第42話

 「竜、竜!」 

 肩を強く揺すぶられて、竜はびくっとして目を開けた。目の前に必死の形相をした健太の顔があった。

「竜!大丈夫?!」

 健太の両手が痛いほど強く竜の肩をつかんでいる。健太の後ろに明るい灰色の空と黒っぽい木々の梢が見える。身体の下が冷たくて硬い。空気が湿っている。

 手をついてゆっくり起きあがろうとして気がついた。左の掌が粉っぽい。竜ははっとして、左の掌を凝視した。灰茶色の粉が少しついている。マルギリス!途端に頭が回転し出して、竜はあたりを見回した。

 バリアフリーお風呂の前の板張りのテラス。床の上に膝をついている健太。その後ろに健太の車椅子。

「竜、僕がわかる?」

 健太が今にも泣きそうに顔を歪めている。

「わかるよ、健太」

 健太の目にみるみる涙が膨れ上がって溢れた。

「あの魔法やってくれたんだね」

 竜は息を呑んで健太を見た。無言の問いかけに健太は答えた。

「僕、歩けるよ。向こうのこともちゃんと覚えてる」

 …やった!竜は心の中で思ったけれど、声が出なかった。できたんだ…。成功したんだ…。大きなため息が出た。身体がぐったりと重い。

「…僕、どれくらい…」

「30秒も経ってないよ。なんだかすごい響きの音楽みたいのが聞こえて、ぱって眩しくなって、目を開けたらここにいて、横を見たら竜が倒れてて、それで車椅子から降りて竜を揺すぶったんだ」

 30秒…それならきっと大丈夫だ。魔法の喪失じゃないだろう。絶対に違う。兆候でも16時間だったんだから、喪失ならもっと長いはずじゃないか。自分に言い聞かせながら座り直そうとして竜は顔をしかめた。身体が思うように動かない。

「竜、どこか痛いの?」

「ううん、大丈夫。ちょっと疲れただけ。そのうち治るよ。あ」

 思い出して、竜はドライジャージーパンツのポケットを探った。バックポケットに手帳。右ポケットにカールの魔法と小石。左ポケットに真珠の花。ちゃんとある。

「…あった」

 健太もライトグレイのスウェットパンツのポケットから、小さな黒い手帳を取り出した。ゴムバンドのかかったその小さな手帳は、ずいぶん汚れていて、いろんなものが挟んであってぱんぱんに膨らんでいる。健太は笑ってゴムバンドを外した。

「すごい色々入ってるでしょ。チームからの手紙とか…、あ、ほら、これがメンバー」

 一枚の写真を見せてくれる。

「あれ、女の子もいるんだ」

 二十人くらいのメンバーの中に数人の女の子がいる。

「そう。話さなかったっけ?男女混合チームなんだよ。他のチームもそうだった。この子、サムっていうんだけどさ」

 と一人のどちらかというと小柄な感じのブルネットの女の子を指して、

「すっごい上手いんだよ。サムにボールが渡ったら絶対に決まるんだ。外すところを見たことがない。フェイントもすごくってさ。練習で、僕一度も止められなかったよ」

「見惚れててじゃないの」

 いたずらっぽく言うと健太は顔を赤くした。

「違うよ。あ、これ竜からもらった手紙」

「ああ…」

 郵便屋に頼んだ手紙だ。

「それからこれは向こうでよく食べてたキャンディの包み紙。これはチョコレートの。これはジーナがくれた栞。…ああ、さっき帰ってきたばっかりなのになあ。もうこんなにこんなに懐かしい」

「僕もだよ」

 竜は美しい紺色のアルマンサの腕時計バンドに触れながら心から言った。ついさっきまで、本当についさっきまで向こうにいたのに。エミルと一緒にいたのに。みんな今何してるだろう。

「竜…本当にありがとう」

 テラスの床に正座しなおして、健太は深々と頭を下げた。

「どういたしまして。でも健太、記憶の方はともかくとして、脚の魔法の方はもしかしてずっと続かないかもしれないんだ」

「えっ。どうして?」

「もちろんこれは仮説でしかないんだけど、どうして向こうの世界に魔法があってこっちにはないかっていうと、向こうの世界の構成要素の一つに魔法があって、こっちの世界にはないからなんじゃないかって言われてるんだ。こっちには酸素とか水素とか窒素とかはあるけど魔法がない。だから、こっちの世界に向こうから魔法を持って帰れたとしても、魔法のないこの世界でその魔法がもつのかどうかはわからないんだよ」

「なるほど…そうなんだ…」

 健太は目を丸くして聞いている。

「もちろん、ずっと続くかもしれないよ。でも続かないかもしれない。だからさ、魔法がまだ効いている今のうちに、やりたいことを色々やる方がいいと思うんだ」

「走ったりとか?ここじゃ無理だよ。キャンプの人たちに見られちゃうもの」

「うん、だから、お母さんに話して、ここじゃないとこで、知り合いに会わなそうなところに遊びに行くとか…」

「…ああ、そうか。そうだよね」

 健太はこくこくと頷いた。

「じゃ、まずはママに話さなくちゃ。どうやって話そう」

「もうすぐ朝ご飯だもの。今日は僕たちは当番じゃないし、だからお母さんにちょっと来て、って言って、二人だけになって話せばいいよ」

「そうだね。じゃ、行こう…あ、僕は車椅子か」

 立ち上がって歩きかけて、健太は苦笑した。

「そうそう」

 竜も笑って立ち上がりかけたが、よろめいて膝をついてしまった。

「大丈夫?」

 健太が慌てて走り寄る。

「大丈夫。ほら健太、早く車椅子に座って。誰か来たら大変だよ」

 車椅子に腰を下ろしながら、健太は心配そうに竜を見た。

「今だと竜が車椅子に乗って僕が押す方が合ってるのに。本当に大丈夫?竜。歩ける?」

 竜はゆっくりと立ち上がった。身体が鉛のように重い。でもゆっくりとなら動ける。

「大丈夫。車椅子に寄りかかりながら行くよ」

 そこへ、

「あっ、いたいた」

 という声が聞こえて、向こうの道から牧野さんが現れた。

「危機一髪」

 竜が囁くと、健太も車椅子の中で大きく息をついた。

「ほんと」

「二人ともこんなとこにいたの。健太君、お母さんが心配して探してるわよ」

「はーい。今行きます」

 健太が笑顔で手を振った。


 健太は朝食の途中で竜が確保しておいたスペースにやってきた。

「あれ、お母さんは?」

 健太はひそひそ声で答えた。

「メイク直してる。泣いちゃってさ」

 さらに声を低めて、

「後で竜にもぜひ話を聞きたいって」

 そして可笑しそうに、

「覚悟しといた方がいいよ、抱きつかれておいおい泣かれるよ、絶対」

「えっ」

 それは困る。

「どうして?」

「決まってるじゃないか。恩人だもの」

 周囲が騒がしいので聞かれる心配はなさそうだけれど、竜はうんと声を低めた。

「いや、でも、脚のアレ、もつかどうかわからないってちゃんと話した?」

 健太もひそひそ答える。

「全部ちゃんと話したよ。だから今日すぐにここを出て、とりあえず家に帰ることにしたんだ。ママがさっきパパに電話して、電話じゃ話せない大事な話があるから、僕たち今日帰るから、パパもできるだけ早く帰ってきて、って言ったんだけど、パパは仕事だし、帰ってくるのはどんなに早くても夕方になるって言うから、その前に僕とママとルークで、ちょっと離れた町にある大きな公園に遊びに行くことにした。ルークと歩くのなんて初めてだもの。ルーク、どんな顔するかなあ。そこ、体育館もあるから、もしかしてバスケもちょっとできるかもしれない」

 竜は微笑んだ。健太のうきうきした幸せな気持ちが伝わってくる。

「竜、気分はどう?」

「だいぶいいよ。やっぱりエネルギー補給が必要だったみたい」

「僕のも食べていいよ。僕あんまりお腹空いてないんだ。向こうでお昼ご飯少し遅く食べたし、その後マーサさんのケーキも食べたしさ」 

 

 健太と健太の母は午前中にキャンプ場を後にした。健太が戻らない場合のシナリオとして用意していた通り、お祖母さんが入院したという知らせが来たということにしたのだ。母さんや牧野さん達と一緒に駐車場まで二人を見送りに行った竜に、健太は約束通りルークの写真を見せてくれた。輝くような笑顔をしたゴールデンレトリバーだ。

「わあ可愛いね!」

「ライラを見慣れちゃったから、ずいぶん小さく見えるけどね」

「ライラは大きいよね」

「なんていう犬種なんだろう」

「そういえば知らないなあ。今度聞いてみるよ」

「いつ行くの?」

「キャンプが終わって家に着いたらすぐ。…行かれればだけど」

「大丈夫。きっと行かれるよ!きっと行かれる!」

 健太が祈るように言った。

「みんなによろしく言ってね」

「伝えるよ」

「キャンプが終わってケータイ戻ってきたら電話して。待ってるよ」

 竜はため息をついた。

「ケータイくらい許してくれたっていいのになあ。このキャンプのそういうとこが嫌なんだ」

 健太が笑う。

「でもこのキャンプのおかげであの9日間があったんだよ」

「ほんとにそうだね」

 竜は車椅子に座っている健太をしみじみと見つめた。

「健太がこのキャンプに来なかったら、このキャンプに『ペア』っていうルールがなかったら、あの時、『ドア』が開いた時に、あの場所にいられなかったんだね」


 健太がいなくなってしまったので、竜は最初に望んでいた通り自由になった。一緒の食事当番や掃除当番になった子達と普通に仲良くし、困っているペアがあったら手助けをした。なんでも一所懸命真面目にやる性質なので、スイカ割りだのクイズだのゲームだのというイベントや、当番の仕事がある時や、他の子供達と交流している時は、目の前で起こっていることに集中してこちらの世界にいられたけれど、自由な時間があって一人になると、気持ちはすぐさま向こうの世界に飛んでいった。

 こっちの1時間が向こうの1日だというのが本当にやり切れなかった。一晩眠っている間に向こうでは軽く1週間経ってしまうのだ。起きている間だって、ちょっと当番の仕事だのイベントだのに参加している間に、向こうでは丸1日が終わってしまう。今頃みんな何してるかな、と思い浮かべるのが難しいのだ。ちょっとぼうっとして向こうのことを考えているうちに、向こうでは1時間、また1時間、と駆け足で時間が過ぎていってしまう。こっちで5分経っただけでも向こうでは2時間経ってしまうのだから。

 真もこんな気持ちになったんだろうか、と竜は考えた。みんなが自分を置いてどんどん遠くへ、時間の彼方へ、行ってしまうような気持ちに。

 カールの魔法と真珠の花は、念の為の防寒着として持ってきていたダウンベストに大事に包んでザックの一番上にしまった(小石はなくさないようにカールの魔法の中に入れてしまった)。キャビンで一人きりになれる時間はほとんどなかったから、取り出して眺めて想いに耽ることはなかったけれど、ザックを開けるたびに、巻いてあるベストを緩めてそっと覗いてみずにはいられなかった。

 真珠の花の魔法はまだ続いている。ということはきっと、健太の脚の魔法だって続いているに違いない、と綺麗なアクセサリーのように冷たく硬い真珠の花に触れるたびに竜は思った。しかしカールの魔法を見るたびに思うのは、もしかして帰れないかもしれない、ということだった。

 確かに、健太によれば、あの魔法をやった後気を失っていたのは30秒にも満たなかった。でもあのものすごい疲労感は1日中ずっと続いた。身体が鉛のように重く、周りに変に思われない程度にゆっくり歩くのがやっとで、走るなんていうことを考えただけでもその場にへたり込みそうな疲労感だった。

 あの魔法をやった時のことはあまり覚えていない。頭と心の奥の深い場所で健太に傘を差し掛け、明るさと温度が上昇していく中、激しい流れに押し流されないよう渾身の力を込めながらスティーブンに頷いた。果樹園で失神した時のように、明るさと温度はすごい勢いでまっすぐに上昇していった。一瞬マルギリスの歌の後ろから鋭い声のようなものが聞こえたような気がした。周りがぱあっと真っ白になって…でも今回はあの電子音のような音は聞こえなかった。

 もし今回のが魔法の喪失なら。竜は磨き上げられた木材のようにすべすべしたカールの魔法の道具に指先で触れながら、しんとした心で考えた。僕はもう向こうには帰れないだろう。でもあの魔法をやったことをなぜか後悔はしていなかった。

 あのものすごい疲労は一晩眠ったら去ったけれど、なんだかそれと一緒に向こうの世界も遠くなってしまったような妙な感じがしていた。魔法大学で魔法を学びたい、という思いもまるで霧の向こうに見える景色のようにぼやけてしまっていた。エミル達のことも、懐かしいな、どうしているかな、と思いはするけれど、果てしなく遠くにいるような感じがして、また会えるような気がしなかった。

 もしかして、これが魔法の喪失っていうことなのかもしれないな、と竜は思った。僕の中の魔法がなくなってしまったから、向こうのことをこんなに遠く感じるし、もっと魔法を学びたいとか、向こうの世界に帰りたいとかいう思いも枯れてしまったのかもしれない。

 手帳はザックの一番下に入れてあった。こっちに帰ってきてから一度も開けていなかった。どうしてか開ける気になれなかった。

 

 キャンプの最終日がやってきた。こっちに戻ってくる前は、きっと早く家に帰って真と一緒に向こうの世界に戻りたいあまり、キャンプの間中地団駄踏み続けちゃうくらい焦れるだろうなと思っていたけれど、ちっともそんなことはなかった。解散は例年通り朝の10時。人々と長々と別れの挨拶を交わした後、ようやく竜と母さんは出発した。

「ああ、今年も命の洗濯したわあ」

 車を加速させながら、目の縁を赤くした母さんが言う。牧野さんや他のお母さん達と別れる時、信じられないことに、母さんは泣くのである。昨年も一昨年もそうだった。どうせ今夜にはまた牧野さんと電話で長話をするのにだ。

「気の合う友達って本当に大事。リョウちゃんも、ケンタ君とずいぶん気が合ってるようだったのに、残念だったわね」

 それで思い出して、竜は慌ててさっき返してもらったスマホを取り出した。不在着信がある。ザックの前ポケットから健太にもらったメモを取り出して確認する。やっぱり健太の番号だった。

「母さん、健太に電話してもいい?」

「いいわよ。お母さんによろしくって言って。お祖母さんいかがですかってちゃんと訊いてね」

「うん」

 コールが一度鳴り終わるか終わらないかで、待ち構えていたかのように健太が出た。

「竜!ごめん、さっき電話しちゃったよ。待ちきれなくてさ」

 声が弾んでいる。竜は思わず笑ってしまった。向こうでの1日目、スティーブンの書斎で聞いた声だった。はちきれんばかりの幸せが伝わってくる。

「今どこ?」

「車の中だよ。さっきキャンプ場出たばっかり。母さんがお母さんによろしくって。お祖母さんの具合どう?」

 まじめくさって訊くと、健太はくすくす笑って、

「お祖母ちゃんは、そうだなあ、とりあえず今色々検査してるけど、どうやら大丈夫みたいっていうことにしておいて」

「了解。で?」

 笑って促すと、健太は堰を切ったように早口で話し出した。

「うん、一昨日はまず計画通りルークを車に乗せてすっごい大きい公園に行ったんだ。犬も一緒に入れる広ーい芝生があるんだけど、そこでルークと思いっきり走ったよ!ルーク、全然変な顔とかしなかった。すっごく嬉しそうで、僕が前は歩けなくて今は歩けるように、走れるようになったって、ちゃんとわかってるんだと思う。一緒に喜んでくれてるって感じ。はしゃいじゃってさ。にこにこして」

「そりゃわかってるに決まってるよ」

 竜はライラのことを思い出して微笑んだ。犬ってなんでもわかるんだと思う。

「そうだよね。すっごい楽しかった。いっぱいいっぱい遊んだよ。体育館には行かなかった。ルークが入れないし。でも、外にバスケのコートがあったから、ちょっとだけ練習してみたよ。楽しかったけど、でもやっぱりチームのみんながいればなあって思っちゃった。もう向こうではとっくに新学期が始まってるじゃない?地区大会の予選が始まるんだよね。新学期始まったらすぐって言ってたから、もう試合してるのかなあとか…」 

 健太はちょっとため息をついたけれど、

「ま、それはおいといて。夕方家に帰ったらパパがもう帰っててさ。家の中に入るまでは近所の目もあるから、車椅子だったんだけど、玄関に入ってすぐ、パパの前で立ち上がってみせてさ。おっかしかったよ、パパの顔!」

 健太は笑いながら言った。

「まるでコメディみたいだった。大騒ぎの後ちゃんと全部話して…。ママももう一回話を聞いて、今度は色々細かい質問とかもされてさ、すごい話が長くなっちゃったけど。向こうから持って帰ってきた写真とかも見せて…。僕さ、パパはなかなか信じてくれないんじゃないかと思ってたんだけど、普通にすんなり信じてくれたんだよね。そりゃ驚いてはいたけど、でもちゃんと素直に信じてくれた。竜に是非会ってお礼を言いたいって言ってるよ。そういえば竜、体調はどうなの?」

「うん、もうすっかりいいよ」

「そっか、よかった。ママもパパも竜のことすごい心配しててさ。もちろん僕もだけど。今日だよね?行くの」

「うん」

 行かれるかどうかわからないけど、という言葉を竜は飲み込んだ。

「いつ帰ってくるの?」

「夕食前には帰ってくるよ」

「あ、そうなんだ。そうだよね、まだ長くは行かれないよね、お母さんたちに言ってないんだし…。帰ってきたら絶対電話ちょうだい。待ってるから。ちゃんと充電して必ず電波の届くところにいるようにするよ。ここ、届きにくいところがあるみたいでさ」

「って健太、どこにいるの?」

「あっ、そうか。あのね、昨日の夜から、海の近くの別荘に来てるんだよ。僕達のじゃなくて、お祖父ちゃんのだけど。本当は昨日の朝からでも来たかったけど、パパもそんな急には休みが取れなくってさ。でも今朝は日の出を見ながらルークと砂浜を走ったよ。砂浜って走りにくいんだね。足が埋まっちゃって。なんかうまく走れないのがすごい面白かった!あ、そうそう、カナダもね、みんなで行くことにしたんだ。パパだけじゃなく。手続きとかですごい忙しくなりそうだけど、でも今ならまだなんとか間に合いそうだって。ルークが飛行機の客室に一緒に乗れないからすごい心配なんだけど、獣医さんに色々相談してみようと思ってる…」

 早口で話し続ける健太の話に笑ったり相槌を打ったりしながら、竜は自分の心がだんだん明るくなっていくのを感じていた。ずっと重い灰色の雲が垂れ込めていた、そよとも風の吹かなかった心に、清々しい風が吹き込み、雲に切れ目ができて、いく筋もの光が差し込んできたような感じがする。

「竜、向こうに戻ったらさ、リントン村に行くことあると思う?」

「もちろん。だって今回戻るところはスティーブンのところだもの」

「えっ、そうなの?」

 どうしてそうなるのかを簡単に説明しながら、竜は母さんが聞き耳を立てているだろうなと思った。スティーブンって誰?とか魔法ってなんのこと?とか色々聞かれるだろう。構わないや。心の中で竜は明るく肩をすくめた。どうせ今夜にでも全部話すことになるんだもの。だって僕は向こうに移住するんだから!

 そう思った途端、竜は思わず声をあげて笑い出しそうになった。心の中は、すっかり青空になって、爽やかな風が吹いていた。果樹園の緑の風が。

 もしかしたら戻れないのかもしれない。でもそれは同時に、戻れるのかもしれないっていうことだ。戻れないってわかったら、その時に悲しめばいい。今は戻れるって信じて、思い切り向こうの世界に想いを馳せよう。思い切りエミルやライラ、カールやマリーやスティーブンやピエールさんを好きでいよう。もうすぐ会えるって信じよう。楽しみだ!って思おう。

「健太、話せてよかったよ」

 電話を切る前に竜は心から言った。

「こっちに帰ってきてからずっと、なんだかもう向こうに戻れないような気がしてて…。すごい気持ちが暗くなってたんだ。でも健太と話してるうちに、戻れるって信じよう、って思えるようになってきた。ありがとう」

「何言ってるんだよ、竜。お礼を言うのはこっちだよ。今僕がこんなに幸せなのは、パパもママもルークもこんなに幸せなのは、全部竜のおかげなんだもの。本当に本当にありがとう。竜が向こうに戻れるように家中みんなで願ってるよ」

 通話が終わった後、案の定、母さんがバックミラーの中で竜を見て言った。

「一体何の話なの?」

「うん、後で話すよ。真に電話していい?」

「いいけど…」

 訝しげな母さんには構わず、竜は真に電話した。三回目のコールで真が出た。

「竜、今どこ?」

 真の声を聞いた途端、竜はなぜだか胸がいっぱいになった。目が潤んで喉がつかえる。

「…車の中」

「どうしたの?なんか風邪声」

「ううん。あのさ、帰ったらすぐ、すっごい大事な話があるんだ。だから絶対家にいて。絶対だよ」

 真から絶対に家で待っているという約束を取りつけると、竜は隣に置いてあったザックを開けて、一番底に手を突っ込んだ。深いブルーのアルマンサの

手帳を取り出す。それから今日はハーフパンツのポケットに入れていた腕時計を取り出し、手首につけた。エミルにもらった美しい紺色の腕時計ベルトをそっと撫でる。そして手帳を開いた。

 大事に挟んであった、10日目の朝にみんなで撮った写真を取り出して眺める。カールの穏やかな笑顔。マリーの優しい笑顔。エミルは超イケメンに写っている。さすが恋人にしたい男性ナンバーワンだ。にこにこ顔のライラの隣に写っている自分の顔を見て、竜はすごく照れくさかった。この上なく幸せそうな笑顔。自分がこんな表情をするなんてなんだか意外だった。

 長い間写真に見入った後、竜はカールの魔法の道具の説明を書いたページを開いた。何も難しいことはないのだけれど、一応きちんとおさらいしておく。大丈夫。ジリスとフュリスがあれば、きちんと組み込める。両サイドが膨らんだ形になっているけれど、ジリスとフュリスを入れる側の方が向こうの世界に属するものを入れる側よりわずかに大きい。間違えないようにしなくては、と竜はもう一度自分に確認した。ジリスとフュリスが入っている方を真に握らせること。そうすれば万が一のことが起こった時、真は守られる。あの事故の時のように。

 あちらこちらと日記のページをめくってみる。フリア魔法大学。ピエールのカフェ。チョコレートクッキー。時計屋さん。海の近くの崖。歌わせる魔法。展望台。カールとの会話。フリアの町のプール。エミルの泳ぎ。マリーのケーキ。魔法数学。魔法物理。果樹園。リルの実。ライラ。マリーの絵。物を作り出す魔法。ソンダースの駅のパン屋さん。あんパン…。

 初めて飛んだ時のことを読んだ時、身体の奥のどこかがざわざわした。ああ、魔法を使いたい。もっと魔法を学びたい。エミルに会いたい。

 しばらくして、エンジン音を聞きながらうとうとし始めた竜は、夢を見た。

 夢の中で、竜は懐かしい丘の家のキッチンにいた。勝手口を入ってすぐのところに立っている。自分の身体が自分で見えないので、夢の中だとわかった。テーブルにはエミルとカールとマリーがいて、エミルの足元にライラが横になっている。

「3日後ね、竜が戻ってくるのは。この水曜日で56日でしょう?」

「かっきり56日とはいかないと思うよ。その辺り、と思っている方がいいだろうね」

 エミルがため息をついて首を振る。

「まったく、あんな無茶なことして…竜も、お父さんも」

 カールが苦笑する。

「もういいじゃないか、そのことは」

 その時、ライラが竜の方を見た。目が合う。嬉しそうに目を輝かせて立ち上がると、竜のところまで急いでやってきた。

「ライラ…僕が見えるの?」

 ひゅうん、と甘えたようにライラが言う。テーブルの三人がこっちを見た。

「どうしたの、ライラ」

 マリーが言うと、カールが目を細めた。

「もしかして竜じゃないのかな」

 エミルがまっすぐに竜の目を見た。強い視線。微笑んで頷く。

「ちゃんと戻ってこいよ。待ってるから」

「リョウちゃん、お昼いつものサービスエリアでいい?」

 母さんの声にびくっとなって竜は目を開けた。

「あ、うん」

 何のことかはっきりわからないまま一応そう返事をした。

 エミル…。エミルが今僕に言った。僕をまっすぐに見て、ちゃんと戻ってこい、って。待ってるから、って。

 竜は母さんに「何ニヤけてるの」と言われないように、靴紐を直すふりをして後部座席で身体を屈めた。

 とても嬉しかった。あれは普通の夢じゃない、と竜は確信できた。エミルが昔見た真とエムの夢のように、絶対本物だ。だいいち時間の辻褄が合っている。もちろん細かい時間まではわからないけれど、竜の計算によれば向こうは今日曜日のはずで、マリーが言っていたことと合っている。そして、だからエミルも丘の家に帰っていたのだ。週末に様子を見に帰るって言っていたもの。それにライラとのやり取り。絶対にライラは僕を見ていた。ちゃんと目が合ったもの。嬉しそうににこにこしていた…。

 そこでふと、竜はエミルが言った言葉を思い出した。あんな無茶なことをして。竜もお父さんも。エミルの言う僕がした無茶なことというのは、もちろんあの魔法のことだろう。でもカール…?カールが何をしたんだろう?


  

 




 

 

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