第13話
竜は夢を見ていた。健太が床の上に座り込んで涙にかきくれている。どうしても魔法ができない、自分にはできない、どんなに頑張ってもできない、と言って身も世もなく泣いている。慰めようと思うのだが、健太と竜の間には分厚いガラスのようなものがあって、近づくことができないのだ。
目が覚めると、部屋は薄明るくなっていた。目覚まし時計は5時を指している。そっと起き上がって窓のところまで行き、カーテンを少し開けてみると、澄んだ青藤色の空に、まるで天翔る竜のような形の雲が浮かんでいた。東の方には濃い灰青の雲の層がありその向こうにうっすらと淡いオレンジ色に染まり始めた空が見える。
飛んでみたいな、と竜は思った。まだ一人だけで外を飛んだことはないけれど、この青藤色の空気の中を少しだけ、そう、果樹園まで飛んでみたい。
服を着替えようと振り返ると、ライラがちゃんと目を覚まして自分のベッドからこちらを見ていた。自然に顔がほころぶ。
「おはよう」
小さい声で言って、バタバタとベッドに尻尾を打ちつけているライラの顔を撫でる。
「これから着替えて、ちょっと飛んでくるからね。吠えちゃだめだよ。みんなまだ寝てるからね」
急いで着替えて、窓の方へ行くと、ライラも起き上がってついて来た。窓を開け、窓枠に乗る。じっとこちらを見上げているライラと目が合う。
「行ってくるからね。吠えちゃだめだよ。すぐ帰ってくるから」
ひゅうん、とライラが言った。今にも吠え出しそうでヒヤヒヤする。
「いい子だね」
頭を撫でてから、一呼吸して、集中し、意識の空間に入る。そっと窓枠を蹴ると身体が浮かんだ。よし。
「行ってくるね」
ライラに言って、竜は窓の外の薄青い朝の空気の中に泳ぎ出した。後ろでライラがもう一度ひゅうんと言ったのが聞こえたけれど、それだけだった。少し行ってから後ろを振り返ると、ライラが窓からじっとこちらを見ていた。笑顔で手を振ると、竜は果樹園の方へ向かった。ひんやりした青い空気が竜を包む。なんて気持ちいいんだろう!竜は少しだけ高く上ってみた。近所の人に見られると困るのであまり高くは上れないのが残念だ。本当はどこまでもどこまでも高く、あの竜のように見える雲までも上ってみたい。そうだ、姿を見えなくする魔法というのがあるとエミルが言っていたっけ。あれをできるようになれば、どこまでも好きなだけ上っていける!
そこまで考えた時、ふとさっきの夢を思い出した。床に座り込み、全身で嘆き悲しんでいる健太の姿がくっきりと見えた。
「健太君…」
思わずつぶやいた途端、竜の体がスッと沈んだ。
「わっ」
慌てて飛ぶことに意識を集中しなおす。背中がぞっとして全身に鳥肌が立った。危ない危ない。気をつけなくては。
もう果樹園の入り口まで来ていたので、竜は注意してゆっくり下降した。昨日エミルが言っていた、大きいりんごの木のそばの開けたところに着地する。足元の草が朝露で濡れていて、辺りの空気はしっとりと湿っていた。
「おやおや、空から降って来たね」
背後からの笑いを含んだ声に、竜はびっくり仰天して跳び上がった。
「…カール!ああ、びっくりした…」
「ははは。ごめんごめん」
「おはようございます」
「おはよう」
カールは目を細めて竜をしみじみと見つめた。
「…竜を見ていると、昔のエミルを思い出すよ。真がいた頃のエミルを」
「ちょうど同い年くらいですものね」
「そうだね…」
カールは空を仰いで大きく息をついた。
「まだ子供だったのに…」
そして竜を見て悲しそうに微笑んだ。
「…あの事故があった時、最初あの子は道具が壊れてしまったことを知らなかったんだよ。だから真は無事だろうと思っていたんだね。でも2、3日経った頃、道具が壊れたということを知って…。ここで、この場所でね…」
カールは辺りを見回した。
「あの子はまだ身体が治っていなかったのに、一緒にいたマリーとスティーブンを振り切って、ここまで走って来た。私はあの辺で、」
少し離れた辺りを指差して、
「まだ回収し切れていなかった破片を探していた。それと、もちろん、ジリスとフュリスをね。そこへエミルが走って来た。私のことなど目に入らないようで、この場所へやって来て、しばらく呆然と立ち尽くしていたかと思うと、くずおれて大声で泣き出した。あの子が泣いたのを見たのは、赤ん坊の時以来だったよ。末っ子だったのに、いつでも明るくて強くて毅然とした子だった。利発な子だった。年よりも大人びていてね。それが身も世もなく、小さな子のように声を張り上げて泣いていた。すぐにスティーブンが追いついてきて一生懸命慰めていたけれど、あの子は泣き続けた。
私が近寄って名前を呼ぶと、あの子は弾かれたように立ち上がって、私の手にしがみついた。そして真を助けてくれるよう懇願した。繰り返し繰り返し、『お父さん、お願い、真を助けて。真を助けて』と…」
カールの顔が辛そうに歪んだ。
「私は…私は『私にできることは何もない。お前にもわかっているはずだ』と言ったんだよ。必死にすがってきたあの子に…」
竜は思わず涙ぐんだ。自分がその時のエミルになったような気がして、心を激しく鞭打たれたように感じた。
「あの子はその場で気を失った。スティーブンは信じられないというように私を睨んで、最大級の非難をこめて『なんてことを言うんですか!』となじったよ。当然だ」
カールは大きなため息をついて、目の下に滲んだ涙を拭った。
「あの子は高熱を出して一晩中うなされ続けた。スティーブンが手を尽くしてくれたけど、どんなことをしても次の日まで熱は下がらなかった。あの子があの晩悪夢の中でどんなことを経験したのかは誰にもわからない。涙を流すことはあっても、歯を食いしばって、譫言ひとつ言わなかったと、スティーブンが後で教えてくれたよ」
「そばについていてあげなかったんですか」
竜はつい非難がましく言ってしまった。
「スティーブンに、私はそばにいない方がいいと言われた。その通りだと思ってね」
「…すみません」
カールはわずかに首をふった。
「いや。なんと非難されても当然だ」
「エミルは…マリーに道具が木っ端微塵に壊れたということを聞いた後のことは、覚えていないと言っていました。ぼうっとしてしまって、後のことは覚えていない、って」
「そう…」
カールは竜をじっと見つめた。深い色の目だった。
「竜は、エミルが好きなんだね」
「はい。大好きです」
「では、エミルが例の魔法の実験をしないでくれればいいと思っているだろうね」
「はい」
竜は躊躇せずに答えた。本当のことだ。
「そうか…」
カールはわずかに微笑してうつむき、そのまま何も言わなかった。
「一つ訊いてもいいですか」
しばしの沈黙の後で竜は思い切って口を開いた。
「もちろん」
「どうして、向こうの人が行き来できるための魔法を…道具を作ったんですか」
「ああ…」
カールは低く笑って、細めた目で竜を見た。
「どっちが最初に訊くだろうかと思っていたよ。エミルか、竜か…」
そして大きく息をつくと、
「では話そう。私の母はね、隣の世界の人だったんだ」
目を丸くした竜に頷いてみせて、
「そう。向こうで音楽大学の学生だった時にこっちに来た。真や竜のように魔法の才能があった。魔法に夢中になって、もっと魔法を学びたくて、向こうに帰らない決心をして、こちらにとどまった。私の父と出会って結婚し、やがて私と妹が生まれた…。
幸せだったのだろうと思うよ。しかし同時に、やはりね、向こうの世界が恋しくて恋しくて仕方がなかったのだと思う。よく向こうの世界の思い出話をして、時には涙を流すこともあった。そんな時はいつも、父や私や妹に、ごめんなさいね、大丈夫よ、と言ってすぐに涙を拭いて笑顔を見せてくれたけれど、母がどんなに向こうの世界に帰りたいと思っているか、向こうとこっちを行き来できればどんなにいいだろうと思っているかはよくわかっていたから、私は小さい頃から、絶対に向こうとこっちを行き来できる魔法を発明しようと決めていたんだ」
カールは遠い目をして、朱鷺色に染まった東の空を見つめた。
「私が魔法大学に入ってすぐ、向こうとこっちを行き来するための魔法の研究が禁止された。もう竜にもわかっているだろうが、危険な研究だからね。実験に失敗すればそれはほとんどの場合死を意味するのだから。私はそんな禁止令には従わなかった。危険だなんていうことは大昔から皆知っていることだ。何を今更、と思ったね。優れた研究者だったマーカスが陰ながら助力してくれて、私は研究を続けることができた。幸運なことだったよ。あの禁止令のせいで、無理な実験を決行して命を落としたり、泣く泣く研究を諦めなければいけなかった研究者たちは大勢いたのだからね。
ところが、私が魔法大学を卒業し、大学で教えながら研究を続けていたある日、妹から連絡があった。母がいなくなったと」
竜は息を呑んだ。まさか…。
カールは竜の無言の問いに答えて頷いた。
「そう。向こうの世界に帰ってしまったんだよ。私の研究のことはもちろん知っていたけど、もう待てなかったんだね。私も妹ももう成人していたし…。妹の話では、その頃は特に気が沈みがちで、毎日のように泣いていたというから。もう限界だったのだろう」
そっと微笑んで、カールは淡々と続けた。
「それまでの私の研究は、特に向こうの人が行き来できるための魔法というふうに限定していたわけではなかったんだよ。もちろん母が向こうとこっちを行き来できるようにというのが目標だったわけだけれども、向こうの人だけが使えるものを作ろうと考えていたわけではなかった。でも、母がいなくなってからはそうした。こっちに来た向こうからの客人が…魔法を使える客人が…自由に行き来ができるような魔法。自分でもなぜそうしたかったのかよくわからなかった。私もまだ若かったから。もう母はいないのにね」
カールは穏やかな目で竜を見た。
「意地もあっただろうし、悔しさもあっただろう。追悼――母は死んだわけではないから、そんな言葉を使うのはおかしいかもしれないけれど――の意味もあったかもしれない。…どうだろう、これで答えになっているかな」
竜はうなずきかけたが、また思い切って口を開いた。
「でも…、自分では試すことのできない魔法ですよね。成功かどうかは誰かが使うまでわからないでしょう。それでもよかったんですか」
「成功かどうかはわかっていたよ」
カールは静かに言った。
「誰かが使うことで得られるのは成功の証明だ。それはそれで非常に胸躍ることではあるけれど、魔法の発明が成功かどうかということは、実は実験なんかをしてみなくてもわかることなんだよ。本当に自分の研究のことを熟知していればね」
「トップレベルの研究者ならば、ということですね」
カールは微笑んで頷いた。
「そう。エミルのようにね。あの子の魔法は必ず成功する」
「…そう思いますか?」
「あの子はとっくに私を超えている。大したものだ」
カールはどんどん明るく色を変えていく空を見上げて目を細めた。
「竜、あの子を止めてはいけないよ」
「……」
竜は、はい、とは言えなかった。
二人はしばらくの間、黙って空を見上げていた。飛翔する竜のような形をしていた雲は、いくつかの流れるような雲の集まりに変わっていた。
「そういえば、健太君のことを聞いたよ。かわいそうに」
カールが竜を見て言った。竜はさっきの夢を思い出して、胸が痛んだ。
「はい…。魔法が使えるようになればいいなと思ってるんですけど」
「そうだね…」
カールはため息と共に言った。エミルのように、「無理だと思う」と言葉では言わなかったが、ため息がそう言っていた。
「昨日エミルに聞いたんですけど、マルギリスの結晶を歌わせてできるバリアは、その魔法を行った本人しか守ってくれないそうですね」
「…健太くんも守れればと思っていたんだね」
「はい」
カールは腕組みをした。
「方法がないわけではないね」
「えっ」
竜は驚いてカールを振り仰いだ。
「健太くんを竜の『次元』に引き込めればいいわけだ」
「そんな魔法があるんですか!」
「いや。私の知る限りではないね」
「……」
竜は落胆で目を見張った。じゃあどうしてそんなことを言うんだろう、という思いが顔に出たのだろう。カールは諭すように言った。
「竜、魔法というのは昔からの決まりきったものがあるだけじゃない。新しい魔法を作ることができる」
「…魔法発明学ですね」
「そうだね。でも、道具を伴う類の複雑なものだけが新しい魔法というわけではない。シンプルな魔法、例えば物を持ち上げる魔法だって、大昔、誰かが身体を使わずに物を持ち上げたいと欲したから、できたんだ」
「…つまり、僕が健太くんを僕の次元に引き込むことを欲すれば、そういう魔法ができるかもしれないっていうことですか」
そんなはずはないと思いながら言った竜に、カールはにっこりと頷いた。
「その通り」
「え…」
カールは微笑んで竜を見ている。
「どうやって…どうやったら新しい魔法を作れるんですか」
「どうやってかは私には説明できない。ただ、不可能ではないのだということをね、覚えておくといいよ、竜」
「……」
「竜には力がある。そのこともよく覚えておくことだ。忘れてはいけない」
微笑みの中にも強い眼差しで見つめられ、竜は少し戸惑いながらも、しっかりうなずいた。
「…わかりました」
「それからもう一つ。魔法で何がしたいのか。なんのために魔法を学ぶのか。これも考えてみるといいよ。まあ今はまだ色々な魔法を楽しんでいる時期だろうけど、たまにそんなことを考えてみるのも悪くはない」
「…はい」
カールはにっこりして頷くと、
「では私は少し歩いてくるよ。朝食までには戻るからとマリーに伝えておいてくれるかな」
「はい。あの、カール」
背を向けかけたカールを竜は呼び止めた。
「なんだい」
「さっきのお話…お母さんのお話を、エミルに話してもいいですか」
カールは微笑んで頷いた。
「もしエミルが訊いたらね。あれは訊かれた場合にだけ話す類の話だ」
「わかりました」
手を上げて歩み去っていくカールの後ろ姿を目で追いかけながら、竜は考えた。魔法で何がしたいのか…。そんなこと、考えたこともなかった。僕は、何のために、魔法を学びたいのだろう。僕が魔法を使ってしたいことは何だろう。
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