天使の唄が聴こえる

〈殺伐感情戦線 第18回【翼】〉


 雲海に光が差して、その表面が金色に輝いている。紫の影が幻のようにゆらめいては、時の過ぎていくのを告げる。鐘。朝の鐘が鳴る。その鐘はこの世界に住むのではない人たちが聴けば、美しい、あまりに美しい音色になったことだろう。私たちは違う。この鐘は、始業の鐘。この世界に住まう者たちは全く無駄のない動きをすることを求められる。一つ一つの動きを、鐘に合わせて、無駄なく、建設的に、美しく。

 それが、天使というものだ。

 それが、天界というものだ。

「ヴィクトワール! まだ着替えてないの?!」

 鋭い叫び声。でもとても大好きな声が部屋に入ってきた。私の名を呼ぶ声。私はその鋭さに引かれるように、ぱっと髪を流して振り向く。

「シャルロット……おはよう」

 ブロンドの髪、白磁の肌、碧眼、そして柔らかな翼を持つ親友だ。白いプリーツスカートと白い編み上げブーツの間の脚はすらりと細く長く、どこまでも美しい。苛立ちをその瞳に燃やしているが、手は気遣うように私の肩に置かれた。

「まさか、また礼拝をサボる気?」

 だって、この世界の朝はこんなに美しいのに。素晴らしくて神々しくて見逃したくないのに。いつだって礼拝がこの美しさを覚えておきたい私の邪魔をする。合理的で建設的で完璧主義なこの天界。でもそれだけが正しいことじゃないと思う。不便で、嘘つきで、悪いことにこそ秘められた美がある筈なのに。

「だって……」

 深い溜息。親友の口から漏れたそれの意味を図りかねて、心臓の音が耳鳴りになる。シャルロットは私のことをじっと見つめていた。

「いいわ」暫くの後、シャルロットが発したのはその一言。「え?」

「いいわ、代返しておいてあげる。行ってきなよ」

 驚きが泡沫のごとくはじけ、喜びが足の指先まで走る。

「ありがとう!」

 この美しい世界へ駆け出していく、羽ばたいていく。

 そうして今日も、一日が始まる。

 み空色の世界に立つ。やっぱり美しい。雲海に手を差し入れると冷やりとした空気が腕を伝って上がってきて、煌めきが胸をしめつける。大きく息を吸い込むと、肺の底まで現れるような静謐さと清浄さが満ち満ちていた。天界に生まれることが出来て、私はきっと幸せ者だ。そうでなくてはならないのだ。

 ヴィクトワール、と呼ぶ声とともに聖堂の方からシャルロットが走ってきた。礼拝が終わったのだろう。背と細長い手脚を美しく伸ばして駆け寄ってくる。ぼうっと立ち尽くす私の目の前で止まって、仕方ないわね、というように眉を下げて笑った。

「ヴィクトワール、仕事はちゃんとするのよ」

 シャルロットはいつだって優しすぎる。私に甘すぎる。

「ごめんね…」

 私はそっと呟いた。いいのよ、とシャルロットは首を振り、少し強めに私の頭をがしがしと撫でた。

「さぁ! 仕事よ仕事!」

 合理的なこの世界を象徴している長方形の完璧なプリーツをひるがえし、シャルロットは笑う。私も、すそをはらい、立ち上がる。私たち「天使」は天界九隊の中の最下層でいわゆる「天の万軍」である。つまり、天上の軍隊だ。天界九隊とは天使、大天使、権天使の下位三部隊、能天使、力天使、主天使の中位三部隊、座天使、智天使ケルビム熾天使セラフィムの上位三部隊によって構成されている。だから「天使」は天上の駒でしかない。

 それでも、私の生きる意味は仕事をすることにあるから。

「結界に乱れがないかの見回りから始めましょう」

 今日も天界は、私の居場所だ。私たちはこの美しい天界が天上の者以外の侵入や天上の者の裏切りによって汚されることのないよう、毎日念入りに天界を覆い隠し、固め、閉ざしていく。

「ここも大丈夫よ、シャルロット」

「オーケー、一通り見たかしら……今日も天界は平和」

 うん、そうだね、と言おうとした私の口を塞いだのは世界が崩れるんじゃないか、と思うくらいの、文字通り「警鐘」の音だった。


『全天界に告ぐ! 全天界に告ぐ! 結界から悪魔が侵入した! メフィストフェレス級一人である! 総員、持ち場を離れて本部塔へ集合しろ!』


「メッ、メフィストフェレス?!」

 悪魔の階級は長のルシフェル、次いでメフィストフェレス、そしてサタン、デヴィルとなっている。メフィストフェレスとはすなわち、悪魔の中でも実力が桁違いの大悪魔、なのだ。

               +

                   

 走る、飛ぶ、走る。結界は天界の周囲に張り巡らされており、本部塔は天界の中央にあるためにとてつもなく遠いのだ。

「天使、シャルロット……はぁ……ヴィクトワール……はぁ……只今参りました……!」

「よろしい、戦闘用意は?」

 シャルロットは胸の天使印章に手を当ててひざまずき、完璧な角度の礼でその声の主に答えた。

「完了しております、ミカエル様」

 ミカエルは戦争、勝利の大天使だ。告知の大天使ガブリエルとならんで大天使七十二名のうちのツートップである。メフィストフェレス対抗戦の指揮官として本部にいらっしゃっているのだろう。私は天使の力で私の装備、弓矢を取り出し、シャルロットに習って姿勢を正した。

「メフィストフェレスを捕らえよ。暴れた場合は……やむを得ん、殺しても構わん」

「「はっ!」」

 応答と同時に跳ねるように表へと駆け抜ける。扉を蹴上げて外に飛び出すと既に何百という天使たちが各々の武器を持って空を舞っていた。まだメフィストフェレスは見つかっていないらしい。シャルロットが後方から細剣レイピアを手にして飛んできて、私の真横に並んだ。そして静かに問う。

「ヴィクトワール、あなた、悪魔の居場所に気付いているんじゃない? あなたってそういう所、私には分からないような所に注意が行くから」

 親友のその言葉に私は少し迷ってから、うなずいた。

「うん。多くの天使たちは気付いていないけれど、天界に初めて来た人はきっとで立ち止まってしまう筈だから」

 シャルロットは私の発したという言い回しに眉をひそめながらも、今はその時ではない、と微笑む。

「分かったわ。行きましょう」

 大きく勢いをつけて地面をけり、急上昇して天界が全て見渡せるほどの高度までくる。そのまま方位を確認し、ある一つの建物を視認すれば、そこを目掛けて急降下するだけだ。ある一つの建物を目掛けて。

 そうして大聖堂の屋根に降りたつ。やや遅れてシャルロットもブーツのかかとを鳴らさないように舞い降りてきた。恐る恐る、といった風に口を開く。

「よりにもよって、本当に、ここ? そんな……馬鹿な」

 聖堂を越えるとそこは神、セラフィムやケルビムといった天界の最高階級の者が静かに暮らす『エデンの園』だ。シャルロットはおびえたように腕を抱えた。

「うん。この聖堂の裏、私がいつもいるところは本当にとても美しいの」

「私だって天界に来てから何百年も経っているのだからそれくらい知ってるわ。でも、そんなに……美しいかしら」

 分からないわ、とシャルロットは首を振る。天界ってそんなに美しいものかしら、分からないわ、と。私はそんなシャルロットに少しがっかりする。天界にいて天界の美しさを忘れた天使は数多い。だがシャルロットだけは、私のことを分かってくれると思っていたのだった。そんなシャルロットも、美しくて優秀なシャルロットも、結局のところ周りの普通の天使と同じなのだろうか。その時だった。

「だから君たちは駄目なんだ」

 私でも、シャルロットでも、そして他の天使たちの誰でもない声が降る。

「「え」」

 上を見ると、大聖堂の尖塔付近についた風見鶏の上に、一人の少女が座っていた。けれどもその姿は天界の住人としてはありえない、そして全てがぼんやりと淡い色の天界には似合わない、全身真っ黒。

「あなた、メフィストフェレスね」

 シャルロットが細剣レイピアを黒い少女に向ける。メフィストなのだろう少女は、ふっ、とシャルロットを鼻で笑い飛ばす。その間に完璧な天界軍用剣術の型で、シャルロットはメフィストへと間を詰めていた。

 が、しかし。

「物騒なものはしまえよ。こんなに美しい場所に、武器は似合わん」

 メフィストは指一本動かさずにシャルロットの細剣レイピアを折ったのだった。さらに続けて投げかけられた悪魔とは思えぬ物言いに、シャルロットが口を開いたまま呆けている気配が伝わってきた。

「あなた、本当に……悪魔?」

 シャルロットの問いをメフィストは膝を叩いておおいに笑い飛ばしてから、突然すっと笑みを消して冷たい瞳でこちらを向いた。その瞳に刺し貫かれて、ぞっとする。天使は絶対に見せることのない、「慈愛」が抜け落ちた目。

 この人、本当に、悪魔だわ。

「それじゃあ訊くけど」

 メフィストはゆったりとした優雅な動きで屋根から腰を上げた。黒々とした羽が日の光を浴びてふんわりと光る。

「天使って何?」

 メフィストは冷たい瞳のまま、口角だけを不自然なくらい上げて、そうつぶやいた。シャルロットが一歩前に出て、さっと腕を広げる。

「天使は正義。悪を砕き、闇と相いれぬ光」

 私たちが天界に生まれた時に教えられた文句をシャルロットが諳んじた。メフィストがその答えを聞いてふっと微笑んだ。それが私にはどうしても苦笑に見えた。ああ、そうだな、そうだった、お前ら、そうだったな……とメフィストはひとしきり頷いてから、もう一度こちらをちらりと顧みる。

「もう一つ訊いていいかな? それじゃあ、正義って何?」

 予想外の質問に、シャルロットが固まる気配がした。

 正義?

 私は、正義を、知らない。そう思った瞬間、私はぼそりと呟いていた。

「……わからない。正義って、天使のことだと思っていたから」

 私の答えにヴィクトワール!とシャルロットが悲鳴のような叫びをあげた。わからない、は敵前逃亡ということなのだろう。私たちは何があっても悪魔を打倒さなくてはならない天使だから。悪魔を前に、わからない、は背中を見せることと同じだ。その私の答えに、もう一度メフィストは膝を叩いて大笑いする。

「あーはっはっはっ、いや超可笑しいね、君たちのように、美しい世界に感謝することも忘れて、悪魔が侵入すればすぐに殺せと叫ぶ者が? 正義? はっ……笑わせるなよ」

「じゃあ、何が正義だっていうの?」

「ヴィクトワール! 悪魔ごときに口をきく必要は……」

 シャルロットの言葉は途中で空気の中にとけていった。メフィストが無言で放ったいかづちが彼女の足元の雲を裂いたからだった。息をのんだシャルロットの手をつかんで飛ぶ。あと少しメフィストの攻撃が逸れていたら死んだかもしれない。それほどの威力。

「それだよ。天使、君たちは自分を過信しすぎだ」

 メフィストはふわりと舞ったかと思うと私の目の前に降り立つ。天界では感じたことのない冷気が彼女から出て私を包み込んでいく。おぞましい感触が私を食べていく。メフィストはそのままにこり、と微笑んで言った。

「ヴィクトワール。君と、話がしたい」

 私?

 なぜ……?

「ヴィッ! ヴィクトワール、駄目よ! 逃げなさい、早く!」

 シャルロットが細剣を再構築し、走ってくる。この騒ぎをききつけたのだろうシェムハムフォラエ七十二大天使が飛来する気配がした。助かる。今なら助かるかもしれない。手を伸ばそうとするのに、メフィストの空気に飲み込まれていく。

「今なら間に合うから! ヴィクトワール! ミカエル様、早く!」

 シャルロットの叫びがきこえなくなる。水の中にいるようにゴボゴボという音だけがきこえる。七十二天使達のそれぞれの武器がメフィストと私の元に飛んでくる。「ごめんね、シャルロット」

 パチリ。暗転。

 世界が、沈んでいく。


              ◇


 目が覚めたとき、私の周りは闇に覆われていて、ああこれが死後の世界なのかと思ってしまった。そんな私の考えを読んだように、声がきこえる。暗く、冷たく、それでいてどこか懐かしいような、そんな声が。

「天使は死なないよ、ヴィクトワール。目を醒ましたならこっちにおいで」

 声の方へと目だけを動かすとそこにはメフィストがいた。

「ようこそ、魔界へ」

 その言葉に、息が詰まるような感覚を覚えた。

「魔界……私、堕天おとされたの?」

「いいや、私が連れてきただけだよ。君と少し話がしたくてね」

 そういえば、と目を覚ます直前のメフィストの声を思い出す。メフィストは私の手をとり、立たせた。まだずきずきと頭は痛むが、目立った怪我は無いし歩けないほどでもない。ならんで立つとメフィストは私と同じくらいの背だった。

「ヴィクトワール、君はなぜ悪魔が生まれ、そして魔界があるかを知っている?」

 その問いに天使学校で学んだ世界史(天界史・魔界史・下界史)を思い出しながらぽつぽつと答える。

「天界戦争でルシフェル、今のサタンについた天使たちが堕天おとされて魔界ができたのが四十万年前。その後は、天界の禁忌目録を犯した天使たちを悪魔として堕天おとしていったのでしょう?」

 そうだ、とメフィストは微笑んでからこう付け加えた。

「悪魔も、かつて天使だったのだよ」

 その静かな声に、はっとする。メフィストの方を見ると、伏せた目に何かが輝いているように見えた。だがそのような私にも構わず彼女は続ける。

「そして悪魔も人を誘惑し、最後の審判の日に正しい人間だけが天界に行けるようふるいをかける、という誇るべき仕事を神から頂いているんだ」

 さあ……正義とは何かな? 誰かが、私をためしているような気がして、私はそっと考え込む。正義。私はわからない、と答えてしまった正義。不意の質問で答えられなかったけれど、きっとシャルロットなら本当は知っている正義。

「かつて正義と呼ばれていたものが堕ちて永久に悪と言われる。理不尽すぎるよね」

 メフィストはぽろり、とつぶやいた。それはあまりにも寂しい声で、だから私は何も言えなかった。正義。

「ルシフェル様が神に反逆したのにも相応の理由がある。ベルゼブル閣下やアスタロト様も一人で戦おうとしたご親友ルシフェル様を心配して自ら堕天だてんされた。私は……」

 そこでメフィストは言葉を切る。言おうか言うまいか考えているらしかった。メフィストの手をとり微笑みかける。ファウストの魂を奪い、醜い姿で人々に書絶えられ続けてきた恐ろしい悪魔、メフィストフェレス。それが今はたった一人の少女に見えてくるからとても不思議だった。

「あなたは?」

 私の微笑みに応えるようにメフィストフェレスも微笑み返す。

「私は……私は、ただ、あの天界が好きすぎたんだ。礼拝をサボって毎日のようにエデンの園にいたんだ。かつての座天使だった私には、エデンの園に入ることを許されていないのに……今でも天界に憧れている」

 この人も私と同じ。やっぱりこの人だって――きっと年齢はずっとずっと上の悪魔なのだろうけれど――普通の少女のようなものなのだ。ただ、合理性と正義だけを信じる他の天使とは違うだけなんだ。きっと魔界も世界史で習ったような極悪非道で血も涙もない悪魔たちの集う所じゃない。他にはもっと素敵な悪魔はいないの、という私の問いにメフィストは笑った。

「君も変な天使だな」「あなたも変な悪魔よ」

 そうして私はシャルロットと話している時のようにクスクスと笑った。つられてメフィストも笑う。天使も悪魔も関係ない。メフィストはきっと私より随分年上だけれど、そんなことも知らない。私たちは、話せば、分かり合える。メフィストは私に沢山の悪魔の話をしてくれた。七つの大罪の怠惰を司るベルフェゴール、ベルゼブル、リヴィアサンたちについて。サキュバス。アザゼルとシェムハザイの仲が良すぎること。クロウタドリの姿の悪魔カイムがかわいいこと。

「悪魔には天界から堕天おとされた者と、魔界で生まれた二世悪魔がいることも覚えておいてほしい」

 二世悪魔には、なんの非もないのだから。

 そうなると私はもう、誰を憎めばよかったのか、わからなかった。正義、正義、正義。憎むべきものなど何もなくて、それはただの幻想では?そんな私の悩みを吹き飛ばすように軽やかな口調で、メフィストは私の背中を押す。

「君はそろそろ天界に帰った方がいい。長く魔界にいると天使の霊力が少なくなって飛べなくなってしまう。飛べない天使は正義を守らない天使より、天使らしくないと思わないか?」

 あっはっは、とひとしきり笑ってから、笑みを鎮めて「ただ……」と付け足すメフィストに、ただ?と訊き返す。

「時々で構わないから私を天界に招いてくれないかな」

 私はやっぱりあの美しさが忘れられない、そう言う彼女の頬に雫が一滴落ちる。愛おしくなった私はその雫を指で払ってあげた。

「もちろんよ」「ありがとう……その……親愛なるヴィクトワール」

 メフィストは来た時と同じように私を冷気で包み天界へ返した。けれども、今の私にとってはその冷気はもう不気味な何かではなかった。新しい友人としての証だった。小さく手を振って、目を閉じる。             

「ヴィクトワール!」

 気が付くと私はシャルロットの腕に抱かれていた。天界に、私の家に、帰ってきた。家はとても暖かいし、とても素敵だ。でも、今の私は知ってしまっている。天界と同じくらい優しくて暖かい場所があり、天使と同じくらい優しくて温かい悪魔がいるということを。

 眠る、眠る。夢の中で私はメフィストフェレスと笑っていた。

 次の日、天使の仕事を休んで本部に赴いた私は事の一部始終を知らされる。私はメフィストと共に天界から突然消え、また突然、しかし今度は一人で現れたらしい。黒魔術の影響などを検査したものの何も分からずじまいで、私にもやがて日常が返ってきた――メフィストと密会を続けていること以外は。

 私とシャルロットの管轄が天界の結界防衛であり、私たちは交替で昼休憩をとるため、メフィストを天界へと招き入れるのはわけないことだった。メフィストはいつも、エデンの園か聖堂を見た後、私の所に戻ってきて悪魔たちの話をしてくれる。沢山のことを知った。メフィストともシャルロットとも仲が良い。礼拝に出て、時折サボって、仕事をして、メフィストと会って、シャルロットとおやつを食べて、同期たちと神や上位天使たちの晩餐をつまみ食いして、火と料理の守護聖人ラウレンチウスに怒られて、シャルロットに二度怒られて、でも最後には許してもらって。眠る。

 とてつもなく平穏な毎日が帰ってきた、筈だったのに。


           ◇


 そんなある日のこと。

 結界の淵までメフィストを見送り「じゃあまた」「ああ、いつもありがとう」と別れを告げている時だった。メフィストが目を見開き、ヴィクトワール、と叫びながら、結界の向こう側に消えた。伸ばした手が、届かない。


 「え」 私の身体を細剣が、貫いていた。


 天使の装備は、少しずつではあるが、一人一人違う。生まれた時に神がその者に見合った武器をお与えになるからだ。だから天界で、煌めく水晶製の細剣レイピアを持つのは、ただ一人。

「天界禁忌目録二章第十一条『いかなる悪魔も上位天使の許可なく招き入れてはならない』に違反した罪で、天使ヴィクトワール・アストリュクを現行犯逮捕する」


 どろり。


 私を刺したのは、だった。

                  

「ど、うして……」痛い。痛い。痛い。燃えるように胸が痛かった。

「あなたが失踪している間、魔界にいたことくらいは調べがついたわよ。それだというのに帰ってきてからもメフィストフェレスのメの字も口にしないじゃない。……裏切ったのはあなたでしょう?」

 シャルロットは表情一つ変えず、細剣レイピアを引き抜く。あは、と意地悪な笑みを付け足す。

「大丈夫、天使は死なないのよ、知ってるでしょ?」

 メフィストが言っていたのと同じ言葉。この子は、誰。私の知ってる、シャルロットじゃない。この子は、どこまで知っているの。血があふれて、頭がぼうっとして、でも、死ぬことはできない。雲が紅く染まる。シャルロットはもっと優しくて、私に甘くて、私が大好きな女の子で。それなのに。

「正義って……何よ」シャルロットより、メフィストの方が優しいじゃないか。

 シャルロットは笑いを収めて言う。

「だから正義は私たち天使よ」

「ち……が……う……!」

「残念だがヴィクトワール、シャルロットの言う通りだよ」

 メタトロン、天界で神に次ぐ地位の熾天使の声。メタトロンの前にひざまずき、見覚えのある完璧な角度の礼でシャルロットはかしづいた。

「シャルロット、お前の友はどうやら天使に向いていないようだね。堕天おとすのが一番だろう……いいかね」

 構いません、私の身と魂は全て、神と上位天使様のお望みのままに。そう答えるシャルロットの声が、遠い。


 メタトロン様の登場で私は全てを理解した。思えばずっと昔から何もかもが仕組まれていたのだ。

 礼拝を休みがちな私とシャルロットが同じ部署であること。シャルロットの装備が天界で正義を象徴する「剣」であること。張り直した筈の結界からメフィストが入ったこと。魔界帰りの私をシャルロットが抱いていたこと。検査。タイミングが良すぎる逮捕劇。

 きいたことがあった。堕天使を決める、優秀な天使たちで構成された諜報機関があると。

「シャルロット……断罪部だったの?」天界保安局1課、通称、断罪部。

「騙してごめん。利用してごめん……それでも私は、神に逆らうあなたが、許せなかった」

 シャルロットは憎しみのこもった目で私を見下ろす。

 シャルロットの正義を汚した私を、絶対に許すことはできないという目で。

 正義には色々な形があって、人はそれぞれ守りたいものがあって。だから私たちは、正義を論じて相容れない。正義は形がなくて、危なくて。だから。

「いいんだよ、シャルロット。私もごめん。それから」


 さようなら。


 だからこれは、誰もが知っている、決別。

 メタトロン様の刃が私の羽を落とす。そして主の放ったいかづちが直下の雲を断ち、


 私を、堕天おとした。 



              ◆



  黒。深く沈む黒に身を固めた私は天を仰ぐ。遙か天上に輝く白い世界、あれは天界。懐かしく輝き、栄光と誉と賛美とを身にまとう天界。私の故郷。そして私を阻んだ場所。私は静かに首をふり、悪魔としての任務に赴こうとした。その時。


 一瞬、天使のうたが聴こえる。


 シャルロットの、大好きなあの子の、大好きな声。朗々とした歌ではない。ただ発せられたうたではない。それは、悪霊を鎮める静かな唄。頬を緩めると、あ、と思う間もなく涙が落ちる。地に膝をつく。静寂が広がる。

「……主のみ名をほめたたえよ、この美しき世界を創りたもうた慈悲深き主を————神よ、この世界の、正義と平和が世々限りなくありますように」

 それを神は望まれる。

 それがあの子にとってのたった一つの正義ならば、私は喜んで悪になろう。

 どんなに私があの子を好きでも、あの子が二度と、私を呼ばないなら。


 ヴィクトワールと呼んでくれる、新しい友の方へ、走り出した。         

 


    

〈天使の唄が聴こえる 了〉 


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