第30話

 ライラの、ひゅうん、という声と、尻尾を床にばたばたと打ちつける音が聞こえて、竜はうっすらと目を開けた。途端に複数の人がはっと息を呑んで身動きする気配があり、椅子の動く音とコツコツという靴音が聞こえ、ぼんやりと見えていた天井を背景に、青ざめたスティーブンの顔が現れた。

「竜君」

「…はい」

 竜がかすれ声で返事をすると、いくつものため息が聞こえた。なんだか異様な雰囲気だ。そっと頭を左に動かすと、ベッドのすぐ脇にライラの嬉しそうな顔があった。焦点をライラの後ろに合わせると、やっぱり青ざめたエミルとカール、涙を拭っているマリー、そしてマリーに肩を抱かれている赤い目をした健太が見えた。

「竜君、気分はどうですか」

 ベッドの右側からスティーブンが訊く。今度は頭をゆっくり右側に動かし、ベッドの上に屈んでいるスティーブンを見て、竜は答えた。

「…大丈夫です」

「どこか痛みますか」

 竜は身体の感覚を探ってみた。

「…どこも痛くない、と思います」

 答えながら、だんだん意識がはっきりしてきた。

「何があったんですか」

 スティーブンは安心させるように微笑んだ。

「果樹園で魔法の練習をしていたのを、覚えていますか」

「はい」

「どんな練習をしていましたか」

「ええと…自分の次元を拡げて相手を覆う練習をしていて…マルギリスを歌わせながら…」

 記憶が戻ってくる。マルギリスの歌。怒涛のような流れ。思わず渾身の力で踏ん張った。辺りが真っ白で眩しくなって、熱くなって…

「…僕、失神したんですね」

 言ってから竜は雷に打たれたようになって息を呑んだ。まさか、まさか魔法の喪失?!

「そうです。昨日の午後果樹園で失神して…」

 スティーブンの言葉は耳に入らなかった。竜は夢中で目を動かして、最初に目に入ったもの、自分のかけているシーツを見つめた。

 シーツはすうっと宙に浮かんだ。

「竜君!」

 スティーブンが声を上げる。竜は安堵のため息をついて魔法を止めた。シーツはふわりと竜の上に落ちた。

「まだそんなことをしてはいけませんよ!安静にしていなくちゃだめです!」

「…ごめんなさい。もしかして、魔法の喪失になっちゃったのかと思って…」

 言った途端目に涙が滲んで、竜は自分でびっくりした。慌てて目を擦る。スティーブンがため息をついて微笑んだ。

「魔法の喪失になっていないことは、今のでわかりました。安心しましたよ。でもしばらくはどんな魔法も控えて、よく休んでください。少なくとも昼頃まではね」

「昼頃?…だって…今何時ですか?」

「ちょうど6時になるところです。朝のね」

 6時?朝の6時?竜は数秒間ぼうっと考えた。朝の6時?

「何か飲みたいですか」

 そう言われて気がついた。喉がからからだ。

「はい」

「ミルクを持ってくるわ」

 マリーが急いで部屋を出ようとすると、スティーブンが追いかけるように

「今は水のほうがいいでしょう」

 と言ったので、竜はちょっとがっかりした。なんだか急にお腹が空いてきた。

「スティーブン、あの…何か食べちゃだめですか?」

 竜のその言葉を聞いて、エミルとカールがちょっと笑った。竜もちょっと笑って二人を見た。笑っていても二人とも疲れた顔をしているのがよくわかった。

「何か食べたいんですか?」

 スティーブンが驚いたように尋ねる。

「はい、なんだかお腹が空いて…」

「『育ち盛りの若い食欲』は健在だね」

 カールが温かい声で言う。

「まだ食べちゃいけないのかい?スティーブン」

「うーん、意識を回復するのにこれだけ長くかかってますからね。少し様子を見たほうがいいと思います。そうですね、少なくとも1時間くらいは」

 1時間…。竜が目を回しそうになっていると、マリーが水の入った大きなグラスを持って戻ってきた。

「はい、お水」

「ありがとうございます」

 スティーブンに助けられながら起き上がってグラスを受け取り、竜はまぶたの腫れたマリーの目を見つめて心から謝った。

「マリー、ごめんなさい。心配かけて」

「まあ、竜…」

 マリーは見る見る目を涙でいっぱいにして、竜をぎゅうっとハグしてくれた。グラスが揺れて水がほんのちょっとだけこぼれた。

「意識が戻って本当によかったわ」

「エミルもカールも…ごめんなさい」

 マリーの肩越しにエミルとカールにも謝った。二人ともベッドサイドに来て、代わる代わるハグしてくれた。エミルがぎゅっとハグしてくれたとき、竜は思わず泣きそうになった。

「エミル…本当にごめんなさい」

「まったく。寿命が縮んだぞ」

 笑って言って、エミルは竜の額を指で軽く弾いた。目の縁がうっすら赤くなっていた。

 竜はベッドの足元の方に立っている健太を見た。ライラが健太に寄り添うようにして座っている。

「健太…ありがとう来てくれて」

 健太は黙ってうなずいた。その赤い目が、竜と話したいことがたくさんあると言っていた。

「スティーブンも…来てくださって…治してくださってありがとうございます」

「いやいや、僕は何もしていませんよ。竜君は自分で意識を回復したんですから」

 そのとき、ライラが「私は?」と言うようにひゅんっ、と言ったので、みんな笑ってしまった。

「ライラもありがとう。ごめんね心配かけて」

 竜は心から言った。ライラはにこにこして立派な尻尾を床にばたばた打ちつけていたけれど、健太のそばを離れなかった。ライラは今健太の気持ちを知っていて、健太を支えようとしているんだと竜にはわかった。

「竜君が意識を回復しかかったのに一番に気づいたのはライラなんですよ」

 スティーブンが目を細めてライラを見た。

「急に起き上がって、今みたいにひゅうん、って言って、尻尾を振って」

「はい、それで僕も目を開けたんです」

 竜は水を一口飲んだ。びっくりするほど美味しく感じた。別に死んだように感じていたわけではないけれど、今水を飲んで、生き返ったような気持ちがした。ごくごく飲もうとしたら、

「ゆっくり、少しずつ」

 と、スティーブンに注意されてしまった。

「スティーブン、竜は朝ごはんを食べてもいいのかしら」

 マリーが訊く。

「あと1時間は待ってください。様子を見たいので」

 とスティーブン。

「本人は食べる気満々らしいけどね。ちょうど朝食前に意識が戻るところが竜らしい」

 エミルが笑う。水を少しずつ飲みながら、竜もうなずいた。

「お腹ぺこぺこです」

「まあ、あと1時間はこのままベッドにいてください。そのあと大丈夫なようなら少し食べてみて…ゆっくりとね」

「お粥みたいなものの方がいいのかしら」

「そうですね。念のために消化のいいものの方がいいでしょう」

「じゃ、卵のお粥を作りましょう」

 マリーがにっこりする。

「懐かしいな。小さい頃風邪を引いたりすると作ってくれましたっけね」

 エミルが竜に片目をつぶってみせる。

「美味しいよ。僕は蜂蜜をかけるのが一番好きだったけど、メープルシロップもいける」

 竜はますますお腹が空いてきた。エミルのお墨付きならすごく美味しいに違いない。早く食べたい。

「じゃ、私はキッチンにいるわ。何かあったら呼んでちょうだいね」

「私はライラを散歩に連れて行こう。健太君もおいで。この辺を案内しよう」

「はい」

 健太はちょっと戸惑ったような笑みを浮かべ、竜に手を振ると、ライラにぴったり寄り添われて部屋を出て行った。出がけにカールがスティーブンに目配せしてうなずいてみせたので、大人たちの間でなんらかの了解があったらしいと竜にもわかった。

 エミルとスティーブンと竜だけになると、スティーブンはベッドの右側の椅子に座り、エミルはベッドの足元の方に腰を下ろした。二人とも真剣な顔をしている。竜は二人を交互に見て、グラスから水を一口飲んだ。叱られるのかな…。

「さて、と。竜君、起き上がっていて疲れませんか。横にならなくて大丈夫ですか」

「大丈夫です」

 マリーがヘッドボードに立ててくれた大きな枕に寄りかかっているので、ふかふかしてとても快適だった。

「では…まず竜君に謝らなくてはなりません」

 スティーブンは大きなため息をついた。

「健太君に…全て話しました。

 昨日の午後、竜君が失神して意識が戻らないとエミルが連絡をくれました。すぐにこっちに向かう支度にかかり、研究所の調査旅行に出ているサラにも連絡しました。子供たちを置いていくので、誰に留守を頼むかとか、いろいろ決めなくてはなりませんでしたから。

 そのときに竜君に何があったのか、どうしてそんなことになったのか、サラに詳しく説明したのですが——サラはもちろんカールの魔法のことや真さんのことなども全て知っていますから——、それが健太君に聞こえてしまったんです。魔法で話していましたから、家の中をあちこち動いて荷造りをしたりしながら話していて…。

 ジーナは友達のところだし、コールは図書館に行っていて、健太君とレイは試合の後帰ってきて庭でバスケをしていました。健太君は僕に話があって家に入ってきたのですが、僕が電話中なのを見て、居間に座って待っていてくれたんです。私は話と荷造りに気を取られていてそれに気がつかなくて…。庭にレイと一緒にいるとばかり思っていて…。気がついた時は遅かったんです。

 なんとかごまかそうとすると、いつもはあんなに穏やかな健太君が血相を変えて、一体どういうことなのかちゃんと全て教えて欲しいと僕に詰め寄りました。

 竜君が健太君の記憶と脚の魔法を守るために非常に難しい魔法に挑戦して、倒れて、意識が戻らない。もしかしたら魔法の喪失が起こるかもしれない。こっちと向こうを行き来してもっと魔法を学びたいとあんなに楽しみにしているのに、もし魔法の喪失が起こってしまったらそれも叶わなくなる…と、サラとはそういうことを話していたので、もう何をどうごまかすのも無理だと判断し、健太君に訊かれるままに、全てを話しました。本当に申し訳ありません」

 スティーブンはそう言って頭を下げた。竜は急いで首を振った。

「そんな、スティーブン…。事故みたいなものです。スティーブンのせいじゃないですから」

「ありがとう竜君。…健太君は僕の話を聞くと、自分もフリアに行きたいと言って、それで一緒に来たんです。どうしても竜君と直接会って話したいと言ってね」

「そうですか…」

 竜はうなずいた。スティーブンの話を聞いていて、まごうかたない事実が重く竜の心にのしかかってきた。

 僕は健太を守る魔法に失敗したんだ。

 健太を守れなくなってしまったんだ。

 手が震えた。竜はグラスの中で揺れる水を見つめた。

 スティーブンが少し遠慮がちに言った。

「…それで、竜君、もし覚えていたら、失神した時のことを詳しく教えてくれませんか」

「はい」

 竜は気を取り直して、できるだけ正確に思い出そうと努めながら、どんなことがあったのかを二人に話した。周囲が明るくなり、自分の内側のどこかで温度がすっと上昇し出したこと。怒涛のような流れに押し流されそうになって、精一杯の力で踏ん張らざるを得なかったこと。その間にぐんぐん明るさと温度が増していき、眩しくなって、熱くなって、ついには辺りが真っ白になり、マルギリスの歌とは別の、甲高い電子音のようなものが聞こえたこと。 

 竜はエミルに尋ねた。

「エミル、マルギリスの歌は聞こえましたか」

 エミルはうなずいた。

「ちゃんと聞こえたよ。完璧だった。そうしたらそれが途中でふっと途切れて、竜が後ろに倒れかかったから魔法で支えて…。スティーブンにも話したけど、身体がずいぶん冷えてるようだった。手をつかんだら冷たくてびっくりしたよ」

 ああ…、と竜はうなずいた。

「そういえば、レウリスでやった後、なんだか寒いような感じがしてたんです。曇ってきていたから、それで肌寒いのかなと思ってたんですけど」

「なるほど…。それも兆候の一つだったかもしれませんね…」

 スティーブンが顎を撫でながら考え深げに言った。

「…スティーブン、あの…、」

 竜はためらいながら確認した。

「やっぱりこれは…この失神は、魔法の喪失の兆候なんですか」

「そうですね」

「それじゃ、もう一度同じことをやったら、魔法の喪失になってしまうんですか」

「何度やったら、というのはわかりません。個人差がありますからね」

「じゃあ、もしかしたら、例えばあと三回くらいやっても大丈夫っていうこともあり得るんですね」 

 スティーブンは前屈みになってしっかりと竜を見据えた。

「それはあり得ますよ。でも竜君、そんなことをしない方がいい。これは、例えば『蝋燭に火を灯す魔法』の時のように、何度失敗しても諦めずにやっていればいつかはできるかもしれない、というのとは全く違うんです。魔法の喪失の兆候が起こるということは、その魔法が、使い手の力の及ばないものだということを、はっきり示しています。練習して上達すればできるようになる、ということではないんです。兆候のことを知らずに、または兆候に気づかずに、そのまま練習を続けてしまって魔法の喪失になる人達がいる中で、竜君の場合は幸運にもこういうはっきりとした形で兆候が起きたために、気づくことができたんですよ。それを無駄にしてはいけない」

「…はい」

「前にも言いましたが、 魔法の喪失が起こってしまったら、もうそれっきりです。本当にもう、それっきり、なんです」

 それっきり、をはっきりと強調してスティーブンは言った。スティーブンの真剣さが痛いほど感じられて、竜は何も言えなくなった。うなだれた竜をスティーブンは労わるような目で見て、そっと言った。

「それに…健太君はきっと、竜君にそんなことをして欲しくないと思いますよ」

「…そうでしょうか」

「竜君が健太君の立場だったらどうですか。自分のために友達が身を危険に晒すのを望みますか」

 竜はため息と共に首を振った。

「…いいえ」

 全てが終わってしまったような気がした。これ以上何か言ったら泣き声になりそうで、竜は黙って水を飲んだ。

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