第12話

 健太に魔法の練習を勧めるかどうかという問題には、その夜あっさり決着がついた。

 夕食前に、竜がまだ明るい勝手口の前の石畳で、ライラを相手に水を出したり消したりして遊んでいると、電話の鳴る音がして、窓からマリーが顔を覗かせた。

「竜、スティーブンから電話よ」

「はい」

 急いで中に入ろうとすると、ライラも当然という顔でついてきた。受話器を手にとった竜の脚にぴったりくっついてお行儀よく座る。

「まあライラったら、すっかり竜の子になっちゃって」

 マリーが笑って言った。竜は心の底から嬉しくなって、ライラの大きな顔を撫でながら電話に出た。

「スティーブン?竜です」

「ああ、竜君。ちょっと困ったことが起きてしまったんです」

 スティーブンが早口で言った。声が曇っている。

「どうしたんですか?」

「健太君が、今日の練習試合で相手チームの子と喧嘩になってしまってね。その時に、向こうの世界に帰ればこちらの世界のことは全て忘れてしまうんだと言われてショックを受けて…、かなり落ち込んでいるようなんです。え?ああ、ちょっと待ってください、レイに代わります」

「竜君?」

 レイのハキハキした声が耳に飛び込んできた。

「はい」

「ごめん。僕がついていながらこんなことになって。健太は何も悪くなかったんだ。終了間際にちょっと激しいフィジカルコンタクトはあったけど、ファウルじゃなかったし。ジョシュは健太が上手いんで嫉妬したんだと思う。今日の試合では何度も健太にきれいに抜かれていたしね。それで試合後にそういう意地の悪いことを言ったんだ。健太は真っ青になって、僕にそれは本当かって訊いた。嘘をつけばよかったのかもしれないけど、とっさに何も言うことが浮かばなくて…。本当にごめん」

「いえ、そんな。レイのせいじゃないです。それで健太君は今どうしてるんですか?」

「さっきアメリアさんから電話があって、食事だって呼んでも部屋にこもって出てこないって言ってた。電話をかけてみてあげてくれないかな」

「わかりました。すぐかけてみます」

「頼むよ」

 電話を切ってから、竜はアメリアさんの電話番号を知らないことに気がついた。それに、健太にカールやエミルの道具のことを話していいものかどうか、スティーブンやカールやエミルともまず話し合わなければ。

「マリー、カールはどこですか?」

 何かを炒めていたマリーが振り返り、

「カールは今日も音楽大学でレッスンなのよ。戻るのは昨日よりは早いけれど、でもそうね、8時頃になるわ」 

「そうですか…」

 竜は考え込んだ。どうしたらいいだろう。と、そこへ電話が鳴った。

「竜、出てくれる?」

「はい」

 竜は受話器を取った。

「ブリュートナーです」

「あ、あの、船橋健太といいます。早川竜君はいらっしゃいますか」

「健太君!僕だよ」

「竜君…」

 健太の声から緊張が抜けた。

「元気?」

「うん。手紙ありがとう。返事ついた?」

「うん、さっき帰ってきて読んだばっかり。ありがとう」

「どういたしまして」

「ライラって何歳なの?」

「2歳だって。ルークより1年下だね」

「そうか。じゃあまだいたずらする?」

「するする。でもすごくいい子だよ」

「そっか」

 電話の向こうで健太がためらっているのがわかった。

「…竜君、あのさ、…あのね、向こうに、元の世界に帰るじゃない?その時に、こっちの世界のことを…覚えてられるのかなって思ったことない?」

「ああ…うん、忘れちゃうらしいって聞いたよ」

「……」

「あと、ついさっきスティーブンとレイから電話があって、今日何があったかも聞いた」

「…そう」

「二人とも心配してたよ。健太君に電話するところだったんだ」

「…なんか、すごいショックで…」

 健太が大きなため息をついた。

「これを全部忘れちゃうなんて。脚が使えて、こんなに楽しいのに…」

「あのさ、健太君」

 竜は思い切って言い始めた。

「魔法の練習してみない?」

「…え?」

「僕もまだはっきりとはわからないんだけど、もしかしたら、その…」

 そこで閃いた。歌わせる魔法がある!あのことなら、話しても構わないだろう。秘密の発明じゃないんだから。

「あのね、もしかしたら、こっちのことを忘れなくてすむかもしれない魔法があるんだ」

「本当?!」

 健太の声のトーンが一気に上がった。竜はちょっと警戒した。期待させすぎないようにしなくちゃ。

「うん、もしかしたらなんだけどね。まだ僕もちゃんと習ってなくて、よくわからないんだけど、もしその魔法を使えるようになったら、もしかしたらだけど、こっちのことを忘れずに向こうに帰れるかもしれないんだ」

「竜君の魔法の先生がそう言ったの?」

「うん…その魔法をちゃんと使えれば、って」

「難しいの?その魔法」

「…うーん、そうだね、かなり難しいみたい」

「そうか…難しいんだ…」

「うん…」

「…でも、やってみなきゃわかんないよね!」

 一度は小さくしぼんだ健太の声が力強く明るくなった。

「よし!僕頑張ってみるよ!スティーブンに魔法を教えてもらう!全力で頑張るよ!」

 さすがチームのキャプテンだ、と竜は微笑んだ。言葉に闘志が漲っている。

「うん、僕も頑張るよ」

「教えてくれてありがとう、竜君!きっとこっちのことを忘れずに向こうに帰ろうね!」

「うん!」

「早速スティーブンに電話してみるよ。またね、竜君!」

「うん、またね!」

 ファイトー!おー!とでも言いたくなるような空気を残して、受話器を置いた竜が振り向くと、エミルが腕組みをして、生徒の悪戯を見つけた先生のような顔をしていた。

「話しちまったのか」

 竜は急いで健太に何があったのかを話した。エミルは首を振り、マリーは眉をひそめた。

「なんてひどい…。そのジョシュって子は厳重に注意されるべきだわ」

「それで思いついて、歌わせる魔法のことなら少し話してもいいかと思って…」

「なるほどな…」

 エミルはため息をついた。

「でも成功する可能性はものすごく低いぞ」

「わかってます。でもやってみるだけでも…」

 そこへ電話が鳴った。マリーが出る。

「ブリュートナー…あら、スティーブン。ちょっと待って」

 竜が差し出された受話器を耳に当てると、スティーブンが待ちきれないというように喋り出した。

「竜君、たった今健太君から電話があって、魔法の特訓をしてほしい、向こうに帰る時にこっちのことを覚えていられる魔法が使えるようになりたい、って言うんですが、一体何の話なんですか?」

「マルギリスを結晶化させたものに『歌わせる』魔法を使うんです。そうすると何ものも通さないバリアが20秒くらいできて」

「何の結晶化させたものですって?」

「マルギリスです」

「竜、ちょっと貸して」

 エミルが受話器を取る。

「スティーブン?ちょっとまずいから、魔法で話せるかな。…わかった、じゃ5分後に」

 電話を切ると、竜をみて片目をつぶった。

「念のためな」

 竜は首を縮めた。

「ごめんなさい、軽率でした…」

「念のためって言ったろ。大丈夫だとは思うけど、まあ一応気をつけておいたほうがいいと思うだけだから。説明するときに、僕の例の発明の話もしないといけないかもしれないから、ま、一応な」

「スティーブンとはクローゼットで話す方がいいわ。窓がないから」

「そうですね」

 エミルがキッチンを出ていくと、テーブルのところでマリーが竜を呼んだ。

「見て」

 テーブルには分厚い大型のアルバムのようなものが置いてあった。マリーが真ん中あたりのページを開く。

「あ」

 竜は思わず声をあげた。大きく引き伸ばされた、嬉しそうに笑っている真の写真があった。前に出した両手に青いリボンを大事そうに捧げ持っている。

「リボンを作り上げたときの写真よ」

 とてもいい写真だった。見慣れているはずの真だったけれど、こんないい笑顔を見たのは初めてだと竜は思った。

「…きっとすごく嬉しかったんでしょうね」

「そうね。ずいぶん難しかったみたいだから」

「他の写真も見ていいですか」

「もちろんよ。ゆっくり見て」

 にっこりするとマリーは調理台のほうに戻っていった。

「何か手伝いましょうか」

「まあ!」

 マリーは笑って、

「うちの息子たちに聞かせたかったわ!大丈夫、もうすぐできるから、写真を見てて」

 竜はアルバムのページをめくった。何枚か真の写真が続いていた。どれもとてもいい表情をしていて、弟ながら竜はちょっと感心した。これは撮った人(おそらくマリーだろう)の腕がいいのか、それともこっちの世界での真がよほど幸せで活き活きしていたからなのか…。次にエミルと真が一緒に写っている写真があった。エミルの髪は短くて、少年らしい整った顔を輝かせながら、何かを指差して熱心に真に説明しているふうだった。その笑顔を見て、竜はあっと思った。


 真がカナダから帰ってきて数日後。明日から二学期という日の午後、夏休みの宿題の水彩画の仕上げをしていた竜は、真に細い絵筆を借りようと思い、真の部屋のドアをノックした。

「真、ちょっといい」

「どうぞ」

 ドアを開けると、真も机の前に座って絵を描いていた。

「なんだ、真も宿題?」

「ううん、そういうわけじゃないけど」

 真は絵を描くのが好きだ。とびきり上手いというわけではないけれど、学校では美術クラブに入っていて、たまに作品が廊下に展示されている。

 今色鉛筆で描いているのは、少年の肖像画だった。風景画が好きな真には珍しい。

「珍しいね、肖像画なんて」

 竜が言うと、真はへへっと小さく笑って、

「カナダでね、好きになった子」

「へえー、そうなの?」

 少なからず驚いて、竜は淡い色使いの肖像画を眺めた。

「おお、イケメン」

「でしょ。お母さんに絶対言わないでよ」

「言わないよ。キスとかしたの?」

 ニヤニヤして言うと、真は赤くなった。

「しないわよ、そんなこと。友達だもん」

「でも好きだったんでしょ?」

「うん」

「アイラブユー、とか言わなかったの?」

 おどけて言うと、真は頬杖をついて、

「言わなかった…」

 とため息をついた。なんだか悲しそうだった。励ますつもりで、

「今からでも言えば?」

 と言うと、真はちょっと笑って、

「…そうだね。考えとく」

 そう言ってまたため息をついたのだった。


 あの絵はエミルだったんだ、と竜は一人うなずいた。そっくりではないけれど、こうして写真を見てみると、よく特徴をつかんでいたと思う。そして昨夜、カールの書斎で熱心に発明のことを話しているエミルの笑顔を見ていて、どこかで見たことがあると思ったのは、あの絵だったんだ…。

 なんとも言えない気持ちになりながら、竜はアルバムのページをめくっていった。真の写真も、エミルの写真も、他の人たちの写真も丁寧に眺めたけれど、エミルと真が一緒に写っている写真は特に時間をかけて眺めずにはいられなかった。

 二人が一緒に写っている写真はたくさんあった。真剣な顔で魔法の練習をしているらしい写真。楽しそうに笑いあっている写真。頰をくっつけあっておどけた顔をしている写真。手を繋いで宙に浮いている写真。隣り合って木陰の芝生の上で昼寝をしている写真(真の寝相が悪く、大人しく上を向いて眠っているエミルの頰をパンチしているような格好になっていておかしい)。エミルがチェロ、真がピアノを弾いている写真もあった。 

 真はエミルが好きだったらしい。エミルはどうだったんだろう。真のことをどう思っていたんだろう。確か「親友だった」と言っていたっけ。

 「へえ、写真だ!」

 キッチンに戻ってきたエミルがはしゃいだ声を上げて、アルバムを覗き込んだ。

「懐かしいな…」

 目を細めた顔を見上げて、竜は気づいた。きっとこの22年間、ブリュートナー家ではこんなふうにアルバムを見たりできなかったんじゃないだろうか。

「ああ…」

 エミルが一枚の写真を指さした。

「これがマーカスだよ」

 明るい日差しの中、庭に出したテーブルでみんなが談笑している写真だった。カールの隣で、ごま塩のもじゃもじゃ頭の大柄な人が、陽気な顔でグラスを上げている。ボサボサの髪がいかにもマッドサイエンティストという感じだけれど、目は穏やかで優しげだ。

「この人が…」

 竜は写真の中で楽しげに笑っているその人をじっと見つめた。向こうの世界に行く実験を行って、二度と帰ってこなかった人。どこへ行ってしまったんだろう?マーカスだけじゃない。向こうの世界に行く実験を行って「消えた」人たちはみんな、どこへ行ってしまったんだろう。

 ふと気がつくと、エミルもマーカスの写真をじっと見つめていた。なんとなくその胸中がわかるような気がして、竜はまた心の奥がぎゅうっとなった。エミルに何かあったりしてほしくない。実験なんてしないでくれればいいのに…。

「エミル…」

 思わず言い出してしまって、竜は慌てて口をつぐんだ。なんて言うんだ。真が無事なのがわかったんだから、もう実験はしなくてもいいじゃないですかって?そんなこと言えない。

「ん?」

 エミルが竜を見る。竜は頭の中を高速で回転させて、最初に思いついたことを口にした。

「マルギリスの結晶を歌わせる魔法のことなんですけど…。僕ができるだけじゃダメなんですか?僕と健太くんがくっついて立てば、バリアが二人とも守ってくれるってわけにはいかないんですか?」

 エミルはちょっと笑った。

「そういうわけにはいかないんだ。まあ細かいことを説明すると難しくなるけど、あの種のバリアっていうのは、魔法を行った本人の世界、または次元――という呼び方を魔法学ではするんだけど――にしか存在しないものなんだよ。竜がマルギリスの結晶に歌わせれば、マルギリスの結晶が生み出すバリアは竜にとってしか存在しない。健太くんにとってはバリアは存在しないんだ」

 竜は驚いて目を丸くした。

「そうなんですか…」

 やっぱりきちんと魔法学を学問として勉強したい、と竜は思った。実技だけじゃなくて、そういう基本的なことをきちんとわかるようにならなくちゃ。

「戻ってきたら、今度はそういうこともたくさん勉強したいです」

 エミルはにこりとした。

「いい心がけだ。やっぱり実技だけじゃなくて学問としての魔法もやっておくと、理解度が違ってくるからね。真はさっさと投げ出しちゃったけど」

「そうだったんですか?」

 ちょっと意外だった。真は勉強だってよくできるのに。

「もう実技の方が文句なしに上級レベルになった頃、父が魔法数学と魔法物理と魔法化学の基礎、まあつまり普通の数学と物理と化学を教え出したんだけどね、最初のレッスンの後で、今はこういうことよりももっと実技の練習がしたい、って言ったんだ。『こういうことは中学生のおばあさんになったらやるわ』って」

 調理台の方で聞いていたマリーも笑って、

「そうそう!覚えているわ。カールが説得しようとしたら、そう言ったのよ」

 なんだそりゃ、と竜も苦笑してしまった。真らしくない。

「エミルはその頃、もうそういう科目を勉強してたんですか」

「そうだね、飛び級してたから、学校でももう始めてたかな。それに父がああいう人だから、早くから基礎的なことは家で教わってたよ」

「じゃ、その数学とかのレッスンは、真だけだったんですね」

「うん、僕はもうずっと先のことをやってたからね」

 だからだ、と竜は心の中でため息をついた。多分真はエミルと一緒にいたかったんだろう。エミルが好きだったから。もしエミルもそのレッスンを受けていたなら、絶対にちゃんと勉強したに違いない。しょうがないなあ…。


 その夜、ベッドサイドの灯りの代わりに魔法で出した光を、明るくしたり暗くしたりしながら、竜は真のことを考えていた。真は、道具が木っ端微塵に壊れたことを知っていたのだろうか。事故があったということを。エミルの命が危険にさらされたということを。

「…知らなかったと思うな…」

 口の中で呟きながら、宙に浮かべた光をうんと暗くしてみる。

 エミルの絵を描いていた時の真は、少し悲しそうだったけど、もし好きだった人を事故の中に残してきたと知っていたら、あんなふうに落ち着いて肖像画なんて描いていられたはずがない。

 好きだった人、か。

 それにしても、せっかくカールが勉強を教えてくれようとしたのに、断っちゃうなんて。真らしくもない。中学生のおばあさんになったら、だって。なんてくだらないこと言うんだろう。魔法を学ぶのに必要な勉強よりも、好きな人と一緒に時間を過ごす方を選ぶなんて。本当に全然真らしくない。

 なんだか少し腹立たしいような気持ちで、竜は光を消した。真っ暗になる。東京の家とは全然違う。ベッドの足元の方で、自分用のふかふかの大きなベッドで眠っているライラの寝息が聞こえる。暗闇でそれを聞いているうちに、腹立たしいような気持ちは次第に収まってきて、代わりにとろりとした心地よい眠りの波がやってきた。

 竜は眠りの国に向かう小舟の中で肩を竦めた。しょうがない。真だって結局は普通の女の子なんだ。恋くらいするだろう。それに、なんて言ったって、相手はあのエミルだもの。エミルを好きにならない女の子なんていないんじゃないかな。 


  

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