この真白い世界すら

〈殺伐感情戦線 第16回【嘘】〉


 白い吐息が交わる。

 私は、目をとじる。

 あの子は、嗤った。


    +++++

 

 ナシ湖とピュハ湖がほんとうはひとつに繋がっているということを分かっている人は、大人でもあんまりいない。水のみちた穴ぼこだらけのフィンランドがほんとうはどんな形をしているのか、本当に分かっている人は、大人でもあんまりいない。本当は知っているんだ、本当は。でもそれは「知っている」だけで、本当に「分かって」はいないのだ。ボスニア湾やバルト海、ノルウェー海の向こうにばかり気をとられて、私たちの中で何が起きているのかを本当に分かっている人は、大人でもあんまりいない。目の前の地面、目の前の建物、目の前の水。私たちは世界を知っているつもりで、結局目の前のことばかりだ。あの山の向こうにもっと向こうがあることなんて当たり前なのに、その当たり前を私たちはいつだって忘れていく。

 私だって、そう。目の前の吹雪が、私のすべて。

「ヴェルナ」

 背後の気配に声をかける。暖炉のぱちぱちという音や、向こうの居間から聞こえる大人たちの声のなかでも、私はあの子のルームシューズの音を聞き逃したりはしない。彼女の着るワンピースの衣擦れの音を聞き逃したりはしない。背後の気配——ヴェルナ・レフティマキ――は、私が気付いたことにもいつものように驚くこと無く、目の前のいつもよりずいぶんと酷い吹雪にも驚くことなく、しずかに近づいてくる。微笑んで、感情があるのかは分からないけれど、しずかに微笑んで。

「リューディアお嬢さま、お母さまが呼んでらっしゃいますよ」

 ん、と答えて、振り向く。

 ブルネットの髪を肩くらいで切り揃えた長身の少女がそこにいる。手脚もすらりと長く、指先までひとすじの糸を通したように美しく伸びている。質素なワンピースにシンプルなエプロンドレスを重ねただけの姿で、私と同じ年齢なのに、その佇まいはふわりと香るような色気がある。ヴェルナ・レフティマキ。私たち、ユリリエスト家のメイド。

「クリスマス・イヴにも外を見ているんですか」

 こんなに暖かい家があるのに、と言うようにヴェルナは私の部屋を見渡して嗤う。もっと広い世界を見たくて、もっと広い世界を知りたくて。でもきっとどこに行っても私は目に映る全てしか認識しつづけることはできない。瞬間瞬間、私たちは目の前にあるものにしか目を向けられない。私たちの目は二つしかないから。

「こんなに世界は広いって本には書いてあるのに私たちはその1万分の1も知ることはできない、それってすごく嫌だなって思って」

 そんな私の答えをくすくすと笑って、続ける。

「全部を見ようとするからですよ。私たちは何も知りつくすことは出来ないんですから」

 ヴェルナは色々なことを諦めていて、だからきっと私より何倍も大人っぽい。ほら速く、どうでもいいからお母さまのところに行って差し上げてくださいよ、と急かす声も、ずっとずっと大人っぽい。

「ねえヴェルナ」

 半分だけ開いた扉に手をかけながら私は振り向かずに声をかける。ヴェルナの動く気配がふっと止まる。

「いつか世界を見に行こうね」

 二人で本を読むだけじゃなくって。二人で本物の世界を見に行きたい。

 いいですよ、とヴェルナの息だけの声が聞こえた。

 

 私がこんなに「広い世界」を知りたくてたまらないのは多分、19世紀の冒険小説家ばかり読んでいるからだと思う。お祖父さまの趣味で、我が家の本棚にはジュール・ヴェルヌだとか、マーク・トウェインばかりが詰まっていた。書斎いっぱいに広がる最先端の知識と、世界中の夢が我が家には満ちていた。

「ヴェルヌって、ヴェルナに似てると思わない?」

 クリスマス・イヴの今晩も私はジュール・ヴェルヌの「神秘の島」の上巻を開いていた。ヴェルナに髪をといてもらいながら。

「さあ、私なんかが似ていていいような人じゃないでしょう」

「もう、そうじゃなくってさ……」

 ヴェルナは淡々と私の髪をときつづける。ヴェルナとは正反対で、ほとんど銀にちかいような私の金髪。大人たちは今も階下でお酒を手に笑いあっている。この世界がどんなふうになっているかも分からないままで。私にはヴェルナしかいない。この吹雪に閉ざされた屋敷で、この世界の隅っこの私の話を聞いてくれるのはヴェルナだけだった。

「私はいつか」

「世界を見たい。世界を見て、世界を認識して、世界を知りたい。でしょ?」

 ヴェルナは私がいつも言っている言葉を拾ってまたくすくすと笑う。私もそれにつられてくすくすと笑う。閉じた世界の、閉じた国の、閉じた屋敷。バルト海の向こうなんて知らないまま、この国で儲けて大きな顔をしている大人たち。ほんとうに退屈で、ほんとうに嫌いだった。だからヴェルナ・レフティマキだけが分かってくれる。

「ヴェルナだけが分かってくれてる」

「私はいつだってリューディアお嬢さまの味方ですから」

 そう、ヴェルナだけが私の味方だった。この家に、この国に、この国を支配するロシア帝国に、この世界に反抗したい私の味方だった。

「ねえヴェルナ」「いつか世界を見に行こうね、ですよね」

 ため息をついてから、ヴェルナに反論する。

「もうヴェルナったら、すぐ私の言いたいことを言ってしまうんだから」

「お嬢さまの言うことがいつも同じすぎるんですよ」

「酷いわね……私が馬鹿みたいじゃない」

「違います。馬鹿はそんなこと言いません」

 ヴェルナの優しい声が背後から聞こえて、私はずっとこの時間だけが続けばいいのにと思う。私は声を少しだけ固くして言う。アヘン戦争、アメリカ南北戦争、日露戦争、世界大戦。この世界が少しずつ動き始めているのを、子供の私も気付いている。大人たちがその話題で持ちきりだから。

「ねえヴェルナ」

 ヴェルナも何かを感じたのか、そっと私の髪から櫛をはずす。

「何があっても、一緒に世界を見に行こうね」

 何度でも確かめる。何度でも。私とヴェルナをつなぐ糸は脆く、切れやすいことに、私もヴェルナも気付いているから。私たちはただの資産家の一人娘とメイドだ。

「いいですよ」

 ヴェルナも今度は息だけじゃなくて、はっきりと声に出して応えた。


    +++++

 

  ボスニア湾やバルト海、ノルウェー海の向こうにばかり気をとられて、私たちの中で何が起きているのかを本当に分かっている人は、大人でもあんまりいない。小さな私たちは、小さなバルト海の向こうすら分からない。

 大きなロシアのことなんて、なおさら。

 あの1914年のクリスマス・イヴから3年、ロシア革命という名前は、私たちフィンランド人にもすぐに伝わってきた。第一次世界大戦の煽りを受けて1917年ロシア革命が起こると、フィンランド議会はこれを好機として1917年12月6日にロシア帝国からの独立を宣言して1809年から続くフィンランド大公国を潰しフィンランド王国を樹立したからだった。私たちは落ち着いた心で待降節アドヴェントを迎えることなんてさっぱりできなくて、独立に沸き立つ国の中に突然放り出された。世界大戦の時だって無関心を装い続けてきたフィンランドがロシアで帝政が倒れたというだけで大変な盛り上がり様だった。大人たちはずっと議会を褒め称えて飲めや歌えの大騒ぎ。まだソヴィエト政府が独立を認めたわけでもないのに、と呆れる人はどこにもいなかったし、そんなことを言える空気ではなかった。私たちはクリスマス・イヴまで毎日クリスマスのような騒がしさの中にいた。

「リューディアお嬢さま、また外を見ているんですか」

  ん、と答えて、振り向く。

 ブルネットの髪を肩より長く伸ばしてゆるやかに纏めた長身の女性がそこにいる。手脚もすらりと長く、指先までひとすじの糸を通したように美しく伸びている。質素なワンピースにシンプルなエプロンドレスを重ねただけの姿だけれどもう確立された美しさがそこにある。ヴェルナ。私もあの子も、もう20歳になってしまった。

「だって、議会はずっと右派や左派やで揉めていて、それなのに独立にこんなに大騒ぎして。毎日政治の議論かと思えば独立を称えて歌いだしたりして。馬鹿みたい」

 今年のクリスマス・イヴも3年前と変わらない大吹雪だった。室外気温計はマイナス5℃を差している。暖炉のぱちぱちという音も、大人たちが居間で騒ぐ声も、同じ。ヴェルナは何も言わない。何も言わないで、私がクリスマスパーティーに参加したくないということを知っていて、後ろで待っていてくれる。

「ソヴィエト政府はフィンランドの独立をきっと許可するでしょう。民族自決の方針をとっているから。そしてフィンランドがぐちゃぐちゃになるのは時間の問題よ」

 地主や資産家が支える右派と、小作農や労働者階級たちが支持する左派が仲良くできるわけがない。自作農や資産家階級の人々は自らの財産を守るべく白衛軍を組織した。小作農や労働者達は革命を目指して赤衛軍を組織した。そしてロシア革命なんていう面倒なものが起きてしまったせいで、きっと社会主義勢力は、左派は、ますます力を強めていくはずだ。両者の対立が高まる中、1917年10月に左派勢力は議会における絶対多数を失い、政府は赤軍の国外追放を決議してしまった。1917年11月にはゼネラル・ストライキが発生し、両派の対立は決定的なものとなった。そうしたら、

「そうしたら、ヴェルナはどうなるの」

 ヴェルナが言葉を発さないのはそのせいだ。きっとヴェルナも、小作農家のレフティマキ家の生まれであるヴェルナも、この時代の荒波に逆らうことは出来ない。資産家階級である私たちユリリエスト家のそばに居続けることは出来ない。ヴェルナの父親も、赤軍に所属していると聞いた。

「……家に、戻るようにと言われました」

 ヴェルナは感情を押し殺したような声を絞り出す。そうでしょうね、と私も振り向かずに呟く。私たちは一緒に世界を見に行くことなんてできないのだ。私たちは子供だったから、私とヴェルナを繋ぐ糸は脆くて切れやすいことは知っていても、ほんとうに切れるということは分かっていなかった。目の前にいる、ずっとそこにいるヴェルナのことしか考えていなかった。

 わははは、と階下から大人たちの笑い声が響く。何がそんなに可笑しいのだろう。こんなにいつ壊れるか分からない世界で、どうして笑っていられるのだろう。資産家階級の地位はもう全く安全なものではないというのに。小作農たちの地位はもう全く虐げられるべきものではないというのに。ロシア帝国からの自由が何を意味するのか、本当に分かっている人は、大人でもいない。

「いつ?」

 私は一切の無駄な言葉を排除して、短く問う。明後日です、とヴェルナもそれだけを応える。そうなの、そう、そうでしょうね、と私も頷くことしかしない。振り向けばすぐに触れることのできる場所にいるこの子を、私は明後日には失っていく。目の前のものしか信じることが出来ない馬鹿な私たちだから、目の前のものに全てを注いでしまう。私は世界の全てを見たいなんて言っておきながら、いつのまにか私のすべてはヴェルナになってしまっていた。ヴェルナは世界の話を聞いてくれる友人のような存在だったのに、世界の話を吸い込んだヴェルヌは、私のてのひらにおさまる世界そのものになってしまっていた。

 結局私たちはそういうことなんだ。ナシ湖とピュハ湖がほんとうはひとつに繋がっているということを分かっている人は、大人でもあんまりいない。水のみちた穴ぼこだらけのフィンランドがほんとうはどんな形をしているのか、本当に分かっている人は、大人でもあんまりいない。目の前だけ。目の前、だけ。

「ねえヴェルナ」

 背後の気配は何も答えない。私が次に何を言うかが分からないのだろう。こんなぐちゃぐちゃになりかけた世界で、私がもう繋がることのできないヴェルナに何を言うかが。

「この混乱がすべて終わったら、いつか、一緒に世界を見に行ってくれる?」

 それでも私は夢を見てしまうのだ。いつかジュール・ヴェルヌの小説のように、マーク・トウェイの小説のように、世界を駆けてみたい。世界を駆けて、世界を一つにしたい。リューディア・ユリリエストは、もっと広い世界を見ていたい。

 私はそこでようやく振り向く。

 ヴェルナ・レフティマキは笑っている。

 笑いながら、泣いている。

「ほんっとに、最後の最後まで、お嬢さまは馬鹿みたい」

 そうやって笑って、泣いて、目元をワンピースの袖でぐいぐい、と拭いてから、ヴェルナは大きく口角をあげて、言った。

「いいですよ」


    +++++

 

 年が明けた。

 1918年1月12日、議会は強い権限を持つ警察を組織することを決議。1月15日、元ロシア帝国軍将校、カール・グスタフ・マンネルハイムが白衛軍の司令官に任命。赤衛軍の司令官にはアリ・アールトネンが就任。1月19日、初めの戦いがカレリアで勃発した。1月26日に赤衛軍は革命の声明を発表。1月27日あるいは1月28日、ヘルシンキにおいて赤衛軍が革命の発生を知らせるべく塔に登り赤いランタンで照らし、開戦。フィンランド議会はヘルシンキを脱出して臨時首都ヴァーサへ移動。

 フィンランド内戦は、始まる。

「畜生! 今日も赤軍の圧勝だと! まったくドイツ帝国は何をやっておるのだ!」

 お父さまは新聞をソファに叩きつけてからドッカと腰かける。お母さまもそれをなだめるように珈琲を差し出しながらも、苛立ちを隠せないように新聞の方をちらちらと見やる。

「地主と資産家階級の白衛軍が小作農上がりの赤衛軍に負けるなど、そんな馬鹿な話があるか!? 何処の国でも聞いたことが無いぞ!」

 赤衛軍の練度は低く将校は能力不足で、兵士はそもそも軍人ではなく武器を持った民間人でしかなかったし、軍の規律はひどく乱れていて緒戦の有利な勢いを生かすことは出来ず、戦果も小さかった。それでもヘルシンキを赤衛軍に制圧されてからというもの、白衛軍は敗戦に敗戦を重ねてもう戻れない場所にまで来てしまっていた。白衛軍のマンネルヘイム将軍は、内戦に勝利するため、ドイツの武器援助は必要と考えていたが、ドイツ軍の直接介入には反対して、ドイツ帝国軍は援軍を出せないまま一月が経ち、二月が経つのも時間の問題だった。このままでは、フィンランドは社会主義国になってしまう。誰もが平等な理想社会をかなえられてしまう。それは地主と資産家階級にとっては大問題だった。

 あれほどフィンランド王国の樹立に盛り上がっていたのはいつのことだっただろう、というくらいに、毎日毎日すべてがチェロの弦のように張り詰めていた。

 ヴェルナはどうしているだろう。

 赤衛軍が私たちの屋敷に近づいてくるたびに、ひりつく屋敷の空気とは裏腹に私はほんのささやかな期待をしてしまっていた。ヴェルナに会えるんじゃないかって。そんなこと絶対にありえないのに、いつかヴェルナにまた会えるんじゃないかって。

 それでも私は絶対にそんなことは口にしない。そんなことをすれば、ほんとうにもう二度と会えなくなることが分かっているから。

「お父さま、きっともうすぐにドイツ帝国軍は動きますよ」

 私はお父さまの足元にかがみこみ、その皺だらけの手を包み込みながら笑いかける。ヴェルナがいるかもしれない赤衛軍のことを思い出しながら、出来る限り声に憎しみを込めて言う。学校で習った、マルクス、レーニンという人のことを。彼らの生み出した社会主義というものを。私とヴェルナを分かつことになるそれを。

「レーニンの援軍もきっと失敗します。私には分かりますわ」

 お父さまは私の、もうヴェルナには梳いてもらえないこの髪を撫ぜていく。微笑んで、優しい目つきで見下ろしながら。

「賢いリューディアが言うならきっとそうだな」

 大人たちは何も分かっていない。

 私とヴェルナのことも、私にはヴェルナしかいなかったということも、私たちの仲の良さだって見えていたはずなのに、分かっていない。目の前にある、赤衛軍のことだけで頭がいっぱいなのだ。

「ねえヴェルナ」

 口の中だけでつぶやく。

「ねえヴェルナ、どこにいるの」


    +++++

 

 爆発音で、その日は始まった。

 1918年4月6日、忘れもしない。

 フィンランド白衛軍はすでに2月14日にドイツ帝国に対して救援を依頼し、ドイツ帝国は1個師団を派遣。フィンランドのバルト海沿岸都市にはドイツ海軍の戦艦2隻が赤衛軍へ砲撃を行った。そして白衛軍は3月15日に反撃を開始する。それまで赤衛軍がにぎっていた戦争の主導権を奪ったのだった。

 つまり、白衛軍が、勝っている。そんな最中だった。

「起きなさい、リューディア!」

 お母さまの必死な声と、その後に続く爆発音で私の意識は完全に覚醒した。まだ朝夕はかなり肌寒い4月の初旬。息はほんの少し白く、鼻先はきんと冷えていた。

「どうしたのです?」

 ルームウェアをドレスに着替えながら尋ねると、お父さまもお母さまも慌てた表情で荷物を詰め込んでいる最中だった。お金に服、すこしの食べ物、薬。必要最低限のものだけを詰めているらしいその姿に私は困惑した。さっきの爆発音はいったい何?

「リューディア、すぐにこの街を出る準備をしなさい。白衛軍がタンペレに侵入して赤衛軍とほとんど最後になるだろう闘いを行う。タンペレと、首都ヘルシンキ。それで、終わりだSiinä kaikki.

 戦争が、終わる。

 あとこの戦いで、戦争が、終わる。

 私たちの住むタンペレの街に白衛軍がやってきた。タンペレは、フィンランド共和国ピルカンマー県の都市で、スウェーデン語ではタンメルフォシュ。フィンランドで一番重要な工業都市。そこに、白衛軍が来た。もう大丈夫。もう、戦争は終わる。

 私は慌てて部屋に戻り、大きな旅行鞄を取り出して中に服と、クロゼットに入れていた乾パンと、本を一冊入れる。マーク・トウェイン「トム・ソーヤの冒険」を。そうしてこの屋敷から出るという事に、この戦いが終わるという事に、私はどこまでも興奮しているのだという事に気付いていた。鞄の蓋を膝で押しながらとじ、しっかりと握りこむ。

 生きて、逃げなくては。

 生きて、逃げて、またヴェルナに会いに行こう。

 そうして、戦争が終わったら、世界を見に行こう。

 帽子をかぶり、あごの下でリボンを結んでいきながら決心する。すこし急いで、でも丁寧に。ドレスの紐も丁寧にむすんで、お父さまやお母さまがむかった居間へと駆け下りていく。二人とも、持てる限りの荷物を持って、玄関で不安そうに立っていた。

「ああリューディア、大丈夫だよ、逃げるだけだ。赤衛軍のいないところに、もっと静かな場所に逃げるだけだからね」

 お父さまはまるで自分に言い聞かせるかのように震えた声で言う。私はまたそっとお父さまの手を包み込む。

「そうですわ。生きて、逃げましょう」

 お父さまは私の落ち着いた姿にすこし驚きながらも、リューディアは強いな、と笑ってみせた。お母さまも笑ったお父さまを見て、微笑んだ。そう、私たちは生きなくてはならない。こんな狭苦しい国のなかで命を終えるわけにはいかないから。私たちはもっと、もっと遠くへいかなくてはならない。私たち3人は、手を取り合って、玄関を飛び出す。

 タンペレの街はすっかりボロボロになっていた。あちこちから銃声と爆発音が聞こえる。日の光が照らす中、武器を持ったたくさんの人々が駆けまわっている。知っていたより、ずっと、激しい。戦争なのだと、これはれっきとした戦争なのだという事を身に染みて理解する。お父さまの「こっちだ!」という小声に応えて私とお母さまは裏路地に逃げ込む。タンペレ大聖堂の裏側の、小さな路地。

「いいな、タンペレを抜け出して、ポリを目指す。そしてそこからは鉄道で臨時首都ヴァーサまで一瞬だ。ポリ市まで、耐えてくれよ」


 その瞬間。

 耳をつんざくような爆発音がして。

 壁が、崩れ落ちる。

 

 地面に伏した自分のてのひらを見て生きていることを確認すると、私は慌ててたちあがった。

(お父さま、お母さまはどこ……?)

 瓦礫まみれになった裏路地に、二人の姿が見えない。喉が締め付けられるような思いがした。ひゅっと情けない声が漏れる。いつも守ってくれている存在がいないだけで私はこんなに弱いのだと、弱い存在でしかないのだと見せつけられている気がする。誰が世界を見に行こう、よ。誰がこんな狭い世界しか見えない、よ。そんな狭い世界でしか生きていけない軟弱のくせに。そう言われている気がして、それでも息がつまっていくのはどうしても避けられなかった。

 そして、二度目の爆発音。

 私は、また勢いよく地に伏せる。それでも今度の爆発はすこし遠かったみたいで、壁が崩れてくるようなことはなかった。

 なかったのに。


「動かないで下さい」


 背後から氷のように冷たい声に射抜かれた。ぎり、ぎり、と音がしそうな速度で振り向くと、首元に銃剣がある。銃剣に、私のほほが映っている。そして、私は気付く。ブルネットの髪は短く切られ、服はメイドのそれではなくボロボロで、顔は傷と汚れだらけになっていたけれど。それでも、私は気付く。


「ヴェルナ?」


 顔をあげた先で、赤衛軍の服を着て銃剣を伸ばしているのは。

 ヴェルナ・レフティマキ。

 その人だった。


 彼女はそっと目を逸らし、私に銃剣を向けたまま、しずかに繰り返す。

「動かないで下さい」

 あなたを、殺さなくてはならないから。

 

 私は、ほんとうに馬鹿だった。

 目の前にいない物ばかりを見て、目の前にないものばかりを夢見て、目の前にもういないヴェルナの夢を見ていた。ジュール・ヴェルヌやマーク・トウェインの描いた空想の世界にばかり浸っていて、本当の世界をみようとしてこなかった。広い世界を知らない大人たちを馬鹿にして、一番知らないのは私だった。この世界の仕組みを。この世界の理不尽さを。この世界の残酷さを。

 ヴェルナは赤衛軍の父に呼び戻れたというのに。

 ヴェルナは小作農の出だというのに。

 私とヴェルナの糸は、脆くて切れやすいと知っていたのに。

 分かっていなかった。目の前にあるものすら。

「そう……よね」

 ヴェルナは何の感情もないあのいつも通りの表情で、私に銃剣を向けていた。もう負けそうな赤衛軍の残党として。もう勝ち目のない戦いの中で、最後の最後まで地主や資産家階級を憎みつくす軍隊の残党として。

「そうだったわ」

 気付くのが、遅すぎた。

 私は、ほんとうに馬鹿だった。

 ヴェルナの、嘘つき。


 白い吐息が交わる。

 私は、目をとじる。

 あの子は、嗤った。


 銃声が響いて、微笑んだまま。

 は死んでいた。


「リューディア! リューディア! 大丈夫か!」

 お父さまの声が後ろから聞こえて、全てを知る。お父さまが横に並んで、その手に拳銃があったことで、全てを分かる。痛みは無い。私は無傷で、私は生きていて。

 ヴェルナは胸に大きな穴を開けて、ヴェルナは死んでいて。

 私は、ほんとうに馬鹿。

 私たちは、ほんとうに馬鹿。

 嘘つきはヴェルナじゃない、私だ。私たちは交われなくて、私たちは全然別の生まれ育ちで、交わったこの十数年がきっとただの奇跡。この真白い世界すら、このフィンランドすら、ほんとうには分かっていなかった。吹雪の向こう側ばかりを見ていて、吹雪のこちら側にある物を知らなかった。暖かい家の中にあった少しのずれを、私は知らなかった。知っていたのに、分からなかった。知っていたのに、知らないふりをしていた。ナシ湖とピュハ湖はほんとうは繋がっていることなんて、水のみちた穴ぼこだらけのフィンランドがほんとうはどんな形をしているのかなんて、本当はどうだっていいんだ。だから大人たちはそんなことを知っていても分かっていなくて、目の前にあるもっと大切な物を守るために騒いでいて。それが馬鹿らしいと思っていたのは、子供の私だけ。きっとヴェルナも気付いていて、でも優しくて、嘘をついていてくれたのだ。世界を見に行こうなんて、ほんとうは無理だと知っていながら、分かっていなかった。ヴェルナはそれを知っていて、でもきっとほんとうに私を喜ばせたくて、いいですよ、と言い続けたんだ。それも知っていて、でも知らないふりをしていた。ヴェルナはどこまでも優しくて、私だけがどこまでも愚かで、残酷で、最低だった。

 知っていて、知らないふりをしていた。

 嘘つきは、私。

 私があんなことを言わなかったら、ヴェルナは迷うことなく引き金を引けただろうか? 私の首を掻き切ることができただろうか? そんなことはもう分からない。終わってしまったから。もう私たちは、目の前にいることすらできないから。ヴェルナはもう二度と、私と世界を見ることは出来ないから。

 もう、世界を見ることが出来ない瞳は、黒く、黒く、そこにあった。

 ヴェルナ・レフティマキの瞳は、もう光らない。


 私はしずかに、ヴェルナのまぶたを閉じてあげた。






〈この真白い世界すら 了〉



 


 参考文献

石野裕子「物語 フィンランドの歴史 - 北欧先進国『バルト海の乙女』の800年」

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