第43話


 車から降りた竜は、ザックを肩にかけ玄関へ走った。1時50分。早く早く!と、その思いに応えるように玄関のドアがさっと開いて、真が顔を覗かせた。

「おかえり!」

 ブルーのリボンが揺れる。

「ただいま!」

 真に会えてこんなにどきどきしたのは初めてだ。

「早く、二階に行こう」

 急いで靴を脱ぎながら言うと、真は片目をつぶってみせた。

「うん、ちゃんと用意してある」

「用意?」

 竜はびっくりして真を見た。用意って何の?まさか?

「ただいまあ」

 母さんが玄関に入ってくる。

「お帰りなさい」

「合宿はどうだった?」

「すっごく楽しかった」

「キャンプもすっごく楽しかったわよお。ねえリョウちゃん!」

 対抗するような口調で母さんが言う。またか。竜は大袈裟にため息をつきたいのを堪えた。喧嘩にならないうちに早く真を二階に連れて行かなきゃ。

「マコトちゃんも来ればよかったのに。牧野さんも残念がってたわよ。部活の合宿なんかよりキャンプの方がずっと有意義なのにねえ、って言ってたわ」

「真、早く!」

 竜は真の手首を掴んで階段の方へ引っ張っていった。ばたばたと急ぎ足で階段を上りながら竜は小声で言った。

「牧野さんはあんなこと言ってなかったよ。母さんが牧野さんにああ言ってたんだ。僕聞いたもの」

 母さんはよくこういう嘘をつく。真は顔をしかめた。

「お母さんのああいうとこが嫌」

 竜も同感だった。嘘をつくのはよくない。

 竜が階段を上ってすぐの自分の部屋に入ろうとすると、今度は真が竜を引っ張って、隣の自分の部屋のドアを指した。

「こっちこっち。用意してあるから」

 竜はまたどきっとした。用意って、もしかしてジリスとフュリス?!

 ドアを開けると、真は部屋を突っ切ってバルコニーに出る掃き出し窓を開けた。狭いバルコニーだけれど、小さめの物干しスタンドと白い小さいテーブルと二つの椅子が置いてある。真の部屋からは直接ここに出られるけれど、竜の部屋からは掃き出し窓がないので出られない(もちろん窓枠を乗り越えれば出られるし、竜はよくそうする)。大抵の洗濯物は母さんたちの寝室の外の大きい方のバルコニーに干すけれど、竜や真の水着だの靴だの筆だのは自分たちでここに干すことにしている。今日は真が合宿で使ったらしいビーチサンダルとスイミングバッグが干されていた。

 Ta-da!と言いながらテーブルの足元に置いてあった小型のクーラーボックスを開けて、真が尋ねる。

「アイスティー先に飲む?それともゼリー先に食べたい?」

「アイスティー」

「はい」

 手渡された冷たいアイスティーの缶を額につけて、竜は椅子に腰を下ろした。用意って、このことだったのか。

「何でここ?暑いのに」

「だって話があるんでしょ。ここならお母さんに盗み聞きされないもの」

「…確かに」

 以前、真が部屋で友達と電話で話しているのを、母さんがドアの外で盗み聞きしていたことで、大喧嘩になったことがあったのだ。

「でもさ、母さんが庭に出たら聞こえちゃうんじゃない?」

「小さい声で話してれば大丈夫。ここでラジオをかけて庭に出てみて、どれくらい聞こえるかちゃんとチェック済み。でも大きい声出したら聞こえちゃうから、静かにね。で?話ってなに?」

 竜は両手で包むように持っていた冷たいアイスティーの缶をテーブルに置いて、ハーフパンツで濡れた手を拭くと、足元に置いてあったザックを開け、一番上に入れてあったダウンベストの中からそっとカールの魔法を取り出した。胸がどきどきする。身体を起こして、真の前にカールの魔法を差し出した。

 真の目が大きくなった。口が開いたけれど何の音も出てこない。やがて震える手が伸びて、カールの魔法をそっと掴んだ。

「気をつけて。落とさないでよ」

 真の手があまり震えているので、竜は思わず言った。真が目を見開いたまま竜を見る。

「…どうしたの、これ」

「カールがもう一度作ってくれたんだ」

 真の目がさらに大きくなった。

「僕も向こうに行ったんだ。カールにもマリーにもエミルにも会った。僕も魔法ができるようになった」

 真は無言で竜を凝視している。竜はテーブルに身を乗り出した。はやる心を押さえて、低い声でゆっくりと言う。

「真、これの中に入れる、直径4cmくらいの透明のボール、持ってる?」

 呆然とした顔をしたまま、真は頷いた。

 竜は飛び上がりたいんだかくずおれたいんだかわからなかった。言葉が喉で詰まった。

「…よかった…」

 ようやくため息と共に掠れ声が出た。椅子の背に倒れ込む。帰れるんだ。帰れるんだ。

 真が道具をテーブルに置いて立ち上がる。

「待ってて」

 急いで部屋の中に入った真は、すぐに両手にのる大きさのグレイのクッションのようなものと、小さな鋏を持ってきた。

「なにそれ」

「エムのクッション」

 そう言われて竜も気がついた。ぬいぐるみのエムがいつも座っているクッション。真のお手製だ。小さな鋏で丁寧に縫い目を切っていく。中に綿のようなものがたくさん詰まっているのが見える。 

 真の手の動きとともに目の前で動いているわずかに光沢を帯びたグレイの布地を見ていて、竜は突然気づいた。グレイ。そういえばエミルはグレイが好きだ。24年前からそうだったのかな…。

 やがて真は充分大きくなった開き口から指を入れ、無色透明の小さな水晶玉のように見えるものを探り出すと、竜に手渡した。竜はその美しさに見惚れた。光っているわけではないのに、全体が鋭い輝きに満ちている。これがカールが一番時間をかけたという、100%完璧に混合が行われたジリスとフュリス。すごい。

「カールリス…」

「え?」

「ううん。あのね、これはジリスっていう金属とフュリスっていう金属を混合したものなんだよ」

 真がへえーというように目を丸くした。

「そうなんだ」

「混合するのはものすごく難しいんだって。成功したのはおそらくカールが初めてだろうってエミルが言ってた」

「…そう」

 竜はカールに教えてもらった通りにして道具の膨らんだ部分を開け、ジリスとフュリスを入れた。寸部の狂いもなくぴったり収まった。蓋がかちりと微かな音をさせてきっちり閉まった。竜の胸は高鳴った。完成だ!

「これでよし。真、行くでしょ?」

 真は戸惑った目をした。

「行くって…向こうに?今?」

「そう。…あ、ちょっと待って」

 竜はもう一度ザックの方に屈んで、真珠の花を取り出した。

「はい、これ。エミルから」

「…真珠の花…」

 大事そうに受け取って 真がつぶやく。

「髪につけたかったんでしょ?あの時摘んであげればよかったってエミルが言ってたよ。これには保存する魔法とものを固定する魔法とものを壊れなくする魔法がかけてあるから、髪につけても大丈夫だと思うよ」

「竜がやったの?」

「まさか。エミルだよ。あ、写真見る?」

「えっ」

 竜はまた屈んで、ザックから手帳を取り出すと、真に写真を差し出した。

「帰ってくる日の朝に撮ったから、向こうで55日前ってとこかな」

 真はすぐには手を出さなかった。竜はちょっと笑って写真を真の目の前に突きつけた。

「大丈夫だよ。オジサンって感じじゃ全然ないよ。超イケメン!何とかって雑誌の投票で、今年の魔法•科学部門の恋人にしたい男性ナンバーワンに選ばれたばっかり」

 真が顔をしかめた。

「なにそれ」

「僕もよく知らないけど。表彰式のパーティの招待状が来ててさ。でもエミルは全然興味なさそうで、行かないって言ってた。見ないの?」

 さらに写真を真の顔に近づけると、ようやく真は写真を受け取った。何だか顔を見てはいけないような気がして、竜はアイスティを飲みながら手帳に目を落とした。真はしばらくの間じっと黙っていたけれど、やがて笑いを含んだ小さい声で言った。

「おっきな犬」

 竜は手帳から顔を上げた。真の目の縁はうっすら赤くて目は潤んでいたけれど、顔には笑みが浮かんでいた。 

「可愛いでしょ。ライラっていうんだ。僕と一緒の部屋で寝たんだよ」

「ええーいいなあ。何日いたの」

「9日間。最初はね、リントン村ってとこにいたんだ。そこでスティーブンに会って…覚えてる?スティーブンって」

「マーカスの甥っ子さん?眼鏡かけた」

「そう。ソンダース魔法大学で教えてるの。お医者さんでもあるんだけどね。で、大学のスティーブンの研究室にいたら、フリアからエミルが来てさ。それで真がカールの魔法で行ったり来たりしてたってこと聞いて、カールに僕にもその魔法使わせて欲しいから道具をもう一度作ってくださいってお願いしに、エミルと一緒にフリアに行ったんだ。すっごい偶然じゃない?」

「ほんと…何だか信じられない」

 真はため息をついてまた写真に目を落とした。

「ね、話は後にして、とにかく早く行こうよ。56日くらいで戻るって言ってあって、それが大体こっちの3時台のはずなんだ。あ、そうだ。向こうはもう秋だからフリースか何か羽織っていく方がいいね。そうそう、あと、僕たち、エミルの家の果樹園に帰るわけじゃないからね。スティーブンの書斎に帰るから、そこから汽車でフリアに行くんだ。僕はもしかして行かれないかもしれないから、今説明しとくよ。

 あのね、着くのは白い実験室みたいな感じの部屋なんだけど、ドアがあって、そこがスティーブンの書斎に通じてるんだ。スティーブンはそこにいないかもしれないから、そうしたらそこを出て、庭を横切って、家のドアをノックしたらいいと思う。誰も出てこなかったらそこで待っててもいいし、スティーブンの書斎で待っててもいいと思う。スティーブンのとこには大学生のコール、中学生のレイ、それから僕と同い年のジーナと、あと僕は会ったことないけど奥さんのサラがいる。

 あ、それでね、健太はどうしてるかって聞かれたら、記憶も脚も大丈夫だって言って…」

「ちょっとちょっと待って」

 早口でひそひそ話し続ける竜を真が止めた。

「竜は行かれないかもしれないって、どういうこと?」

 竜はため息をついた。どんどん話が長くなってしまう。でもこれは話さないわけにはいかない。

「あのね、向こうに行った時、僕と健太っていう子と二人で行ったんだ。僕が健太の車椅子を押してて、それで一緒に『ドア』を通ったわけ。向こうでスティーブンが『あるべきようになれ』の魔法をやってくれて、健太は歩けるようになった。でもこっちに帰ってくるときには公式の魔法で帰ってこなければいけなくて、そうすると僕も健太も記憶をなくしてしまうし、健太はまた歩けなくなっちゃう。だから、記憶も脚にかかった魔法も持って帰れるように、僕が魔法をやるつもりだったんだけど、その魔法はすごく難しくて、僕、それを練習したときに魔法の喪失の兆候が出ちゃったんだ」

「魔法の喪失?」

「二度と魔法ができなくなっちゃうっていうこと。魔法の喪失の兆候が出るっていうことは、その魔法が使い手の力の及ばないものだっていうことだから、無理してやろうとすれば二度と魔法ができなくなる。だから兆候が出た以上、もうその魔法はやったらだめだって言われたし、僕だって向こうに戻れなくなるのは嫌だから、もうやらないつもりだったんだ。僕の記憶を守るだけならもっと簡単な魔法でできるから。

 でも戻ってくる瞬間に気が変わって、その難しい魔法をやっちゃったんだ。どうしても健太の記憶と脚の魔法を守りたかったから。魔法は成功して、健太は今も歩けてるし、向こうのことも覚えてる。でも僕、帰ってきた日、一昨日だけど、一日中身体が重くて重くてゆっくり歩くのがやっとだったし、帰ってきた時はちょっとの間だけだったけど気を失ってたんだ。だからもしかして、魔法の喪失になっちゃったのかもしれない。

 魔法をやってみるまでは魔法の喪失になっちゃのかどうかはわからないから、もしかしたら僕だけ向こうに行かれないかもしれないから、だから今のうちに真にスティーブンの書斎のこととか説明しておこうと思って。でもスティーブンの家族はみんな事情を知ってるし、スティーブンは真に会ったこともあるわけだから、なにも心配しなくていいよ。とにかく早く…」

「どんな魔法なの、それ」

 真が遮る。目が強い興味に輝いている。竜はまたため息をついた。

「後で話すよ。早く行こうよ」

「だって3時台って言ったじゃない。今まだ2時5分よ」

「早く行けばそれだけ長く向こうにいられるじゃないか。夕飯までには帰ってこなきゃいけないんだからさ」

「今行ったら向こうは夜中よ」

 竜はびっくりした。

「なんでわかるの」

「何回行き来したと思ってんの。毎時5分は向こうの夜1時くらい。朝になってから着く方がいいでしょ。20分までは待つ方がいいわ。そうすれば朝の7時だから」

 てきぱきと早口で言われ、竜は気を呑まれて頷いた。

「わかった」

「で?どんな魔法なの?」

「マルギリスの結晶を歌わせながら、自分の次元を拡げて相手を覆う魔法をやるんだ」

 真は目をパチクリさせた。

「…なにそれ」

「『歌わせる』魔法でマルギリスっていう鉱物の光を結晶化させたものを歌わせながら、自分の次元を拡げて相手を覆う魔法をやるんだよ。それはエミルと僕で作ったんだ」

「新しい魔法を作ったの?!」

「そう」

「それに…それってまさか二つの魔法を同時にやったっていうこと?」

「そう」

 真がまじまじと竜を見た。

「…ものを作り出す魔法は?」

「やったよ。これとおんなじ腕時計ベルトを作った。作ったのは向こうに置いてきたよ。これはエミルがプレゼントしてくれたオリジナル」

「9日間で物を作り出す魔法ができたの?」

「3日目にできた。練習し始めて24時間以内に」

「……」

「悔しい?」

 竜はわざとにやりと笑ってみせた。真の眉がぴくりとする。

「エミルが言ってたよ。できのいい弟を持って真もさぞ嬉しいだろう、って」

 さらに追い討ちをかける。真は一瞬悔しそうに目を細めて唇をきゅっと結んだけれど、一拍の後、竜がやったようににやりと笑ってみせた。

「さすが我が弟。誉めてつかわす」

「ありがたき幸せ」

 おどけて言うと、竜はそのまま軽い口調で続けた。

「ね、真も行くでしょ?」

 真の顔から笑みが消えた。その硬い表情に、竜は嫌な予感がした。

「真、まさか行かないとか行きたくないとか言うつもり?」

「…」

「エミル、真に会いたいって言ってたよ。元気だってわかってすごく嬉しい、って。マリーもカールもすごい楽しみにしてる」

「…」

 真が唇を引き結んだままなにも言わないので竜は苛々してきた。まさかとは思っていたけれど、本当に行きたくないんだろうか?

「22年経って、みんなが年取っちゃったから会いたくないの?昔のままのみんなじゃないから?」

「そういうんじゃない」

「じゃ、エミルのことがまだ好きだから?」

 真の頬がさっと赤くなった。竜は少なからず驚いた。真がこんな顔をしたのは初めて見た。竜はため息をついて説得にかかった。

「そりゃ好きな人がいきなり年取っちゃって、35歳なんて年になってるのは辛いかもしれないけどさ…。でもエミルすごいんだよ。トップクラスの魔法発明学者だもん。カールもエミルはとっくに自分を超えてるって誉めてる。どんな魔法をやったっていつも見惚れるくらいすごいし、勉強教えるのもすっごい上手いし、しかもあんなイケメンだし、恋人にしたい男性ナンバーワンだし、泳ぎもすごいし、なにやってもかっこいいし…」

「でも私は元のままだもん」

 真がきっと竜を睨みつけて遮る。

「え?」

「なんにもすごくなってない。ただ中学生になっただけ」

「?」

「こっちにいただけだから、魔法だって上達してない。もしかして前よりできなくなってるかもしれない」

「だから?」

 まるで訳がわからない。

「だから!そんなすごくなっちゃった、すごい大人になっちゃったエミルに会ったって…、会っても自分が情けないもん。私、まだ子供のままで、なにも成長も上達もしてない…」

「…だって、子供のままなのはしょうがないじゃない。こっちでは1年しか経ってないんだから」

 言いながら、竜にもなんだかわかってきた。

 好きな人が大人になってしまって、昔のようじゃなくなってしまってるから会いたくないんじゃなくて、自分がまだ子供で昔のままだから会いたくないってことなのか。

「…こんしてないの?エミル」

 アイスティを一口飲んだ真がそっぽを向いてぼそぼそっとつぶやいた。

「え?」

 聞こえない、と顔を近づける。真は耳まで真っ赤になって、きんきんした囁き声で言った。

「結婚!してないの?」

「してないよ。でもエミルに何十回もプロポーズしてるって女の人には会った」

「…なにそれ」

「フィルさんっていう人。美人だよ。エミルとは幼馴染なんだって。フリア魔法大学で魔法化学の研究してるんだってさ。僕がいた時もエミルに『結婚してくれる?』って言って、エミルは『考えとくよ』って言ってた」

 竜は心の中でニンマリした。きっと、どんな女だか見てやる!とか言い出すぞ。早く行こう!って。

「そっか」

 予想に反して真がしゅんとしてしまったので、竜は驚いた。竜の知っている真の行動パターンからいけば、真はここで憤然と立ち上がって、「早く行こう!」と言うはずだったのだ。それが、悲しそうに頬杖をついて、目には涙が溜まっている。しまった、と竜は心から思った。胸が痛くなった。

「ごめん…」

 謝ると、真の目から涙がこぼれ落ちた。手の甲で頬を拭う真に、ザックのポケットからポケットティッシュを出して渡す。

「ありがと」

 真はティッシュを広げて目から下を覆った。しばらくの間、竜は俯いた真の額と真の両手とその下のティッシュをなす術もなく眺めていた。しゃくり上げる真の肩が揺れて、細い首に垂れているブルーのリボンが一緒に揺れる。真が泣くのを見るのは初めてだった。エミルもこんな気持ちだったのかなあ、と竜は潤んできた目をしばたたかせながら思った。こっちまで泣きたくなった、と言っていたっけ。真の悲しい気持ちが辺りに満ちている。

「ごめん」

 しばらくして、鼻をかんだ真が赤い目で竜を見て鼻声で言った。 

「こっちこそごめん。エミルのこと…そんなふうに好きだなんて思わなくて…」

 ちょっと考えて、竜は言葉を続けた。

「あのさ、エミルも真のことすごく好きだったんだと思うよ。あの事故の後、」

 もう一枚ティッシュを取った真の手が空中でぴたりと止まった。

「事故って?」

 ああ、またやった。竜は額を抑えた。僕は正真正銘の間抜けに違いない。 

「…真とエミルがカナダに一緒に行こうとして失敗した時だよ」

「だって…カールの道具が壊れちゃっただけじゃなかったの?」

 竜はため息をついた。

「壊れちゃったっていうより、道具が爆発したんだ。あれはこっちの世界の人間だけが使えるように作られた道具だったから、真とエミルが一緒に使おうとしたことによって爆発が起きちゃったんだ。エミルは果樹園の入り口辺りまで飛ばされて大怪我したんだよ。でもスティーブンがちゃんと治してくれたんだ。とにかく、その事故の後…」

「大怪我ってどんな?」

 竜はまたため息をついた。

「確か左半身の火傷と全身打撲と右肩脱臼と、あと左手と左腕が裂けたって」

 真が目を見開いた。

「裂けたってどういう意味?」

「僕だってわからないよ。でも治すのが難しかったんだって。今もギザギザの傷跡がうっすら残ってる。でも跡だけだよ。手も腕も普通にちゃんと使えてる。とにかくその事故の後、22年間ずっと…」

 また真が泣き出したので、竜は口をつぐんだ。もうどうしたらいいんだ。

「…あれは、私が言い出したの。カナダに、一緒に、行こうって。私が、あんなこと、言わなければ…。私の、せい、でっ…」

「知ってるよ。僕だってそう思った。カールはあの魔法はこっちの世界の人間だけが使えるんだって二人にちゃんと説明しておくべきだったし、真はカナダに行こうなんて言うべきじゃなかった、って。でもエミルは、あの事故は自分のせいだって言った。真がカナダに行こうって言った時、止めるべきだって知っていたのに止めなかったのは自分だから、って」

 真がしゃくり上げながら激しく首を横に振った。竜は宥めるように言った。

「エミルはさ、真を責めたりするな、って僕に言ったよ。大事な初恋の相手だからいじめるな、って」

 慰めようと思って言ったのに、真が肩を震わせてテーブルに突っ伏してしまったので、竜はもうなにも言うまいと思った。事態を悪くするばかりだ。

 しばらくして真が顔を上げたので、竜は急いで言った。 

「真、向こうに帰りたくなかったら帰らなくっていいよ。ごめん、泣かせて。僕、フリース取ってくるから」

 竜が立ち上がると、真も涙を拭きながら立ち上がってきっぱりと言った。

「私も行く。エミルに…みんなにちゃんと謝らなきゃ」

 竜は目を丸くして真を見た。泣き腫らしたひどい顔で鼻声だったけれど、真はいつものようにてきぱきと言った。

「着替えてから行く。竜もちゃんと長袖とジーンズに替えた方がいいよ。秋にハーフパンツは変だし、寒いもの。向こうの秋って結構寒いから」

「わかった」

 竜は頷いた。

「あ、でもちょっと待って。まだ時間あるでしょ」

 掃き出し窓を開けようとしていた真は、もう一度椅子に座って、クーラーボックスの中から保冷剤を出すと、泣いて腫れぼったくなった目のあたりに押し当てた。

「こんな顔じゃ行かれない。竜もゼリー食べたら」

 すっかりいつもの真だ。竜は安堵のため息をついて腰を下ろし、クーラーボックスからゼリーを取り出した。

「メロンとオレンジどっちがいい?」

「オレンジ。スプーンはジップロックに入ってる」

 竜はゼリーの蓋を開けた。一口食べる。ひんやりして美味しい。その感触が竜にリルの実を思い出させた。

「ねえ、」

 竜は恐る恐る訊いた。また泣かせちゃうだろうか。

「エミルとリルのことで喧嘩したって聞いたけど、なんで?」

 真が笑い声をあげたので、竜はほっとして二口目のゼリーを口に入れた。

「リルのね、色のことで喧嘩になったの。中がピンクでしょ。あのピンクを私がピンクグレープフルーツのピンクみたいって言ったら、エミルがそんなグレープフルーツはこっちにはないって言って、どんなグレープフルーツだって訊くから、果肉がリルみたいなピンク色をしたグレープフルーツだって言ったら、さっきはリルの色を表現するのにピンクグレープフルーツのピンクみたいだって言ったのに、そのピンクグレープフルーツの色を説明するのにリルみたいって言うのは変だって。どこが変なのよ、って喧嘩になったの」

 竜は笑ってしまった。

「くだらない…」

「でしょ。でもね、喧嘩してても楽しかった」

 笑いながら真がまた目を潤ませたので、竜は心配になった。こんな状態でエミルに会って大丈夫だろうか。その思いを読んだかのように、真が言った。

「大丈夫。エミルの前でめそめそしたりしないから。しゃんとしてるから」

 左手で保冷剤を左目にあて、右手でゼリーを食べながら、真は右目で竜をちらりと見た。

「竜、移住するの」

 竜の胸がどきりとした。淡い緑のゼリーから目を上げて真を見る。

「…うん。まだ魔法が使えるなら」

 真がにこりとして頷いた。

「それがいいよ」

 保冷剤を今度は右目にあてて、真は続けた。

「私も移住するつもりだった。カナダから日本に帰ったら、家族に…少なくとも竜には話して、それから移住しようって思ってたの。そしたらあんなことになっちゃった」

 ふっとため息をついて、真は小さく笑った。

「本当にやりたいことは先延ばしにしないで、すぐやった方がいいよ。今日、もう移住するつもり?」

「ううん。父さんと母さんにちゃんと説明してからにしたいんだ」

 真は眉を上げた。竜は思わず吹き出した。

「何よ」

「今気づいたけど、その眉上げ!エミルとそっくり」

 エミルが眉を上げるとき、右の眉だけがひゅっと高く上がるのだ。

「でしょ。練習したの」

 真が得意気に言ったので竜は呆れた。

「いくら好きだからってさ…」

「違うったら。マーカスがね、いつもやってたの。右の眉だけきゅって。それをエミルと二人で真似しようとして、エミルはすぐできるようになったんだけど、私はいくらやってもできなくって。どうしても両方の眉が一緒に上がっちゃうんだもん。しばらく頑張ったんだけど、エミルがあんまり笑うし、全然できるようにならなかったから諦めたの。でも向こうに行かれなくなってしばらく経った頃、そのこと思い出して、ずっと練習してたらね、できるようになったんだ」

「…そっか」

 突然向こうに行かれなくなって、どんなに辛かったろう。竜はひとりで眉上げの練習をしていた真の気持ちを想像して胸が痛かった。

「今日、エミルに見せてあげたら」

 真は笑った。

「きっとそんなこと忘れてるよ。ねえ、カールはまだ魔法大学で研究してるんでしょ?」

「この秋からまた始めるんだって…ってことは、もう始めてるんだろうな。この前まではフリアの音大でヴァイオリンを教えてたんだよ」

 真が怪訝な顔をする。

「ヴァイオリン?どうして?」

 竜はため息をついた。あまり話したくないけど、でも言っておくほうがいいのかもしれない。

「例の事故の後…」

 言いかけると、息を呑んだ真があとを続けた。

「…事故のせいであの発明のことがばれて学会追放になったとか?」

「ううん、それはマーカスさんがうまく揉み消してくれたんだって。でも、カールは自分の発明のせいで真が死んじゃったって思って、魔法発明学の世界から引退したんだ」

 真は真っ青になって唇を噛んでうつむいた。あまりに厳しい顔をしているので竜は何と声をかけたらいいかわからなかった。しばらくして真が低い声でぽつりと言った。

「こういうのを恩を仇で返すっていうのよ」

「…」

「カールは私に魔法を教えてくれたのに。私はカールの人生を台無しにしちゃった」

「そんな…」

「カールは世界一の魔法発明学者だったのに。それなのに」

 真は保冷剤で両眼を覆った。

 竜は黙ってカップの底のほうに残っていたゼリーをスプーンでかき集めた。

 今まで考えたことがなかったけれど、真にとって、カールは魔法を教えてくれた先生…僕にとってのエミルみたいな存在だったんだ。カールは意識の空間を使わないけど真は使うから、だから同じく意識の空間を使うエミルに教えてもらうことも多かっただろうけど、でもやっぱり、エミルは同い年の子供だったんだし、カールこそが真の尊敬する先生だったんだろう。

 僕がしでかしたことが原因でエミルが魔法発明学から引退してしまったら…。

 真が保冷剤を顔から離して立ち上がった。手早くテーブルの上のものを集めてクーラーボックスに入れる。

「そろそろ20分。支度してくる」

「うん、じゃ、僕も」

 竜も慌てて立ち上がる。真の周りの空気が自責の念で凍りついたように張りつめているのがわかる。ちょっと触ったらぴしっと亀裂が入りそうだった。

 

 ちょっと出かけてきます。夕食頃戻ります。真 竜

 真の机の上にそう書いたメモを置いて、長袖にジーンズ、フリースジャケットを腰に巻いた二人は顔を見合わせた。いよいよだ。

「向こうの世界に属するもの、入ってるの?」

 竜が手にしているカールの魔法に目をやって真が尋ねる。

「もちろん。真じゃあるまいし」

 そう言うと真が苦笑した。さっきと比べて、真の周りの空気が少し和らいでいる。安心した竜は、急に他のことが心配になった。

「真、やる魔法わかってるよね?」

 真の眉が上がる。

「失礼ね。わかってるに決まってるでしょ。何度やったと思ってんの」

「そうだよね」

 竜はちょっと笑った。本当にその通りだ。真はベテラン。初めてなのは僕の方だ。竜は俄に緊張した。ちゃんとできるだろうか…。

 その気持ちに応えるように、真が片目をつぶってみせた。

「大丈夫よ。『属するところに戻れ』って意味にだけ集中すればいいの」

 同時にエミルの声が聞こえたような気がした。

「魔法の意味にだけ集中することだ」

 竜は頷いた。はい、エミル。

 車の中で見た夢が蘇る。竜は目を閉じて深く息を吸った。エミルは僕の目を見てはっきりと言った。

「ちゃんと戻ってこいよ。待ってるから」

 戻れる、と竜は思った。きっと戻れる。

 でも…万が一ってこともある。竜は目を開けて真を見た。

「真、もし僕が行かれなかったら、みんなにくれぐれもよろしく言って。健太のこと、忘れずに伝えてね」

 真が真面目な顔で頷く。

「了解」

 竜は左手でカールの魔法を持ち、ジリスとフュリスが入った方の膨らみを真に差し出した。真が左手を伸ばす。二人の手がカールの魔法を握りしめる。竜は壁の時計を見上げた。シンプルな白い時計。銀色の秒針が黒い9の数字を撫でるように過ぎていく。

「秒針が12のところに来たら」

「12ね」

 真がうなずいた。

 すうっと真の周囲の力が滑らかに動き始めるのが感じられる。

 ああ、この感覚だ。

 竜は微笑んで深く息をついた。

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