第31話

 スティーブンの診察を受け、シャワーを浴び、スティーブンとエミルに付き添われて竜がキッチンに入っていくと、カールと健太はもう散歩から帰っていて、楽しそうに談笑しながら朝ごはんを食べていた。健太とカールの間の床に寝そべっていたライラは、竜を見ると嬉しそうに起き上がり、小走りで竜のところにやってきて跳びつくと、大喜びで竜の顔を舐め回した。

「まあライラ!竜、顔を洗って!」

 いつものようにマリーの声が上がって、キッチンにみんなの笑い声が響いた。

 竜は健太の隣に座って、マリーの作ってくれた卵のお粥を食べた。エミルが言っていた通り、蜂蜜をかけたそれはとても美味しくて、竜は当然お代わりするつもりでいたのだが、スティーブンに止められてしまった。

「今はそれくらいにしておいてください。念のためね。1時間くらいしたらまた食べてもいいですよ」

「1時間ですね」

 竜は思わず念を押してしまった。すると健太が言った。

「スティーブン、その間、竜はベッドで安静にしてなきゃいけませんか」

「いいえ。普通に起きていて大丈夫ですよ」

「散歩に行っても大丈夫ですか」

「ゆっくり歩くならね」

 健太は頷くと、問いかけるように竜を見た。竜は急いでうなずいた。

「いいよ、行こう」

 二人が立ち上がると、ライラも当然という顔でついてきた。


 外は明るい真珠色の曇り空だった。蜂蜜色の石畳の上で、竜はうーんと伸びをした。そよ風が気持ちいい。健太が少し心配そうな顔で振り返る。

「竜、歩けそう?」

 竜は笑ってみせた。

「うん、もちろん。気分だって全然悪くないし。お腹が減ってるだけだよ」

「ごめんね連れ出して。二人だけで話したかったから」

「全然構わないよ。果樹園にでも行く?」

「うん、いいね。さっきカールと散歩した時は、通り過ぎただけだったから」

 二人はライラを間に挟んで、ぶらぶらと果樹園への小道を歩き始めた。

「昨日はどうやって来たの?汽車?」

「うん。豪華な汽車でびっくりした。静かだし快適だしすごく速いし。そうそう、竜が手紙で書いてたフリアの駅も、すごいよねえ。騒音を照明に変えちゃう石!向こうにもあんな石があるといいのに。節電できるよ」

「でも結構貴重な石なんだってさ。あの駅には政府のオフィスがいくつもあって、それであの石を使ってるんだって。贅沢だって庶民の間では不評なんだってエミルが言ってたよ」

 菜園の端のラベンダーに指先で触れながら、健太は笑った。

「そういうところは、向こうの世界と似てるんだね。政府vs庶民、みたいなの」

「そうだね」

 竜も笑った。

 少しの沈黙の後、健太が口を開いた。

「あのさ、竜。…スティーブンから全部聞いたよ」

「…うん。さっきスティーブンが話してくれた。ごめん、今まで黙ってて」

「そんな、謝らないでよ。スティーブンがちゃんと説明してくれた。カールの魔法のこととか、竜のお姉さんのこととかは、スティーブンが口止めしたんだし、竜が僕の記憶とか脚とかを守るために難しい魔法をやろうとしてるのだって、できなかったときに僕をがっかりさせないように内緒にしてたんだ、って」

「うん…」

「竜が僕のためにそんな難しい魔法を頑張って練習してくれてたなんて…。しかも、練習しすぎたらもう二度と魔法ができなくなっちゃうのに…。自分の楽しみのためだけにバスケをやってた自分が恥ずかしくなったよ」

「そんな」

 竜はなんと言っていいのかわからなかったけれど、健太はそんな竜に構わずに話し続けた。

「僕さ…、思い切って言っちゃうけど、ちょっと不公平だって思ってたんだ。竜は魔法ができるからこの9日間のことを覚えていられるのに、僕は覚えていられないなんて、って。人のことを羨まないっていうのも僕のモットーの一つなんだけど、竜のことはどうしても羨ましいなって思ってしまった。羨ましいどころか、多分、心の底では、ちょっと妬んでもいたと思う。竜は僕のために毎日頑張ってくれてたっていうのに…。自分が情けないよ。本当にごめん」

「そんな、健太…。不公平って思うのは当然だし、健太は僕がやってることを知らなかったんだから…謝ることないよ」

 健太はちょっと微笑んだ。

「魔法の喪失、だっけ?それにならないですんで、本当によかったよ。またこっちに帰ってくるんでしょ?」

 竜の胸はちくりと痛んだ。でももう隠し事はすまいと思った。

「うん。移住しようと思ってるんだ」

「移住?ほんとに?」

 健太の目が丸くなった。

「魔法大学で勉強したいんだ。それには向こうと行き来なんてしてられないから。だから今回向こうに戻って、両親をなんとか説得して、その後こっちに移住するつもりだよ」

「そうなんだ…」

 予想もしていなかったことらしく、健太は相当驚いているようだった。

「そんなに魔法が勉強したいんだ」

「うん」

 竜ははっきりうなずいた。胸の奥が熱くなり、改めて心から思った。もっともっと魔法を学びたい!

「そうか…。ああ、でも、向こうに帰れないわけじゃないんだね」

「うん。たまに帰ろうと思ってるよ。世間にとっては行方不明になってるわけだから、家族にしか会えないけど」

「僕にも会えるよね。帰ってくる時は絶対教えてよ。竜の家に行くからさ。それでこっちのニュースをいろいろ教えて…そうだ、竜がメッセンジャーになってくれれば、こっちのみんなと文通できるよね!」

「そうだね。手紙とか写真とかさ」

「そうだよね!…でも、そうかあ、竜はこっちの人になるのかあ…。もういつ移住するか決めたの?」

「うん、できるだけ早くって思ってる。できれば向こうに戻って1週間で移住できればって…」

「そんなにすぐ?!」

 健太が目をむいた。

「うん。今年入学は絶対無理だけど、来年にはぜひ入学したいって思ってるから。それで、その前に魔法数学とか魔法物理を大学で授業についていけるレベルにしたいから、できるだけ早くこっちに戻って来て勉強したいんだ」

「でも、だって、小学生なのに大学に入れるの?」

 自慢みたいでちょっと気が引けたが、竜は正直に言った。

「僕の魔法のレベルだったら入学試験に通るって言われたんだ。実技はね。筆記試験はこっちの世界の出身じゃないし、免除だって。でも、授業についていけるだけの基礎的な学力は個人授業で身につけなきゃいけないんだ」

 健太は感心したようにため息をついた。

「…すごいなあ、竜。でも…、それにしたって、向こうに戻って1週間で戻ってくるなんて、早すぎない?お父さんとお母さんを1週間で説得できるの?」

「だって、向こうで1週間過ごしたら、こっちでは約半年経っちゃうんだよ」

「…ああ、そうか…」

「だから、まあ1週間とか、1週間と1日とか、それくらいでなんとしても親を説得して戻ってきて、勉強を始めたいんだ」

「そうか…そうだよね。時間の経つ速さが24倍なんだもんね。向こうで1ヶ月過ごしたらこっちでは24ヶ月、2年経っちゃうんだもんね…そうか…」

 健太は改めて驚いているようだった。竜には健太の気持ちがよくわかった。

「僕も最初は、向こうに帰って7年後、18歳になったらこっちに戻ってこようかなって思ったんだ。魔法大学は6年間だから、向こうの時間なら3ヶ月。だから、外国を一人で旅するとかなんとか言って3ヶ月間家を留守にして、その間にこっちにきて魔法大学に行こうかなって。でも向こうで7年経ったら、こっちでは168年経っちゃうんだよ。エミルもカールもマリーもライラもとっくにいなくなっちゃってるんだ。そんなの嫌だから、だからすぐ戻ってくることに決めたんだ」

「168年…」

 2日前の竜と同じように、健太も呆然とその数字を繰り返した。

「168年か…」

「うん。すごい数じゃない?」

「ほんと。なんだか想像つかないや…」

 果樹園の木戸を開けて、先にライラを通し、二人は中に入った。柔らかい風が吹き、果樹たちがお帰りとうなずいてくれているような気がして、竜は微笑んだ。

「大抵はここで魔法の練習をするんだ」

「そうなの?…じゃあ、昨日も…?」

「うん。もうちょっと行ったところ、あそこのりんごの木の下でね」

 二人はりんごの木に向かって歩いて行った。ライラは、いつものところでしょ、と言わんばかりに、さっさと先に立って歩いていく。

「そうだ、今日はバスケの試合ないの?」

「うん、今日はないんだ。日曜日だしね。普段は土日に試合があるけど、今夏休みだから、ウィークデイに練習や試合をやって、日曜日はお休みなんだってさ」

「そっか」

「明日は午前中に練習で、午後はまた試合」

「そうなんだ。あ、そういえば昨日の試合どうだった?昨年の優勝チーム」

「負けちゃったよ。さすがに強かった。でもすごく楽しかったよ」

 健太は目をきらきらさせて、しばらく試合のことを詳しく話してくれた。

 身振り手振りを交えて夢中になって話す健太を見ていて、竜は胸が痛くなった。健太はこんなにバスケが好きなのに。こんなに楽しんでいるのに。僕があの魔法に成功していれば、少なくともこの楽しい幸せな記憶は守ってあげられたのに。もしかして脚の魔法だって守れたかもしれなかったのに。守りたかったのに。

「健太。ごめん」

「え?」

「健太の記憶も脚の魔法も守ってあげられなくて、ほんとにごめん」

 りんごの木の下で、竜は頭を下げた。泣くつもりはなかったのに、少し声が震えてしまった。

「竜…やだなあ。謝んないでよ」

 健太は笑ってわざと乱暴に竜の肩を突いた。

「だって、もともと両方とも持って帰れないものなんだよ。記憶も脚の魔法もさ。それを僕が持って帰れるようにって、竜が一所懸命、自分の魔法の力をなくす危険まで冒して、頑張ってくれたんだもん。それだけでほんと、十分だよ。ありがとう」

 健太はちょっとうつむいて、すり寄ってきたライラを撫でながら続けた。

「…さっき、竜が魔法大学に行きたいって話してくれたじゃない?あの時、竜はほんとに魔法がすごく好きで、この年で魔法大学に入れるくらいの才能があって、もっともっと魔法を勉強したくてこっちに移住を決めちゃうくらい魔法をやりたいって思ってるのに、僕のためにその魔法を失う危険を冒してくれたんだなあって思って、なんていうか…感動しちゃったよ」

 目を潤ませて小さく鼻を啜ると、健太はライラの大きな顔を両手で挟んで、

「ね、ライラ。そうだよね。感動しちゃうよねえ」

 と言って笑った。ライラはにこにこして、立派な尻尾をぶんぶん振った。


 その後も二人は果樹園の中を歩き回ったり、リルを食べたりしながら話を続けた。竜はもちろんスティーブンに言われたことを覚えていたけれど、リルは食べ物というよりは飲み物みたいなものだし、きっと大丈夫だろうと思うことにした。リルを一度も食べたことのなかった食べた健太は、おいしいおいしいと夢中で食べた。

「これ、試合中の水分補給にいいなあ。おいしいし、水分たっぷりだし。そうだ、凍らせたらどんな風になるんだろう。シャーベットみたいにならないかなあ」

 熟した実は二人の手の届かないところに生っているので、二人は枝を折ったりしないように気をつけながら、ほっそりと背の高いリルの木に登って実を採った。竜は魔法で採りたかったけれど、少なとも昼頃まではどんな魔法も控えるようにと言われたのを思い出して、我慢した。ライラにあげる時も魔法でなく手でリルを割るので手がベタベタになったけれど、仕方がなかった。

 「竜のお姉さん、びっくりするだろうね」

 リルの木の下に座った健太が突然言った。

「竜もこっちに来て、しかも同じ家族のとこで暮らしてるなんてさ。偶然なんてレベルじゃなくて、もう奇跡みたいじゃない?」

「ほんとにそうだね」 

 竜はうなずいた。アメリアさんのところに来て、アメリアさんの知り合いで、隣の世界との交流委員をやっているスティーブンに紹介されて、そのスティーブンの研究室にいたら、偶然エミルがやって来た…。向こうの世界からのドアは、こっちの世界のどの町や村にだってつながり得たはずなのに、よりによってそれがアメリアさんのところだった。そしてよりによって竜がスティーブンの研究室にいたときに、フリアからソンダースに用があって来たエミルがふらりと立ち寄った…。

「…ほんとにそうだね」

 竜はもう一度呟いて深くうなずいた。

「お姉さんは、どうやってこっちに来たんだろう。知ってる?」

「詳しいことは知らないけど、でもカナダに行ってたときなんだよ」

「カナダ?」

「昨年の夏休み、例のキャンプの後でカナダのサマーキャンプに参加したんだ」「へえ、すごいね。竜も行ったの?」

「ううん、真だけ」

「そうか…。うちのパパ、カナダに行くんだよ、この秋から。単身赴任」

「そうなんだ」

「うん…本当は家族みんなで行かれればいいんだろうけど、…僕が嫌だって言っちゃったから」

 健太はうつむいた。

「クラスのみんなと一緒にちゃんと卒業したかったし、チームを離れるのも嫌だったし…、それで絶対嫌だ、って言っちゃったんだ。でも、ちょっと後悔してる。パパもママもそれでいいって言ってくれたけど、でもやっぱりわがままだよね。僕のせいで、パパとママが一緒にいられないなんて」

「お父さん、何年カナダに行くの?」

「知らない。そのこと聞いたとき、僕、絶対嫌だって怒って泣いて自分の部屋に行っちゃったんだ。…だから詳しいこととか聞かないままになっちゃってて」

 健太はうつむいたまま決まり悪そうに言った。竜はちょっと意外に思った。こんなに大人な健太が、そんな反応をするなんて。

 二人の間に寝そべっているライラを撫でながら、健太は低い声で続けた。

「…本当はさ、みんなと卒業したいとか、チームを離れたくないとか、もちろんそれもあるけど、でも嫌だって言っちゃった一番の理由は、多分、怖かったからだと思うんだ。全然知らない国の全然知らない町に行って、知らない人ばっかりの学校で、言葉も通じなくて…。バスケだってできるかわからないし…。カナダって、車椅子バスケもすごく盛んなんだよ。強いし。でも言葉が通じないんじゃ、チームやコーチとだって意思疎通ができないし。それに、みんな僕なんかよりすごく上手で、僕なんて試合にも出してもらえないどころか、チームにだって入れてもらえないかもしれない。友達だってできないかもしれない…」

 言葉を切ってため息をつくと、健太は笑顔を作って立ち上がった。

「ごめん!変な話しちゃった。そろそろ帰る?もう1時間経ったんじゃない?」

「あ…うん、そうだね」

 健太に続いて竜も立ち上がった。

「竜、お腹減ってるんでしょ」

「うん、かなり」

「じゃ、早く帰って食べなきゃ。よし、ライラ、木戸のとこまで競争!」

 全然変な話じゃないよ。それに、言葉なんてすぐ喋れるようになるだろうし、健太ならきっと大丈夫だよ。バスケだって、上手い人達と練習すればもっと上手くなれるじゃない。

 竜はそんなことを言おうと思ったけれど、木戸の方へライラと走っていく健太の後ろ姿は、今はそういう言葉は聞きたくないと言っているように思えた。


 健太とスティーブンは午後2時の汽車でソンダースに帰った。

「いいですね、竜君」

 駅で別れるとき、スティーブンは今日何度目かの念を押した。

「今日はまだ上級レベルの魔法はやらないように。簡単な魔法だけにしておいてください。明日になったら、少しずつレベルを上げて、様子を見ながら、上級レベルの魔法をやって構いません。でもくれぐれも無理をしないようにして、休みながら、ゆっくりとね。そして、失神した時の魔法はもう絶対にやらないでください。僕の心からのお願いです」

 帰りの車の中で、竜はそう言った時のスティーブンの目を思い出していた。眼鏡の奥の優しい目はこれ以上ないほど真剣だった。竜はため息をついた。

「疲れたか」

 ハンドルを切りながら、エミルが気遣わしげに竜をちらりと見た。

「いえ…さっき駅でスティーブンに言われたことを思い出して…」

 竜はもう一度ため息をついた。

「健太にも…果樹園からの帰り道に言われたんです。さっきスティーブンに言われたみたいに。もう絶対にあの魔法をやっちゃだめだよ、って。僕のために竜が魔法が二度とできなくなったりしたら嫌だもん、って…。でも、健太は、公式の魔法が身体に悪いって知らないんです」

 竜はエミルを見上げた。

「身体に悪いっていうのは…具体的にはどういうことが起こるんでしょう」

 エミルはため息をついた。

「それは僕にもわからないよ。父だってそこまではわかってない。ただ…んー、どう言えばいいかな、一つの世界からもう一つの世界へと移動する時に、移動する者の周囲に発生するであろうと言われている物質の中には、人体に有害と言われているものがいくつもあって、それもかなり高濃度で発生するという説がいくつかあるんだ。世界と世界の間の空間そのものがそもそも有害な物質でできているという説もあるし、人がその空間を移動する時の速さが人体に有害だという説もある。でももちろん全て仮説でしかない。証明はできないからね」

 竜はちょっと考えた。

「それは…向こうからこっちにきた人達、僕なんかを調べたらわからないんですか?向こうからきた人間をみんな検査したら…血液検査とか」

 エミルは心底驚いた顔をした。

「そんなことするわけないだろう。それじゃ人体実験だ。カビだのキノコだのじゃあるまいし」

 エミルの反応に、竜は目を丸くした。エミルは本当にショックを受けているようだった。

 向こうの世界だったら、科学の進歩のため、とかいってそれくらいの検査なら平気でやりそうだけどなあ、と竜は思った。革製品の話といい、どうも向こうの世界はこっちに比べて少し野蛮であるらしい。

「それに、向こうからこっちにくるのと、こっちから向こうに行くのは全く異なることと考えられてるからね。『ドア』を通って『自然に』やってくるのと、魔法を使って意図的に『不自然に』別の世界へ行くのでは、身体が受ける影響は異なると考えられてるんだ」

「…そうなんですか」

 竜はまたため息をついた。

「公式の魔法にも、シールドをつけてくれればいいのに…」

 エミルもため息をついた。

「そうだな」

「どうして政府はシールドがなくても安全だって思ってるんでしょうね」

「まあ、半分くらいは怠慢だろうな。父が言ってただろう、シールドがない一番の理由は難しいからだって。そもそも、向こうとの行き来を可能にする魔法の研究を禁止してしまっているから、シールドの研究だって、政府がシールドなしで安全だって言っている以上は、表立ってはなされない。そんな研究には予算が出ないからね」

「なるほど…」

 予算か…。

「研究ってやっぱりお金がかかるんですね」

「そりゃあね」

「エミルの発明にかかるお金はどうしてるんですか?」

「表立った発明の方は、大学や企業からお金が出る。裏の発明の方には、大学からもらう給料をつぎ込んでるよ」

「…ああ、そうか。エミルが大学で研究したり発明したりするのって、仕事なんですよね。忘れてました」

「そう。授業もするしね」

「そうなんですか!」

 竜は目を丸くした。エミルはおかしそうに笑った。

「そうさ。たまに他の大学にも呼ばれて行くことがあるよ。忙しいから大抵は断るんだけど、たまにどうしても断れないことがあってね」

「すごいなあ」

 竜は改めて尊敬の目でエミルを眺めた。

 そういえばエミルは魔法発明学の世界で五本の指に入る優秀な研究者なんだった。こんな風に髪を後ろで束ねて、ジーンズを履いて、若くてイケメンでなんだか学生みたいに見えるけど、ドクター・ブリュートナーなんだ…。そうそう、大学に行った時もそう呼ばれていたっけ。

「じゃ、僕がフリアに入学したら、エミルの授業を受けることもあるんですね」

「そうだね。…なんだか照れくさいな。できるだけそうならないように大学側に頼もう」

「ええーそんな!受けてみたいです、エミルの授業」

 そこで竜は、健太が言っていたことをふと思い出した。

「エミル、大学の授業料なんですけど、どうやって払えばいいんでしょう。向こうのお金をこっちのお金に替えたりできるんですか?」

「そういう制度は聞いたことがないな。でも、心配ないよ。向こうからの学生は学費免除だそうだ」

「そうなんですか!よかった…」

 竜はほっとした。向こうでも、子供の学費がかかって大変だとか、私立大学の授業料が高い、とかいう話はよく聞く。今朝健太に指摘されてから、魔法大学なんて一体どれだけのお金がかかるんだろうと心配していたのだ。これで父さんと母さんを説得する際の心配事が一つ減った。

 けれど、そんなことをエミルと話しながらも、竜は罪悪感を感じずにはいられなかった。僕ばっかりこんなふうに幸せでいいんだろうか。健太を守れないのに…。

 窓の外は、相変わらずの曇り空だった。日曜日の午後だからか、この前来た時に比べて交通量も、歩道を歩いている人々の数も、ずっと多い。車の排気音がないので、窓を開けていると、人々のお喋りしている声がよく聞こえる。

 突然、竜は見覚えのある道に気がついた。この道は確か…。

 数秒後に、エミルが車を停めた。

「ちょっと寄って行こう」

「やった!」

 竜は思わず声を上げていた。ピエールのカフェだった。


 「あら竜君、なんだかちょっと疲れてるのかしら?」

 コーヒーとクッキーを持ってきてくれたピエールが、心配そうに眉をひそめた。

「え、そ、そうですか?」

 なんと答えたらいいかわからなくて、竜はとりあえずそう言った。そんなに顔に出てるんだろうか。エミルが笑って、

「練習のしすぎ」

 と、さも内緒事のように、声を潜めてピエールに言った。ピエールが綺麗に形の整った眉を上げる。

「そうなの?」

「すごいんだ。天才だよ」

「まあ!類は友を呼ぶってやつかしらね」

 嬉しそうにささやいて竜に片目をつぶってみせると、

「でもエミル、ちゃんと気をつけてあげなきゃだめよ。これくらいの年だと、上達するのが面白くて面白くて、身体を壊すまで練習しちゃうから」

「了解」

「竜君、私もね、覚えがあるからわかるわ。夢中になっちゃうのよね。でも、こんなふうに疲れた顔になっちゃってるのは、ちょっとペースを落とした方がいいってことかもしれない。魔法の他にも楽しいことは色々あるわ。スポーツや音楽やハイキングや読書。友達とおいしいコーヒー飲んでクッキー食べておしゃべりするのもいいものよ。ゆっくりしていって」

 そう言って微笑むと、カウンターで待っている他の客の方へ戻って行った。今日はこの前来た時よりもたくさん人が入っている。

 類は友を呼ぶ…。美しい照りのあるチョコレートクッキーに嬉々として手を伸ばしながら、竜はエミルが、ピエールも子供の時に飛び級して魔法大学で勉強したと言っていたのを思い出した。あんなことを言うっていうことは、もしかして、ピエールさんも夢中で練習しすぎて、魔法の喪失の兆候を経験したりしたことがあるのかな。

「おいしい…」

 心からのため息が出る。「おいしい」っていい言葉だなあと竜は思った。僕もこんなおいしいクッキーが作ってみたい。移住したら、いつかピエールさんにクッキーの作り方を教えてもらえるかな。それともそういうのは企業秘密っていうやつなのかな。

 そんなことを考えながらも、また胸がちくりと痛んだ。健太を守ることができなくなってしまったのに、僕だけがこんなふうに楽しい思いをしていていいんだろうか…。

「ところで、竜」

 香り高いコーヒーを一口飲んで、エミルが言った。

「魔法の練習の方は今日はまあおいておくとして、その分時間がある。何がしたい」

「数学と物理がやりたいです」

 やれやれと苦笑してエミルがため息をついた。

「そういうんじゃなくて…、さっきピエールが言ってただろう。スポーツとか音楽とかハイキングとか。少しは魔法と関係ないことをして楽しむことも必要だぞ」

「今は魔法が一番楽しいんです…あ、飛ぶ魔法はもうやってもいいんですよね?また崖のところで飛んでもいいですか」

 エミルがにこりとした。

「いいね、そうしよう」


 ピエールのカフェを出てしばらくすると、ぽつ、ぽつ、と雨粒が車の窓ガラスを叩き出し、あっという間に土砂降りになった。

「やられたなあ」

「これじゃ飛べませんね」

 濡れるのはまあいいけれど、こんなすごい勢いの雨の中を飛んだら、顔に雨粒がビシバシ当たってものすごく痛そうだと竜は思った。エミルはちょっと考えているふうだったが、

「そうだ。ちょっと泳いでいこうか」

「えっ」

「近くにプールがあるんだ」

 泳ぐと聞いて、竜は自分でも意外なほど嬉しくなった。

「はい!」

「よし。…あ、でも一応スティーブンに訊いたほうがいいかな」

 竜は急いで言った。

「大丈夫です。もう本当に全然平気ですし、それに全力で泳いだりしないように気をつけますから!」

 エミルは楽しそうに笑った。

「わかった。じゃ、行こう」 

「やった!」

 竜は座席の上で体を弾ませた。泳ぐなんてものすごく久しぶりな気がする。こっちのプールってどんなふうなんだろう。わくわくしながら窓の外を眺める。色とりどりの傘の花が咲いた街は、小さい時に読んだ絵本の挿絵のようだった。



 




 

 

 



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