海底

〈殺伐感情戦線 第3回【憧憬】〉


 数学の証明問題を解いている時に警報が鳴って、ああまたか、と思えてしまったこの世界が私は嫌いじゃない。窓のほうを見ると波に揺れる日の光に交じって大きなクジラの影がゆらり、とカーテンにうつるのがわかった。

「お前らよく聞けー、そこーほら、笹! 座れ、窓見んな。クジラ警報だ、K-33280型でレベル3だから帰宅は可能だが明日の授業については追って拡張現実A R掲示板に記載しておくから確認するように。集団で下校しろよー」

 数学教師の間延びした声も、さよならー、という馬鹿でかい周りの生徒の声もいつもの事。クジラ如きで騒ぐような人間はもういなくなってしまった。私は隣で淡々と文房具を筆箱にしまっていく桜に声をかける。

「桜、帰ろ」「ん」

 桜はこちらを見ることなく頷く。さらさらと明るい色の髪が、先生に染め直せと怒られてばかりの髪が揺れている。私はこの髪が好きだ。真っ黒でつやつやだった幼いころの桜の髪も素敵だったけれど、ある日突然ぐっと明るくなったこの髪も。

「何笑ってんの」

 リュックサックを背負い終わった桜がこっちを見て尋ねる。

「いやその髪染め直さないの、桜らしいなと思って」

 ははは、と桜が笑う。乾いて澄んだ、小さいけれど響く声。指先に髪を巻き付けて目の前に持ってきながら、彼女は呟く。

「そろそろ切ろうかな」

 伸びてきたもんね、と私が相槌を打つと、桜は違う違うと首を振りながらまた少し笑った。

「いや、ショートにしようかなって」

 息が止まる。慌てて吸って「え、マジで」とちょっと深刻に訊いてしまう。そうそうマジマジ、桜は冗談めかして私の言葉を繰り返して、帰ろ、と私の横をすり抜けていく。いつも手に入らない桜。私の桜。幼馴染。いつだって貴女は全部自分で決めて、私を置いていく。


 世界がこんな風になってしまったのはほんの数十年前のことらしくて、でも一八歳でしかない私たちはそんなこと知らない。海面が急に上昇して、それは全然止まらなくて、名前も知らない島がひとつ、地図から消えた。名前を知っている島がひとつ、名前を知っている国がひとつ、少しずつ地図から消えた。地球温暖化のせいだったかもしれないし、そうじゃなかったかもしれない。そんなことはどうだって良くて、それより先に人間はどこに住むか、っていうことを真剣に考えた。火星? まだ分かってないことが多すぎる。超高層ビル? 時間と空間、技術に限界がある。そうして決まったのが、「いっそ海の中に住んでしまおう」ということだった。

 そうしてこの世界は出来て、私たちは海底都市で暮らしている。日本だったところはもうとっくに沈んでしまっていて無いらしい。ユーラシア大陸の一部と、北アメリカ大陸の一部はまだ残っていて、そこに住んでいるのは本当にお金のある人だけだ。クジラ警報だとか、サメ警報の無い世界ってどんなものか想像できない。地上も地上でいつ水没するか分からないから怖いわよ、とお母さんは言っていたけれど、桜が言うにはもう海面上昇は止まっているらしい。ほとんどの人類が海底都市に移動し終わったことで地上の温暖化が止まったことも関係しているみたいだ。

 これは余談だけど、緑のない——プラスチック製の人工樹木を緑、と数えないのならの話になるけど——世界になってから、子供に植物の名前を付けるのがブームだ。桜も笹も、私の名前である橘も、誰も本物なんて見たことがない。

 それでも私はこの世界が好きだと思えてしまう。桜がいるから。

 

「クレープ食べたいね」

「ふふ、クレープ、いいね」

 クジラの中でも比較的小型なK- 33280によって一斉休校になったせいで、靴箱は込み合っている。人と人の間を縫うみたいにして私と桜は自分の靴を取りながら喋る。

「K-33280くらいの小型だったらクレープくらい大丈夫でしょ」

「良いと思うよ、クジラだし」

 海底都市に移住しはじめた弊害として、定期的に都市がクジラやサメの襲撃に遭うという物があげられる。人類の生活区域はすべて強化アクリルや強化ガラスによって覆われており直接肉体的被害を受けることはまずないが、まだ数十年の歴史しかない海底都市では何が起こるか分からない。そのため縄張りを外れてしまったサメやクジラが近づいてくるとその個体を大きさや種によって識別し、警報をレベル別に伝達するという仕組みになっている。

 桜とクレープを食べるのなんて久しぶりだ。

 たとえそれが代理牛乳と代理卵で作られたクレープ味のクレープ食感のクレープでない物体だとしても、桜と食べるそれが何よりも嬉しい。

 私たちは靴を履くと、拡張現実A Rコンタクトレンズを装着し、クレープ屋までの道のりを表示する。今や誰も目的地までも道のりを覚えている人などいない。私たちはみんな、ありとあらゆる能力を外注に出している。

「ずっと前にはサイエンス・フィクションなんて呼ばれていた世界だよね」

 歩きながら、ふふ、と桜は笑う。

「コンタクトレンズをはめれば何だって見えてしまうし、私たちは海底都市に住んでいるし。フィクションがどんどん飲み込まれていっちゃった」

 桜は最近、よくこういう話をするようになった。サイエンス・フィクション。グレッグ・イーガンとか、アシモフとか、スタニスワフ・レムとか、伊藤計劃とか、そんな話ばかりだ。私はここにいるのに、地上があったころに作られた物語の話をずっとしている。

「ねえ桜」

 私は半歩先を歩く桜の手を掴む。

「どうしたの」

 ちょっとだけ口角をあげて、桜は振り返る。

 ずっと一緒だったこの子が分からない。幼馴染のはずで、一番の親友のはずで、ずっと一緒だと思っていた筈のこの子のことが分からない。

「桜は、どこにも行かないよね?」


 でも、桜の傷ついたような表情で、私は知る。


 クレープ屋に入ってからも桜は口を開かなかった。チョコバナナクレープ、とだけ小さく店員に告げて、カウンターの横でじっと立っている。私は桜のカバンから覗いた「ハーモニー」という本の真っ白な表紙をじっと見つめていた。この小説だけは、私も知っている。意識の物語。死んだはずの少女と、二人の生き残った少女を巡る物語。桜が興奮したようにその本を持ってきた、中学三年生のころを覚えている。

 変わってないな、桜は。

 私たちは最初から交わったことなどなかったのだ、本当の意味では。中学生のころからサイエンス・フィクションが好きだった桜、たぶんこの世界の事を突き詰めようとしている桜、本を読んでいる時は私すらも近寄らせない誰よりも孤独の質を知っている桜。ただ桜の横にいるだけが私だった。

 桜は、いいな。

 きっと、この世界に、目指す目標があって。

 

 クレープを受け取って、二人静かに椅子を引いてテーブルについて初めて、桜はゆっくりと口を開いた。

「私、海底都市研究所に就職したいんだ」

 そうか。そうだね。ずっと、この世界のことが知りたいんだったね。

「そのためには地上の大学に行かないといけなくて」

 この世界はそんなに甘くない。でも桜は、桜ならきっとその大学にも簡単に入れてしまうんだ。そうしてきっと、この海底都市に住む私たちを救ってくれる。

「だから、ごめん、一緒に居られるの、卒業式まで」

 桜は顔を伏せていた。前髪がぱさ、と落ちてよく表情が見えない。明るい髪色なのにくっきりとした影が入って。桜は顔を伏せていた。

 顔をあげて、とは言えなかった。桜にはこの世界を知りたいという夢があって、でも私には桜しかなかった。だから顔をあげてとは言えない。

 別れが、怖くないの。

 私たちはずっと一緒だったはずだ。ずっと隣にいたはずだ。ずっと同じ方向につま先を向けていたはずだ。それなのに。

「ごめん」

 桜はもう一度、震えた声で言う。

 いいな、桜は。

 桜は、きっと地上で、私を忘れていく。





〈海底 了〉



Toshiya Kameiさんによる本作品の翻訳がwebマガジンThe Wondrous Real Magazine4月号に掲載されます。

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