第11話

 「歌わせる」魔法は難しかった。まず壊れたものを直す魔法を完成させ、「観察」をやってからにしよう、と言うエミルにせがんでやらせてもらったのだが、竜が歌わせようとした小石は、蜂蜜色の敷石の上でわずかに振動するだけで、うんともすんとも言わなかった。

 青ざめた竜の肩を叩いて、エミルが笑った。

「まだちょっと早すぎる。できなくて当然だ」

「そうでしょうか…」

「そうだよ。大丈夫。これはテクニックとかコツとかそういうのじゃなくて、集中力の質が上がればできる魔法だから。集中力の質とか強さっていうものは、色々な魔法を習得しながら自然と上がっていくものだ。スポーツなんかで、トレーニングしていくと筋力がついてきて、以前はできなかったことができるようになるっていうのと似てるかな」

「なるほど…」

 竜は納得して頷いた。

「さて、じゃあ天気もいいことだし、ちょっと歩こう」

「?…散歩ですか?」

 そんなことしている場合じゃないのに。早くもっと魔法を学ばなくちゃ…。そういう思いが竜の顔にくっきりと表れていたのだろう。エミルはおかしそうに笑った。

「心配するな。『観察』をしに行くんだ。…そうだ、ちょっと待ってろ」

 エミルが急ぎ足で勝手口からキッチンに入ってすぐに、がちゃん!と何かが割れる音がした。

「どうしたの?」

 遠くの方でマリーの声。

「なんでもありません、お母さん。練習に使うんです」

 大声で答えてからエミルが出てきた。上に向けた掌の上にごちゃごちゃとした何かが浮かんでいる。

「急いでランチを調達してくるから、待ってる間にこれを直してごらん。方法は自由。竜の思う通りにやってみろ」

 そう言って、敷石の上にたくさんの白いかけらを置くと、また急ぎ足でキッチンに入っていった。

 竜は敷石の上にあぐらをかいて座り込み、かけらたちをじっと見つめて意識を集中した。薄青い空間に光のボールが煌めいている。さて、どうする。

 光のボールの中に白いかけらたちが映る。元は何かだった白いかけらたち。一緒に集まって何かを形作っていたかけらたち。みんな一緒に何をしていたの、何を形作っていたの…。そう心で問いかけるうちに、一昨日スティーブンが言った言葉がふっと蘇ってきて、竜はその同じ言葉で、光のボールの中に浮かぶ白いかけらたちに向かって語りかけた。あるべきようになれ。

 少し経って、ライラを従えてリュックサックを肩にキッチンから出てきたエミルは、敷石にあぐらをかいた竜とその前に置いてある白い小さな花瓶を見て、満足そうに頷いた。

「さすが」

 花瓶を手に取って眺める。

「完璧だ。どうやった?」

「まず集中して…光のボールの中にかけらたちを映して…一緒に集まって何を形作っていたのかって訊いて…それで、あるべきようになれ、って言ったんです。いや、声に出してじゃないけど、心の中で」 

 なんだか少しぼうっとする頭で、すり寄ってきたライラを撫でながら竜はゆっくり答えた。

「あるべきようになれ?」

 エミルは驚いた顔をした。

「スティーブンが一昨日言っていたのを思い出したんです。健太君の脚を治した時に。『今のは、あるべきようになれ、というごく自然な魔法だ』って」

 エミルは眉を上げて、感心したというようににやりと笑った。

「やるな。あれはかなり上級レベルの魔法だ。疲れたんじゃないか」

 竜はうなずいた。

「なんだかぼうっとします」

「そうだろう。あれをやる時には、相手、つまりなおす対象と精神のかなり深いところで繋がる必要があるんだ。慣れないうちは結構消耗する。しばらく休むか」

「いえ!」

 竜は跳び上がらんばかりに立ち上がった。

「早く『観察』をしましょう。時間が」

「時間がもったいない、か」

 かぶせるように言ってエミルが笑った。

「わかった。行こう。着く頃には回復してるだろうから」

「どこへ行くんですか?」

「すぐ近くの泉だ。歩いて5分くらいのところ。僕も真も、そこで水の『観察』をしたんだ」

 ハーブの香りを吸い込みながら菜園に沿って歩き、さらに小道を辿っていくと、果樹園だった。木戸を開けてライラを先に通したエミルは、草地に足を踏み入れながら、大きく息をついて空を振り仰いだ。

「こんな気持ちでまたここに来ることができるなんて。…まだ夢を見てるような気がするよ」

 竜を振り返って目を細める。

「真が生きていて…竜がここにいて…父とも昔のように話せるようになって…そしてもうあれから22年も経っている…。あっという間だったような、遠い昔だったような…」

 そしてまた大きく息をついて笑った。

「ここでいつも真と魔法の練習をしてたんですね」

「そう。どうしてだったか覚えてないけど、なぜかここでするようになった。ここを突っ切って、少し下りた小さな窪地に泉がある。ああ、あの左の方、あそこに他より大きいリンゴの木があるだろう。周囲にスペースが空いている。あの辺りでいつも練習してたんだ」

 そこは果樹園の入り口からかなり離れていた。事故があった時、エミルはあんな遠くからこの辺りまで飛ばされたんだ…。竜は事故の大きさを思い、改めてぞっとした。エミルもその時のことを考えていたらしい。ゆっくりと歩く足を止めることはしなかったけれど、ため息をついて、

「まったく。よく生きてたもんだ」

 と呟いた。

「怪我の後遺症とかはなかったんですか?」

「幸いにもね。スティーブンのおかげだよ」

 そしてちょっと笑うと、

「それなのに、性懲りもなく危険な研究をしてる。スティーブンにたまに言われるんだ。せっかく助けた命なんだから大事にしろ、恩知らずめ、って」

 エミルに合わせて笑いながら、竜は胸の奥がぎゅっとなった。エミルには死んだり消えたりしてほしくない。絶対にそんなことになってほしくない。せっかくこうして出会えたのに。

 小さな泉は、棚のようになった岩の奥から静かに湧き出ていた。澄み切った水の中には、たくさんの小さな真珠のようなものが静かに輝いている。

「綺麗ですね」

「カルムソラという花だ。でもそのまま真珠の花って呼ばれることの方が多いね。水が綺麗なところにしか育たない」 

 たくさんの冴えた草緑色の丸い葉が、真珠のようにしんとした光を放つ花たちと一緒に透明な水の中で揺らめいて、真珠の花をますます美しく見せていた。

「すごい。本当に真珠みたい…」

「摘むとすぐ萎れてしまうんだよ。だから、こういうところでしか見られないんだ。さて、集中力は回復したか?」

「はい!」

「じゃ、早速『観察』を始めよう。水をよく見て。さっきも言ったように、これをしっかりと観察して、意識の中にコピーしてしまい込んでおくことが目標だ。やってごらん」

 竜は美しく澄んだ水をじっと見つめた。よく見ると、流れていないように見えるところでも、水が絶えず動いているのがわかる。透明な、冷たい、重みのある、流動するものたち。薄青い空間に浮かぶ光のボールの中に、微かに揺れながら水が映る。

 これを意識の中にしまい込んでおく。

 竜はなぜ自分がそうしているのかはっきりとはわからないままに、意識の空間の中でそっと手を伸ばし、光のボールに掌で触れた。

「しまっておいて」

 光のボールにそう言うと、光のボールが頷いたような気がした。そして、ボールの中に映っていた水がすっと消え、頭と心の間のどこか奥深いところに、何かがすとんと落とされたような気がした。

「なるほど。そんなやり方もあるんだな」

 実際の世界から見ていたらしいエミルが、感心したように頷いた。

「竜のやることはなんていうか…すごく自然で無理がない。よし、じゃあ、ちょっと向こうに行こう」

 少し歩いて、泉の音の聞こえないところまで行く。

「ここに水を満たしてごらん」

 そう言ってエミルは両手をお椀のようにして差し出した。

「はい」

 竜は薄青い空間の中で光のボールに触れ、

「さっきの水を出して」

 と頼んだ。光のボールがちらりとウィンクしたような気がしたかと思うと、エミルの両手が作ったお椀はみるみるうちに水でいっぱいになった。

「上出来!」

 エミルは満面の笑顔でそう言うと、ぱっと両の掌を広げた。途端に水がたくさんのきらきら光る水滴になって宙に舞い上がったかと思うと、次の瞬間に跡形もなく消えた。

「すごい!」

 竜は目を丸くした。

「今のはものを消す魔法だ。後でこれもやろう」

「はい!」

 竜はわくわくした。もっともっと魔法を学びたいという思いで身体中がうずうずする。この世界が大好きだ、と竜は深呼吸した。なんだか空気中にも魔法が漂っているような気がする。


 そのあと竜は火と風と光を「観察」した。風と光はエミルに言わせれば「番外編」というべきもので、できなくてもなんの支障もないし、むしろできる方が珍しいと言われているものだということだったが、竜は、少し時間はかかったものの、二つとも「観察」することができた。

「その人の魔法を見ていると、」

 木陰の柔らかい緑の草の上で遅いランチをとりながら、エミルが微笑んで言った。

「その人がどんな人か見えることがある。その人の、周りの世界との関係が見えるとでもいうかな。竜は周囲のもの、自然とも動物とも物体とも心を通わせている。大好きな友達みたいにね」

 美味しいハムとチーズとレタスとトマトのサンドイッチにかぶりつきながら、竜は考えた。確かにそうかもしれない。周りに人がいないときに限るけれど、植物や空に話しかけたりするのが好きだ。

「真は、もう少し命令調なんだよ。周りのものと友達っていうよりも、どっちかっていうと、ボスとか委員長とか」

 竜をちらりと見て笑って、

「…お姉さんみたいなね」

 竜は笑って頷いた。確かに当たっている。育てていた朝顔に向かって真がぶつぶつ、

「そっちじゃなくてこっちの棒に巻きつかなきゃダメじゃないの。本当にしょうがないわねえ」

 とかなんとか言っているのを聞いたことがあるし、いつまでも降り止まない雨に向かって、

「あなたたち、いい加減に止みなさいよ」

 と偉そうに言っているのを聞いたこともある。

「エミルは…どっちでもないですね。なんていうか、周りのものも自分自身、っていうか…周りのものが自分の分身みたいな感じじゃないですか?」

 ライラにハムをあげながら考え考えそう言うと、エミルはちょっと驚いた顔をしてから、にこりとした。

「考えたことはなかったけど…でもそうだな、そうだと思う。さすがだな」

 そして膝の上に頬杖をつくと、目を細めて竜を眺め、

「竜は…本当に天性のものを持ってる。魔法がとても自然なんだな。真も天才だと思ったし、僕自身も天才だって言われてきたけど、竜を見ていると、これこそが本当の天才だと思うよ」

 しみじみと言ったので、竜は心の底から照れた。

「プレッシャーかけるんですか」

「いやいや、そんなつもりはないよ」

 エミルは楽しそうに笑ってお茶を飲んだ。

「考えてたんですけど…」

 石で作った簡単なかまどの下で燃えている、さっき自分が出した火を見ながら、竜は言った。

「昨日、スティーブンの研究室で蝋燭に火を灯せなかったとき…。あれは普通ならどうやってできるようになるんですか」

 エミルが眉を上げる。

「どういう意味だい?」

「意識の空間を使わない人がああいう課題を出されたとき、どういう風にして蝋燭に火を灯すんでしょう」

「どういう風にって、竜も昨日やってたんだろう?教科書通りなら、まず、魔法を使ってマッチで蝋燭に火を灯す。次にマッチなしで火を灯せと言われる」 

「はい」

「その時に、マッチを使った時のことを思い出してその感覚に集中しろ、と言われなかったか?」

「言われました」

「まあ僕もその方法でやったことはないから詳しくは説明できないけど、つまりはマッチを使って火を出現させた時の感覚に意識を集中させて、何度も何度も試みていくうちに、うまくいけばいつかは自分で火を出現させることができるようになる、ということらしい」

 竜は目を丸くした。つまり、何も特別なことはない、昨日自分が何時間もかけてできなかったあの練習を、根気よく、諦めずに、何度も何度も何時間も何時間も続けていけば、いつかできるようになるということなのだ。

「…すごく大変ですね」

「そうさ。一体どんなふうに意識を集中させればそんなことができるのか、僕には見当もつかないよ」

 エミルは肩を竦めた。竜は頷いた。全くその通りだ。

「なんだかすごく得をしているような気がします」

「そうだな」

 エミルが笑った。

「でもなんだってそんなことが気になったんだ?」

 ぴったりくっついて寝そべっているライラを撫でながら、竜は少し口籠もった。

「ん…健太君のことを考えていて…。カールの道具も、エミルの道具も、魔法を使える人だけが使えるんですよね」

「ああ」

「だから、健太君も魔法を使えるようになればいいのにって思って。今からでも練習したら…」

 エミルは首を振った。

「とても無理だと思うよ。竜や真は特別だ」

「でももしかしたら健太君だって特別かもしれません」

「…まあ、そういう可能性もゼロではないだろうけどね。でも彼はバスケの練習で忙しいんだろう?」

「そうみたいです。でもそれは、向こうに帰ったらここのことを忘れてしまうって知らないからだと思うんです。一生分のいい思い出を作りたい、って手紙に書いてあったから。だから…」

「ここのことを忘れてしまうって教えれば、バスケなんて放り出して魔法の練習をするだろうっていうことか?」

「はい」

 エミルはまた首を振った。

「竜…それはやめておいた方がいい。さっきも言ったけど、竜や真は特別だ。たった数日間で、どんな簡単な魔法であれ習得できた向こうからの客人なんて、今までに数えるほどしかいないはずだよ。大好きなバスケの練習をやめて、必死に魔法の練習をやって、でも何も習得できなかったら?思い出どころか、楽しめたはずの時間までなくすことになってしまう」

 竜は唇をかんだ。確かにその通りだった。

「でも…でもやっぱりそれは健太君自身が決めるべきじゃないかと思うんです。どっちを選ぶか。今健太君は、忘れてしまうってことを全然知らないで、一生分のいい思い出を作るんだ、って思ってる。それはなんだか…騙しているみたいで…」

「わかるよ。でも、今彼は毎日を楽しんでいる。忘れてしまうってことを知ったら、もう楽しめなくなってしまうかもしれない」

「…そうですよね」

 竜はため息をついた。エミルの言っていることが正しいのはわかっている。それでもやっぱり竜はその考えを頭から追い出すことができなかった。






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