あなたのおうちはどこですか

〈殺伐感情戦線 第7回【砂】〉


 おうちに帰りたい。

 それだけだった。ただそれだけ。

 私の願い事はそれだけだったのに。


                  


 アルゼンチンはアメリカ合衆国の南、ブラジルのもっと南。チリとボリビア、パラグアイ、ウルグアイに囲まれた南北に長い国。プライマリースクールの時に社会科で教わった。皆さんの住んでいるアルゼンチンという国は、とても不思議で素晴らしい国です、って。嘘だ。世界で8位の大きさだけど、そのほとんどが砂漠。人口は世界で32番目に多いけれど、そのほとんどが首都のブエノスアイレス自治市に集まっていて、他はほとんど何キロにも渡って人に会わない事だってある。

 アルゼンチンは素晴らしい国だって、大人はみんなそう言う。

 アルゼンチンは素晴らしい国だって、私はそうは思わない。

 でもそのことを言っちゃ駄目だって、それだけはなぜか、分かる。

「義姉さん、起きて」

 ほの明るい空に、途切れることのない砂漠、潮風のにおい。

 暗い部屋に、途切れてばかりの狭い部屋、カビのにおい。

 いつも同じ景色とにおいと音。変わらない毎日。ぐちゃぐちゃになってしまったはずの私の生活はこんなにも静か。

「義姉さん起きてってば、ねぇ、もうオートミールが無いんだって」

「……もう?」

 半分眠りかけたまま義姉さんは手を伸ばしてラジオのスイッチを入れる。のそのそと大きな動物のような動きでベッドの上に一度丸まり、ゆっくりと体を起こしていく。

「何時?」

「8時」

 そう、と呟いて義姉さんはぼさぼさのブロンドをわしわしと手指で梳いていく。私が食べ終わった食器を洗って拭いている間、となりで顔をあらう。真っ白なきめ細かい肌にじゃばじゃばと水をかけて。アルゼンチンはほとんどが砂漠だけれど、案外湖や川も多くて水には困らない。飲めないことはないっていうくらいの綺麗さで、断水もよくあることだけど、それでも生きていくには十分ある。

 私と義姉さん、ふたりきりなら、当然。

「オートミール、もう無くなっちゃったのね」

 やっと意識が目を覚ましたように義姉さんはもう一度そう言って、肩をすくめながら私が置いておいた空のオートミールの袋を縛った。食べるものにもぜんぜん困っていない、今のところ。

「マーケットに行く?」

 私はちょっとだけ期待して義姉さんに訊いてみた。義姉さんはちょっとだけ難しい顔をした後に小さな声でを口にした。

「何があっても帽子を脱がない?」「うん」

「私から離れたりしない?」「もちろん」

「勝手なことをしない?」「分かってる」

「誰かに話しかけられても我慢できる?」「うん」

 私のいつも通りの返事にも少し安心するのだろう、義姉さんはゆっくりと頷いてから、じゃあ行きましょうか、と呟いた。

 ほんの時々だけ私たちに許された外出。ほんの時々だけの自由な時間。マーケットでオートミールや牛乳、洗剤を買う時だけが、私にとってのご褒美だった。

「ノエリア、こっちにおいで」

 意気揚々と出かける準備をする私に、義姉さんは声をかける。白いTシャツにホットパンツのオーバーオールを着た私はベッドに腰かける義姉さんのところに行った。

 義姉さんは私の栗毛を櫛で梳きはじめる。

 これも、大好きな時間。とても静かなここでの生活には慣れているのに、これだけは変わらず大好きだった。

「ノエリアの髪は綺麗だね」

「義姉さんの髪だって」

 いつもと同じ会話をなぞって、ふふ、と私たちは笑う。

 血のつながりのない義姉さん。

 ミステリアスで、しっかりもので、美人の義姉さん。

 ミレーラ・デルバルジェ。私の義姉さん。

 義姉さんとのここでの生活が始まったのは、もう5年も前のこと。


 1976年。

 私はまだ8歳だった。あのとき私はブエノスアイレス自治市に住んでいて、沢山の建物に囲まれたごちゃごちゃとしたところに住んでいた。今とは大違いの場所。歩くだけで人とぶつかってしまいそうなブエノスアイレスは、あんまり好きじゃなかったけど、家の近くにあったドーナツ屋さんだけは大好きでよく行ったのを覚えている。ブエノスアイレスではお父さんと、お母さんと、歳の離れたウィルフレド兄さんと、犬のチュイと一緒に暮らしていた。結構お金持ちだったって義姉さんは言ってた。本当かは知らない。8歳のことって覚えていそうで、案外色々忘れている。

 なんだかこの国、おかしいな、と思ったのもあの頃だった。

 周りが物凄く騒がしくて、お父さんもお母さんもざわざわしていた。兄さんもちょっと落ち着かないみたいだった。ラジオは毎日何かを騒ぎ立てていて、私はそのせいで気が気じゃなかった。プライマリースクールで友達と遊ぶのは大好きだったけど、突然授業に軍人さんがやってきたりして、吃驚したのは今でも覚えている。

「みんなどうしたの?」

 私は訊いたんだった。

「みんなどうしちゃったの?」

「心配しなくていい」

 お父さんは私をぎゅっと抱き寄せながら、そう言った。

「ノエリアはまだ小さいだろう? これはとても難しい話なんだ、大きくなったら説明してやる。だからノエリアはプライマリースクールでお友達と仲良く遊んでおいで」

 私はお父さんの腕の中で大きく頷いた。

 でも大きくなったのに誰も説明してくれなかった。

 お父さんも、お母さんも、兄さんも、チュイもいなくなっちゃった。

 ブエノスアイレス自治市にあった家。空っぽになったあの家に残ったのは、兄さんの婚約者だったミレーラ義姉さんと、私だけだった。

 今では私は色んなことを知っている。ラジオで聞こえてくるから。

 1976年3月26日に軍事評議会がクーデターを起こしたこと。軍の推薦によりホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍が大統領に就任したこと。アルゼンチンにも再び軍事政権が樹立されたこと。軍政時代、っていうのが始まったということ。そして、その大統領が怖くて自分勝手な人だったということ。私のお父さんもお母さんも兄さんも、たぶん、その大統領に反対したせいで――義姉さんは、「反体制派だったからだ」って言ってた――もうこの世にはいないかもしれないということ。

 私は13歳。

 もう色んなことを知っている。

 誰も、私に何も、教えてはくれなかったけど。


 マーケットには歩いて40分くらい。私と義姉さんは二人で並んで、手は繋がずに、ちょっとだけ距離を開けて歩く。なんでかは分からないけど、いつもこうやって歩くのが二人の決まりだった。まだ義姉さんも私も、慣れていないのかもしれない。血のつながっていない私たちは、少しずつ、本当に少しずつ色んなことのために力を合わせることを覚えたけれど。やっぱり家族には思えなかった。ある日突然取り残された二人という共通点だけが、私たちを繋いでいたんだと思う。大事な人がいなくなって、ある日突然繋がった私と、義姉さん。

「ねえ」

 もう少しでマーケット、というところで義姉さんは立ち止まった。

「ノエリア。アイスクリーム、食べない?」

 義姉さんは、ちら、と真っ白な歯を覗かせて笑った。私もつられて笑う。義姉さんは私とどうやって繋がっていればいいのか分からないんだ、というのも、誰にも教わっていないけど、私はもう分かる。繋がっていないと私たちは多分、生きられない。あらゆるものを失ってしまったから。

「いいね」

 だから私も繋がっておく。義姉さんのちょっと安心したみたいな顔が、面白い。

「何を笑ってるのよ」

 義姉さんはちょっと頬を膨らませて私の方を睨む。だって義姉さんがアイスクリーム食べたいだけでしょ、と私も、ほんの少しの嘘を混ぜ込む。

「何味を食べるの?」

「チョコミント」

「義姉さん、チョコミント、好きだね」

「甘くてさっぱりしていて大好き。ノエリアは?」

「どうしよう。レモン・シャーベットかな」

「いいね」

 私の口調を真似てからまた、義姉さんは笑う。砂ぼこりのせいで真昼でもほの明るいだけの空。延々と続く砂漠。チョコミント・アイスクリーム。レモン・シャーベット。軍から逃げている生活だなんて、きっと誰も思わない。

 マーケットのすぐ近くにあるアイスクリームショップでは義姉さんが私のぶんも注文してくれて、二人で外のベンチにならんで食べた。舌の上でレモンが冷たい。義姉さんが私のレモン・シャーベットにスプーンをつっこんで、私があ、という間に口に含んでしまった。

「酷い!」

「レモン・シャーベットも美味しいね」

 ほら、と義姉さんは自分のチョコミント・アイスクリームを差し出してくれる。私はそれをチョコとミントの割合がちょうど良くなるようにそっと掬って、食べる。

「チョコミントもイケてる」

 でしょ、と義姉さんは笑う。義姉さんは残りのアイスクリームが融けてしまう前に食べてしまうと、コーンが収まっていた紙をくしゃくしゃに丸めた。何だかリスみたいだ。ブロンドの髪と、茶色の瞳。義姉さん。

 義姉妹って不思議な言葉だと思う。

 他人なのに、何の関わりも無い筈だった人なのに、兄弟が選んだというそれだけの理由で、突然あらわれるもの。私が小さいときにはいなくって、突然現れた義姉さん。継母だとか、そういうのならもっと大きな何かを抱えている感じがして、もっと向き合っていける気がするけど、義姉はそうはいかない。

 どうしたって他人だ。そして、どうしたって姉妹だ。

 義、の一文字につまった意味の重さにめまいがしてしまうんだと思う。私は義姉さんと同じようにコーンが収まっていた紙をくしゃくしゃに丸めながら、義姉さんの綺麗な横顔をじっと見ていた。

「どうかした?」

 義姉さんはそっとこっちを向いて笑う。

 ううん、何でもないよ。

 義姉さんに何度、この言葉を言ったっけ。


 冷たい空気の流れているマーケットの中に滑り込んで、私たちは買い物かごをとる。義姉さんは何も言わずに私の手をきゅ、と握って、その細い手でしっかりと私の小さな手を包み込もうとしていた。私も義姉さんの手をつかむ。都市からは随分離れたマーケットだから、人はいない。それでも私たちは繋がっていなくてはならない。

 牛乳売り場まで来たときに、義姉さんの手の力がぎゅっと強くなる。私はとても自然にオートミールの袋を取りに行きながら入り口のほうを見る。

 アルゼンチン軍。

 いつも彼らは見回りにくる。ありとあらゆる人が集まる場所に彼らは探しに来る。彼らはずっと探している。ずっと、ずっと、探している。

 私たちは出来る限り堂々と、出来る限り胸を張って、必要な物だけを集めていった。オートミール。牛乳。フルーツ。ミネラルウォーター。炭酸水。缶詰のお肉。義姉さんが決めた道順で私たちは無駄なく、突き進んでいく。

 彼らは探している。

 彼らに楯突く者たちを。

 彼らに楯突いた者たちを。

 彼らに楯突いた者たちの親族を。

 だから私たちは逃げ続けている。だから私たちは繋がっていなくてはならない。だから、私たちは、たった二人で。


「おい、そこの二人」


 終わった、と思った。

 もう終わり。

 逃げる生活も。全部。


「なんでしょうか」

 弾けて無くなってしまいそうな心臓を抱えて立っている私の隣で、義姉さんがずっと胸を張って立っていた。顔をあげて。「なんでしょう」

 私は、もう駄目だと思った。義姉さんの言葉を思い出す。何があっても帽子を脱がない? 私から離れたりしない? 勝手なことをしない? 誰かに話しかけられても我慢できる?

 じっと、義姉さんと軍人さんは見つめ合っていた。私は、ただ見ていることしかできない。もう駄目。そんなことしか、考えられない。義姉さんが私を守ろうとしているのに、私はずっと俯いていることしかできない。

 緊張が肌を走る。


「いや、見間違えたようだ、失礼した」

「いえ、ビデラ大統領に栄光がありますように」

「結構。それでは良い午後を」



 それで、たぶん、このとき。

 私はもう限界だったんだと思う。



 マーケットを出てから家に着くまで、私たちは一言も話さなかった。それどころか、家に帰ってからも一言も話さなかった。二人とも無言で昼食を終えて、無言でそれぞれの机に向って、無言で何かをしていた。私はあの日、二人っきりになった日から一度もいっていない、もう二度と行けない学校の予習をする。本当ならハイスクールに行っているころだけど、私はここで、この場所で、義姉さんと居続ける。


 これから、一生だ。きっと。


 私は何もかもを失って、家族も、学校も、友人も、自由も失って、私は義姉さんと暮らし続ける。何も知らない義姉さんと。血のつながっていない義姉さんと。

 義姉さんと私は結局、寝る直前まで一言も口を利かなかった。どちらかがそういったわけじゃない。私だって別に話したくない、という空気を作ったわけじゃない。

 そしてその空気を先に壊したのは、やっぱり、ミレーラ義姉さんだった。

「ねえ、ノエリア」

 二人でベッドに背中合わせに腰かけたとき、義姉さんは口を開いた。

「…………何」

 何だろう、何を言われるんだろう、そう思ったら、声が硬くなってしまう。

 でも義姉さんは、優しかった。

 どこまでも、優しかった。

「ごめんね」


 そして、それが、大嫌いだった。


「うわあああああああああああああああああああああああああああああああああ」

 私は、自分でもわけのわからない叫び声をあげながら義姉さんに掴みかかっていった。もう何が何だか分からなかった。それでも確かに思ったのは、この人が、この人が嫌いだ、ということだった。何もかも失っておいて、婚約者という幸福そのものの未来を失っておいて、ずっと前を向いていられるこの人が大嫌いだった。妬ましいかった。その強さが、妬ましかった。私には無い強さが、すべてを失っておいて、保つことのできる強さが、嫌いだった。

「なんで! ねえ! なんで! ウィルフレド兄さんもいないのになんで! なんでそんなに前を向いてるの! ねえ! 悲しくないのって! 訊いてるんだよ! ねえってば! 私と二人で、兄さんそっくりの顔の私といて! 何にも思わないの! ねえ! 死んだんだよみんな、みーんな死んだ! それなのに!」

 違う。そうじゃない。私だってわかっていた。そんなことに怒っているんじゃない、それでも私は、限界だった。

「おうちに帰りたい私はおうちに帰りたいお父さんのひげにほっぺたをくっつけたいお母さんにおやすみのキスをしたい兄さんと本が読みたい!」

 私のおうちは、もうない。

 彼ら、のせいで。彼ら、が全部奪っていったせいで。

 私のおうちは、義姉さんと暮らす、このカビの生えた小屋。

 砂漠の中の、海岸の隣の、誰にも見つからない小屋。

 アルゼンチンの砂。砂ぼこりが上がる。義姉さんが泣いているのが見える。泣かせたかったわけじゃない、でも、なんでか分からないのに、分からない悔しさと、分からない痛みと、分からない何かが交ざって、義姉さんが嫌いだった。辛い、と一言も言わないで、ずっと喚く私を抑えて泣いている、この義姉さんが、嫌いだ。理由なんてない。分からない。

 あなたのおうちはどこですか。

 私はここだよ。砂ぼこりの中。

 誰か、ねえ、私を見つけ出して。




〈あなたのおうちはどこですか 了〉








参考文献

・杉山知子「国家テロリズムと市民 冷戦期のアルゼンチンの汚い戦争」

・石田智恵「軍政下アルゼンチンの移民コミュニティと『日系失踪者』の政治参加」

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