箱庭幻肢痛
〈殺伐感情戦線 第13回【約束】〉
※残酷描写があります
脚が痛い。
押しつぶされるような痛みに飛び起きて、反射的に右脚を見ようとする。
そして、思い出す。
私にはもう、脚が無いのだということを。
この痛みをずっと背負って生きていかなくてはならないのだということを。
それでも良かった。
これは、あの子との約束だったから。
私は今でも、あの〈箱庭〉で起きたこと全てを思い出すことが出来る。
×
「ねえヴェヌシェ」
机に向かって書き物をしていると、机の面した窓からひょこっと少女が顔をのぞかせた。ふわりと後ろでまとめて編み込んだブロンドの髪に、どこまでも澄んだ青い瞳。純ゲルマン人らしい顔立ちは、成長すればするほど益々美しさに磨きがかかっていくのだろうということを想像させる。エルマ・シュティークロート。私と同い年、ドイツ人の14歳だ。
「もう宿題は終わったの? エルマ」
私はちらりとエルマの方を見てから顔を羊皮紙に戻しながら問う。エルマはえー、と間延びした声をあげながら首を振った。
「シュニッツラー先生のレポート長いからやりたくない」
「駄目でしょ、また怒られちゃうわよ」
「ヴェヌシェが代わりに書いてよ」
「嫌よ、私だって今書いてるところなんだから」
私が羊皮紙をつまんでひらひらと振りながらそう言うとエルマは舌を出して肩をすくめるけれど、すぐそんなことは忘れたようにパッと顔を明るくした。
「あのねヴェヌシェ、私、秘密基地をつくったよって言いたかったの」
エルマの口から思わぬ言葉が漏れて私は思わず筆をインク壺につける手を止めた。
「秘密基地? この施設のどこにそんなもの作れるところがあるのよ」
私のその言葉を待っていたとばかりにエルマは私の腕を引っ張る。インク壺を倒しそうになるのを空いている手で支えた。危ないじゃない、と私が毒づくよりも先にエルマはキラキラとした目で話をつづける。
「それがあったんだって。ねえヴェヌシェ、宿題はまだ明日まであるんだし、見に行かない?」
エルマはずるい。いつだって甘えるコツを知っていて、いつだって可愛くやり過ごして、いつだって私たち施設の子供たちの妹分で。
でもそんなエルマの笑顔に、私たちはいつだって負けてしまうの。
×
1918年11月11日。
1914年に始まった世界大戦が終わって、ドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国・オスマン帝国・ブルガリア王国の中央同盟が負けた。大戦を通してフランス共和国・イギリス帝国・ロシア帝国をはじめとした連合国は553万人、中央同盟国は439万人の戦死者を出した。世界大戦において最も特徴的だったのは人類有史以来の「総力戦」かつ「魔導戦」であったことだ。同盟国軍においても、連合国軍においても「科学こそがこの大戦を制する決め手となる」という意見と「魔法こそが世界を変える鍵となるのだ」という意見のふたつに分かれたという。化学兵器、生物兵器、航空機、潜水艦など確実な技術を生みだした科学か。未だその本質は明らかにはなっていないがありとあらゆる力となる魔法か。そして、中央同盟国軍も連合国軍も「賭け」に出る。彼らは魔法による戦争を選んだのだった。何を失ってでも勝つ必要があるから。この戦争で負けるわけにはいかなかったから。
だけど、この戦争は本当に、何を失ってでも勝つ必要があった戦争なんだろうか?
連合国の栄光の裏で、中央同盟国の衰退は凄まじいものだった。多くの人々が魔法で、兵器で、そして何より飢えと渇きで死んでいった。戦争で親を亡くした子供たちは数知れない。本当に、連合国の勝利は正しかったんだろうか?
そしてそれはもう分からない。終わってしまったことに「もしも」は無い。
今は1931年。
チェコ生まれの私、ヴェヌシェ・ヴラーシュコヴァーは永世中立国スイスに位置しているという戦災孤児保護施設“エデン”女子寮、通称〈箱庭〉で、出自も国籍も年齢も、何もかもがばらばらな7人の少女と共にくらしていた。
×
「秘密基地なんて子供みたいなこと、やめなさいよ」
「ヴェヌシェだってまだ子供よ。14は全然子供」
「子供、みたいな、っていうのが聞こえなかった?」
子供は子供らしくするのが一番なんだから、とエルマはそれこそ子供らしからぬ言葉を吐いて、その場でくるりとターンした。
「ここだよ」
そこは見渡す限りいつもと変わらない施設の、いつもと変わりない南庭だ。だがエルマのその言葉で、なるほど、と思う。
「案外、やるじゃない?」
「だから言ったでしょ、面白いって」
そういうとエルマは手を伸ばして、息を吸い込む。
「
目の前にあった壁に見えていたものが、扉へと変わる。絡まり壁を覆っていたように見えるツタが美しい花を咲かせるキョウチクトウの木へと姿を変える。
幻影呪文。つまり、魔法だ。
幻影呪文は初歩の初歩として習う魔術とはいえ14歳という幼さでは完全に使いこなすのは難しい。さらにここまで完璧で巨大な幻影を生み出す高度で本格的な魔法が使えるようになるには少なくとも16か17になる必要がある。それを、
「エルマ、案外熱心に勉強してたのね」
〈箱庭〉は第一次世界大戦による戦災孤児を収容する施設ではありながら、そこで行われる教育は非常に充実したカリキュラムで一般教養から高度な魔術までを教えてくれる。〈箱庭〉に今いるのはみんな14歳だから、多くの子供がまだ初等呪文しか使えない。
「幻影解除はこの間の実習で完璧に叩き込んだんだから」
早く早く、とエルマは私の背中を押す。彼女の秘密基地。
「この秘密基地、私とエルマ以外に誰が知ってるの?」
扉に手をかけながら問う私に、エルマはクスクス、と笑う。
「ヴェヌシェだけだよ」
え? と思わず訊き返してしまった。聞こえていたのに。驚きすぎたのと、多分、もう一度聞きたい、と反射的に言ってしまったから。
「ヴェヌシェだけだよ。ルイーズにも、アレクシアにも、カトリーナにも言ってない。私とヴェヌシェの秘密。内緒だよ?」
私たち、箱庭一番の仲良し姉妹なんだから。
そうやってエルマは私の手に手を重ねて、ドアノブを回す。
エルマ。私たちの妹分みたいな、エルマ。
×
エルマの秘密基地はなんてことのない、ただの庭の続きだった。
ただ誰かが丁寧に手入れをしたのだということが分かる、素敵な庭だった。
「すごいでしょ、これ、私が毎日手入れをしたのよ」
エルマはくるり、とターンして大きく手脚を広げた。ミュージカルのクライマックスのように。アルプスに降り注ぐ太陽が彼女の顔を、手のひらを、ブロンドの髪を、瞳を、全てを照らしていた。
「まあ普通ね。想像通りって感じ」
もー! ヴェヌシェの意地悪ー、といつものように笑ってエルマは私のお腹を軽く殴る。私はそれをひらりと交わして近くにあった八重咲の見事な花を指さす。
「これは?」
「ラナンキュラスだよ。可愛いでしょ。生物のアーロン先生に貰ったの」
この花も、私だけが知っているんだ。
この花も、私とエルマだけの内緒なんだ。
「ありがと、エルマ」
エルマは私がそんなことを言うとは思っていなかった、とでもいう風に目を丸くした。でもすぐに、いつも明るいあの笑顔に戻って、その小さな手をそっと伸ばして私の手をとる。
「どういたしまして、ヴェヌシェ。秘密にするって約束して?」
エルマの、見る者すべてを吸い込んでいくような澄んだ青色の瞳に見つめられて、私はドキ、とする。そしてその胸の音を隠すように、出来るだけ大声でこう唱えた。
「
私とエルマの手の上に黄緑色の緩やかに広がる輪が出現する。宣誓呪文。その輪に綻びが無いこと、呪文が正しく起動していることを確認して私は続ける。
「ここに、エルマ・シュティークロートとヴェヌシェ・ヴラーシュコヴァーは契りを交わす。この園のことを漏らさぬことを……」
「そして何処にあろうとも互いに互いを守ることを」
エルマは私の呪文に干渉して、大声でそれを付け加える。
何処にあろうとも互いに互いを守ることを。
私はそのエルマの呪文を許可して、宣誓呪文の輪を閉じる。ぱしん、という音と共に黄緑色の輪は小さくなり私とエルマの手の周りで消えた。
×
私たちの妹みたいなエルマ。
エルマが、あの可愛くて、あのいつだって私たちを笑わせてくれた、あのエルマじゃなくなったのは、いつだったっけ?
×
最初から全部変だったのよ。
あの日、あの事件が起きたのはフランス人の少女、ルイーズ・エマ・リュミエールが図書室で囁いたその台詞だった。その場には、私とルイーズ、イギリス人のアレクシア、イタリア人のファビア、スペイン人のカトリーナ、そしてロシア人のガリーナがいた。エルマと、フィンランド人のヘルヴィだけがそこにはいなかった。
スイスにあるとは言うものの正確な場所が知らされない、魔法でも正確な場所が割り出すことが出来ない戦災孤児保護施設〈箱庭〉。〈箱庭〉に入所する随分前の記憶と、入所してからの記憶は全てあるのに、なぜか抜け落ちている入所直前の記憶。戦災孤児保護施設にしては充実しすぎた魔法カリキュラム。イギリス・フランス・ドイツ・イタリア・スペイン・ロシア・チェコ・フィンランドからバラバラに寄せ集められたかのような8人の少女。それでいて同じ年の8人の少女。
そして、おどろくほど魔力操作が上手いドイツ人の少女が一人。
「今って何年? 何月何日?」私。
「たぶん……1932年。月と日は……分からない」アレクシア。
「おかしいだろ」ファビア。
「どうして今まで疑問に思わなかったんでしょうか?」カトリーナ。
「なんかあるね、この〈箱庭〉」ガリーナ。
6人それぞれが違和感をもったところを書きだしていく。違和感が違和感を呼び、芋づる式に疑問点は増えていく。どうして私たちはいつもこの施設の中だけですべてを済ませているのだろう? どうして私たちは義務教育ではない筈の魔法を勉強しているんだろう? どうして先生たちはみんなドイツ人なんだろう?
「外の世界では何が起きているんだろう?」
ルイーズがそう言った瞬間、バン、という音をたてて扉が開く。
そこにいたのは、小柄な少女。ブロンドの髪と、青色の瞳のゲルマン人の少女。
エルマ。
エルマ・シュティークロート。
「教えて欲しい? 外では何が起きているか」
エルマはそういって、いつもの底なしに明るい笑顔――ではなく、どこまでも影に満ちた、暗い、暗い笑みを浮かべる。くつくつ、と歯の隙間から漏らすような笑い。
「戦争だよ。第二次世界大戦」
エルマ、嘘ですわよね、とカトリーナの震えた声で我に返る。戦争? 今、エルマは戦争、と言った? 第二次世界大戦? どういうこと? カトリーナに、嘘じゃないよ、とエルマは笑いかける。
「あたしらドイツはこの前の大戦に負けた。魔法がまだ完全じゃなかったからだ。連合国の力と人数に押し切られてしまった。だから、ドイツはどこよりも先に、どこよりも安く、どこよりも強い魔法を確立する必要があった。だからドイツは戦災孤児を使って魔法の実験をすすめることにしたの。戦災孤児は山ほど欧州に転がってたからさ。欧州から戦災孤児を集めて、ここ〈箱庭〉に集めた。そして第二次世界大戦で十分な体力と魔力を持った人間をドイツが利用するために、時間操作魔術で孤児の一部を眠らせて、毎年7人を――異なる国籍の7人を――魔術師に育てて卒業させていくことにしたんだ。1人のドイツ人の監視役少女を付けてね。そうすれば魔力を十分に極めた者は先に戦争に行かせて、後から新鮮な戦力を補給していくことが出来る。長期化する第二次世界大戦を見極めたってわけ。そしてあんたらは、この〈箱庭〉の7期生。今は1939年3月2日よ」
7年も眠っていた?
時間操作魔術で年齢を抑えられて?
エルマは、ドイツ人の監視役少女?
何もかもが分からない。エルマが分からない。1939年? 私たちは、もう、21歳になっている筈なのに。世界は7年の間、歩みを止めていないのに。
「せ、世界はどうなってるんだよ!」
ガリーナはエルマに掴みかかりながら叫んだ。エルマはそんなガリーナを冷たい目で見ながらつぶやいた。
「ドイツではヒトラーという偉大な魔術師が指導者についてからイタリア、日本とともに魔導三国連合を組んでいてね。ソヴィエトやアメリカ、イギリス、フランスに圧勝しているよ」
すべてはこの〈箱庭〉での実験のおかげさ。
エルマは残酷な言葉を、何の感動もないかのように淡々と告げていく。
ソヴィエトやアメリカが負けている? イギリスが?
「チェコ・スロヴァキアは? チェコ・スロヴァキアはどうなったの?」
私は思わずそう叫んでいた。私の故郷はどうなっているの。
「チェコ? ああ、そんな国もあったな……もう、亡いけどさ」
エルマが表情を変えずに告げた言葉が、耳に入らない。
チェコ・スロヴァキアが、亡い?
「ヒトラー大総統が率いるドイツがチェコは滅ぼしたよ。スロヴァキアは確か傀儡国家になったしね。まあ、端くれでしかない私には何の情報もないけどさ」
私の膝ががく、と折れる。生まれた国が、暮らした国が、育った国が、もうない。その絶望感。その虚無感。
だがエルマは私の方をちらりとも見ずに、淡々と声を上げ続ける。
「ところで君たち7期生はこの〈箱庭〉の意味を卒業するより前に知ってしまったわけだけれども。どうだい? そのままここに居続ける気はあるかい?」
馬鹿な。ドイツがますます強くなるためにここに居続けるわけにはいかない。私たちは身につけた魔法で故郷を救わなくてはいけない。そう同時に巡る私たちの思考を打ち砕くようにエルマは続ける。
「まあ、NO、と言ったフィンランド人のあの子、ヘルヴィは殺したんだけどさ」
エルマは静かに笑って、ぽう、と手元に魔法を灯した。魔法で殺したということなのか? そんな高度な技術を、14歳でどうやって?
そこで、思い当たる。
エルマが誰よりも魔術が得意だった理由。
彼女は軍人だったから。時間操作魔術で眠っていたのではない。彼女は時間操作魔術で老化を遅らせていただけだったのかもしれない。
「エルマ。ずっと私たちを騙してたのね」
ヘルヴィもきっと、最後の最後までエルマを信じて、私たちの妹分だったエルマを信じて疑わなくて。死んだ。エルマはずっと私たちの目の前で笑っているだけ。いつもの笑顔ではないけれど、エルマはエルマだ。幻影魔術ではないことくらい、初等魔術しか習っていない私でもわかる。
「まあね? これが仕事だからさ」
エルマはそんな感傷的な言葉には動かされない、とばかりに肩をすくめて笑う。あの日、秘密基地を見せてくれたときも同じ角度で同じ肩のすくめ方をしていた。私たちのエルマ。私のエルマ。
エルマはもう、いない。
「でも私たちは無理だ、そんなことを知って、貴方たちに加担できるほど馬鹿じゃない。そんなことをするくらいなら死んだ方――」
アレクシアの声が途切れる。
ふと横を見ると、お腹にぽっかりと穴のあいだアレクシアが光の無い目を開けたままエルマの方を向いていた。
死んでいた。
一瞬の出来事だった。
エルマは、手を伸ばして、紫色の魔法陣を輝かせたまま立っていた。
「アレクシア、ケーキの作り方を教えてくれてありがと」
「貴様エル――」
エルマがアレクシアに近づこうとするのを止めに入ったガリーナの声も、途切れる。ガリーナも、死んでいた。
「あーあーあーあー大事な戦力が、人的資源が、無駄になっていく」
エルマはそう言って、残る私たちの方を向いた。
「君たちはどうする?」
ルイーズとカトリーナとファビアと私。4人だけが残っている。
あんなに一緒だった〈箱庭〉の皆が、もう、4人と、エルマじゃなくなったエルマだけになってしまった。ルイーズはアレクシアの遺体を見てぅえぐぅ、と胃の中のもので図書館の床を汚していく。カトリーナも、ファビアも、真っ青な顔をしてギリギリのところで立っているようだった。
「こっちに来ればいいんだ。そうすれば3人みたいには殺さない。丁重に扱って、いつか君たちをナチス・ドイツ魔導将校にしてあげるよ」
エルマ。
どうしてエルマはいなくなったの?
「ねぇエルマ」
私の声はいつの間にか、エルマを呼んでいた。エルマがこちらを向く。見る者すべてを吸い込んでいきそうな青い瞳で私を見る。
「エルマがこっちに来るのは、どうして駄目なの?」
私たちの妹分、エルマ。いつも私に宿題を訊きに来たエルマ。私に秘密基地を教えてくれたエルマ。宣誓呪文に干渉してくれたエルマ。
「あの約束はどうなったの?」
約束? とエルマは問い返す。
「何処にあろうとも互いに互いを守ることを誓ったあの呪文はどうなったの?」
しばらく考え込む素振りを見せてからエルマはああ、あれ、と笑った。
「解呪したよ?」
そこで、もう、駄目だった。
私はエルマにとびかかっていた。
エルマが私に紫色の魔法陣を撃つ。
魔法陣を私はひらりと交わす。
エルマは目を見開く。
私はエルマに飛び乗る。
パン、という音がして。
エルマが放った魔法陣が、私の脚に当たった。
「――――!!!!」
激痛が走る。
神経の全てを引きちぎるような、押しつぶされ、もぎ取られ、ねじ切られるような痛み。頭の中に様々な色が弾けて、飛んで、目の前がぐちゃぐちゃになる。吐く。吐く。ルイーズの胃液に私の胃液が交ざる。横で、逃げ惑うカトリーナとファビア、ルイーズが倒れていく音がする。
私だけが生きている。
痛みの中でそれを認識した瞬間、頭が割れるような痛みに襲われる。
目の前にエルマがしゃがみ込む。
手のひらを私にあてて、呟く。
「ごめんね、ヴェヌシェ」
×
今は、1949年。
あれから10年。
飛び起きるほどの痛みが収まってくると、ゆっくりと私は車椅子に体を移してキッチンまで進む。午前2時。隣室もすっかり静まり返って、私の車椅子の音だけがきこ、きこ、と音を立てる。
あの日、私は生きていた。
目を覚ました私がいたのは古びた病院で、ソヴィエト軍医の先生がニコニコと微笑みながら、気が付いた私の質問全てに答えてくれた。
1940年に第二次世界大戦は終わったこと。
第二次世界大戦で魔導三国同盟軍は負けたこと。
チェコ・スロヴァキアはソヴィエトによって解放されたこと。
ドイツは戦争の長期化に耐えられなかったこと。
大戦後、魔法の使用が禁止になったこと。
そのため、大戦後にナチス・ドイツの病院から救出された私の無くなった脚は、もう魔法で戻すことができないということ。
あの日、エルマは私を生かしたのだ。
その理由を私は知りえない。でも、何とはなしに思うのだ。期待してしまうのだ。
エルマはきっと、あの宣誓呪文を解呪することなんてできなかったんだって。
エルマはきっと、心の底から何処にあろうとも互いに互いを守ることを約束したかったんだって。
エルマはきっと、本当は私たちを殺したくは無かったんだって。
ごめんね、ヴェヌシェ。その言葉を私は聴いているから。期待してしまうんだ。
私はルイーズやカトリーナを殺したエルマをエルマじゃなくなってしまったエルマを許すことは出来ない。
私の右脚を奪ったエルマを許すことは出来ない。
私は残りの人生全てをかけてエルマを恨み続ける。
私たちを騙して、裏切って、嘲笑ったエルマを恨み続ける。
それでも夢に見てしまうのだ。
私たちを騙したくはなかったエルマを。私たちの妹分だった、あのエルマが、きっと生き残っていることを。私に秘密基地を見せてくれたあのエルマが、あの約束をしてくれたエルマが生き残っていることを。
私はもう二度と戻らない右脚を撫でるふりをする。
幻肢痛。
四肢切断後、失った四肢が存在するような錯覚。
私はそこに、夢を見てしまうのだ。
さよなら、〈箱庭〉。
さよなら、私の右脚。
さよなら、エルマ。
〈箱庭幻肢痛 了〉
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