第14話

 帰りは飛ばずにゆっくり歩いて帰ってきた竜を、菜園のあたりで大喜びのライラが迎えた。後ろからエミルが歩いてくる。

「おはよう。早いな」

「おはようございます。ちょっと果樹園まで飛んでみました」

「そんなことだろうと思った。部屋に行ったらライラが人待ち顔で窓の下に座ってたからね」

 エミルが笑いながら言ったのを聞いて、竜ははしゃぎ回っているライラをぎゅうっとハグした。ちゃんと僕のことを待っててくれたんだ…。

「これからちょっと大学に行って来ようかと思って。研究室から取ってこなきゃいけないものもいくつかあるし」

 片目をつぶって、それがマルギリスの結晶を含む秘密の発明関連のものだということを匂わせ、

「部屋にも寄ってこようと思ってるんだけど、一緒に来るか?」

「はい!」

 竜は勢い込んで頷いた。フリア魔法大学!ぜひ行ってみたい。

「いいのか?時間がもったいないぞ」

 エミルがからかう。

「どうやって行くんですか?」

「車で」

「じゃあ小石を持っていって、車の中で『歌わせる』練習をします」

 すまして言うと、エミルが吹き出した。

「なるほどな。よし、じゃあすぐ行こう。今なら道も空いてるし、すぐ行って帰って来られる」

 勝手口に向かって歩き出したエミルについて行きながら、

「やっぱりラッシュアワーとか渋滞とかあるんですか?」

「そりゃあるさ。大学周辺なんかは特にひどい」


 マリーにカールからの伝言を伝え、朝食のロールパンをいくつかテーブルから失敬し(実際に失敬したのはエミルだが)、ライラに行ってくるからねとハグをして、竜はエミルとカールの淡いグレイの車に乗り込んだ。ポケットには、ちゃんと、昨日うんともすんとも言わなかった小石が入っている。でもまずエミルに質問したいことがいくつかあった竜は、窓からマリーとライラに手を振った後、早速口を開いた。

「エミル、姿を見えなくする魔法は、まだ僕には難しいですか」

「うーん、そうだな、まあやってやれないことはないだろうけど。なんだ、姿を隠してやりたいことでもあるのか?」

「はい。姿を隠していれば、人目を気にせずに自由に飛べるでしょう」

「ああ…残念ながらそれはちょっと無理だろうな」

「えっ」

 竜は驚いてエミルの端正な横顔を見上げた。

「どうしてですか」

「複数の魔法を同時には使えないんだ」

 竜は目を丸くした。

「そうなんですか?」

「ああ。だから複雑な魔法、例えば向こうとこっちを行き来する魔法なんかには、道具が必要なんだ。いくつもの魔法を同時に行わなくてはいけないから」

「なるほど…」

 竜は唸った。次元のことを聞いた時もそうだったけれど、またしても魔法の現実といおうか、規則、法則、というものをもっと知らなくてはとつくづく思った。

「どうして複数の魔法を同時にはできないんですか?」

 エミルはハンドルを切りながら苦笑した。

「ごめん、言い間違えたな。普通は使えない、と言うべきだった。絶対にできないというわけじゃない。ものすごく難しくて、普通の人間にはなかなかできないっていうだけだ。例えば、そうだな、ピアノで難曲を弾きながら、両足を使って木琴で全く別の曲を同時に奏でる、みたいな感じじゃないかな」

 想像して竜は思わず笑ってしまった。

「難しそうですね」

「だろ?不可能ではないけどね。でも飛びながら他の魔法を使うなんて、危なすぎるからやめておいたほうがいい」

「試したことありますか」

 エミルは楽しそうに笑った。

「あるよ。飛ぶことはさすがにしなかったけどね。二つの魔法を同時にやるっていうのは、魔法を使う子供はみんな試したことがあるんじゃないかな。真ともやったことがある。りんごを宙に浮かばせたまま、魔法で鉛筆を動かして紙にそのりんごの絵を描くんだ。10分間だったかな、時間を決めて、できなかった方が、できた方のいうことを何でも聞く、とか言ってね。真がずいぶん粘って、あと10分、もうあと10分、って言うから、結局30分くらいやったんだけど、二人ともできなかった。真は機嫌が悪くなって、『時間の無駄しちゃったわ』なんて怒ってたなあ」

 エミルがまた真の口調をうまく真似たので、竜はくすくす笑った。二人はたくさんの時間を一緒に過ごしたんだろうなあ、と改めて思った。真がそんなふうに怒ったり機嫌を悪くしたりするなんて、よっぽど打ち解けていた証拠だ。向こうの世界では、家族の前でしか真はそんなふうに振る舞わないと思う。カールの数学の授業を断ってしまったときのエピソードもそうだし、昨日見たあのたくさんの写真を見ても、真がブリュートナー家で素のままの自分でいられた事がわかる。きっと第二の家族みたいだったんだろう。それなのに、僕には何も話してくれなかったんだ…。

 思わずため息を漏らしてしまった竜を、エミルが横目でちらりと見た。

「どうした?」

「いえ…。高いところまで飛んでみたかったなあと思って」

「人目の少ないところに行けば好きなだけ飛べる。今日にでも行ってみるか。父が昼頃音大に行くから、それまでに戻ればいい」

「はい!…ああ、でも…」

「時間がもったいない、か?」

 エミルが笑う。

「『歌わせる』練習はどこででもできるだろ」

「そうですね」

 そうだった。「歌わせる」練習をしなくちゃ。ポケットから小石を取り出して、意識を集中しかけて、まだ他に訊きたい事があったのを思い出した。

「さっき、カールと、マルギリスの結晶を歌わせてできるバリアのことをちょっと話したんです。カールは、健太くんを僕の『次元』に引き込めればいいんだ、って。新しい魔法を作ることは不可能ではないということを覚えておくといい、って言っていました」

 問いかけるようにエミルを見ると、エミルは眉を上げて竜を横目で見た。

「つまり、誰かを自分の次元に引き込む魔法を作るっていうことか?」

「はい。できると思いますか?」

「うーん、それは…」

 エミルは言葉を探して、

「無理だ、とは言わないよ。父の言う通り、不可能ではないと思う。それに、これはお世辞でもおだてでもないし、プレッシャーをかけるつもりもないけど、竜はそういうことができる類の才能を持っていると思う。でも、今回向こうに戻る前、つまりあと数日のうちにそれができるかって訊かれたら…」

「ノー、ですね」

「そうだな。それに、そういうことに時間を費やすより、普通に、通常の魔法の練習をする方が今の竜には必要だと思うよ。『歌わせる魔法』もできるようにならなくちゃいけないし」

 竜は頷いた。

「そうですよね」

 そうがっかりはしなかった。気がついたことがあったからだ。複数の魔法を同時に行うことは、難しくてとてもできない。ならば、マルギリスの結晶を歌わせながら、健太を竜の次元に引き込むことも、どっちみちできないわけだ。健太を竜の次元に引き込むことだけできたって、意味がない。

 健太君、今頃意識のコントロールの練習をしているかな。どんどん過ぎていく田園風の景色を眺めながら、竜は思った。エミルもカールも、健太君が魔法を使えるようになるのは難しいって言うけど、二人とも健太君に会ったこともないんだもの。もしかしたら、健太君だって魔法の天才かもしれないじゃないか。

 竜はそう考えて、今朝の夢を無理やり頭から追い払った。あんなのはただの夢だ。健太君だって頑張っているはずだ。僕は僕のやるべきことを頑張らなくては。

 膝の上にのせた掌に小石を置いて、意識を集中する。薄青い空間。煌めく光のボール。ボールの中に小石が映る。小さな小鳥の卵を平べったくしたような小石だ。少し茶色がかった灰色の地に、黒っぽい小さな斑点が一面に飛んでいる、滑らかな表面。

 昨日菜園の脇で拾ったのだけれど、どうしてあそこにいたんだろう。どこから来たの。山?川?それとも海?こんなに小さく丸くなるまでに、どんなことがあったの。雨に打たれて、風に吹かれて…。自然に言葉が出た。歌って聞かせて。

 実際の空間で、掌の上の小石が細かく振動し始め、輪郭がブレたようになったと思うと、辺りの空気が風のような笛のような音で満たされた。竜はそっと息を吸い込み目を閉じた。素朴な音色。メロディというよりはむしろ語りかけのような音の並び。じっと聴いていると、実際に見えるとまではいかなくても、灼熱の太陽や、打ちつける雨、吹き抜ける風、囂々たる川の流れや、水の感触まで感じられるようだった。

 しばらくして、音は高い空にたなびく巻雲のような余韻を残して止んだ。目を開けた竜は、掌の上で今は静かにうずくまっている小石に、心の中でありがとうと頭を下げた。なんだか魂が短い旅に出て帰ってきたような気がする。ぼうっとする頭でゆっくり目を上げると、運転しながらちらりとこちらを見たエミルと目があった。

「できたんだな」

「…はい」

「まったく…」

 驚嘆の笑みを浮かべてエミルは首をふった。

「何て奴だ」

 竜も小さく微笑んだ。ものすごく疲れたけど、素敵な経験だった。ああ、また一つ、魔法ができるようになった…。

「気分はどうだ」

「…すごく疲れました。昨日の…『あるべきようになれ』よりも…もっと…」

 言いながら眠りそうになってしまう。

「しばらく休んでろ。着いたら起こすから」

 はい、と言ったつもりだったが、実際に音にできたかどうかもわからないまま、竜はすうっと眠りに引き込まれてしまった。


 目が覚めた時、竜は最初自分がどこにいるのかわからなかった。座った姿勢で眠っていたことを訝しく思い、目を上げてガラス越しの風景が動いているのを見て思わずぎょっとした。

「あ…」

 そうか、車の中だった…。頭が重い。瞼も重い。

「もう起きたのか。まだ寝てていいぞ。あと10分くらいで着く」

「はい…」

 かすれ声で答えると、エミルが心配そうにこちらを見た。

「大丈夫か?」

「なんだか、まだ…疲れが抜けないみたいです」

 竜は眠気を吹き飛ばそうと、ぶるぶる頭を振ってみた。

「僕、どれくらい眠ってましたか?」

「15分くらいかな。パンでも食べるか?」

 エミルに言われて、竜は急にものすごくお腹が減ってきた。

「いただきます」

「リュックに入ってる。取れるか」

「はい」

 後ろの座席に置いてあったネイビーブルーのリュックサックに手を伸ばし、ロールパンの入った包みを取り出す。

「食べますか?」

「じゃ、一つもらおうかな」

 エミルにつやつやしたしたいい香りのロールパンを一つ手渡すと、竜も早速かぶりついた。じーんと感動するほどの美味しさだ。なんだか身体中が反応して、わあ食べ物だ!もっともっと!と歓喜しているような感じがして、竜はあっという間にロールパンを平らげてしまった。

「もう一ついただいていいですか」

「もちろん。全部食べていいよ」

 エミルは笑って、

「教訓。朝食を食べずに消耗する魔法を行うべからず、だな」

 竜は二つ目のロールパンにかぶりつきながら大きく頷いた。心から賛成だった。実際、ロールパンを食べ出してから疲れがぐんぐん回復するのを感じていた。食べ物ってすごいなあ、と竜は心の底から感心した。エネルギーの素だ。

 エミルが手渡してくれたボトルから水を飲みながら眺める窓の外は、都市部の風景だった。片側三車線ずつある広い道路。たくさんの車。東京の都心ほどではないけれど、大きなビルもたくさん立ち並んでいる。道も建物もぴかぴかだ。薄汚れているとか、古びているとか、そういう感じがまるでない。やっぱり魔法で清掃やメンテナンスをするからなんだろうなあ、と思いながら、竜は三つ目のロールパンに手を伸ばした。

 広い道路から外れてしばらく走ると、開きっぱなしになっている大きな門があった。片側二車線ずつの道で、門の中央に門番の詰所がある。詰所の外に立っていた初老の門番がエミルに手を振った。エミルもちょっと片手を上げて挨拶を返し、速度を少し緩めただけで、止まらずに通り過ぎた。

「チェックとかされないんですね」

「学生時代からの顔見知りだからね。もっとも、いつもは車じゃないけど」

「そうなんですか?」

「うん。歩きか自転車だね」

 そうか、エミルはあの丘の家から通っているわけじゃないんだ。竜は心の中で頷いた。そういえば、さっき、部屋にも寄るとか言っていたっけ。

 門を通り抜けた後は片側一車線ずつになってはいるものの、十分広い道が芝生や木々の中を続いている。ソンダース魔法大学構内の道よりもずっと広い。まだ朝早いからか、ごくたまに、これも十分広い歩道をジョギングしている人とすれ違うだけだ。開けた窓から気持ちのいい風と小鳥の囀りが入ってくる。あの汽車の窓から見た巨大な球体はどこにも見えない。見える建物といえば、こぢんまりとした二階建てくらいのものがぽつぽつとあるだけだ。

「ずいぶん広いんですね」

「この世界では一番大きな魔法大学だからね。この辺はまあ大学関係者の住宅街というところかな」

「学生寮かと思いました」

「学生寮はもっと中心に近いところにある。僕も前はそっちにいたんだけど、卒業してからはこの辺りに引っ越した。こっちのほうが静かでずっといいよ」

「そういえば大学って何年間あるんですか」

「魔法大学は6年間だ。普通の大学は4年だね」

「いいなあ…」

 6年間みっちり魔法を勉強したり研究したりできるなんて。竜はそんな生活を思い描いてため息をついた。僕も魔法大学の学生になれたらどんなにいいだろう。

「竜ならかなり早い時期に始められるだろうな。僕は14で始めたから」

「そうなんですか?」

 竜は目を丸くした。

「じゃあ14歳の時から、カールやマリーと離れてここで暮らしてるんですか?」

「うん。まあ最初の頃は週末ごとに家に帰ってたけどね」

「寂しかったでしょう」

「いや、そうでもないかな。かえって、こっちの方がよかったよ。家は色々…思い出がありすぎて」

 竜はそっとため息をついた。なんだか申し訳ないような気持ちだった。

「…真が無事だったって、もっとずっと前に伝えられればよかったのに」

 エミルが笑った。

「今わかっただけで、十分だよ。信じられないくらい幸せだ。竜が来てくれて、全てが変わった。大袈裟じゃなく、本当に全てが」

 心から幸せそうな横顔を見て、竜は逆に胸が痛くなった。どれだけ辛かっただろう。親友が死んでしまったかもしれないと思っていたこの長い年月、エミルはどんな思いでいたのだろう。

「早く真に会いたいですか?」

 エミルは嬉しそうに目を細めた。

「会いたいね!でも、ずいぶん変な気がするだろうなと思うよ。真はまだ12歳で、僕はもうこんなおじさんだもんな」

「おじさんじゃないですよ、全然。おにいさん、かな」

 生真面目に訂正すると、エミルはおかしそうに笑った。

「ありがとう。…あ、ほら、見えてきたぞ」

「わあ…」

 カーブを曲がると、木々の向こうにあの巨大な球体の上の方が見えてきた。光の具合のせいでごく薄い空色に光って見えるけれど、透明なガラスのようなものであることはここからでもわかった。

「ガラスなんですか?」

「いや。見た目は似てるけど、ガラスとは全く違うコントルという物質だ。ガラスより薄くて軽くてずっと丈夫だし、固める前は適度に柔らかいから扱いやすい。光は通すけど、熱や音は通さないから、研究室の窓なんかにはちょうどいいね」

 木立が切れて、まだずいぶん遠くにある球体の上四分の三くらいが見えた。透明の泡、あのメッセージボールが超巨大になったような感じだ。継ぎ目も骨組みもないので、建造物という感じがまるでない。高さはよくわからないが、周りにある建物と比べると、15階建てとか20階建てとか、そんな感じに見える。

「…すごい」

 竜は、朝の光の中、今にもふわりと浮かび上がりそうな泡のようなその姿から目が離せなかった。 

「エミルの研究室もあの中にあるんですか」

「ああ」

「僕も行っていいですか」

「もちろん」

「やった!」

 座席で跳ねるようにした竜を見て、エミルが笑った。

「竜は大人なんだか子供なんだかわからないな」










 

 


 



  

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