第40話

 夕食は、やっぱりご馳走だった。デザートは洋梨のシャルロットで、竜は帰ってきたら絶対にマリーに料理を習おうと心に決めた。マリーのように絵が描けたらという望みは到底叶えられないのはわかっているけれど、料理ならもしかしてできるようになるかもしれない。特に是非是非ケーキ作りを教えてもらいたい。

「大学が始まったらそんな暇はないぞ」

 エミルが言う。

「習うとしたらその前だな。週末ごとに帰ってくるんだから、週末は料理教室っていうことでどうです、お母さん」

「楽しみだわ」

 マリーがにっこりする。

「何を作れるようになりたい?」

「ケーキです!」

「ケーキだろう」

「ケーキだな」

 竜とカールとエミルが同時に言って、みんなで大笑いした。

「じゃ、そうしましょう。竜ならきっと上手になると思うわ」

「ほんとですか!」

「もちろんよ。だってこんなにケーキが好きなんだもの」

「ふーん、悪くないなあ。仕事で疲れてうちに帰ってきたら、美味しいケーキが待っている…」

 冗談めかしてエミルが言った。

「まるで妻がいるようだ」

「頑張ります」

 竜が大真面目に言ったのでみんな吹き出した。


 夜の授業の後、竜はまず日記を書き、それから手紙を書いた。マリーとカールとスティーブン、そして最後の長い一通はエミルへ。そのあと思いついて、ピエールにも手紙を書いた。それぞれを昔真に教えてもらった長方形型に折って、一つの封筒にまとめ、封筒には「もし僕が帰ってこなかったら開けてください 竜」と書き、机の一番上の引き出しに入れた。

 「これでよし、と」

 引き出しをそっと閉めて後ろを振り向くと、ライラは自分のベッドですやすやと眠っていた。ライラへの気持ちは手紙には書けないから、心で伝えなきゃ…。竜は椅子に座ったまま、眠っているライラをじっと見つめた。大好きだよライラ。会えて本当によかった。友達になってくれてありがとう。ずっとずっと大好きだよ…。

 するとライラがぱっちりと目を開いた。黒い目で竜をじっと見つめ返す。

 竜、大好き。ずっと一緒にいる。

 そうはっきり聞こえたような気がして、竜は胸がいっぱいになった。

 ちゃんと戻ってくるよ。絶対に戻ってくるから。

 約束するよ、とライラに頷いてみせて、時計を見ると12時を回ったところだった。立っていってカーテンを少し開けて外を見る。ほぼ真ん丸の月が辺りを明るく照らしている。今夜は絶対に果樹園に行くと決めていた。手紙を書いていたから、予定していたより遅くなってしまったけれど、今すぐ行ってこよう。あまり遅くならないように気をつければいい。

 そっとカーテンと窓を開けて振り返ると、ライラが顔を上げてじっとこちらを見ている。

「果樹園に行くだけ。すぐ帰ってくるよ。おやすみ」

 微笑んで囁くと、ライラは「はあい」と言うように、顎を前脚の上にのせた。

 果樹園に行く前に、竜は家の周りをぐるりと一周飛んでみた。大好きな大きな家。最初来たときは、真がいたことのあるところだから親しみを感じていたのだけれど、今はすっかり竜自身の「家」になっている。きっと戻ってくるからね。心の中でつぶやいて、竜は果樹園の方へ飛んでいった。

 りんごの木の下のテーブルには魔法の灯りが灯っていて、エミルが何か書き物をしていた。

「来ると思ってた」

 ペンを置いてエミルが微笑んだ。書いていた紙を折り畳んで小さな封筒らしきものに入れる。

「手紙ですか」

「ああ。竜、向こうには何を持って帰るつもりだ」

「カールの魔法と、果樹園の小石、真珠の花、手帳と、あとこれ。エミルにもらったベルトです」

 竜はさっき付け替えた深い紺色のアルマンサの腕時計ベルトを見せた。

「お母さんに気づかれちゃうだろう」 

 竜は笑った。

「いいんです。だって数日中に本当のことを全部話すつもりだから」

「そうか」

 エミルが優しい目で竜を見た。さっきの小さい封筒を差し出す。

「じゃ、これも」

「僕に?」

「万が一、本当に万が一だけど、もう会えないってことになったら開けろ」

 受け取りながら、もう会えないなんていう言葉を聞いただけで竜は喉が詰まりそうになったけれど、さっきまで自分がしていたことを思い出してふふっと笑った。

「…実はさっきまで僕も手紙を書いてたんです。エミルとカールとマリーとスティーブンと、それからピエールさんにも。一緒の封筒に入れて、『もし僕が帰ってこなかったら開けてください』って書いて、机の一番上の引き出しに入れておきました」

 エミルが笑った。

「考えることは同じってわけだ。…昔、真とも同じことをしたんだよ」

「初めて向こうに帰った時ですか」

「いや、もっとずっと後だ。どうしてそうなったのかは覚えてないけど…。でも、万が一のために、ってそういうことをすることによって、その万が一を避けられるような気がするね、って話したのは覚えてるよ」

 エミルが遠い目をして言った。

「開けたんですか、真からの手紙」

 訊きながら、竜はエミルがなんと答えるかよくわかっている気がした。

「いや」

 エミルはにこりとして竜を見た。

「絶対に開けるまいと思った。開けなくてよかったよ」

 エミルの綺麗な笑顔に思わず見惚れながら竜は考えた。22年間。僕だったらどうするだろう…。

「そうだ。これ」

 テーブルの端の方に置いてあった黒い箱をエミルが竜の方に押して寄越す。

「もう一度やっておきたいんじゃないかと思って」

 マルギリスだった。

「今日二つ持ってきたから、全部で三つある。明日使う分と、何かあった時のための予備を一つ除けても一つ余るから」

 竜は嬉しくて思わず笑い出してしまった。

「すごい。訊きたいなって思ってたところだったんです。マルギリス、もう一回やってみていいですかって」

「こういうのを以心伝心という」

 エミルが片目をつぶる。

 竜は箱を開けて、マルギリスをそっとつまみ出してテーブルの上においた。月の光と魔法の灯りの下で静かに煌めいているマルギリスは、ほとんど色がないように見える。初めて見た時は綺麗だけど近寄りがたいと思ったんだった…。なんだかずっと前のことのような気がする。

 頬を緩めて一呼吸すると、竜はマルギリスを見つめ、歌わせ始めた。いくつものグラスハーモニカのような響き。細かく振動するマルギリス。いつもの通りだ。

「心配ないな」

 マルギリスの歌が終わると、エミルが微笑んで頷いた。

「はい。…でも明日はやっぱりちょっと緊張しそうです」

 マルギリスの残骸を消しながら竜はため息をついた。

「大丈夫だよ。ちょっとどころかものすごく緊張していたって、竜ならこれくらい難なくこなすさ。もう歩いたり走ったりと同じだ」

 エミルがそう言ってくれると、絶対大丈夫だという気持ちになるから不思議だ。心の奥がふわりと温かくなって軽くなる。

「それにしても」

 頬杖をついてエミルが笑う。

「魔法を始めて9日間も経っていない人間にこんなこと言ってるなんて。改めて…とんでもない奴だ」

「でも自分を見えなくするのはほんっとに苦手です」

 ものを見えなくするのはだいぶ長いことできるようになったけれど、自分を見えなくするのがうまくいかない。どうにもあの感覚が我慢できないのだ。何度やっても、身体が踊り出しそうになるくらいむずむずして、くすぐったくて、ぞわぞわして、どんなに頑張っても10秒以上は続けられない。練習するうちにその感覚は薄れるとエミルは言ったけれど、今のところはそんな兆しはまったく見えない。

 どうにも我慢しきれなくなって姿を現す時の竜の顔と、身体を捩る様がなんともおかしいらしく、ごめんと言いながらエミルは毎回堪えきれずに肩を揺らして笑い、ライラは一体全体何してるのと言いたげにしきりと首を傾げる。

「大学の入学試験でやれって言われたら困ります」

 竜がため息をつくと、エミルがおかしそうに笑った。

「まあ、竜にしたら初めての『苦手』だな。でも試験の方は何も心配することないよ。他の魔法があれだけできるんだから、なんの問題もない。楽々合格だ」 

「それならいいですけど…。ああ、そういえば、思い出した。健太に訊かれたんでした。エミル、こっちでは中学生でもバイトってできるんですか?」

 エミルが変な顔をした。

「バイト?」

「中学に通いながら、生活費を稼ぐために働けたらって思ってるみたいです」

「そりゃ、やりたいなら誰も止めないだろうけど…。でもそんなことしたら勉強やバスケをする時間がなくなっちゃうだろう」

 そして心配そうに眉をひそめると、

「本当にこっちに残る気なのか…」

「まだ…少し迷ってるみたいです。バスケの仲間たちにも、スティーブンたちにもまだ話してないって言ってたし、お父さんやお母さんに手紙を書こうとしたけど、うまく書けなくてなかなか進まないって言ってました」

「そうか…。健太君が向こうに戻らない場合の計画は、ちゃんとできてるんだな?」

「はい。キャンプ場でどうするかっていうことは細かいところまでばっちりです。プランB、プランCもあります」

「その後は」

「その後は…健太のお父さんとお母さん次第だから、任せるよりしょうがないってことになったんです。僕にはどうしようもないから…」

「そうか…。まあ、そうだろうな。でも竜…」

 エミルが心配そうにため息をついたので、竜は笑ってみせた。

「大丈夫ですってば。きっとなんとかなります。それより、」

 竜はさっきエミルが渡してくれた封筒にちらりと目をやって言った。

「真に何か伝言はありますか」

 エミルは虚をつかれたような顔をして

「そうだな…」

 と呟いてしばらく考えていたけれど、やがてにこりとして言った。

「元気だってわかってすごく嬉しいって伝えて」

 竜はちょっと拍子抜けした。会えるのを楽しみにしてるとか、早く会いたいとか、待ってるとか、なんとなくそういう言葉が返ってくると思ってたんだけど…。

 今日の午後言っていたこと、エミルは本当に本気でそう思ってるんだ。真はもしかしてこっちに戻ってきたくないかもしれないって。もしそうなら無理強いしたくないって。でも何日か前に、早く真に会いたいかって訊いた時は、嬉しそうに「会いたい」って言っていたのに…。

「わかりました」

 頷きながら、竜は考えていた。無理強いはしない。でもエミルが会いたいって言ってたってことは真に言おう。それくらい言ったって無理強いにはならないもの。


 翌朝は綺麗な青空が広がった。縁の丸い小さな雲があちらにぽわん、こちらにぽわん、と浮かんでいる。まるで絵本に出てくるような空だった。とびきり美味しい朝ごはんの後、マリーの提案でみんなで庭に出て写真を撮った。もちろんタイマーなんていうものは使わずに、魔法を使う。ちゃんとカメラの方を向いて背筋を伸ばして座っているライラの首に腕を回しながら、竜は自然と微笑まずにはいられなかった。こうしてみんなに囲まれていると、今ここに一緒にいる、という幸福感だけが感じられる。チーズ、なんて言葉は必要なかった。

 11時の汽車なので、念のため9時半頃家を出ることになっている。竜は部屋を綺麗に片付けて、向こうに持って帰らないもの——ノートや教科書や魔法で作った腕時計ベルトなど——を机の引き出しにしまった。一番上の引き出しをもう一度開けて、みんなに書いた手紙を入れた封筒があるのを確認すると、もうやることがなくなった。

 念のためにもう一度、来るときに着てきたドライジャージーパンツのポケットをチェックする。バックポケットに手帳。右のポケットにカールの魔法と果樹園で拾った小石。左のポケットに真珠の花。エミルにもらった手紙は手帳に挟んである。

 まだ出発までにずいぶん時間がある。竜は窓辺に寄って外を眺めた。気持ちのいい風に吹かれながら、美しい緑の風景をじっと見つめていると、じわりと涙が浮かんだ。すぐに帰ってくる。大丈夫。すぐに帰ってくるから。自分に言い聞かせて、涙を押し戻すと、竜は窓から離れ、部屋を出た。

 キッチンに降りていくと、マリーがランチボックスを詰めているところだった。

「手伝いましょうか」

 すり寄ってきたライラをもふもふ撫でながら言うと、

「いいのよ、もうできたから」

 マリーがにっこりする。

「まだ時間があるわ。昨日のケーキ食べる?」

「はいっ」

 沈んだ気持ちだったのが急に嬉しく弾んで、竜は我ながらちょっとおかしくなった。僕って単純すぎるのかなあ。

「ねえ、竜…」

 ケーキを切ってくれながら、マリーがためらいがちに言う。

「健太君のことだけど…」

「はい」

「まだ気持ちは変わらないのね?」

「昨日のお昼頃話した時は、少し迷っているようでしたけど、でもまだこっちに残るつもりみたいでした」

「そう…。カールはね、健太君はきっと向こうに帰ると思うって言っていたんだけど」

「ん…」

 美味しい美味しいケーキを口中、身体中、魂全体で味わいながら、竜は頷いてみせた。口の中が空になってから答える。

「僕ももしかしたらそうなるかもって…。昨日話した時も、まだスティーブンや他のみんなに話してないって言ってたし、お父さんやお母さんへの手紙もまだ書けていないって、うまく書けないって言っていて…」

「まあ」

 マリーは涙ぐんだ。

「でも僕がちゃんと持って行けるように徹夜してでも書く、って言ってましたから、こっちに残ろうっていう気持ちも強いんじゃないかと思います」

「そう…」

 マリーはため息をついて、ケーキを堪能している竜をしばらく眺めていた。竜はマリーが次に何を言うのか大体見当がついていたので、ケーキを半分くらい食べたところで自分から言ってみた。

「大丈夫です。健太が向こうに帰らなかった場合のプランはちゃんと細かいところまで立ててありますから」

「そう…。でもね竜、もし健太君のお母さんが大きなショックを受けて…冷静に振る舞えなかったら…竜が責められるようなことになるかもしれないのよ」

 竜は頷いた。

「わかってます。健太はそんなことにはならないと思うって…お母さんはそんな人じゃないから大丈夫って言ってるけど、でも、やっぱりお母さんにとってはすごくショックな出来事だろうし、だからそういうこともあるかもしれません。でも、健太がこっちに残りたいって思う気持ちはすごくよくわかるし、それに、健太がそう思うように…こっちに残りたいって思うようになったのは、僕があの魔法に失敗したせいだと思うから…。だからせめてこれくらい健太のためにしたいんです。僕のせいで、健太は記憶も脚の魔法も持って帰れなくなっちゃったんだから」

「そんなふうに考えちゃいけないわ、竜」

 そこへカールがやってきた。

「おやおや、また竜を甘やかしてるね」

 冗談めかした口調に、マリーがちょっと笑った。

「あなたも食べる?」

「そうだね、いただこうか」

 椅子を引いて竜の隣に座ると、

「マリー、さっきの写真はできたのかい」

「ああ、そうそう!ちゃんとできてるわ。ほら、よく撮れてるでしょう」

 マリーが写真を持ってきて二人の間に置いた。A4サイズくらいの大きな写真だ。朝の光の満ち溢れた生き生きとした緑の庭で、みんなが笑顔でこちらを見ている。ライラもばっちりカメラ目線でとびきり嬉しそうな笑顔で写っている。なんだか眩しくて、竜は目を細めた。

「いい写真だね」

 カールが微笑んで頷く。

「はい、これは竜に。これなら手帳に入ると思うんだけど、どうかしら」

 マリーが竜に小さいサイズの写真を渡してくれた。竜は急いでバックポケットから手帳を取り出した。挟んでみると、写真は手帳の中にぴったり収まった。

「ぴったりです!」

「そう、よかったわ」

 マリーが微笑む。

「ありがとうございます、マリー」

「どういたしまして」

「あれ、ケーキタイムですか」

 エミルがキッチンに入ってきた。

「食べる?」

「いただきます。あ、さっきの写真ですね」

 カールがエミルに写真を手渡す。

「へえ、いい写真ですね。竜の美少年ぶりがよく写ってる。『マイン!』のミスターアンドミズパーフェクトコンクールに送ってみようかな」

 ちょうど紅茶に口をつけたところだった竜はむせ返り、マリーとカールはきょとんとした。

「なんだいそれは」

「初めて聞いたわ。大丈夫?竜」

「…大丈夫です」

 エミルと目を合わせて笑いながら、竜の目の前がちょっとぼやけた。帰りたくない。ずっとここにこうしていたい。油断したら笑いながら泣いてしまいそうだった。

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