パブ“シャーロック・ホームズ”も本当にすぐ近くだが、観光は全てことが済んでから。ジェイニーはきょろきょろと辺りを見回しながらも、仕事で培った見事な足さばきで颯爽とストランドを抜けていった。
トラファルガー広場名物のチャールズ1世騎馬像前を横切り、再び広がる大通り、ポール・モールの辺りでタクシーを捕まえる。あとは母が住んでいたコンドミニアムの名前を告げると、運転手は静かにうなずいてジェイニーを運んだ。喧噪も、観光も、テムズ川の流れも、どこか少し遠い。
(ロンドン。そう、私はロンドンにきているの)
ジェイニーの18年間が詰まった場所。40歳も間近になった今、失われて行こうとしているその18年間の光を、あるいは影を、ジェイニーは探しに行く。
コンドミニアムは、何一つ変わっていなかった。
ロンドンはほとんどの場合、家具などが全て付いた状態の中古家屋を買う。新築の家はどこを探しても数えられるほどで、だからこそ家、そして街の景観は現在に至るまで大きく変化することがないのだ。ブレア家のコンドミニアムも同じで、赤茶色に白いアクセントが効いた外観も、木々の並びすらも、どこか見覚えのある形だった。ほんとうに帰ってきたのだということに実感がもてなくて運転手にポンドを握らせてタクシーを降りても、しばらくコンドミニアムを見上げ続けていた。
(久しぶり、
口の中だけでそうつぶやく。
(久しぶり、
口の中だけでそう、つぶやいた筈だったのに。
「久しぶり、リトル・ジェイニー」
後ろで声がした。
ジェイニーが振り返るとそこには栗毛の、彼女と年恰好のよくにた女性が佇んでいた。背はすらりと高く細身で、髪はゆるやかに纏められている。帽子を目深にかぶってサングラスをしているせいで瞳はよく見えなかった。
「誰……?」
「私はヘザー・マッケイブ。貴女に話があってきたのよ。きっと今日、貴女のお母さまの遺品整理に来るってご近所の方が仰っていたから」
そういうと彼女はサングラスと帽子を取り、飴色の瞳を細めてにこ、と笑った。
「いいかしら?」
「いいも何も、私は貴女を知らないと思うんですけれど。忘れているだけならごめんなさい」
そういうとミズ・マッケイブは首を振って続ける。
「いいえ、大丈夫。貴女は私を知らないわ。私も貴女をよくは知らない。私が知っているのはブレア家のことだから」
「私の、家のこと……?」
そう、だから、お話してもいいかしら? ミズ・マッケイブはもう一度微笑む。夏の暑さも感じさせないほど涼やかな立ち居振る舞い。ヘザー・マッケイブがどのような人物か分からない今、家にあげることが正しい選択かどうか、ジェイニーには分からなかった。ジェイニーはミズ・マッケイブに少しだけ近づき、近くにカフェがある旨を伝えた。だがミズ・マッケイブは頑なに首を振る。
「ごめんなさい。急に来て何事かと思うわよね。でもね、これは家の中でしか話せないことなの、誰かに聞かれるわけにはいかないし、家の中のほうが色々と都合がいい」
ミズ・マッケイブはそう言うともう一度、いいかしら、と尋ねた。私は逡巡の後、構いません、と小さく告げる。ただし、決して家のものに勝手に触れないでくださいね、と注意しながら。ミズ・マッケイブはもちろんよ、と頷いて私の後に続いた。
ミズ・マッケイブの前と、私の前に紅茶を置く。きちんと蒸らして入れたダージリンティーだった。いちごの絵があしらわれたウェッジウッドのカップに注いで。
「たった今ロンドンに着いたばかりなので、トワイニングの茶葉を切らしていて。アメリカから持ってきた安物でごめんなさい」
お構いなく、とミズ・マッケイブは丁寧にカップを手に持ち、口を付ける。そしてそのカップをことんと置くと、口を開き始めた。
「私は、母からの言づてを預かってきたのです」
「お母さまからの……?」
私がオウム返しに質問をするのを遮るように一冊のノートを鞄からするりと取り出し、目の前に差し出した。これは、と開こうとする私の手を止めて、ミズ・マッケイブは話をつづけた。
「読む前に、聞いてください。1952年のロンドンスモッグ事件を、ブレア様はご存知でしょうか」
ロンドンスモッグ事件。
それはイギリス史上最も「有名な」公害事件だ。
1952年12月5日から12月10日の間、高気圧がイギリス上空を覆い、その結果冷たい霧がロンドンを覆った。あまりの寒さにロンドン市民は通常より多くの石炭を暖房に使った。同じ頃、ロンドンの地上交通を路面電車からディーゼルバスに転換する事業が完了したばかりだった。こうして暖房器具や火力発電所、ディーゼル車などから発生した亜硫酸ガスなどの大気汚染物質は冷たい大気の層に閉じ込められ、滞留し濃縮されてpH2ともいわれる強酸性の高濃度の硫酸の霧を形成した。
この濃いスモッグは、前方が見えず運転ができないほどのものだった。特にロンドン東部の工業地帯・港湾地帯では自分の足元も見えないほどの濃さだった。建物内にまでスモッグが侵入し、コンサート会場や映画館では「舞台やスクリーンが見えない」との理由で上演や上映が中止された。同様に多くの家にもスモッグは侵入していた。人々は目が痛み、のどや鼻を痛め咳が止まらなくなった。大スモッグの次の週までに、病院では気管支炎、気管支肺炎、心臓病などの重い患者が次々に運び込まれ、普段の冬より4,000人も多くの人が死んだことが明らかになった。その多くは老人や子供や慢性疾患の患者であった。その後の数週間でさらに8,000人が死亡し、合計死者数は12,000人を超える大惨事となった。
だが、
「ロンドンスモッグ事件が、何か?」
今はとうに1980年も終わりに近づき、公害はほとんど出てない。それもこれも、ロンドンスモッグ事件のせいだ。ロンドンスモッグ事件の後、政府は総力をあげて公害対策にとりくみ、ロンドンはかつてないほどの美しさを留めている。1956年と1968年の「大気浄化法」と、1954年の「ロンドン市法」の制定にもこのロンドンスモッグ事件のおかげだ。
そんな今、なぜ、ロンドンスモッグ事件?
そして、ジェイニーは、思い出す。
「あなたに、お姉さまがいらっしゃったことは」
そういうことだ。
ジェイニーは姉なるものの存在を知っていた。かなり年が離れていて、ジェイニーが生まれてすぐにロンドンスモッグ事件で亡くなったと聞かされていた。18歳だったという。母はその話を何度かしてくれたけれど、ジェイニーは影も形も覚えていない姉のことを悲しいとも思わなかったし、どこかふわふわとした別の国の話でも聞くようにそのことを受け止めていた。
「ええ、姉のエスメラルダ・ブレアはロンドンスモッグ事件の被害者だと伺っておりますが」
(公害による補助金申請の詐欺かもしれないな、面倒な輩をあげてしまったものだ。さっさと返して片付けをしなくちゃ)
ジェイニーは目の前の急に胡散臭さが増した女を、カップの中に顔をうずめて笑った。ミズ・マッケイブは何者だろう。ロンドンスモッグ事件、姉、ブレア家、私、彼女。それぞれの点を繋ぐ線がまだ見えない。あるいは、点がいくつか足りないのだ。
「では、お姉さま――エスメラルダ・ブレア様が、ロンドンスモッグ事件で亡くなったのではないとしたら」
「え」
思わず、高価なウェッジウッド製ティーカップを取り落としかける。
エスメラルダ・ブレアが、ロンドンスモッグ事件で亡くなったのではない?
「それは、どういう」
ジェイニーは慌てて態勢を立て直し、さっきよりも背筋を伸ばしてミズ・マッケイブに対峙した。点が急激に増えた。ミズ・マッケイブは何を言っている?
「私は、母、アメリ・マッケイブからこのノートを預かって参りました。アメリ・マッケイブは末期癌で既に歩くことが出来ませんゆえ。そして母に、ブレア家の誰かにこう伝えるようにと言われたのです。私の母は、アメリ・マッケイブは、」
母は、あなたのお姉さまを、殺したんです。
時が止まったように思えた。
比喩ではなく、肌の表面で、にごった時が固まっていくのを感じた。指先まで凍り付くように、全てが時を止めた。本も、食器も、段ボール箱も、全てが。
「何を、仰って、おられるのです」
ジェイニーの、強がって出した声が震えていた。記憶にもない姉だ。知らない人も同然だ。でも今、なぜ、なぜ姉が。この赤の他人の母親と、姉に。そしてこの人の母親ならば姉が18歳の時、既に20を上回っていた筈だ。それなのに、なぜ。
まだ、線が足りない。
「母は、冷戦下における英国諜報部隊の暗号課メンバーでした」
ミズ・マッケイブは静かに語る。
「そして貴女のお姉さま、エスメラルダ・ブレア様は、母の……彼女、でした」
時が、ゆるやかに動き始める。彼女。その言葉が点を、繋いでいく。線が、面になっていく。目の前の女が、急に実感をもって、質量をもってそこに座っている。
「あとは、このノートの付箋が付いたところをご覧ください」
そこにすべてが、記されていますから。
⁂
〈表紙〉
アメリ・マッケイブ手記 1951年~
〈1952年11月7日〉
仕事。帰りに機密書類を落としたことに気付く。まずい。徹夜で通った道を戻るが、見当たらない。霧が濃い。これだから冬のロンドンは。石畳が歩くのを拒む。辛い。どうすればいい?助けて
〈11月10日〉
見つからない。死ぬ。寒い。ロンドンの冬だ
〈11月11日〉
無い。霧が濃い。寒すぎる
〈11月16日〉
彼女の家に久しぶりにとまる。ハイスクールも今年で終わりだから、親友と遊びまくっているらしい。可愛いエスメラルダ、私の可愛いエスメラルダ。書類は見つからない。エスメラルダと一緒に眠る。明日からはまた仕事よ。助けて、私のエスメラルダ。ねえ。おやすみなさい
〈11月17日〉
エスメラルダの家に書類があったことが発覚する。彼女の家に泊まった帰りに忘れていったらしい、疲れていたのだろう。エスメラルダは何も見ていないと言っていたが、本当だろうか。お願い神様、彼女がほんとうに何も見ていませんように。
〈11月18日〉
エスメラルダの指紋が検出された。守らなければ、守らなければ。彼女を。彼女のことを。エスメラルダを殺させはしない。私がしっかりしていなかったから彼女が死ぬなんて、そんなことは絶対にさせない。彼女はまだ可愛らしい18歳なのだから。わたしが 私がいけないのだから 眠れない。ずっと、寒い。暖炉を焚いても止まらない震えが、ずっと私の後ろで、誰かがささやいているせいで。お願いだ。誰か助けてくれ。お願い。私のうしろにいるこいつを、こいつをどうにかしてほしい。ねえエスメラルダ、どこにいるの。私のことを助けてよ。お願いお願いお願い
〈11月19日〉
まだ何も言われていない。ひたすら仕事。エスメラルダには会ってはいけないと言われた。エスメラルダはもうどこにいるか分からない。つかまっているかもしれない。夢にも泣きわめくあの子が出てくる。ごめんね。ごめんね。ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。ごめんなさい。好きだよ。赦されないけど。好き。
〈11月20日〉
まだ。きっと助かるんだわ。そうでなくてはならないもの。エスメラルダはもうきっと普通の生活をしているんだわ。ブレアさんからの電話もないし、きっと温かい家で温かく暮らしているんだわ。そうよ、きっとそうよ。そうでなくてはならないもの。神様、一生のお願いです。これ、今までつかってこなかったでしょう、これからもきっと使わないわ。だからお願いです。彼女を救って。私はどうなっても構わないから。平安の祈りを書き写しておこう。
神よ、変えられるものを変える勇気を与え給え。変えられないものを受け入れる静けさを与え給え。 そして、変えられるものと変えられないものを受けいれる静けさを与え給え。アーメン。
この状況はきっと、変えられるもののはずよ。
〈11月25日〉
エスメラルダを殺すようにと言われた
〈11月26日〉
明日。私がやらなければならない。エスメラルダ。エスメラルダ。でも、きっと、こうしなければ、この国が壊れる。エスメラルダを殺して私も死ぬ。それでいい。それできっとなにもかも。なにもかも終わり。そうして霧が、ロンドンの霧が、すべてを覆い隠す。ロンドン橋は壊れて、落ちて、きっとテムズ川が全てを流してくれる。私は、もう、へまを犯すような真似はしない。きっと、エスメラルダを連れてアメリカ合衆国に逃げよう。自由の国に。
〈11月27日〉
指紋再検証。神様ありがとう
〈12月5日〉
寒すぎる。空気が、霧が変だわ
〈12月6日〉
エスメラルダは死んだ
――ページが破られた跡――
〈12月25日〉
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
〈12月26日〉
ごめんなさい
〈12月27日〉
5日から10日の霧のせいで1万人が死んだらしい。ラジオが聞こえた。その中にエスメラルダも入っているのだろう。違うのに
〈12月28日〉
エスメラルダが死んだ次の日、テムズ川に飛び込んだのに死ねなかった。私だけがこうして無様に生きてる。エスメラルダはもういないのに。クリスマスなんて来なくていい。結局私は、エスメラルダを殺すことさえさせてもらえなかった。私が彼女を好きだから。そして彼女は、運よく訪れたスモッグで死んだことにされた霧は、霧は全てを覆い隠すんだ。毒入りの霧なら、なおさら。川でも霧でも死ねない私はもう何でも死ねない愚か者なんだろう。
――ページが破られた跡――
――他の人による筆致のメモ用紙、だが冠水により解読不能――
〈1982年3月6日〉
愛しい娘ヘザーへ。この手記を渡すわ。
〈1989年8月7日〉
(ヘザー・マッケイブによる代筆)
これはブレア家のお嬢さん、エスメラルダの自慢の妹、かつてのリトル・ジェイニーに託してください。ごめんね、エスメラルダを殺したのは、私です
⁂
「どうして今更」
ジェイニーが、姉が、ミズ・マッケイブが、アメリ・マッケイブが、一人一人の点が、線になり、面になり、そして。
壊れた。
テムズ川が決壊したときのロンドン橋よりもあっけなく。
「どうして今更こんなものを」
「今更、でもないのですよ」
そういってミズ・マッケイブはジェイニーに一冊の通帳を見せた。そこには驚くほど大量の数字が記されていた。どこからどう見てもロイズ・バンキング・グループの口座通帳だ。
「母はずっと、ブレア家にお金を支払っていたんです。ロンドンスモッグ事件の被害補償金という名目で。母は、ずっと、エスメラルダさんのことを後悔していたんですよ。一生、比喩でなく一生を捧げて」
確かにアメリ・マッケイブは1952年から1988年までずっと入金をつづけていた。その額はかなりの桁数にのぼっている。
でもそれが、ジェイニー・ブレアの限界だった。
「お金? お金がなんだっていうんです? お金で私の姉さんは帰ってこないですよね? エスメラルダ・ブレアはもう帰ってこないですよね? それで、ずっと黙っていたんですか? 隠されていたんですか? 私の姉さんは、ロンドンスモッグ事の被害者だと偽られて、私の母も、私の父も、そう偽られて? 許せるわけないじゃないですか。一生? ふざけないでくださいよ、なんで生きてるんです、エスメラルダ・ブレアは死んだんでしょう?」
どうして今更、そんなことを言うんです。
ジェイニーは憎かった。生きていたかもしれないエスメラルダ・ブレアを死なせてしまったアメリ・マッケイブが。小さな妹を残して死んだエスメラルダ・ブレアが。全てを私に明かしてしまったヘザー・マッケイブが。何も知らない人々を憎んでしまえるジェイニー自身が。何も知らないのに憎しみだけを抱いてしまえるジェイニー自身が。目の前にいるこの女には、何の罪もないというのに。
ロンドンの夏の日差しが窓から差し込んで、ミズ・マッケイブの横顔を照らす。ほの明るいその日に目を細めながらも、ミズ・マッケイブはもう何も言わなかった。そよ風が吹き込む。その風に前髪をさらさらと揺らす。私にこの話をする前と変わらない格好で。そうして静かにそこに佇んでいた。ただ黙って私の言葉を受け止めていた。その通りだと。そして、私たちはもう「過去」を知りえないのだと。私たちはもう過去の誰とも本当のいみでは線として繋がることはできないのだと。
本当は、二人の間にどんなやり取りがあったのか。
本当は、二人の間でどんな笑顔が交わされたのか。
本当は、二人の間でどんな涙が流されていたのか。
本当は、二人の間でどんな感情が存在していたか。
私たちはもう知りえないのだ。
この世界には私と、ヘザー・マッケイブと、もうすぐ死んでしまうアメリ・マッケイブしか残されてはいないから。
私とミズ・マッケイブは繋がることができない。
私とミズ・マッケイブは明かすことができない。
London Bridge is broken down,
Broken down, broken down.
London Bridge is broken down,
My fair lady.
ロンドン橋は落ちる。ロンドン橋は落ちる。霧の中、毒だらけの霧の中。ロンドン橋は落ちて、私たちはもう繋がることはできない。テムズ川の向こう岸には辿りつくことができない。橋はもうないから。霧があまりに濃くかかっているから。
冬の霧が、すべてを覆い隠してしまうから。
〈London Bridge Is Broken Down 了〉
参考文献
・環境省「大気汚染の歴史」
・「ロンドン (世界都市地図 (11))」
・渡辺弘「ロンドンのスモッグ」
・中井里史「環境と疾病: 大気汚染の疫学と統計データ・データ解析」
・“A retrospective assessment of mortality from the London smog episode of 1952: the role of influenza and pollution.”
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