一線を

三、賞味期限

 お茶でも点てようと思って取り出した缶には、ちょうど一年前の日付が刻まれていた。恐る恐る封を切ってみると香りは確かに薄らいでいるものの、変なところは見当たらなかった。色も鮮やかなままだった。女の子なんだからちゃんとしなさいよと言う祖母の顔が思い浮かんで、すぐに消えた。お茶を点てるだけじゃ一缶は使い切れない。パンデミックのせいで今年はヤナも日本に来られないし他に家に呼ぶような人もいない。パンケーキに入れようと思った。パンケーキに入れて。ホイップクリームにも混ぜよう。最後に粉砂糖と混ぜて上からもかけよう。抹茶をふるいにかけながらヤナのことを思い出していた。今ごろモスクワは夕方、あるいはもう夜に入りかけているころだろう。書き物仕事をしているかもしれないし、大掃除をしているかもしれない。あとで電話をかけよう。そう思いながら抹茶をホイップクリームにさっくりと混ぜていたら、泡立て器を持っていた右ひじが抹茶の缶に当たった。あ、と言う間もなく一年前の最後の日付が刻まれた缶が落ちていった。粉が舞って、初夏のにおいがした。思わず飛び上がって足が地面から離れる、その瞬間、点けっぱなしにしていたテレビからけたたましいクラッカーの音が聞こえた。女の子なんだからちゃんとしなさいよ、という声が聞こえた気がした。



二、二重跳び

 再来週には試験なのに、二重とびだけができなかった。そもそも中学受験で二重とびをさせる意味が分からなかった。どうせ新入生になるはずの小学生たちの態度を見るだけで成績には直接の関係がないんだろう、わたしはそのことを知っている。お母さんがそう言っていたから。それなら他の受験生の前で二重とびなんてさせるべきじゃない。先生が一対一でこっそり二重とびを見守るべきだ。年老いた犬の寝息の速さを確かめるように、ささやかに、かしこく。お母さんにお願いして買ってもらった「二重とびが出来るようになる縄」もあまり効果がなかった。その縄を束ねて片方で回せば軽やかで、いつも二重とびができるようになっている気がするのに、実際にとんでみると引っかかる。もう足首にがつきはじめていた。痛くはなかったけど、ちりちりと空気がそのを撫ぜていくのが何だかくやしかった。もうお家に入りなさい、というお母さんの声が聞こえたけど、聞こえなかったふりをした。わたしにとって大事なのはこの学校に合格することよりも、さやかちゃんの前で二重とびが上手くとべることだった。それが出来れば、算数で失敗したって構わない。さやかちゃんと同じ学校に行けなくたって。さやかちゃんに、すごい、と言ってもらえれば。もう一度だけ、と縄を回す。百八回目の除夜の鐘と同時に、わたしの両の足は縄をこえた。



一、映画と

 恋人と大みそかに観たのは、女性二人が主人公の青春映画だった。レイトショー。彼女と付き合いはじめてからもう四年になっていて、一緒に遊びに行くことも少なくなり、私たちは大学の卒業を控えていた。彼女は実験室に泊まりきりで、わたしは文献を探したりまとめたりするために一日の大半を図書館で過ごしていた。ラインのやり取りは雑になり、電話もしなくなっていた。私はもう別れを切り出されると思っていて、その心づもりとスマートフォンと財布だけをハンドバッグに入れていた。でも彼女はいつもどおり優しく手を挙げて私を呼びとめ、何も言わずにスクリーン四番へと入っていった。四、という数に息が詰まった。四回のクリスマスを、年越しを生き延びることができたのはこの人のおかげだ、ということに、今さら気が付いた。「どこへも行かないよ」と映画の主人公は言った。彼女はスクリーンのほうを向いたまま呟いた。「どこへも行かないよ」そしてキャラメル・ポップコーンのそばに置かれた私の手を握りしめた。「どこへも」その瞬間、スクリーンの向こう側の彼女たちは手をつないだまま飛び上がって川に入り、スクリーンのこちら側の時計はささやかな音を立てて十二を指した。元日になっていた。元日になった瞬間足が地面についていなかった人は、一体、どこへ行くのだろう。でも大丈夫だ。この人はどこへも行かない。



零、これは元日になった瞬間足が地面についていなかった彼女たちの話。

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