ダイヤモンドを君に

〈殺伐感情戦線 第21回【指輪】〉


 うすぐらい書庫。くすんだような黴の匂い。久しぶりにゆっくりと休憩時間、というものを取ることが出来たなと気付いて笑ってしまった。ここには誰も入ってこない。私の執務室だから。私が許可した者しか入ることは出来ない。この国一番の機密の書斎。だから私は仕事のように感覚を四方に研ぎ澄ますこともなく、ゆったりと煙草を燻らせていた。空いている方の手で棚から本を一冊抜いて、付箋のついたページを開ける。そして声に出してその箇所を読む。誰も聞いていないけれど。

「ハプスブルク家のマキシミリアン大帝(後の神聖ローマ皇帝)とブルゴーニュ公国シャルル勇胆公の娘であるマリアが婚約する際にダイヤモンドの婚約指輪が贈られ、これが史実に残る最初のダイヤモンドの婚約指輪とされている。ダイヤモンドは美しい輝きを持つとともに、天然の鉱物の中では最も硬い物質で『不屈の精神、永遠の絆、約束』を示すといわれる。そのため、 男性と女性を結び付ける『永遠に続く愛のシンボル』 として婚約指輪に装飾する宝石としてふさわしいとされた——」

 チッと舌で音を鳴らす。永遠に続く愛なんてあるわけないじゃない。

 そして、昨日死んだ女の顔を思い浮かべていた。

 否、正確には昨日女の顔を思い浮かべていた。

 尋問中、結局一言たりとも話さないまま死んでいった彼女。CIAの諜報部隊隊長ヴァネッサ・スティーヴンズとしては最悪の結果だった。テロリストに最も近い女、同時多発テロ首謀者格の妻から何一つ情報を聞き出せなかったこと。2001年9月11日からずっとアメリカ合衆国民全員が求めている正義の鉄槌を下せないこと。それでも一人の人間のヴァネッサ・スティーヴンズとしては、なんだかとても清々しいような気持ちすらしていた。殺したのは自分だ。拷問中に耐えられなかったとはいえ、私はただ指示を下していただけだとはいえ、殺したのは私だ。それなのにあのアフガン女の透明な目といったら。人を疑いもしない、人を憎みもしない、あの綺麗な目といったら。人は、愛ゆえに死ねるということを知ってしまった。


「どうしてそんなに夫のために必死になれるの?」

 私は一度彼女に訊いたことがあった。水とぐずぐずになって泥みたいなオートミールを与えながら。彼女はそれを美味しそうに食べながら、やせこけた頬でしっかりと笑った。密閉された室内だというのに、彼女の髪を春のようにやわらかな風が揺らす。

「それは貴女にも訊きたい。どうして夫を捕まえるために必死になれるの?」

 尋問者に同情してはならない、尋問者に同情してはならない。この仕事に就く前に何度も読んだ心構えの十戒を唱えながら、それでも言葉はずるずると彼女に引きずられていったのだった。

「私は――」

 これが仕事だから? アメリカ合衆国民全員の怒りの代弁者として? CIAの誇りをもって? テロリスト、悪を裁く善人として? どれも違う。違うと思う。

「分からない」

 迷いに迷った挙句、きっぱりそう答えると、彼女はほんとうに楽しそうに笑った。

「あなたって面白い! ここで善のため、って言ったら殺してやろうと思った。CIAの管轄下だからそんなのって無理だけどさ。あはははは。気に入った」

 尋問されている者がしている者に対する態度とは思えない朗らかさだった。にこにこと頬をあげて彼女は言う。

「私は絶対に諦めない。絶対に何も話さない。もともと私はあの人を守るためならなんだってすると思っていたけれど、あなたが気に入ったからあなたに何かされるなら本望。好きにして、って思える」

 強いのだ。この人はどこまでも強い。強さというのは、武力が使える人でも、弁が立つ人でもなくて、誰かを信じることが出来る人なのかもしれない。

「それでも私はあなたを殺してしまうかもしれない」

「構わない、最初からそのつもり」

「あなたはもう二度と旦那さんに会えないかもしれない」

「あの日から期待したことなんてない」

「それでもあなたの旦那さんは死んでしまうかもしれない」

「人はいつか死ぬって」

 ああこの人は揺らがない、と分かってしまった瞬間、今までの何もかもがどうでもよくなってしまうくらいこの人が気になって仕方無くなってしまった。この鈍色の目が、この烏の濡れ羽色の髪が、この乾いてもなお桃色の唇が、この勝気をぶら下げてあるような長い睫毛が、このすらりと高い鼻が。全部私のものにしたいと思うくらいに。私は彼女のまっすぐに笑った顔をずっと覚えておこうと思った。じっと、まっすぐにその目を見つめていた。

「でも」

 彼女は最後に静かに笑ったんだった。

「この指輪だけは、ちょっと残念――」

 彼女の糸のように繊細な切り絵のような左手の薬指にあったのは、小さなダイアモンドの指輪だった。夫が結婚のときに買ってくれたのだという。自分が死んで付ける人がいなくなったら寂しい、と彼女は言った。


「ダイアモンドの指輪――」

 煙草をぐりぐりと灰皿に押し付ける。灰が滑り落ちていくのを見届けながら、煙を手で扇いで顔の前から除ける。本を棚に戻して、棚にあった小箱からそっと指輪を取り出す。彼女は結局それを私に持っていて欲しいと託したのだった。死んでしまった彼女と生きているかもしれない夫をつなぐ、永遠に続く愛のかけら。永遠に続く愛なんてあるわけない、そう思っていた。だけれどあの人なら成し遂げるかもしれない。それは、汚れてしまった、弱いだけの私が付けるには惜しいくらい光り輝いていた。それをそっと執務室のオレンジ色のライトにかざす。

 ちく、とダイアモンドが光る。

 その輝きが、私の胸を刺す。

 この指輪はこんなところにあってはならない。あの強さは、あの輝きは、あの瞳は、このダイアモンドは、こんなうすぐらい執務室で、こんな私の隣にいてはならないと思った。きっとまだ彼女の遺体は埋められていない。このダイアモンドは、彼女の隣にあるべき輝きだ。悔しいけれど、羨ましい。あのひとの夫が私たちの同士を殺したというのに。あの女を私は殺したというのに。私も彼女もどうしようもなく、互いに互いを認めてしまった。エレメンタリー・スクールの時、優秀なライバルたちに囲まれたときのような高揚感。死んでもなお、楽しそうに笑う彼女の声が頭から離れてくれない。

 彼女は本当の意味で「美しい」女だった。

 指輪をもう一度小箱に入れて。

 私は黴臭い空気を残して、その執務室を出た。

 ダイアモンドを、君に贈ろう。

 ダイアモンドを、君に返そう。

 






〈ダイアモンドを君に 了〉






参考文献

・映画「Zero Dark Thirty」

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