あなたのお薦めの本は

 私はここに引っ越してきてから数年来、毎日同じ時間にこのカフェを訪れている。午後6時。仕事帰りに、このカフェのあの隅の窓際に座ってお気に入りの本をゆっくりと読むのが好きなのだ。毎日毎日、飽きることなく、日替わりコーヒーと、一冊の本。それだけで私は今日を豊かに終えることができたし、明日を変わりなく始めることが出来た。このカフェの雰囲気と、店主の優しさと、本とコーヒーの香りが好きだ。それ以上は何も要らなかったし、それ以上があるとは思っていなかった。

 そんな毎日が小さく変わったのが、一週間前のことだった。

 いつもの席に座ると、そこには普段置いていない本が一冊、忘れられていた。リバティープリントのブックカバーがかかった文庫本。きっと前に座っていた人の忘れ物か、店主が片付け忘れたのだろう。そう思って本をとりあげると、はら、と一枚の紙が落ちた。


 お薦めの本です いつもこの席で本を読むお嬢さんへ


 私は、はっとして辺りを見回す。けれどもいつも通りそこにはちら、ほらと人がいる限りで、見たところこの本を置いたような人はいない。もう一度じっくりと紙を見る。憶測にすぎないけれど、女性らしい筆跡のメモ帳。恐る恐るそれを鼻に近づけると、ふわ、とレモングラスの香りがする。ブックカバーの下には『悲しみよこんにちは』という文字が透けて見えた。読みたいと思いつつ手に取っていあなかったサガン。私はそっとブックカバーを指で押さえる。店主も、その本を見て、ニコッと笑う。きっとこの本の持ち主も常連なのだろう。私を遠くから見ていて、私の本を見て、きっと丁寧にこの本を選んでくれたに違いない。そう思うとなぜかとても嬉しくて、カバンの中に入れる時にも何か割れそうなものを運ぶように扱った。

 次の日、その本を店主に託すと、今度は新しい本を店主から渡された。また紙が挟み込まれている。


 サガン、どうでしたか 迷惑でしたら返してくださいね


 昨日とは異なったペリドットのカバー。そこに、『嵐が丘』が透けて見える。

 それからは毎日、毎日だった。私が少し時間を早めて行ってもそこには誰もいない。誰もいないのに、確かにどこかに本が置いてあるのだった。私の席、私が忘れて帰った傘の横、カウンターの上。私が気付かなければきっとそこで本はずっと待っているのだろう、色々なところに本は隠れている。そしてその本は村上春樹であったり、リチャード・ブローティガンであったり、サマーセット・モームであったりした。そのどれも、私の好みを丁寧に掬い取った美しい話であることには変わりなかった。そしてそのどれも、可愛らしいブックカバーの下で、開かれるのを待っていた。

 あなたのお薦めの本は。

 私に見つけられるのを待っている。


 そして今日。日曜日、私はずっと、ここにいる。この席に座っている。

 あなたが、お薦めの本をくださるあなたが、きっと来ることを信じて。

 涼しい風が吹き込んで、ドアベルがカラカラと鳴る。

 あなたは、すぐそこまで、来ている。

 けれども私は、振り返らない。

 私は、あなたを待っている。



〈あなたのお薦めの本は 了〉

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