第2話

 突然の眩しさに思わず目をつぶった二人のすぐ近くで、誰かが小さく叫び声をあげ、ドン!ガタン!と何かがぶつかる音がした。

 慌てて竜が目を開けると、そこは明るく広いキッチンで、二人から二、三歩離れた戸棚に張り付くようにして、真っ白なエプロンをつけて泡立て器とボウルを抱えた若い娘さんが立っていた。目の玉が飛び出さんばかりに目を見開いて二人を凝視している。

「……」

 三人とも言葉が出ない。そこへ急ぎ足の足音が近づいてきた。

「それからね、マーサ、パーティ用のケーキの注文だけど…」

 そう言いながらせかせかとキッチンに入ってきた、くっきりと赤い口紅をつけた大柄な中年の女の人は、二人を見て「まあ!」と叫んで立ち止まったかと思うと、胸の前でドラマティックに両手を握り合わせた。

「まあまあ、んまあ!」

 オペラ歌手のような声だ。

「……す、すみません…」

 迫力ある声に思わず謝ってしまった竜だったが、聞こえたのか聞こえなかったのか、女の人は二人に駆け寄ると、健太の、ついで竜の手をぎゅうぎゅう握り、

「ようこそ!ようこそ!アメリア・ロッシュです。そちらはマーサ・レスター。うちの名パティシエですのよ。お二人ともケーキはお好き?ちょうどお茶にするところでしたの。居間へご案内しますわ。まあ、脚にお怪我をなさったのね。あら、いいのいいの私が車椅子を押して差し上げますわ。さ、どうぞこちらへいらしてくださいな。マーサ、そのババロアを冷蔵庫に入れてしまったら、ケーキの用意をしてね。本当にちょうどいいときにいらしてくださいましたわ。新作のケーキがありますのよ。マーサの自信作ですの。さあ、ここですわ。坊ちゃんはその椅子におかけになって。今お茶を持ってまいりますわ。あっ、そうそう、ドクター・キーティングにお知らせしなくては。すぐ戻ってまいりますから」

 二人に口をきく暇も与えず、健太の車椅子を押して二人を明るい窓際のテーブルに案内すると、足早に出て行った。

 二人は呆然として顔を見合わせた。

「…一体どうなっちゃってるんだ」

「夢?」

 竜は呆然としたまま腕をつねってみた。

「痛い…ような気がする。でも、まさか。現実なはずがない」

「そうだよね。現実なわけないよね…」

 真っ白なレースのカーテンが気持ちのいい風に揺れている。窓のすぐ外には淡いピンク色のバラが今を盛りと咲き乱れていて、ミツバチが忙しく飛び回っている音が聞こえる。どこかから、小鳥のさえずりも聞こえてくる。平和な、うとうとしてしまいそうな、避暑地の午後のような空気だ。二人ともしばらく言葉を失って、ぼうっとしたまま座っていた。向こうの部屋からは、食器のかちゃかちゃいう音と、アメリアの声が聞こえてくる。少しして、健太が低い声で言った。

「これって、もしかして、なんていうか、その、べ、別の世界とか、異次元の世界とかに来ちゃったっていうやつなのかな」

「…そうかも。どうしよう」

「どうしよう。帰れるのかな」

「大丈夫、ちゃーんとお帰りになれますわ」

 オペラ歌手のような声で歌うように言いながら、 ティーセットを乗せた銀色のトレイを持ったアメリアが足早に戻ってきた。

「お隣の世界から不意にお客様がいらっしゃるのは、この世界ではたまにあることですのよ。私のところにいらしたのは初めてのことですけれど。ああ、嬉しくてドキドキしてしまいますわ!私の従妹のフリーダのところに、何年か前に、お隣の世界からのお客様がいらしたことがあったのですけど、まあ、フリーダの自慢することといったら!でも、自分の一族のことを批判するのは気が引けますけど、あの人はねえ、料理がとっても下手で、特にまああの人の作るケーキなんて、とても食べられるものではありませんわ。スポンジはガチガチ、クリームはテロテロ!あんなケーキをお隣の世界からのお客様にお出ししたのかと思うと、恥ずかしさにこちらの身が竦んでしまいます。まったく!」

 アメリアは身震いすると、なんと反応していいか分からずにいる二人ににっこりしてみせた。

「話が逸れてしまいましたけど、大丈夫、ちゃんとお隣の世界にお帰りになれますわよ。詳しいことは後でドクター・キーティングがお話ししますけど、私でわかることでしたらなんでもお話しますわ。クリームとお砂糖はお入れになる?ああ、そうそう、お二人のお名前をまだ伺っておりませんでしたわ」

 二人は顔を見合わせた。竜がまずぺこりと頭を下げる。

「早川竜です」

「船橋健太です」

 健太も続いて頭を下げた。

「リョウさんとケンタさんね。素敵なお名前ですこと。ケンタさん、脚はお痛みになる?」

「いえ。大丈夫です」

「痛むようでしたらいつでも仰ってくださいね。そちらのソファで横になれますから。後でドクター・キーティングが治してくださいますわ。ああ、マーサ、ありがとう。さあ、ご遠慮なさらないで、好きなだけ召し上がってくださいな」

 マーサが押してきた小さな銀色のカートの上を見て、竜も健太も思わずわあと声を上げていた。チョコレートケーキ。苺のショートケーキ。オレンジタルト。チーズケーキ。竜に名前のわかるのはここまでだった。色も形も様々なケーキが十種類くらい並んでいる。まずは新作のケーキをということで、綺麗な薄桃色の薔薇の花のようなケーキが切り分けられた。桃のレアチーズケーキということだった。美味しそうな桃の香りが漂う。

「あの、それで、ここはいったいどこなんですか?」

 マーサがケーキを切り分けているのを見ながら、竜はアメリアに尋ねた。

「リョウさん達の世界のお隣の世界ですわ。詳しいことを言えば、マーエリのリントン村です。マーエリで一番大きい町フリアからは近くもなし遠くもなしというところですわね。汽車だとフリアからソンダースまで2時間半くらいでしょうかしら。ソンダースからここまでは車で30分ですわ。ソンダースは小さいけれど素敵な町ですのよ。いい美術館もありますし、素晴らしいコンサートホールもありますわ。美しい大きな公園もありますから、ピクニックもお散歩もスポーツも楽しめます。お二人ともお若いから、きっとスポーツをなさるでしょう?」

「ええ、まあ…。でも、すみません、その、隣の世界っていうのがよくわからないんです。僕たちの世界では、こちらの世界のことはあまり知られていない…というか、僕たち、一度も聞いたことがないんです、隣の世界があるなんて」

 口籠もりながら竜が言うと、アメリアは大きく頷いた。

「それはそうですわ。こちらの世界からはお二人の住む世界へは行かれないのですもの。私たちの世界へは、そちらからのお客様がたまにいらっしゃるので、それでそちらの世界のことを常識として皆が知っていますけれど。でも、そちらからのお客様も、意図してこちらにいらっしゃれるわけじゃありませんのよ。今日お二人がこうしていらっしゃったように、まるで突然地面に開いた穴に落ちるようにしていらっしゃるんですの。私も詳しくは知らないんですけれど、そちらの世界にはこちらの世界に通じるドアのようなものがあって、それが突然、ある時ある場所で開くことがあり、その時ちょうどそのドアに、もちろん知らずにですけれど、寄りかかっていた人が、急にドアが開いたものでこちらの世界に転がり込んでくる、というようなことらしいですわ。残念なことに、こちらの世界にはそういうドアがないもので、こちらの世界からそちらの世界にお邪魔した者はありませんのよ。ああ、本当に残念なこと」

 健太が驚いたように言った。

「でも、こちらの世界にドアがないなら、僕たちはどうやって帰ればいいんでしょう」

「それは私にはわかりませんけれど、ドクター・キーティングが説明してくださいますわ。ご心配なさらないで。帰りたいのに帰れなかったなんていうお客様は今まで一人もありませんもの。もちろん、こちらの世界をすっかり気に入られて、あちらにお帰りにならない方達もたまにいらっしゃいますけれど」

「そうなんですか?」

「ええ、たまにですけれどね。大抵の方達はやっぱりお帰りになりますわ。ご家族が心配なさいますものね。でも稀に、あちらで身寄りがなかったり、あまりお幸せでなかったりといった方々がこちらにいらっしゃると、あちらにお帰りにならないことがあるようですわ。あらっ」

 リンリーン、とベルの鳴る音がした。

「ちょっと失礼いたしますわ。マーサ、どんどんケーキを切ってさしあげてね」

 アメリアは足早に部屋を出て行った。マーサがにっこりして言った。

「どうぞご遠慮なさらずに召し上がってください。どれでもお切りいたしますわ」

 竜は桃のレアチーズケーキの最後の一口を食べ終わったところだったが、本当に遠慮なく、もっといただくことにした。

「ええと、じゃあ、そのマーブル模様のをいただけますか」

 マーサはさすがに慣れた手つきでさっとケーキを切り分けてくれた。

「はい、どうぞ。キャラメルとコーヒーのケーキです。ケンタさんは?」

「じゃあ僕は、苺のシャルロットをお願いします」

 キャラメルとコーヒーのケーキを一口食べた竜は、あまりの美味しさにため息をついた。

「おいしい!桃のレアチーズケーキもすごくおいしかったけど、これもすっごくおいしいです」

「ありがとうございます」

 健太にイチゴのシャルロットのお皿を渡しながら、マーサは嬉しそうににっこりした。 

「どれくらいパティシエとして働いていらっしゃるんですか」

 健太が訊く。

「こちらのお店ではもうすぐ1年になります。その前にはソンダースで4年ほど。私はソンダース出身なんです」

「マーサさんは、僕たちの世界から来た人に会ったことありますか」

 竜の質問に、マーサは頷いた。

「ええ、一度だけですけれど。まだ子供だった頃ですわ。背の高い上品なご老人で、大学で植物学の研究をなさっているということでした。熱心にこちらの草花のことを調べていらして、近くにいた子供達みんなで、公園の木の葉っぱや草花を集めてさしあげたりなんかして、楽しかったですわ」

 そこへアメリアが戻ってきた。眼鏡をかけた背の高い男の人と一緒だ。

「リョウさん、ケンタさん、こちらがドクター・キーティングです。ドクター・キーティング、こちらがリョウさんとケンタさん。うちにいらした、お隣からのお客様です」

 アメリアが誇らしげに言うと、短く刈り込んだ金褐色のひげを生やしたドクター・キーティングは、にこにこして二人と握手した。50歳くらいだろうか。少しお腹が出て、頭髪も少し寂しくなり出しているが、眼鏡の奥の若々しい茶色の目がきらきらしている。

「スティーブン・キーティングです。ようこそ!アメリアさんから連絡をもらってすっ飛んできましたよ。今日はソンダースで講義があったもので、時間がかかってしまって申し訳ありません。お二人の用意ができ次第、すぐ行きましょう」

「すぐですって?今すぐですの?」

 アメリアが悲鳴のような声を上げる。

「リョウさんもケンタさんも、まだたった二つ目のケーキの途中ですのに」

「行くってどこへ行くんですか?」

 竜が尋ねる。

「僕の家です。すぐ近くですよ」



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