第32話
着いたところは大きな白いつやつやした建物で、中も染みひとつなく真っ白でつやつやしていた。ロビーは天井が高く、球形の白く輝く明かりがあちらこちらに浮いていて、そこここに背の高い観葉植物や純白のソファが置いてあり、低い音量で音楽が流れている。数人の人がいて静かにおしゃべりをしたり、飲み物を飲んだりしている。竜が辺りを見回している間に、カウンターで手続きをしたエミルが戻ってきた。
「こっちだ」
銀色の自動ドアを通って、別の部屋に入る。ここも真っ白でつやつやした、廊下のように横に長い部屋で、目の前にたくさんの白いドアが並んでいる。エミルは竜に小さな銀色の鍵を手渡しながら言った。
「これが更衣室。この鍵をドアのどこにでもいいから差し込むとドアが開く。中に入って、着ているものと靴を脱いで、そこに置いてある箱に入れて、蓋を閉める。それから部屋の真ん中にある円盤の上に立ってそこにあるボタンを押す。上から光線が降りてきて、1、2秒したら消える。そうしたら円盤から降りて、出された水着を着て、反対側のドアから出るんだ」
「はい」
ちょっとドキドキしながら、竜はエミルに促されて小さな銀の鍵をドアに差し込んだ。鍵はまるで液体の中に吸い込まれるようにするりとドアの中に吸い込まれ、ドアがすうっと内側に開いた。
「じゃ、更衣室を出たところで会おう」
エミルはそう言って微笑むと、隣のドアに鍵を差し込んで、竜にうなずいてみせ、開いたドアから中に入っていった。竜もそっと自分の更衣室の中に入って後ろ手にドアを閉めた。
そこは、柔らかい明かりに満たされた、やはり真っ白でつやつやした小さな部屋だった。右側の壁には壁の幅いっぱいの鏡があって、その下はやはり壁の幅いっぱいに伸びた洗面台になっていた。中央よりも入口寄りに、楕円形のシンクがついている。洗面台の中央あたりには、エミルが言っていた大きな白い箱があった。洗面台の近くには白い椅子も置いてある。部屋の中央の床には、エミルの言った通り白い円盤があり、入口の反対側にもう一つのドアがある。
着ているものと靴を脱いで白い箱に入れる。箱の中は二段になっていて、靴と服を別々に収納できるようになっていた。全部を入れ終わって蓋を閉めると、箱はまるで水の中に沈むように、すうっと洗面台の中に沈んでいった。
円盤の上に立つ。円盤の隣に立っている、大学で見たのと同じようなポールのてっぺんについている白いボタンを押すと、上からぱっとオレンジ色の光が降ってきて、すぐに消えた。
円盤を降りると、出口に近い方の洗面台の上に、これも水の中から現れるように、すうっと白い箱が出てきた。中を見ると、綺麗な濃いブルーのハーフスパッツと同じ色のキャップと銀色のゴーグルが入っている。ゴーグルは、どう見ても銀色なのに、手で持って覗いてみるとまるで無色透明のゴーグルのように周りがクリアーに見えた。水着の素材は向こうの世界と同じような感じだ。サイズもぴったりあっていて着心地がいい。
「すごいなあ…」
呟きながら竜は鏡を見た。目を丸くした自分の顔が映っていた。
出口のドアを開けて一歩外に出た竜は、思わずわあと口を開けていた。白いつやつやしたプールサイドに囲まれた、綺麗なブルーの50メートルプール。コースロープは白。9レーンある。壁も天井もガラス張りで、外は雨に濡れた美しい緑の木立だった。まるで山の中のようだ。なだらかな芝生のスロープが続いて、少し離れたところには大きな湖のようなものまで見える。
「大丈夫だったか、更衣室」
隣のドアから出てきたエミルが訊く。ダークグレイのハーフスパッツに、同色のキャップ。ゴーグルはやはり銀色だ。
「はい。ここ、どこなんですか?公園?町の中なのに、こんな大きな公園があるんですか?」
エミルは笑った。
「これは映像だよ。確かにずいぶん本物らしく見えるけどね。日によって景色が変わるはずだ」
「映像?これが…?」
どう見ても本物にしか見えない。すごい。
ストレッチを始めたエミルを見て、慌てて竜もいつものストレッチを始めた。つやつやした床は、一見滑りそうに見えるけれど、足がぴたっと吸いつくような感じでしっかり踏ん張れる。
「更衣室のあのオレンジ色の光はなんなんですか?」
「身体のサイズを図るためだよ。だから自分の水着を持ってきてるならボタンを押す必要はないわけだ」
「なるほど…普通は自分の水着を持ってくるんですね」
「いや、そうでもないよ。こういう町中にある普通のプールなんかだと特にね。学校のプールなら、自分の水着を持っていくけど」
普通のプールにしてはずいぶん豪華だなあと竜は思ったけれど、こっちの世界ではこれでも「普通」なのかもしれない。
「ガラガラですね。日曜日なのに」
こんな広いプールに、五人しか泳いでいない。向こうの世界だったら、日曜日なんて混んでいてろくに泳げない。
「日曜だからかもな。こういうところだと、平日の午後や夜なんかの方が人がいると思うよ。仕事の後に寄ったりね」
「子供のスイミングクラスとかは?」
「それは学校のプールだろう」
竜はちょっと考えた。
「…もしかして、小学校とかにも室内プールがあるんですか」
「うん。でもそっちの世界だってそうだろう?」
「他の国のことはわからないけど、日本の学校のプールは大抵屋外ですよ」
エミルは目を丸くした。
「それじゃ冬はどうするんだい」
「スイミングの授業は夏だけです」
「へえ、なんだかもったいないな。どうして室内に作らないんだろう」
竜は考えた。
「んー、よくわかりませんけど、多分、管理が大変とか、作るのに屋外より費用がかかるとか、そういう理由じゃないかと思うけど…」
エミルもよくわからないという顔をして、
「…まあ、魔法がないと色々違うんだろうな。でもそれじゃあ、竜や真が行ってるスイミングクラスっていうのは、学校とは別のところなんだね」
「そうです。こういうような…いや、こんな大きくてゴージャスなところじゃないけど、室内のプールです。だから冬でも泳げるけど、日曜日なんかは一般の人も来られるようになってるので、結構混むんです」
「というと、じゃあウィークデイはスイミングクラスの生徒たちだけが使うわけか」
「そうです。スイミングスクールですから」
「ああそうか、なるほどな。で、日曜日はスクールが休みでスイミングの授業がないから、そのスイミングスクールの生徒たち以外にも開放している、と」
「はい」
「そうか、知らなかったな。真がスイミングクラスのことを話していたけど、てっきり学校のスイミングクラスだと思ってたよ」
「こっちではスイミングスクール、なんてものはないんですね」
「ないね。学校で放課後にスイミングクラスがあって、泳ぎたい生徒だけ泳ぐんだ。学校のスイミングチームがあって、大会があったりね。…さて、泳ぐか」
「はい!…あれ、シャワーは?」
エミルが変な顔をした。
「シャワー?」
「向こうだと、プールに入る前にシャワーを浴びるんです。ざっと汗とか汚れを流すためだと思いますけど」
「ああ、それならもう済んでるよ。更衣室を出るときに、ドアのところで上から光線が降りてきたろう。あれで身体についてる汚れが取り除かれるんだ」
「気がつきませんでした。すごいなあ。便利ですね」
竜はすっかり感心した。向こうの世界でプールの前に浴びなければならないあのシャワーが竜はあまり好きではない。特に学校のプールのシャワーは大抵ものすごく冷たく感じる。思い出すだけで鳥肌が立ってしまうほどだ。
プールサイドに屈んで、手を水に入れてみる。冷たすぎず、温かすぎない。心地よい感じの水だ。わくわくしてくる。竜はエミルを振り返った。
「飛び込んでもいいんですか」
「もちろん」
身体にちょっと水をかけてから、竜は誰も泳いでいない第3レーンのスタート台に立ってゴーグルをつけた。この感覚!なんだかすごく懐かしい感じがして胸が疼く。竜は幸せな息をつき、それから構えて飛び込んだ。
空を切る感じ。そして周囲が空気から水に変わる瞬間。水の感覚。水の音。水の世界。すうっと浮かび上がりながら、竜は嬉しくて楽しくて、どうしようもなく頬が緩んでしまった。ゆっくり水を掻く。気持ちいい。水の中を滑っていくように身体が進む。竜は半ばうっとりしながら泳ぎ続けた。
100メートルを泳ぎ切ると、竜は満足のため息をついて真っ白なコースロープに腕をあずけた。ああ、幸せだ。ふと隣のレーンをこちらに向かってゆっくり泳いでくるエミルに目をやって、竜は思わず口の中でわお、と言っていた。すごくきれいなフォームだ。エミルにできないことってあるんだろうか。
「エミル、スイミングやってたんですか」
エミルはゴーグルを外して微笑んだ。
「うん、11歳の時に、真の影響で始めたんだよ」
「そうだったんですか」
「だって、好きな女の子より自分の方が泳げなかったら格好悪いだろう」
おどけて言ってエミルは懐かしそうに笑った。
「あの頃、僕はスポーツなんてなんにもやってなかったんだ。そしたら真がスイミングをやっていて、しかもバタフライが得意種目だなんて言うだろう?これは大変だと思って、すぐに学校のスイミングクラスに入ったんだよ。真には内緒にしてた。おかげでひょろひょろのもやしっ子にならずにすんだってわけ」
もやしっ子どころか。竜はコースロープの上に出ている綺麗に筋肉のついたエミルの肩や腕をかっこいいなあと思って眺めた。コーチよりもかっこいい。水泳選手みたいだ。
「今も泳いでるんでしょう?」
「大学ではほぼ毎日ね。朝起きるとまずプールに行くんだ」
「いいなあそれ!」
朝起きてまず泳げるなんて!早く大学に行きたい!
「大学のプールもこんなに大きいんですか」
「うん、同じだね。50メートル9レーン。でも窓は普通の窓だよ。見えるのはいつも同じ大学の庭。それにこんなに空いてることは滅多にないな。朝早く行っても1人1レーン使えるなんてことはあんまりないよ」
竜は目の前に伸びている空っぽのレーンを見て、嬉しくなって笑った。
「すっごい贅沢ですよね、1人1レーンなんて。いっぱい泳がなきゃもったいない。あと何分ですか?」
「時間制限はないよ。でも、ほどほどにしておけ。疲れるまで泳いだりしないほうがいい…」
「はあい!」
みなまで聞かず、竜は壁を蹴った。ぐんと伸びた身体が水中を滑っていく。なんて楽しいんだろう。今までだって泳ぐのは好きだったけれど、こんなに楽しいと思ったのは初めてのような気がした。魔法がやっぱり一番楽しいと思うけれど、泳ぐのもこんなに楽しい。ピエールさんの言ってたことは本当だなあ、と竜はしみじみ思った。
はしゃぐ気持ちが少し落ち着いてきたからか、泳いでいる間に竜はいくつかのことに気がついた。
まずは水。気のせいばかりでなく、絶対に向こうの世界のプールの水とは違う、と竜は思った。軽くて、すごく透明で、心地良くて、ちょっとスパークリングウォーターのような感じがする。そして塩素の匂いがしない。
それからプールには、たくさんの小さな石かタイルのようなものが敷き詰められているように見える。色も一色ではなく、白っぽいのや様々の濃淡のブルーやグリーンがあって、時々光の当たり具合によってちらりちらりと光るのがとても綺麗だ。
100メートルを泳ぎ切ってすぐ、竜はゴーグルをとって、目の前の壁をしげしげと眺めた。タイルのようなものはそれぞれ3cm角くらいの正方形で、透明なものと半透明なものがある。色は泳いでいる時に見た通り、大きく分ければ白、ブルー系、グリーン系の三色だけれど、実に様々なブルー、様々なグリーンがある。バランスとしては、やはりブルー系が一番多いようだ。
向こうの世界でもタイル張りのプールや壁なんかを見たことがあるけれど、何かが違う…と考えて、竜は気がついた。向こうの世界ではタイルとタイルの間に目地がある。これはタイルとタイルがくっつきあっている。だから、少し離れて見ると、形が曖昧に見えるのだ。
「どうした?」
戻ってきたエミルが、壁に顔をくっつけるようにしている竜に訊く。
「いろんな色があるんだなあって思って。綺麗ですね。これなんてほら、リルの実みたい」
半透明のサップグリーンのタイルを指すと、エミルも目を細めた。
「ほんとだ。へえ、ずいぶんいろんな色があるんだな」
「大学のプールは違うんですか?」
「うーん、どうだろうな。こんな風に気をつけて見てみたことがないから…」
「やっぱりこういうタイルみたいなのなんですか?」
「プールはみんなこうだと思うよ。アルツっていう石だ。それぞれの間にうんと細い隙間が空いてるだろう。そこからアルツが水を吸い込んで、綺麗にしてるんだよ」
竜は指で注意深く壁を触ってみた。確かに、それぞれのアルツの間に本当にごくわずかな、髪の毛の太さくらいの隙間が空いているようだ。ちょっと見ると平べったいタイルのように見えるけれど、よくよく気をつけて見ると、それぞれが奥行きのある直方体なのだとわかる。
「これが水を綺麗に…。すごいなあ…。もともとそういう石なんですか、それとも魔法でそういうふうに作ったんですか?」
「両方だね。水を綺麗にするっていうのはアルツの性質だけど、それをこういう形に加工して、アルツがより効率的に水を吸い込めるようにしているのは魔法だ」
「そういうのも、魔法発明学なんですよね?」
「まあそう言ってもいいかな。ずっとずっと昔の発明だけどね」
発明ってすごいなと泳ぎながら竜は思った。向こうの世界でもそうだ。周りにある様々な便利なものは、元からあったものじゃなくて、誰かが考え出して作り出したものなんだ。魔法発明学。僕もやりたいな。頑張って勉強しなくちゃ。
またちくりと胸が痛んだ。友達を守れないくせに、自分だけこんな素敵なプールで楽しい思いをして、楽しい未来を思い描いている…。竜は急いでその考えを振り払って泳ぎ続けた。少しの間だけそのことは忘れていたい。今は、楽しみたい。
「さすがだなあ竜」
クロールを何度か往復した後で背泳ぎを泳ぐと、こちらは平泳ぎで戻ってきたエミルが微笑んだ。
「綺麗な泳ぎだ」
「エミルこそ。僕、ブレが一番苦手なんですよ」
「得意なのは?」
「フリーです。エミルは?」
「同じく」
竜はにやりと笑ってみせた。
「競争しましょうか」
エミルも眉を上げてにやりとした。
「言ったな。いいよ」
が、すぐに真顔に戻って言った。
「でも今日はやめておこう。休まなくて大丈夫か?これで500だけど」
「全然大丈夫です。このペースならまだまだいけます」
「無理するな。病み上がりなんだからな」
「無理なんて…。楽しくて楽しくて、ずっと泳いでいたい気分です」
そう言って竜はにっこりした。足を水面から出してぱしゃんと水を揺らす。
「泳ぐのがこんなに好きだったなんて、今まで気づきませんでした」
「まさに水を得た魚だな」
エミルが笑う。
「でも本当に気をつけろ。数時間前には、歩くのすらゆっくりじゃなきゃだめだってスティーブンに言われてたんだからな」
「はあい」
竜は首を竦めた。本当に、そういえばそうだった。スティーブンがここにいたら、きっともう上がれって言うだろうな。
ずっとずっと泳いでいたいと本気で思った竜だったが、あと10本泳いだところで、エミルからストップがかかった。
「今日はこれくらいにしておこう」
「ええー」
竜は思い切り口を尖らせた。エミルが吹き出す。
「真そっくりだ」
「100泳ぐ度にここでおしゃべりしていっぱい休んでるんだし、まだ大丈夫です」
「うん、でもまあ念のためだ。ジェットバスでゆっくり温まって、着替えて、クッキーでも食べよう」
「…クッキーで釣る気ですね」
エミルがにやりとした。
「釣られただろう」
「…釣られました」
竜は笑った。急にお腹が空いてきてしまった。目の前にチョコレートクッキーがちらちらする。
「でもじゃあ、あと一本だけいいですか」
「よし、じゃラストだ」
竜は曇り知らずのゴーグルをつけ、ぐんと壁を蹴った。この心地いい水を覚えていよう、と思ってから、竜は心の中で眉をしかめた。覚えていようなんて思う必要ないじゃないか。またいくらでも泳げるんだもの。まるでもう二度と戻ってこられないみたいに…縁起でもない。
ジェットバスは、プールサイドの脇の少し引っ込んだ所にあった。そこはサンルームのようになっていて、外の景色(竜はどうしてもそれを映像だとは思えなかった)を存分に楽しむことができる。観葉植物がたくさん置いてあり、眺めのいい温室といった感じだった。ちょうどいい温度の湯に浸かると、身体が緩んで魂の底からため息が出る。
「ちょっと泳ぎすぎたんじゃないか、やっぱり」
竜の大きなため息を聞いて、エミルがちょっと心配そうに言う。
「いえ、あんまり気持ちよくって…」
竜はまた深く息をつくと、にっこりした。
「そんなに疲れてません。すっごく楽しかったです。ありがとうございます、連れてきてくれて」
「どうしたしまして。たまにはこういうのもいいだろう。こっちにきてからずっと魔法ばっかりだったからな」
「はい」
竜は心からうなずいた。外は相変わらず雨が降っている。
「まだ止みませんね、雨」
言ってから、竜は思い出した。
「あ、そうか、映像なんでしたっけ」
「うん、でも天気とか時間とかは実際の天気や時間に合わせてるからね。外でもまだ降ってるんだろう。…それにしても、竜」
エミルが片手で水鉄砲を作って竜に湯をかけた。
「お見事。綺麗な泳ぎだったよ。真が褒めてた通りだ」
「エミルこそ。さっきのバッタなんてすごかったです。見惚れちゃいました」
ゆったりと力強く美しい。まるでシャチを見ているようだった。
「真が見たら、キャーキャー言いそうですよ」
エミルは照れたように笑った。
「バッタは上手くなりたかったね。真の得意種目だったから」
「真と泳いだことありますか」
「いや、プールでは一度もないよ。海では二、三度泳いだけど、でも真が本気で泳ぐところは残念ながら一度も見たことがない」
「綺麗ですよ、真のバッタ。速いし」
「見てみたいな。そういえば今中学の水泳部の合宿中なんだろう?」
「そうです」
もしかして真も今泳いでるかも、と言いかけて、竜はそんなはずないと思い返した。日本は今、早朝のはずだ。いくら合宿でも、まだ泳いではいないだろう。あることを思いついて、竜はふふっと笑った。
「真が、今、夢の中で僕たちのことを見ているかもしれませんね」
あり得ないことじゃない、と竜は思った。エミルが真とぬいぐるみのエムの夢を見たように。
更衣室に入って、エミルに言われたように、水着とゴーグルとキャップを洗面台の上の白い箱に入れて蓋を閉めると、箱が洗面台の中に沈んでいき、入れ替わりに竜の服と靴の入った大きな白い箱が洗面台から現れた。そこで竜はあることに気がついた。水着とキャップの色は、竜が着ていたTシャツの色と同じ濃いブルーだった。そういえば、エミルはダークグレイのTシャツを着ていたっけ。だからダークグレイの水着とキャップだったんだ、きっと…。
すごいなあ、面白いなあ、こっちの世界は。服を着ながら、竜は思った。こんなところで暮らせるなんて夢みたいだ。英語教室で習ったtoo good to be trueという言い回しが、まさにぴったり当てはまる。まだ信じられない。
途端に、またチクリと胸が痛んだ。泳いでいる間考えないようにしていたことが、また現れて、竜の正面に立ちはだかる。
友達を守れないくせに、自分だけ楽しんでいるなんて。いいのか?竜。正しいことをしていると思うのか?
だって、仕方がないじゃないか。竜は反論してみた。僕の力じゃ、あの魔法はできないんだもの。
確かにあの魔法はできないかもしれない。もう一つの声が言った。でも他に健太を守る方法がないのかどうか、探してみたのか?
そんな方法があるのなら、とっくにエミルやカールが何か言ってくれているに決まっていると竜は思ったけれど、ロビーで、カウンターで出された大きなガラスのゴブレットにいっぱいの水(といってもスポーツ飲料のようなものらしく、水より軽い感じがしてほのかに甘かった)を飲みながら、エミルに訊いてみた。
「エミル…あの魔法の他に、健太を守れる方法って何かないでしょうか」
エミルはさりげなくさっと周囲を見回してから、竜の方に身を屈めて低い声で言った。
「訊かれるだろうと思ってずっと考えてたんだけど…、何も思い浮かばない。健太君の…や脚の…を守れなくても、せめて…周囲からの影響を防げるものが何かないか考えてみてはいるんだけど」
竜は反省した。公共の場で訊くようなことではなかった。
「ちょっと意識の世界で話そうか」
エミルに言われて、竜は意識の世界のことをすっかり忘れていた自分に驚いた。
「はい。えーと…」
どうやるんだったっけ。ちょっと焦ったけれど、次の瞬間、竜は懐かしい空間にいた。淡いブルーと淡いグリーン。
「ずいぶん久しぶりみたいな感じがするな」
エミルが笑う。
「ほんとにそうですね。たった数日前のことなのに」
「ずいぶん色々あったからなあ。全く。魔法を始めてたった数日だっていうのに、二つの魔法を同時にやるだの、新しい魔法を作り出すだの、魔法の喪失の兆候だの。いまだに信じられない」
立てた膝の上に頬杖をついてエミルが微笑んだ。
「…で、健太君のことだけど。昨日の夜、もちろん健太君が席を外していた時にだけど、父とも話したんだ。残念ながら父も何も思い浮かばないようだった」
「そうですか…」
「でも竜、気休めに聞こえるかもしれないけど、健太君が世界と世界の間を移動するのは、これ一回きりだ。何度も行き来するわけじゃない。父や僕の魔法は、それを使う人間が何度も行き来することを想定しているからシールドの必要性があるけど、一回きりの移動で身体に悪影響が出るとは考えにくいっていうのが僕の考えだ。政府がこの点にあまり注意を払わないのは、それもあると思う。どの客人も、向こうに帰るときの1回きりしか移動を経験しないわけだからね。もちろん、シールドがある方がいいに決まってるけど、ないからといって、この一回きりの移動で健太くんの身体に何か悪い影響が出るという可能性は低いと思う。だから、そんなに心配するな」
それを聞いて、竜は身体からふうっと嫌な力が抜けたのを感じた。心の中に刺さっていた毒のあるトゲが抜けたような感じがした。
「もちろん、全て仮説の上のことだから、はっきりしたことは何も言えないし、だから僕も、何かシールドに使えるものがないかどうか探し続けるよ。さっきも言ったけど、シールドはやっぱりある方がいいに決まってるからね。でも竜は何も心配する必要はない。それから…これは言っても無駄かもしれないけど…」
エミルはしっかりと正面から竜を見据えた。
「健太くんの記憶や脚の魔法を守れないからって罪悪感を感じるのはやめるんだ」
竜ははっとした。やっぱりエミルにはわかってたんだ。
「力が及ばないのは竜のせいじゃない。竜に魔法ができて健太くんに魔法ができないのも竜のせいじゃない。それに竜が罪悪感を感じたり自分を責めたりしたって、誰のためにもならないんだ。何もよくならない。誰の助けにもならない。竜が自分を責めることで気が済むのならそれでもいいけど、でも大抵はそんなことしたって気が済んだりしない。気分も良くならない。ただ楽しいはずの時間が台無しにされるだけだ」
竜はうつむいた。
「…その通りだと思います。僕が自分を責めたって、誰の役にも立たない…。それはわかります。でも、健太を守れないのに、自分だけこんなに楽しい思いをして、未来も楽しみなことばっかりで…、なんだか…ずるいような気がして」
顔を上げてエミルを見る。
「どうしたらいいんでしょう。僕だってこんな気持ちでいるのは嫌だけど、でもどうしたらいいのか…。エミルだったらどうしますか」
エミルが優しい目で竜を見た。
「そうだな…。自分にできないことをくよくよ考えるのはやめて、自分の幸運に感謝して、自分にできることを頑張るかな」
「自分にできること…」
「例えば、将来すごい魔法発明学者になって、健太君みたいに魔法が使えない人でも向こうとこっちを安全に行き来ができる魔法を発明するために、とりあえず今は数学や物理を勉強する、とかね」
エミルは微笑んで片目をつぶった。
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