第38話

 大学のプールは、シャボン玉の建物から車で5分ほどのところにあった。その辺りは広大な公園のようになっていて、その中にグラウンドや、屋内プール、体育館、テニスコート、アーチェリー場その他の運動施設がある。夏の朝の光の中、木々や芝生の美しい緑の中に真っ白な艶々した大きな建物があちらに一つ、こちらに一つと建っていて、テニスコートの近くを通った時には、小鳥たちの歌声に混じってボールを打つ音がたくさん聞こえてきた。

「まだ7時前なのに。熱心ですね」

「テニスは人気があるからな。夏だし。冬になると朝練に出てくる人数がぐっと減る」

「それにしたって、夏休みなのにわざわざ学校に出てくるなんて…」

「夏休みじゃないよ」

「え?」

「大学だもの。夏休みはなしだ」

「そうなんですか?!」

 エミルは何をそんなに驚くのだというように眉を上げてみせた。

「学ぶことを目的に来る場所なんだから、夏休みなんていらないだろう」

「でも健太が今レイたちは夏休みだって言ってましたよ」

「それは中学校だろう。義務教育だから、休みは必要だよ。勉強したくもないのにしなきゃいけない子達には特にね。でも大学は勉強したい人間だけが来るところなんだから」

「ってことは、高校も義務教育なんですか」

「向こうは違うのか?」

「国によるんでしょうけど、でも大抵は中学までって聞いたような気がします。日本は中学までです」

「それで、高校も大学も夏休みがあるのか?」

「はい。大学の夏休みは高校のよりも長いんですよ。大学にもよるそうですけど、僕の従兄が行ってるところは、夏休みも丸2ヶ月、春休みも丸2ヶ月だそうです」

 エミルはひゅうっと口笛を吹いた。

「そりゃすごいな。大学は何年間だっけ?」

「大抵は4年間です」

「で、1年のうち4ヶ月は休みなわけだろう。っていうことはトータルで16ヶ月だから、本当は4年間じゃなくて2年と8ヶ月しか授業がないっていうことか…。なんだかもったいないな。せっかく勉強するために大学に行くのに」

 竜の考えは別のところにあった。

「エミルは講義もしてるんですよね?」

「うん」

「それなのに僕のために休暇をとってくれたっていうことは、1週間くらいも授業をお休みにしちゃったってことなんですよね?学生さん達に申し訳ないです」

「心配しなくていい。僕は研究がメインの仕事だから、授業は二つしか持ってないんだ。それに講師がある程度の休暇を取るのは義務づけられていることだから、授業が休みになることは別にそう珍しいことじゃない。前もってちゃんと課題を与えてあるしね。それにしても…」

 駐車スペースに車を停めて、エミルがからかうように竜を見た。

「大丈夫か?向こうと違って、休みなしで6年間の勉強だぞ。覚悟はできてるか?」

 竜は胸の前でガッツポーズを作ってみせた。

「もちろんです!きっとすごく楽しいと思います」

 エミルと一緒に暮らして、毎日魔法の勉強だもの。楽しくないわけがない。竜は今からわくわくした。ああ早く入学したい!


 大学のプールは一昨日行った町のプールのように大きくて綺麗だった。白いつやつやしたプールサイド。綺麗なブルーのプール。白いコースロープ。三方の壁と高い天井が全てコントルなので、明るくてまるで屋外のように感じられる。芝生や木々の緑が目に心地いい。

 エミルが言っていた通り、朝の7時にしては結構たくさんの人が泳いでいる。9レーンある50メートルプールの、それぞれのレーンに四、五人ずつ。ゆっくり泳いでいる人達もいるけれど、真ん中の五本のレーンは明らかに選手と思われる人たちが泳いでいる。速い。

「大学の水泳チームっていうのもあるんですか」

 ロビーのコントル越しに選手たちの泳ぎを目で追いながら、竜はエミルに尋ねた。

「あるよ」

「エミルも入ってるんですか」

 エミルが笑う。

「僕は学生じゃないからね」

「ああ、そっか。そうですよね」

 つい忘れてしまう。

「じゃあ、学生だった頃は?」

「入らなかった。そんな時間はなかったし、そんな気にもならなかったな」

「勉強が忙しくて?」

「そうだね」

 僕もそうなるだろうな、と竜は思った。別にチームになんて入らなくても、好きな時に泳げればそれでいい。一番やりたいことは魔法の勉強なんだし、そもそも、12歳で18歳以上の学生たちのチームに入れるとはとても思えない。

「ドクター•ブリュートナー!」

 後ろから甲高い声がした。振り返ると、水着の上にパーカーを羽織った女子学生らしき女の子が頬を染めて立っていた。

「おはようございます」

「おはよう」

「休暇を取られてるって聞いてましたけど」

「そうだよ」

 するとそこへやはり同じように水着にパーカーを羽織った三人組の女の子がやってきて、

「きゃっ、ドクター•ブリュートナー!」

「おはようございます!」

「わー、お久しぶり!今日は泳がないんですか?」

「あら、こちらは?」

「きゃーかわいい!もしかしてお子さんですか?なわけないですよね?」

 早口の攻撃に苦笑しながら、エミルが竜を紹介する。

「こちらは早川竜君。竜、えーと…」

「ブレンダ•リースです」

「セシルよ、よろしくね」

「エドナ•コルトーです。はじめまして」

「カロリーヌです。よろしく竜君」

「竜君はお隣からなの?」

「は、はい」

「ドクター•ブリュートナーのお客様なのね?」

「ドクター•ブリュートナーと一緒に暮らしてるの?いやーん羨ましい!」

「おい、君たち、こんなところで何してるんだ!」

 太い声が後ろから降ってきて、今度は背の高い若い男の人が現れた。日に焼けていて、黒いハーフスパッツを履いている。

「練習始まってるんだぞ!早く行け!」

「はあい」

「じゃあまた、ドクター•ブリュートナー」

「さよなら竜君」

「またね」

 口々に言って、女の子たちは小走りにプールサイドへと出ていった。男の人は、まったくしょうがないな、と言いたげに首を振ってそれを見送ると、エミルの方に向き直ってにこりとした。

「おはようございます、ドクター•ブリュートナー」

「おはようマルティン。竜、こちらマルティン。マルティン、こちら竜だ」

「はじめまして」

「はじめまして…わお、すごいオーラ!」

 竜と握手したマルティンが声をあげて大きな目を見張る。

「え」

「君、すごいよ!ドクター•ブリュートナー、この子のオーラすごいですよ。すごいパワーの持ち主だ」

 エミルが苦笑する。

「また始まった」

「本当ですって。見えるんですから。ドクター•ブリュートナーのオーラと張り合えるくらいですよ。すごい才能です!ね、君、フリアに来るんだよね?」

「は、はい…」

「ぜひ魔法発明学を専攻するといいよ。この才能を無駄にしちゃいけない!ね!ぜひそうしよう!」

 日に焼けた顔をぐっと近づけられ、竜は思わず後退りしてエミルにぶつかった。

「は、はい…あの、ありがとうございます…」

「さ、そろそろ行こうか。じゃあまた、マルティン」

 くすくす笑いながらエミルはマルティンの肩を叩き、竜を促してロビーを後にした。

 「ああびっくりした」

 外に出て、竜はほっと息をついた。エミルはまだおかしそうに笑っている。

「マルティンは僕の研究チームのメンバーの一人でね。いっつもああやって、オーラだオーラだって言ってるんだ。僕はそういうものは見えないし信じてもいないんだけど、竜のことをあんなふうに言うってことは、もしかして本物なのかもな」

 オーラなんて、竜も聞いたことはあるけど見えないし信じていない。でも、エミルのオーラと張り合えるくらい、という言葉はとても嬉しかった。 


 ピエールのカフェの前で車を降りると、竜は店の中から微かに漂ってくるコーヒーの香りを思い切り吸い込んだ。静かな通り。小鳥の囀り。街路樹の葉ずれの音。ちらちらと降ってくる木漏れ日。数日前初めて来た時と同じだ。まるであの日に戻った気がする。そうだったらいいのに、と思ってから、竜は心の中で首を振った。そんなこと思わなくていい。また帰ってくるもの。すぐに。

 この前と同じように、おいしい朝食をもりもり食べていると、ピエールがやってきた。

「あら、いらっしゃい!」

「おはようピエール」

「おはようございます」

 ピエールは竜を見て大袈裟に眉をひそめてみせた。

「まあ竜君。まだ無理な練習をしてるの?ドクター•ブリュートナーにも伝言を頼んだんだけど」

 竜は慌てて、

「無理な練習はもうしてません。大丈夫です。これはちょっと寝不足で」

「そう?それならいいけど…」

「今日はこの後、ものを見えなくする魔法をやるつもりなんだ」

 エミルが言うと、ピエールは目を丸くした。

「もうそんなことやってるの?すごいじゃない。もしかして、フリアに行くのね?」

「はい。できれば来年から」

「今年からやるには、まだちょっと学科が準備不足だからね。実技は充分だけど」

 エミルが補足する。

「そうなの…。竜君は今何歳?」

「11です」

「まあ…」

 ピエールはちょっと心配そうな顔をしたけれど、

「大丈夫だよ。僕と暮らすから」

 エミルが言うと、ほっとしたような笑顔を見せた。

「それならいいわね。私は寮に入ったから…。周りは大きい人たちばっかりだし、最初はホームシックになっちゃって参ったわ。勉強はとっても楽しかったけど、あの寮生活は寂しくって辛かったわねえ。家が遠かったから、帰れるのもせいぜい月に一度くらいだったし」

 悲しそうな顔をしてため息をついて見せた後、竜を見てにっこりと笑った。

「でもね、最高の6年間だったわ。魔法大学の最高峰だけあって、もうそれこそ知識の宝庫よ。学び放題。図書館は完璧で、知りたいことで調べられないことなんて何一つなかったし、実験設備も標本も何一つ足りないものはなかったし、先生達もみんな素晴らしかったわ。私はここにいるエミルみたいに、あんな優れた魔法の使い手を父に持っていたわけじゃなかったから、素晴らしい魔法の使い手達に直に魔法を教わることができるなんて夢のようだった。毎日が感動だったわ。とても楽しかった。竜君もきっと素晴らしい6年間を送れると思うわ」


 いつものようにクッキーの包みをお土産にもらって車に乗り込んだ竜は、ため息をついて膝の上の包みを眺めた。ため息を聞きつけたエミルが、車を発進させながらからかうように言う。

「数日間このクッキーを食べられなくなるわけだ。禁断症状が心配だろう」

 竜はちょっと笑った。

「いえ、そうじゃなくて。しばらくここにも来られないでしょう。真と一緒に戻ってくるのは多分56日後くらいだけど、その時にここに来られるかはわからないし、その後移住する時まで来られないとしたら、半年くらい来られないわけだから…。ピエールさんにちゃんと挨拶すればよかったなあって思って。でも挨拶するにしたって、なんて言ったらよかったんだろうって…」

 エミルは微笑んだ。

「大丈夫。しばらくソンダースに戻って勉強することになったから、って言っておくよ」

「それなんですけど…」

 竜はさっきから疑問に思っていたことを口にした。

「ピエールさんは僕が向こうから来てるってわかってるんでしょう?」

「もちろん」

「それなのに、フリアに行くのかって普通に訊かれてちょっとびっくりしました。子供なのに一人で移住するのかとか、家族はどうするんだとか、そういうことを色々訊かれちゃうかと思ったけど…」

「そういうのは、向こうからの客人に訊かないのが、まあなんというか暗黙の了解というか、マナーというかね。どれくらい滞在するのか、とか、移住するつもりなのか、とか、どうして移住するんだ、とか」

「そうなんですか」

 頷きながら、竜は僕も気をつけないとなあとちょっと心配になった。マナー違反になるようなことをしないように、さっきエミルにも言われたように「品のないこと」を言ったりしたりしないように、気をつけよう。ここはやっぱり違う世界なんだから。大学に行ったら、周りの人たちの言動も注意して観察して、こっちの世界のやり方というのを学ばなきゃ。

 大学に行ったら。さっきピエールが話してくれたことを思い出して、竜は嬉しくて頬が緩んだ。

「フリアって魔法大学の最高峰なんですね」

「そうだね。一番古い魔法大学でもある」

「さっきピエールさんが言ってたこと聞いてて、わくわくしてきちゃいました。授業もすごく楽しみだけど、僕、図書館大好きなんです。大学の図書館て大きいんですか」

「大きいよ。今日時間があったら行ってみてもよかったけど…、でもとてもじゃないけど一日で全部の部屋は見て回れなかったと思うよ」

「わお。そんなに大きいんですか!」

 目を輝かせた竜を横目で見て、エミルはくすくす笑った。

「気をつけないと本の虫になりそうだな」

「たくさんたくさん、色んなことを学びたいです。でもまずは、」

 竜は両の拳を握ってみせた。

「ものを見えなくする魔法です!」

 エミルがにこりとした。

「よし!じゃ練習しよう。手始めに、そうだな…、う、わっ」

 エミルが握っていたハンドルが見えなくなった。竜は目を丸くした。

「できた!」

「こら竜!早く戻せ!」

「はいっ。えーと、」

 ハンドルがまた見えるようになり、エミルはため息をついて笑い出した。

「…まったく!」

「ごめんなさい。試しにちょっとやってみたら…」

「やってみたらできちゃった、ってわけだな。やれやれ、竜…」

 エミルは楽しそうに首を振った。

「さすがだな。じゃ、ここからがメインだ。ハンドルはちょっと困るから、そうだな、これを、」

 エミルの財布がふわりと竜の膝に舞い降りた。

「見えないようにして、その状態のままキープするんだ」

「はい」

 しばらくして、竜はなぜエミルがこの魔法がいい練習になると言ったのかわかった。何かを浮かばせたままにしたり、飛んだり(つまり自分を浮かばせたままにしたり)するより、ずっと力がいる。

「疲れたら休め。無理するな」

 言われて、竜はふうっと息をついて力を抜いた。財布が膝の上に現れた。

「…結構疲れますね」

「そう。この魔法はね、持続させるのが難しいんだ。どうしてだと思う?」

 竜はちょっと考えた。

「見えないからですか」

 エミルはにこりとして頷いた。

「その通り。自分のやっていることが見えないし感じられないからね」

「なるほど…」

「じゃ、今度は自分を見えなくしてごらん」

「はい」

 竜はやってみた。

「うわ」

 自分の姿が消えた途端、猛烈にむずむずするような、飛び上がらずにはいられないような、変な感覚が身体のどこかから湧き起こって、とても続けていられない。

「変な感じがするだろう」

 エミルがくすくす笑って言う。

「はい」

 竜は身体を捩って腕をさすりながら頷いた。首筋がぞわぞわして、身体中に鳥肌が立っている。

「僕も最初はそうだった。慣れればその変な感じは薄れるけど、それでも自分が見えない状態を保っているのは結構難しい。動いていると尚更だ。まあまずはものを見えなくする練習をする方がいいかな」

「エミルはこの魔法をよく使ったりするんですか」

「いや、練習のため以外ではほとんど使ったことはないね。ものを作り出す魔法と同じで、実用的ではないけど、魔法の力を向上させるには効果的な魔法、っていう感じかな」

「泥棒とかスパイとかにならない限りは、ですね」

「泥棒だのスパイだのにいてもらっちゃ困るようなところには、ちゃんと防御の魔法が張ってあるから、役に立たないよ」

「…じゃあ、うーん…、あ」

 思いついて、竜はいたずらっぽく笑った。

「男の子がお父さんの秘密の発明について盗み聞きするときなんかはどうです」

 エミルも笑った。

「残念ながら、あの時はまだそんなに長いこと姿を見えなくすることはできなかったからね。魔法に頼らずやってのけたよ。床に這いつくばったり、家具の後ろに隠れたりしてね」

 懐かしいな、と竜は微笑んだ。その話を聞いたのはちょうど1週間前になる。

「…1週間前の今頃は、まだエミルのことを知らなかったんですよ」

 8時10分。まだアメリアさんのところで朝食後のケーキを食べていた時間だ。

 エミルも目を細めた。

「そういえば1週間前だったか」

「すごい1週間でした…」

 竜は頬を緩めたまま深いため息をついた。

「間違いなく、人生で最高の1週間でした」

「同じく」

 エミルも微笑んで言う。竜は目を丸くしてエミルを見た。

「35年間で?」

「竜と出会えて、真が無事だったことがわかって、竜と過ごせて、竜の魔法を見ることができて…。父ともあんなふうに話せるようになったし、母はあんなに幸せそうだし。間違いなく、35年間で最高の1週間だったね」

 嬉しそうな横顔を見て、竜はここに来られて本当によかったと心から思った。




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