第39話
ものを見えなくする魔法の練習と勉強とで、午前中はあっという間に過ぎてしまった。
「そろそろランチに帰るか」
エミルに言われて時刻に気づいた竜は、テーブルにペンを置いて頭上を仰いだ。真上から降ってくる優しい緑の木漏れ日。
「もうお昼…。明日の今頃は、汽車の中ですね」
「またため息か」
エミルが笑う。
「すぐ帰ってくるんだから、そんな悲しそうな顔してため息ばっかりつくな」
「でもやっぱり…ちょっと悲しいです。帰って来られるってわかっていても。
この9日間が終わってしまうなんて」
「何ごとも終わりがある」
エミルが片目をつぶった。
「そしてもっと楽しい日々が始まる」
「…そうですね」
竜もにこりとした。もっと楽しい日々。そうだ。そういうふうに考えなきゃ。でも、この9日間よりももっと楽しい日々なんて、なかなか想像できない。もちろん大学に行くのもエミルと一緒に暮らすのも、とてもとても楽しみだけれど、やっぱりこの9日間は特別なのだと思う。
「考えてたんですけど…」
エミルに続いて椅子から立ち上がりながら竜は言った。
「真も移住したいって言うんじゃないかなって。そう思いませんか」
エミルはりんごの梢を見上げて眩しそうに目を細めた。
「どうかな…。多分そうは言わないと思うよ」
「そうでしょうか」
竜は意外に思ってエミルの綺麗な横顔を見上げた。
竜自身は、真はほぼ確実にこっちに移住したいと言い出すだろうと思っていた。でもそれだと子供が二人同時に行方不明になることになるし、両親だってさすがにそれは辛すぎるだろうし、でもだからといって魔法大学を諦めるのは嫌だし、しかし自分はこっちに移住して真には我慢しろというわけにもいかないし、どうしたらいいのだろう、と頭を悩ませていたのだ。公平にするために、交代で移住するとか?
ゆっくり歩き出しながら、手を伸ばして果樹の葉に触れつつエミルは言った。
「真が好きだったのは、22年前のこの世界だ。こっちに戻ってきても、それは真の知っていた、真の好きだったあの世界じゃない。場所に戻ることはできても、過去には戻れないからね。父も母も…僕も、22年前のようじゃないし」
「でも、中身は同じカールで、マリーで、エミルですよ」
エミルは笑って竜を横目で見た。少しだけ悲しそうな目をしていると竜は思った。
「今から22年経ったら、竜にもわかるよ。同じってわけにはいかない」
柔らかいチキンの胸肉とサラダを挟んだ特大のサンドイッチを食べながら、竜はやっぱり考えずにいられなかった。
これが、この家で最後のランチ。
もちろん、この9日間の滞在で、という意味だ、と心の中で慌てて付け加える。
「明日のお昼は汽車の中でということになるわね」
マリーが言う。
「11時発ですからね」
エミルがうなずく。
「何を作っていこうかしら」
スティーブンの書斎までは、エミルだけでなく、カールもマリーも、そしてライラまで、見送りに来てくれることになっている。汽車の個室を取ってみんなでソンダースまで行き、その後カールの車(フリアの駅でミニカーにして持って行くのだ)でスティーブンの家まで行く。
「汽車でランチといえば、やっぱり鶏の唐揚げがないと」
エミルが楽しそうに言う。
「そうだったわねえ。それとポテトサラダとね。ずいぶん久しぶりだわね、汽車でこんなふうに出かけるのは」
「子供の頃、休暇中に家族で遠くの親戚を訪ねるのにいつも汽車を使ってたんだけど、ランチボックスのメニューのメインはいつも鶏の唐揚げとポテトサラダだったんだよ。他のものはその時々で違ってたけど」
エミルの説明に竜は目を丸くした。
「うちとおんなじです。家族でお弁当を持って出かけるってなると、メインには必ず鶏の唐揚げとポテトサラダが入るんです」
マリーとエミルも目を丸くする。
「すごいな。世界を超えて、そんなところでつながってるなんて」
「本当にねえ」
「運命的ですね」
三人で笑った。竜の足元ではライラがなあに、どうしたの?と言いたげに首をちょっと傾げてにこにこしている。幸せだなあと足元にくっつくライラの体温を感じながら竜は心から思った。こんなにこんなに幸せだ。未来に何があるかはわからない。でも、今僕は本当に魂の底から幸せだ。
昼食の後、竜は健太に魔法電話をかけてみた。
「健太?」
「あ、竜!」
「今話せる?」
「うん、ちょうどお昼ご飯に帰ってきたところ。レイ、先に行ってて。…うん、わかった。レイがよろしくって。これからご飯を食べて、その後少し練習があって、その後チームがお別れパーティをしてくれるんだって」
竜はちょっと驚いた。
「お別れパーティ?じゃ、みんなにはまだ言ってないんだ」
健太は口籠もった。
「うん…今朝言おうと思ったんだけど、お別れパーティを準備してるから楽しみにしてろって言われちゃって、言い出せなくなっちゃったんだ…」
「スティーブンやアメリアさんには?」
「まだなんだ…。まだ誰にも言ってない。昨日言えばよかったんだけど、もう少しよく考えてからの方がいいかなって思って…」
やっぱり迷ってるんだ。竜は心の中でため息をついた。
「スティーブン達も今夜家でお別れパーティをしてくれるみたいだし…。なんだか言い出しにくいんだけど…。でもちゃんと言うよ」
最後はきっぱりと言って、健太は続けた。
「竜は今日も勉強?」
「うん。それと魔法の練習と。朝にはエミルと魔法大学にちょっと行ってきたよ」
「そっか。ねえ、竜」
健太が声をひそめた。
「こっちでの生活費のこととか考えた?」
「うん、一応は」
「どうするの?」
「僕は大学に行くし、大学を終えてからじゃないと働けないから、だから大学卒業して働けるようになったらきっとお返しします、って言ったんだ、マリーに。そうしたら、子供はそんな心配しなくていいの!って言われた。でも、ちゃんと返そうって思ってるよ。エミルにもね」
「大学の学費は?」
「免除なんだって。向こうからの学生は」
「そうか…中学校とかはどうなんだろう」
「こっちは高校まで義務教育だって言ってたよ。だからただなんじゃない?」
「そうなのか…。バイトとかしてもいいのかなあ」
「エミルに聞いてみる。でも健太、早くスティーブンに言ったほうがいいよ。スティーブンは向こうの世界との交流委員もやってるから、移住のことも色々教えてくれると思うし」
「うん、そうだよね…」
健太がため息をついた。
「でも僕、まだ…」
またため息をついて、
「…昨日、ママとパパに手紙を書いてたんだけど…うまく書けなくて…全然進まなくてさ」
「そうだろうね…」
竜は心から同情した。僕だって、健太の立場だったら、なんて書けばいいかわからない。竜がため息をついたからか、それとも魔法電話の向こうの健太の心を感じたからか、近くで草の匂いを嗅いでいたライラが急いでやってきて、竜の脚にぴったり擦り寄る。
「でも大丈夫。今夜徹夜してでも書くから。ちゃんと竜に持っていってもらえるようにね。明日は汽車で来るの?」
「うん。みんなで…ライラも一緒に」
竜は脚にくっついてこちらを見上げているライラの首に腕をまわし、笑顔でごしごし撫でた。
「そうなの?犬も乗れるんだ?」
「個室ならいいんだって」
「そうかあ。ライラにまた会えるんだ。嬉しいな」
健太の声がぐっと明るくなった。竜はライラと目を合わせて微笑んだ。
「ライラ今ここにいるんだ。よろしくって言ってるよ」
「僕からもよろしく言って。明日会えるの楽しみにしてるって」
「伝えとくよ」
「ありがとう。じゃ、竜、僕ご飯食べてくるよ。明日、3時だよね、向こうに帰るの」
「うん」
「ちょっと早めに来るでしょ?」
「うん。遅くても2時半にはスティーブンのところに着いてるはずだよ」
「そっか、わかった。じゃあまた明日」
「うん、また明日」
会話を終えて、竜はライラに伝えた。
「健太がよろしくって。明日会えるのを楽しみにしてるってさ」
ライラはにこにこして立派な尻尾を振った。
「健太…どうするつもりなんだろう」
ライラを撫でながら竜は一人つぶやいた。健太が向こうに戻らなかったら、きっとルークがうんと寂しがるだろうな。健太の両親は、健太がどうして戻ってこないのか、手紙を読めば一応は理解できる。でも、ルークにはわからないだろう。健太がどこへ行ってしまったのか。なぜ帰ってこないのか。どうしてもう会えないのか。
何年か前に、そういう絵本を読んだことがあった。仲良しの女の子を亡くした犬の物語だった。学校の図書室で、誰かが机の上に置きっぱなしにしていたのを何気なく手に取って読んだら、涙が出てしまったのを覚えている。
「ねえライラ、」
屈んで、ライラと目線の高さを同じにする。
「僕さ、56日間くらいいなくなるけど、その後ちゃんと帰ってくるからね。死んだなんて思っちゃだめだよ。悲しくならないでね」
そこへ勝手口のドアが開いてエミルが出てきた。
「健太君と話せたか」
「はい。エミル、ライラにはちゃんとわかると思いますか?僕が帰ってくるって」
「え?」
「僕が明日突然いなくなって…。もう帰ってこないって思っちゃったら、もしかして悲しくて病気になっちゃったりするかも…」
真剣に言うと、エミルも真面目に答えてくれた。
「大丈夫だと思うよ。父も母も僕も竜が帰ってくるのを知っているわけだから、ライラだって僕たちの言動からそれを感じることができるはずだ」
「…そっか。そうですよね」
竜は安堵のため息をついた。エミルがライラの頬を撫でて微笑む。
「僕もしばらくは週末に様子を見に帰ってくるから」
その言葉で竜は気がついた。そうか。エミルはフリアの自分の部屋に戻るんだ。ここの家にはカールとマリーとライラだけになるんだ。
「いつもは、週末に帰ってきたりしないんですか」
「まあ、1ヶ月に一度とか、そんな感じかな」
歩き出しながらエミルは言った。
「だから、今回は父と母にとっても、思いがけない楽しい日々だったと思うよ。竜はいるし、早くから家を出ちゃった末っ子も帰ってきたし。僕がこんなに長いことここにいたのは…いつ以来だろうなあ。もしかしたら、大学に入ってから一度もなかったかもしれない」
竜は目を丸くした。
「そうだったんですか」
ということは14歳の時からだ。そんなに長い間…。
「週末に帰ったってせいぜい一泊するだけだし…。長かった時で3日間くらいだね。父といい関係を持てていなかったから、なんとなく居づらかったんだよ。それに、やっぱり…色々思い出して辛かったから」
竜は思い切って訊いてみた。
「ずっと辛かったんですか?22年経っても?」
エミルは両腕を頭の後ろに組んで、白い雲があちこちに浮いている夏の青空を見上げた。
「そうだなあ。そう聞くとずいぶん長い時間だけど…。僕は多分そういうふうに考えられなかったんだと思う。もうあれから10年経った、とか、もう20年経った、とか、そんなふうに思えなかった。そんなことより、とにかくもう一度真に会わなきゃ、魔法を完成させなきゃ、ってそれだけだった。ここに戻ってくればいつも、どうしたって、真がいたことと真に会えなくなったことばかりが思い浮かぶ。そして、自分のせいで真は死んでしまったのかもしれないとか、瀕死の重傷を負ったかもしれないとか、世界と世界の間の空間から出られなくなってしまったのかもしれないとか…」
ため息をついた後、エミルは竜を横目で見て笑った。
「でも竜が来てくれて、それが全部終わった。まさか…まさかこんなことが起ころうとは、想像もしてなかった。1週間前、スティーブンの研究室で竜に会って、竜の名前を聞いて、竜に兄弟はいるかって訊いたら、12歳のお姉さんがいるってわかって、その子が真って名前で、マコって呼ばれるのが嫌いだってわかって…」
竜も笑った。
「ズバッと訊いてくれればよかったのに。『もしかして真の弟?真は無事?』って」
「訊けなかったよ。どきどきして、一所懸命自分に『落ち着け、落ち着け』って言い聞かせて、でも同時に変にぼんやりして、夢の中にいるような気がして、一体どうなってるんだ、こんなことがあるはずがない、頭がおかしくなったのか、幻覚を見てるのか…ってね」
「真だってわかったのは、やっぱりマコって呼ばれるのが嫌いっていうのが決め手だったんですか」
エミルはおかしそうに笑った。
「まあそうだね。スティーブンの部屋のドアをノックしたら、真に似てる男の子がドアを開けて、早川竜と名乗る。真の名字は早川だったし、竜っていう弟がいるのも知ってた。その子が、こっちに来て1日も経っていないっていうのに意識のコントロールをほぼものにしている。しかも真のように意識の空間を使っている。さっさと飛べるようになって、小さい時から水泳をやってたって言う。12歳の姉がいる。その姉の名前は真…って、真に違いない!って確信はどんどん強くなってたけど、でも、まさか、そんなはずがない、そんなすごい偶然が起こるはずない、全く別の『真』で、全く別の『竜』かもしれないっていう思いもあったんだ。でもマコって呼ばれるのが大嫌いで、怒らせるにはマコと呼べば効果覿面、って竜が言った時、笑い出したいのを堪えながら、ああ、真なんだ、って思った。生きてるんだ、元気なんだ、って」
そう言って空を仰いだエミルの幸せそうな横顔を見て、竜は心から思った。もっとずっと早くここに来て、知らせてあげたかった。
ライラはもう果樹園の木戸のところで待っていた。木戸を開けながら、エミルが言った。
「全てが変わった1週間だったよ」
竜も心から頷いた。
「僕もです」
午後は、勉強も魔法の練習もしたけれど、少し辺りを散歩したりもした。水の観察をしたあの綺麗な泉にも行ってみた。真珠の花は相変わらず澄んだ水の中に美しく揺らめいていた。
「真がこの花が好きで…。摘むとすぐ萎れてしまうって言ったらすごく残念がってね。魔法で長持ちさせられないのかって言うから、なんで?って訊いたら、髪につけたいって。僕は悪ガキだったから、なんだ馬鹿馬鹿しい!女の子ってほんとにくだらないんだから、とか散々言って怒らせて面白がってたけど、」
エミルは泉の中にそっと手を入れて、真珠の花に触れた。
「ここに来てこの花を見るたびに、あの時摘んであげればよかったって思ってた」
エミルの長い指が、白く輝く真珠の花と草緑色の丸い葉を一緒に摘み取った。
水から引き上げる。竜はその美しい花をじっと見つめた。すぐに萎れてしまうというから、目の前でみるみるうちに萎んでしまうのかと思ったのだ。同時に、エミルの周りですうっと魔法の美しい動きがあり、あれっと思う間もなく止んだ。エミルが竜に真珠の花を差し出した。
「真に渡して」
受け取ると、見た目はさっきと何も変わらないのに、花も葉もひんやりと冷たく、作り物のように硬い。
「ポケットの中に入れても壊れないから」
「すごい。どうやったんですか」
「保存する魔法、ものを固定する魔法、それからものを壊れなくする魔法をかけた」
「三つ同時に?!」
「まさか。一つずつ順にだ」
竜は目を見張った。複数の魔法をそんなふうに連続して数秒のうちにできるなんて。さすがエミルだ。
「でも…自分で渡したくないですか?今度真が来るときに」
エミルは微笑んでかぶりを振ると、草の上についていた膝を伸ばして立ち上がった。
「いや、これは竜から渡して」
「わかりました」
歩き出したエミルについて行きながら、竜は手にした真珠の花を眺めた。綺麗で可愛らしくて華奢で、いかにも女の子っぽい。真がこれを髪につけたがったなんて、なんだか意外だなあと考えていると、斜め前を歩くエミルが言った。
「竜。もし真がこっちに戻ってきたくないって言ったら、無理強いするなよ」
「え?」
聞き間違いかもしれないと追いついて顔を見上げると、エミルは真面目な顔をして竜を見下ろした。
「真はもしかしてこっちに帰ってきたくないと思うかもしれない。もしそうなら、宥めすかして連れてこようとしたりするな」
「まさかそんな。帰ってきたいに決まってるじゃないですか」
目を丸くして竜が言うと、エミルはちょっと笑った。
「もしそうなら、っていうだけだ。そういう可能性もある。念の為に言っておこうと思って」
「…わかりました」
頷きながら、竜は心の中で首を傾げた。それって、昼食前に言っていたことだろうか。22年前とは違うから、って。僕だったら、22年経っていたって、絶対こっちに帰ってきたいと思うと思うんだけどな。
今から22年なら、エミルは57歳。カールとマリーもかなりの高齢だろう。ライラは…残念ながらもういないだろうけど、でもそれでも僕だったら、もし戻ってこれるってことになったら嬉しくて嬉しくて飛んで戻ってきちゃうと思うけどなあ。…ああ、それとも、真がかつては美少年だったエミルがオジサンになった姿を見たくないかも、っていうことかな。
竜はくすっと笑った。もしそういうことなら、簡単だ。雑誌の投票で、魔法•科学部門の恋人にしたい男性ナンバーワンに選ばれたって言えばいい。きっとどんなイケメンになったか見たくて戻ってきたくなるに決まってる。
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