愛も名前も
〈殺伐感情戦線 第17回【雨】〉
わたしが見てきたものはあまりにも多いから、どれから書くか悩んだのだが、やはり最初に頭に浮かんだものから書いていくことにしよう。だからこれは正確に時系列ではないし、その必要もない。わたしはただ旧大陸の人々の人生のほんの切れはしを残すにすぎないからだ。それを理路整然と並べても、ほんとうに見たいものはほころびていくばかりなのかもしれない。断片的でしかないから、おそらく並べることは必要ないし、あるいは無意味なことかもしれない。つまり、わたしはあのことから書くことになりそうだ。旧大陸でも特に栄華を極めそして衰退した
それは旅をはじめてからかなり経ったころ、ちょうど旅の中盤にさしかかったころのことだった。都市部からは離れた鬱蒼と茂る森のそばに、小さな教会と共同墓地があった。教会には名前があったはずだが案内ではよく分からず、墓地にはそもそも名すらなかった。墓地に眠る人々の名前も分からなかった。きっと本当に文字通りの「名もなき」人々なのだろう。そういうところだ。だがそういうところが良かった。わたしはしばらくこの教会とこの墓地を観察することにした。墓地はじめじめとしておらず、むしろどちらかというと開けていて、心地の良いところだった。後ろの森に吸い込まれそうになることも、手前の教会とにじむこともなく、墓地は墓地としてたたずんでいた。何故かその墓地はとても魅力的だった。十字架が並び、そこに名前は記されていないけれど、たしかに人が眠っていた。わたしは死んだらこういう墓地に眠りたいなと思った。墓守が丁寧な仕事をするのであろう、墓のまわりの芝は短すぎず、長すぎないように刈られていて、墓はすべて苔むしてはいても、どこか忘れ去られてはいない白さを保っていた。気分のいいことだ。誰かに忘れ去られていない墓地が目の前にあるということは、それだけで。
わたしは拙い旧大陸の
その日の夕食は豆のスープとパン、オリーヴオイル、塩、つまりは修道院特有の質素な食事だったわけなのだが、わたしはそれほど量を食べるわけではないし、味はかなり良い部類だったのでおいしく頂いた。食前の祈りなど、唱えたのはいつぶりだろう? わたしは神の存在は信じているが神は信じていなかったので、祈るということをあまりしてこなかった。だが食前の祈りと沈黙のうちの食事はこの土地の、この教会の断絶を知るような気持ちがして、ここが幾分か世間とは区切られているのだということを知るような気持ちがして、悪くなかった。
いけない、すこし詳細に書きすぎたかもしれない。だがまあいいだろう。この物語はこういう教会で、あるいは墓地でおこった出来事だ。他愛のない、だがたしかに旧大陸の日没のワンシーンといえる、そんな出来事だ。
その夕食ののち、わたしは門限まで墓地にいることにした。ひとつひとつ墓を見て回ることにしよう、そうするうちにこの墓に人が訪れるかもしれない、そう思ったのだ。私は当時最先端のおおきなカメラを持って、ゆっくりと墓地に歩き出した。
墓地は先刻と変わらず、さやさやと芝を鳴らしていた。ただ先刻とすこしだけ違っているのは、そこに一人の少女がいるということだった。薄汚れたケープをまとった薄汚れた少女が、ちいさな歩幅で墓と墓のあいだを行ったり来たりしていた。手にはシャベルと水の入ったバケツを持っているようだった。わたしは彼女をとおくから見ていることにして教会の前のベンチに腰掛けた。なるべく存在感を、薄くして。
彼女はどうやらここの墓守のようだった。少女はひとつひとつの墓を整えて回っていた。苔むしているのはそっとそのままで、でも墓の周りにつもった葉はよけて端に集め、シャベルで乱れた土を馴らし、バケツの水で十字架を磨いていた。その手つきは慣れたものだった。危なっかしいことはなく、ただ見えているゴールに向かって走っているマラソン選手のように、淡々と為すべきことを為しているのだと思った。幼いころからこの墓地を守っているのだろうか。わたしは頭の中で(墓地、墓守、少女)と唱えながら、カメラは必要ないな、と考えていた。この墓を、彼女の生活を乱すようなことがあってはならない。それは死者への冒涜というよりはむしろ、墓守である少女への失礼だ。わたしは彼女の仕事ぶりをそっと見守りながら、門限を待つことにした。
「ミア・ビルケですね。彼女はよく働いてくれますよ」
明朝ミサのあとに私が墓守のことを問うと、神父はにこやかにそう答えた。
「彼女は森の向こうの小さな村に住んでいたのですが、家族がみな早死にしてしまって、こちらで引き取ることにしたのですよ。ここなら修道女が勉強も見てあげられますし。墓守でなく他の仕事もあると言ったのですが、彼女があまり状態のよくなかった墓地を見て心を痛めたようで、それからずっと昼と夜に訪れては墓のようすを見て回ってくれるのです」
なるほど、と応えてわたしはそのことを小さく紙に書き留めた。カメラは駄目だが書き記すことはいいだろう。それが私の目的なのだから。私は自室で筆にたっぷりとインクをつけ、「ミア・ビルケ 墓守」と記したのだった。
朝食ののちはしばらく森を散策して、昼食ののちに墓地をふたたび訪れることにした。墓地は今日も美しく晴れて乾いた風が吹いていた。だが昨日と少し違うのはそこに二人の少女がいたことだった。墓守はふたりいたのかな、と思うも、すぐにそれは違うと分かった。片方の少女はやけに美しい格好をしているのだ。良家の令嬢をおもわせる、前時代的なボンネットと三段フリルのドレス、レースのついたパンプスを履いていた。墓地にはどう見ても似合わない格好だ。わたしはその少女がいったいどうしてここにいるのか、ミア・ビルケとどういう関わりなのかを知るために、また教会のベンチからそっと墓地をのぞくことにした。
「ねぇミア、どうしても村に戻らないの」
「ごめんなさいコンスタンツェ」
「ううん、怒ってるんじゃないの。でもね、寂しいなって」
コンスタンツェ。少女はそういう名のようだった。この名もなき墓地には似合わない、煌めく美しい名前。ミアとは村にいたころの友人だったのだろうか、だがコンスタンツェは令嬢でミアとはすこし釣り合わない気がしたが。
「でも私、この教会にお世話になってるから……」
ミアは墓を磨く手をとめて、そっとコンスタンツェと呼ばれた少女のほうを向いた。パンプスのかかとのせいだろうか、ややコンスタンツェのほうがミアよりも背が高く、ミアはコンスタンツェを見上げる形になっていた。
「そうね。仕方ないわね……」
コンスタンツェは寂しそうに笑ったけれど、すぐに顔を明るくして、「でもここに来ればいつだってミアにあえるのよね」と言った。その言葉にミアももう一度顔をあげて微笑み返していた。彼女たちはどういう繋がりなのか、一介の旅人にすぎない私には知りえない。だが彼女たちは幼いなりにも、繋がることを必要とする仲なのだという事だけは確かなようだった。彼女たちは昼の間ずっと二人ともにいた。ミアは感情表現が得意ではないようだったが、それにしても一人の時よりは心なしか嬉しそうに見えた。コンスタンツェに至ってはドレスが汚れてしまうことも厭わず、ずっとミアのそばに立っていた。ミアの仕事を手伝う事すらあった。わたしはこの幼きものたちの交わりをそっと遠くから見るだけであった。コンスタンツェの家のものであろうか、従者らしき男が呼びに来るまでずっと、ミアとコンスタンツェのふたりの少女は離れることなくぴったりと側にいた。
来る日も来る日もコンスタンツェはミアの元を訪れた。昼はコンスタンツェとミアを、夜はミアの働きぶりを眺めるのがわたしの日課になっていた。カメラは自室に置いたままにすることにした。もはや写真を撮る、その必要はなかったからだった。彼女たちは彼女たちの時間を分け合っていた。そこにわたしが入る余地は微塵もなかった。墓地を、教会を、森すらを包み込んでふたりの時間は流れていた。わたしはただそれを観測する、一人の人間でそれ以上でも以下でもなかった。
その時間がほころびることはないように思われた。だがそんなことは決してないのだ。すべての時間はほころび、すべてのものは壊れ、すべてのものは失われていく。旧大陸がその例ではないか。旧大陸はほころびた。そしてミアとコンスタンツェの時間もほころびてゆくのだ。
その日は、今まで一度もふらなかった雨が降っていた。墓地はしっとりと濡れ、芝の香りが鼻の先を通り過ぎるほどまで膨れ上がり、教会の屋根から落ちる雨水がいっていのリズムを刻んでいた。晴れて乾いた墓地はとても心地良かったが、雨に濡れた墓地もまたその趣がとても良いと思った。私はカメラを構えて、晴れたときに撮っておいたのと同じ構図で墓地をとらえた。夕暮れ、ふだんはミアもまだ来ておらず、コンスタンツェもとっくに帰っている時刻。
だがその日は違った、私がカメラを構えると同時に、遠くからぱしゃぱしゃ、と水たまりを蹴る音が聞こえたのだった。
「ミア! ミア! ミアはどこ?」
コンスタンツェ、彼女の声だった。わたしはカメラを下ろし、そっといつもの定位置にもどった。コンスタンツェは傘を持たずに走ってきているようだった。ボンネットはぐしゃぐしゃになり、前髪は額に張り付き、ドレスはずっしりと重みを増しているように見えた。コンスタンツェはミア・ビルケを呼続けていた。だがミアはまだ墓地には来ていない。墓守がくらす墓堂にいるのだろうか。コンスタンツェはため息をついてあたりを見回し、木陰に入って雨をしのぐことにしたようだった。わたしは教会のほうへ彼女を呼ぼうかと思ったが、きっとコンスタンツェはご両親などには内緒で訪れているのだろう、教会に迷惑はかけられないのかもしれないな、と思ってそっとしておくことにした。やはり、わたしは見ていることしかできないのだ。
ややあって、いつもの仕事道具と傘を持って墓地に来たミアは、ずぶ濡れのコンスタンツェを確認すると目を大きく見開いて彼女のもとへ駆け寄った。ミアはコンスタンツェを温めるように、だが彼女に触れることを恐れるように、こわごわと彼女を抱き寄せた。コンスタンツェは抱き寄せられながら、だがはっきりと、わたしにも聞こえるくらいはっきりと、こう言った。
「ごめんなさいミア、私、
新大陸へ行くのだ。多くの新しい考えを抱く欧州人がそうしたようにコンスタンツェの家も、また。旧大陸を見捨てるのだ、この栄華のときは尽きた旧大陸を。そしてすべての夢が、力が、現実がある新大陸へと移り住むのだ。
「そう……」
ミアはただそう言っただけだった。自分を、旧大陸に取り残されていく、名もなき人々を守る名もなき墓地の墓守を、見捨てていくコンスタンツェに対して、何の感情もいだかぬように。あるいはあらゆる感情が渦巻いているかのように。ミアはただコンスタンツェを抱き寄せながら、いつもと変わらない感情の見えない顔で、そう、と繰り返しただけだった。
「だから、さよならを言いに来たの。ミアはここに残るんでしょう」
そのコンスタンツェの、幼いが故の、意図せぬ残酷な言葉にミアは体を震わせた。あるいは雨水が体に触れて冷たかっただけかもしれないが。だがたしかに、ミアの顔は少しだけ、ほんの少しだけゆがんだように思われた。
コンスタンツェはミア・ビルケにキスを寄越した。そっと、触れるような口づけを、ミアの恐らく冷え切った頬に。しずかに。ミアはそれを甘んじて受けたように見えた。そしてコンスタンツェは立ち上がり、元来た道の方を向いた。新大陸の方だ。彼女がいくべき輝かしき未来の方だ。
その時だった。
ミア・ビルケが右手にあったシャベルを両手で持ち、コンスタンツェの頭の上で振り上げたのだ。わたしは思わず身を隠していることも忘れて飛び出しそうになった。
だが、ミア・ビルケのシャベルはコンスタンツェの頭の上に降りることはなかった。ミアはそのシャベルを、コンスタンツェの頭のすぐ近くで止め、やがてゆっくりと地面に突き刺した。
だから、コンスタンツェが振り向いたときには、そこにはもう穏やかなミアと、地面に刺さったシャベルがあるだけだった。
「さよなら、ミア」
コンスタンツェは手を振った。
「さよなら、コンスタンツェ」
ミアもまた、手を振った。
わたしはその時の出来事について何かを述べることは出来ない。わたしはミア・ビルケではないし、わたしはコンスタンツェでもない。少女ですらない。だからわたしはその時のことをこうやって有りのまま記すことしかできない。あの最初の世界大戦はこうして世界を旧大陸と新大陸にわけ、そして名もなき少女のつながりを二つに分けてしまったのだった。その事実だけが、重苦しく、雨とともにそこにあった。むせかえるような緑の香りとともにそこにあった。呆けたように、雨の中立ち尽くすミアと共にあった。その事実を、残酷だと、恐ろしいということは出来ない。わたしたちは想像することを許されてはいない。他人の感情を、他人の関係を想像することは許されていない。
ミア・ビルケはただシャベルを振り上げただけかもしれない。
そんなはずがない、と言うことも許されてはいない。わたしたちは常に、わたしたち以外の感情を想像することしかできない。雨の日に、その墓地で、その教会の前にあった墓地で、一人の少女がもう一人の少女の頭の上にシャベルを振り上げた。それだけだ。旧大陸で起きた、小さな出来事。新大陸には持ってゆけない、小さな出来事。
さあこの物語はここで終わりだ。続きは、他の物語は……疲れてしまったから、しばしの後に記すことにしよう。私にはまだ少し、時間が残されているから。旧大陸にはまだ、たくさんの物語が埋まっているから。ああ、雨が降ってきたな。
1945.12.5(水曜日)
ロバート・ヘイスティングズ
〈愛も名前も 了〉
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