第8話


 「竜」

 エミルにそっと肩を揺すられてゆっくり目を開けた竜は、辺りの光にはっとして窓の外に目をやった。

 窓の外は見たこともないほど美しい夕焼けだった。茜色と金色に燃える空。向こうのほうに海が見える。その黄金を溶かしたような海に金色の太陽が沈んでいく。その周りの雲の縁も、燃えるような黄金色だ。竜はしばらくの間言葉もなく見とれた。

 やがて窓の右端にきらきらと明かりの瞬く町が見えてきた。大きな町だ。

「フリアですか」

「ああ」

「大きいんですね。大都市だ」

「左の方に大きな球体があるだろう。見えるか」

「はい」

「あれが魔法大学だ。というか、魔法大学の建物のうちの一つだ」

 竜は目を丸くした。あれが建物のうちの一つだというなら、魔法大学そのものはきっと小さな町くらいの大きさがあるんじゃないだろうか。 

「僕たちが向かうのはフリアの郊外で、ほら、魔法大学のずーっと左の方に丘が見えるだろう。あの辺りだ。家はちょっとこの角度からじゃ見えないけど、丘の上のほうにある」

 夕焼け空を背景に黒く浮かび上がっているその丘のあちこちにも、ちらちらと灯りが瞬いている。竜はその丘をじっと見つめた。真が魔法を学んだ場所。真はあそこと向こうの世界をこっちの時間で2年近くも行ったり来たりしていたんだ。そう思うと、まだ行ったことのないその場所になんだか懐かしさのようなものを感じた。僕も今からあそこに行く。そして何度も戻ってきて、たくさんたくさん魔法を学ぶんだ!

 よく眠ったおかげか、竜は前にもまして魔法をもっと学びたいと強く思った。身体中に力が漲るのを感じる。

「フリアの駅から家まではバスで1時間くらいだ。夕食は家でと思ってるんだけど、腹は大丈夫か?」

「大丈夫です!」

 勢いこんでうなずいた竜を見てエミルが笑った。

「元気回復だな。よかった」

「はい。すごくよく眠れちゃいました」

「丸太のように眠ってた。ちゃんと息をしてるのか心配になったくらいだったよ」

 しばらくして、汽車のスピードが落ちてきた。窓の外は夜の都市だ。もうすぐフリアの駅に着くらしい。

「ソンダースからフリアまで直行なんですね」

「いや。四回くらい停まってるよ」

「えっ。全然気がつきませんでした」

「よく寝てたからな」

 竜は改めてびっくりした。車を含めて、乗り物の中でこんなによく眠れたのは初めてだった。

 汽車のスピードがさらに落ちる。急に窓の外が明るくなったと思ったら、もうそこは駅のプラットフォームだった。

「行こう」

 エミルがリュックサックを持って立ち上がる。竜も慌てて後に続いた。

 プラットフォームは、床も壁もアーチ型の高い天井も、クリーム色がかった白い大理石のような石でできていた。見たところ照明はなく、その大理石のような石自体が柔らかく光っているようだ。プラットフォーム全体が不思議な心地良い明るさに満ちている。

 エミルが腕時計を見た。

「8時のバスがある。急げば間に合うだろう。ついて来れるか」

「はい!」

 長い脚ですいすい歩くエミルに竜は小走りでついていった。

 大きな町の駅だけあって、人がたくさんいる。動く歩道もたくさんあって、人々はどんどん高速で動いていく。

 エミルとはぐれないようにぴったり後ろにくっついていくのに精一杯で、あまり色々なものに注意を払っている暇がなかったけれど、竜はこの世界ならではのいくつかのことに気がついた。

 例えば案内板の中には宙に浮いているものがあったし、五、六階分くらいある高い大きな吹き抜けのエリアには、エスカレーターのようなものが、魔法の力無くしてはあり得ないようなやり方であちこちに設置されている。プラットフォームと同じで、照明器具の代わりに、床や壁や天井そのものが心地よい均一な光を放っている。そしてやはり文字のプリントされた服を着ている人はいない。

「大丈夫か」

 大きな吹き抜けのエリアを歩いている時、一度エミルが振り向いて尋ねた。

「はい」

 答えた竜は、もう一つ不思議なことに気がついた。音の響き方が変なのだ。固そうに見える(そして実際に足が感じる感触も固い)床なのに、まるで絨毯を敷き詰めた場所を歩いているように、人々の足音がしない。こんなにたくさん人がいるしかも天井の高い場所なのに、まるで音の響きが何かに吸い取られているように、騒音が抑えられている。

 随分歩いた後、二人は大きな回転ドアを通って外に出た。途端に耳に届く騒音の量が上がった。人々の話し声。足音。そこは大きなバスターミナルだった。ソンダースで乗ったような小さなバスもあるけれど、大きなバスが多い。それでもやはり排気音がないので、向こうの世界のバスターミナルよりずっと静かだ。

「十分間に合ったな。あのバスだ」

 エミルが少し離れたところに停まっている綺麗な水色の大型バスを指差した。

「疲れたか」

「大丈夫です」

 歩調を緩めて歩き出したエミルに、竜は訊かずにはいられなかった。

「どうして駅の中はあんなに静かなんですか」

「あの床とか壁とか天井に張り巡らされてる白い石に気づいたか?」

「はい。大理石みたいな」

「あれが騒音を吸い込んで、それを光に変えてるんだ」

 竜は目を丸くした。

「魔法で、ですよね?」

「いや、そういう性質を持つ石なんだ。もちろん加工の段階では魔法も少し使われているけどね」

 竜はびっくりした。騒音を吸い込んで光に変える石。そんなものがあるなんて、やはりここは向こうの世界とは異なる世界、別の世界なんだ、と改めて感じた。

「どこにでもあるんですか、その石」

「いや、北の方の、ある山岳地帯でしか採れないかなり貴重な石だ。あの駅には政府関連のオフィスがいっぱいある。それで騒音を抑えるためにあの石を使ってるんだけど、贅沢だって庶民には結構不評なんだよ」

 水色のバスのところへ来ると、エミルはまずそこにいた水色の制服を着た男の人(運転手ではなく車掌らしかった)からチケットを買い、バス停の後ろの方の柱に取り付けてある真っ白なボールのような公衆電話から電話をかけた。

「お母さん?エミルです。今フリアの駅なんだけど…うん、さっきね。…そう。うん、ちょっと予定が変わって。友達と一緒なんだけど、…うん。うん、お願いします。8時のバスだから…そうだね。うん、わかりました。はい。じゃあ後で」

 電話を切ると、エミルは楽しそうに言った。

「竜が誰だかわかったら、びっくり仰天だろうなあ。楽しみだ」

 竜はちょっと心配になった。

「びっくりしすぎないといいですけど」

 スティーブンが、もう若くないんだから驚かせるなと言っていたではないか。

「大丈夫だよ。まあ大騒ぎにはなるだろうけどね」

 エミルはいたずらっぽく笑って、

「さ、乗ろうか」

 竜を促してバスの降車口に向かった。


 バスの中は、汽車の中ほどではないけれど、かなりゆったりとした座席配置になっていた。淡い水色の座席も、少し小さめのソファといえるくらいの大きさで、とても座り心地がいい。床にはシミひとつない真っ白な絨毯が敷き詰められている。

「汽車の中でも思ったんですけど」

 後ろの方の座席に落ち着いたあと、竜は実際的なことを言った。

「白い絨毯なんて、掃除が大変ですよね」

 エミルはきょとんとしてから、おかしそうに言った。

「魔法があるだろ」

「…ああ…」

 そういえばそうだった、と竜は自分でも笑ってしまった。

「魔法と掃除っていうのが結びつかなくて…。じゃ、魔法を使える人がこういう清掃の仕事に就くんですね」

「清掃は、こういう長距離バスだと車掌の仕事だろうね。ローカルバスなら運転手。汽車は車掌以下何人かのチームでやってるはずだ。掃除程度の魔法なら簡単だから、できる人はたくさんいるよ」

 竜は思わず求人広告を思い浮かべてしまった。

「募集。長距離バスの車掌。掃除程度の魔法ができる人」

 しばらくしてドアが閉まり、バスがすうっと音も振動もなく突然動き出したので、竜は思わずびくっとした。どうもまだ慣れない。

 座席は三分の二ほど埋まっていた。新聞を読んでいる人、本を読んでいる人、眠っている人、窓の外を見ている人、隣に座った人と低い声で話をしている人、編み物をしている人など様々だ。

「もう少し寝るか?」

 エミルが低い声で訊く。

「1時間くらいある」

「いえ、大丈夫です」

「じゃあ少し話そう」

 意識の空間に戻った竜は、辺りがくっきりと澄んで見えるのを確認した。ゴーグルは曇っていない。

「事故のことを話しておこうと思って」

 エミルが言ったので、竜は少し緊張しながら座った。

「…事故が起きたのは、」

 エミルは大きく息をついてから話し始めた。

「僕が真と一緒に向こうの世界に行こうとしたからだった。

 僕たちは二人とも、父の発明したあの魔法が、向こうの世界の人間のためだけに作られたものだと知らなかったから、いつか二人で一緒に向こうの世界に行ってみよう、という秘密の計画というか、希望はずっとあったんだ。長いこと実行に移さなかったのは…特にこれといった理由があったわけじゃないけど、多分、僕たちの生活が十分すぎるほど忙しくて楽しかったからだったと思う。

 幸せな、充実した日々だった。8日間くらい真がいて、競い合ったり、教え合ったり、遊んだりして、真が来ない16日間くらいの間は、真が戻ってきた時のためにもっと魔法の練習をして、そうするとまた真がやってきて…。毎日本当に楽しかったよ。 

 でもあの夜、果樹園でいつものように魔法の練習をしていた時、真が急に言い出したんだ。明日向こうに帰ったらすぐ、自分はカナダを発って日本に帰らなきゃいけない。だから今夜が僕がカナダを見られる最後のチャンスだって。それに、次の時は帰ってくるのにいつもみたいに16日間じゃなくてもっとずっと長くかかってしまうって。それでなんだか二人して切羽詰まった気持ちになってしまって、よし、じゃあ今一緒にカナダに行ってみよう、ってその場で決めてしまった。

 僕たち二人があの魔法について、勝手にしていた解釈というのはこういうことだった。  

 あの道具の中に向こうの世界の物を入れれば、その物の『向こうの世界に属する』という性質が無限大に強められて、向こうの世界に属する真とこっちの世界に属する僕が二人でそれを握って「属するところに戻れ」の魔法を行えば、バランスは圧倒的に向こうの世界に傾いて、僕たちは向こうの世界に行くことができる、って。

 だから、真のパジャマのボタンを一つ取って、道具に入れて、二人で道具を握って、『属するところに戻れ』の魔法をやった」

 エミルはまた大きく息をついて宙を見つめ、竜は固唾を呑んで次の言葉を待った。

「…覚えているのは、強烈な光の炸裂と、何かに激しく全身を打たれて宙を飛んだ感覚だけだ。その後地面に叩きつけられたはずだけど、それは覚えていない。

 遅くまで起きて試験のために勉強していた一番上の兄が光の炸裂に気がついて、果樹園までやって来て、果樹園の入り口あたりに倒れていた僕を見つけた。僕たちが魔法を行ったのは果樹園の真ん中あたりだったから、かなり飛ばされたことになる。

 僕の意識が戻らないものだから、母が父に連絡した。既に家に向かっていた父はすぐに着いたけど、何をやっても僕の意識は昼ごろまで戻らなかった。真の姿がないし、果樹園に行った父があちこちに散らばった道具の破片を見つけていたから、みんな何が起こったかは察することができた。だから近くの医者ではなく、わざわざソンダースからスティーブンを呼んだんだ」

 竜は訊かずにいられなかった。

「怪我は?」

「主に左半身の火傷。それから道具を握っていた左手と左腕は、深く裂けたようになっていたそうだ」

 裂けた…?竜の全身に鳥肌が立った。

「あとは地面に叩きつけられたときの全身打撲と右肩脱臼。スティーブンが全部治してくれたけど、裂けた腕は難しかったらしい。使えるようになるのに時間がかかったね」

 エミルはため息をついて竜を見た。

「僕がそんな有様だったんだから、僕の家族がどんなに真のことを心配したかわかるだろう。母は泣き通しで半狂乱だった。父は…、父は僕の意識が戻ったのを確認したあと、部屋を出て長いこと戻ってこなかった。数時間後、僕がようやく話ができるまでに回復した時初めて戻って来て、僕の話を聞いて、一言も言わずにまた部屋を出て行った。次の日の夜になってから疲れ切った顔で僕の枕元にやって来て、『全てはお前たちに何も説明しなかった私の責任だ。だからお前を責めることはしない』、とだけ言って、また出て行った。その言葉通り、父は僕を一度も叱らなかったし、事故のことは自分からは二度と口にしなかった」

「……」

 竜はなんと言っていいかわからず、実際の世界で隣の座席に座るエミルの左腕にそっと目をやった。日に焼けた腕に、確かに、微かながら長く縦にギザギザと続く傷跡が見える。

「最初、僕は道具が木っ端微塵に壊れたことを知らなかった。だから、真はきっと大丈夫だと思っていた。道具に入れていたのは向こうの世界に属するものなんだから、バランスは完全に向こうの世界に傾いている。きっと無事に戻れたに違いないって。それに僕たちは…親友だったから、真にもし何かあったなら、僕がそれを感じないはずがないって信じていた。僕が怪我をしたのは、多分向こうの世界に属さないものとして弾き飛ばされたからであって、真はいつものようにすんなり向こうに帰れたはずだって思っていたんだ。

 でも一方で、一緒に来るはずだった僕が来なかったんだから、心配して何があったのか見に戻って来てくれてもいいはずなのになって思ってもいた。真らしくないなって。でも、日本に帰る日なんだし、荷造りだのなんだので忙しいんだろうって自分を納得させていた。

 僕の意識が戻って3日目の午前中だった。スティーブンが僕の腕の治療をしてくれた後で、母がやってきて、道具の破片がたくさん果樹園に落ちていたことを話してくれた。僕はそれを聞いてなんだか頭がぼうっとしてしまって、…そのあとのことはよく覚えていない」

 エミルは額にかかっていた髪をかき上げて、横を向いた。その表情を見て、竜は胸の奥がぎゅっと痛くなった。どんなに辛かったろう…。

「で、でも」

 話の方向を少し変えたくて、竜は口を開いた。

「不思議ですね。道具が壊れたのに、どうして真は向こうに戻れたんでしょう」

 エミルは夢から覚めたようにはっとして

「僕も今日ずっとそれを考えてたんだ」

 と実際的な口調で言った。

「もちろん、この分野、つまり二つの世界を行き来する魔法に関しては、とにかくデータが少なすぎて、何があり得るのかあり得ないのかはっきり言えない。だけどそれにしたって、どう考えても、あの状況で真が向こうに無事に帰れるなんて…」

 エミルは言葉を探して、

「奇跡としか言いようがない」

「奇跡…」

「竜、本当に真に何か変わったことはなかったのか」

 竜は首を振った。

「ありません」

「記憶障害とか」

「いいえ」

「怪我とか傷痕とかも?」

「少なくとも僕は何も気づきませんでした」

「そうか…」

 エミルは深くため息をついた。

「真に話を聞ければいいんだけど…覚えてたらの話だけどな」

「覚えてるんじゃないかと思います」

 竜は勢い込んでピンクのゴーグルの話をした。

「ね。こっちの世界のこと覚えてるんだと思いませんか?だって、真がピンクのゴーグルだなんて。しかも、『期待してたのとはちょっと違った』って」

 興奮気味に言う竜にエミルは慎重に微笑んだ。

「…そうだね。もしかしたら、…もしかしたら、覚えてるのかもしれない」

 そして宙を見上げて目を細めた。

「覚えてるといいなあ…」


 丘の麓の停留所は、こんな立派な大型バスが止まるには不似合いな、時刻表と白いボールのような公衆電話のついた白い柱が一本立っているだけの場所だった。バスケットボール大の丸い可愛らしい灯りにぽつぽつと縁取られた道が、丘の上に向かってなだらかに続いている。

「さて、」

 リュックサックを背負ってエミルが言った。

「いつもはここから家まで歩くけど、どうする?車を呼ぼうか?」

「大丈夫です、歩けます」

「それとも」

 エミルがにこりと笑った。

「飛んでみるか?」

「えっ」

 竜は嬉しさに目を丸くした。

「いいんですか?そんなことして。公共の場所なのに」

「別に禁止されてるわけじゃない。人もほとんど通らないから、人目を気にする必要もないし」

「やった!」

「よし、じゃ行こう」

 とん、と軽く地面を蹴って、エミルがすっと浮かび上がった。

「はいっ。えーと、」

 しばらくどんな魔法も使っていなかったので、竜は一瞬混乱した。あれ?どうやるんだっけ?  

「落ち着け。ちゃんと待ってるから」

 空中からエミルが言う。

「意識の空間に戻ってみろ」

「はい」

 薄青い空間に戻ってみて、竜はぎくっとした。光のボールがない!

「どうした?」

 絶句して立ち尽くしている竜にエミルが声をかけた。

「…光のボールがないんです!」

 どうしよう、何があったんだ、と青くなっている竜の耳に、エミルの笑みを含んだ柔らかい声が聞こえた。

「落ち着け。意識の集中とコントロールを思い出せ。焦らず、ゆっくりでいいから」

 そうだった。集中、集中…。竜は深呼吸して目を閉じた。すぐに様々な色の光線がさあっと動き、煌く光のボールが現れた。竜の手元ではなく、すでにきちんと宙に浮いている。

「よかった…」

 竜は胸を撫で下ろした。そこからはもうどうすればいいか、頭と体が覚えていた。竜は上を向き地面を軽く蹴った。

「よし、できたな」

 エミルが微笑む。

「びっくりしました…。どうしてボールが消えちゃったんでしょう」

「そりゃ、意識を集中してなきゃボールは現れないさ。意識の空間をただ話すためだけに使ってた時、ボールがなかっただろ?」

「…そういえば。今まで気づきませんでした」

「魔法を行う時は、魔法を行うっていう意識を持たないとできない。そういう感覚にもすぐ慣れるよ。じゃ、行こう。こっちだ」

 エミルは道路とぽつりぽつりとある家々の上空を避けて飛んでいった。竜はもっとずっと高いところを飛んでみたかったが、木々の頂くらいの高さを飛ぶエミルについて行った。

 確かに泳ぐ感覚と似ているけれど、空気は水よりもずっと軽い。水に浮かんで泳いでいるときには、途中で沈むかもしれないなんて感じたことは一度もないけれど、空中を泳ぐのは、ちょっと気を抜けば沈む――落ちる――ような気がして、まだリラックスできない。でも、ああ、本当に飛んでいるんだ…。竜は心の底から感動した。

 夜風が気持ちいい。少し強い風がざっと吹くと、空気にうねりができて、波のように感じる。部屋の中を飛び回るのとは全然違う。小さいビニールプールの中を泳ぐのと川を泳ぐのとが違うくらい違う。気持ちがいいけれど、同時に何か少し怖い気もして、竜はエミルと一緒でよかったと思った。

「あの家だ」

 エミルが振り返って言った。前方に赤い屋根の大きな家が見える。果樹園らしきものも見えて、竜は胸が震えた。

「犬がいるけど大丈夫か」

「犬がいるんですか!」

「ああ。まだ子供だから戯れて跳びついてきたりするけど、無視すればすぐ大人しくなるから」

 無視なんてできそうもないなあ、とワクワクしながら竜は思った。自分の幸運が信じられなかった。魔法も学べて犬とも暮らせるなんて!

 二人は家の横手にある小さな菜園の脇に降り立った。ハーブのいい香りがする。すり減った蜂蜜色の敷石を敷き詰めた小道の先には勝手口らしきドアがあり、上半分のレースのカーテンがかかったガラス部分から温かい灯りが溢れている。涼しげな虫の音に混じって、食器を洗っているらしいかちゃかちゃという音と、女の人のハミングが聞こえてくる。

「あれが僕の母だよ。行こう」

 エミルに促されて、竜はちょっと緊張しながらドアに向かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る