第15話
車から降りて真下から見上げると、巨大な泡はますます大きく、天にも届くほどに見えた。透明なのだが、シャボン玉の泡のようにうっすらと虹がかかったように見え、目を凝らしても中が見えない。
「竜」
後ろでエミルが呼んだので振り返ると、ネイビーブルーのリュックサックを肩にかけたエミルが、車の前方、運転席側の脇に立っている真っ白でつやつやした1メートルほどの高さのポールのところで手招きをしていた。ポールの天辺についている空色のボタンを指で示す。
「押してごらん」
言われるままにボタンを押すと、しゅっと音がして、カールの淡いグレイの車が消え、代わりに全長5cmくらいの淡いグレイのミニカーが駐車スペースの地面にちょこんと置かれていた。
仰天して声も出ない竜を見てクスクス笑いながら、エミルがミニカーを拾い上げて竜に渡した。
「これがフリア魔法大学での駐車の仕方だ」
竜はミニカーを矯めつ眇めつ眺めた。
「…ものを小さくする魔法ですね」
「そう。それとものを固定する魔法と、ものを壊れなくする魔法…ま、ある程度、ということだけどね。うっかり落としたり、上に座っちゃっても壊れない程度には守られる。大きいプレス機かなんかで潰したら潰れるだろうけど」
「固定するのは、中のものが壊れないようにですね」
「その通り。だからポケットに入れても大丈夫だ」
「いいんですか」
「もちろん」
竜はそっとミニカーをジーンズのポケットに入れた。さっきまで乗っていた車がポケットの中に入っている。なんだかワクワクした。
「じゃ行こう」
歩き出したエミルについて行きながら、竜はもう一度車を停めたところを振り返って眺めた。白いラインで描かれた長方形のスペースが十以上はある。それぞれの左前のコーナーに、空色のボタンのついたつやつやした白いポールが立っていて、駐車スペースの真ん中あたりには白い十字が描かれている。
「元に戻すときもここでするんですか?」
「ここじゃなくても、駐車スペースならどこでもいい。それか、自分で『元に戻す』魔法が使えるなら、駐車スペースじゃなくても、どこでやっても構わないけど、まあ駐車スペースでする方が間違いがなくていいだろうな」
球体と同じ素材でできているらしい、入り口の広い階段を上りながら、エミルが言う。
「『元に戻す』魔法をちゃんとできなかった学生が、一体何をどう間違えたのか、自分の車をバッタにしちゃったとか、カエルにしちゃったとか、おもちゃのミニカーにしちゃったとか、嘘かほんとかわからないようなそういう話が昔からあってね。まあトラブルが起こるのを防ぐために大学側が流しているんだろうけど」
「『元に戻す』魔法って難しいんですか?」
「そうでもないよ。ただこれは複数の魔法で、しかも自分が行った魔法じゃないわけだから、『元に戻す』のはちょっと面倒かな」
「なるほど…」
もっと詳しく訊こうと思った竜は、階段を上り切ったところでびっくりして立ち止まった。前を行くエミルが、ガラスのように見えるコントルの壁を通り抜けて消えたのだ。
「……」
恐る恐る指でコントルに触ろうとしたところで、エミルがまたコントルを通り抜けて現れた。
「ごめんごめん。大丈夫だから、何もないと思って普通に通ってごらん」
竜は指でコントルの壁に触れてみた。確かに壁はある。硬い。
「まあ自動ドアの魔法版みたいなものかな。人が通るときには『通す』魔法が働くようになってる。大丈夫だからついてこい」
「はい」
竜は半分目を閉じるような気持ちと、よく見たいという気持ちと半々で、えいっとばかりにエミルの後に続いた。
「…あれっ」
拍子抜けするほど何も感じることなく、竜は球体の中に入っていた。後ろには今通ってきたコントルの壁がある。
「慣れないと確かに変な感じがするだろうな」
まじまじとコントルを眺めている竜を見て、エミルが笑いながら言った。
「たまにだけど、やっぱりこういうドアに慣れてない人が、立ち往生してることがあるよ」
「他にもこういうドアを使っている施設があったりするんですか?」
「そうだね、他の魔法大学でも使っているところはあるし、魔法関連の研究所や工場、オフィスなんかでも使っているところはあるな。でも、なんのためにって訊かれたら、僕だったら、不必要なカッコつけのためって答えるけどね。誰でも通れる普通のドアの方がいい。さ、行こう。高いところは大丈夫だろ?」
「はい」
「じゃオープンのリフトで行こう。こっちだ」
建物の中央に向かって歩き出したエミルについていきながら、竜は興味深く辺りを眺めた。
まず目につくのはたくさんの緑だった。あちこちに背の高い木が生えている。植木鉢に植わっているのではなく、白いピカピカの床から生えているのだ。どこから風が入ってくるのか、時折吹く気持ちのいい微風に、さやさやと葉ずれの音が聞こえる。
天井は3、4階分くらいの高さがあり、外からの光で中は外と同じように明るい。外からは中が見えなかったが、中からは外がそこにコントルなどないようにくっきり見えているので、ここはまだ外で、ただ部分的に天井があって、床が白いだけなような不思議な感じがする。
中央は広い広い円形の吹き抜けになっていて、そこに何本かの透明な太い円柱が上に向かって伸びている。エレベーターだろう。
「うわあ…」
吹き抜けの下から上を見上げた竜は、思わず声を上げた。思っていたよりも高い。
「何階あるんですか」
「21階だ」
エミルは、吹き抜けの更に中央にある空間へと歩いて行った。床から20cmくらい高くなっている直径1.5メートルくらいの白くてつやつやした円盤のようなものの上に乗る。これがリフトであるらしい。竜も続いて乗った。
「19-M」
エミルが言うと、リフトの円周から白い柵のようなものがすうっと出てきて、1メートルくらいの高さで止まった。
「つかまってろ」
エミルに言われて竜が柵につかまったのと、リフトがふわりと浮いたのはほぼ同時だった。
「わっ」
リフトはそうゆっくりでもない速さでどんどん上昇していく。まっすぐではなく、少し左の方に曲がりながら上っていっているようだ。竜が下を見ると、吹き抜けの中央の床の下から、まるで水の中から出てくるように別のリフトが現れて、スタンバイしていた。
エミルは、柵につかまらずにリラックスして立っている。竜もがっちり柵を握っていた手を少し緩め、周りを眺めた。
各階とも、透明なフェンスの向こうに白い床の幅広いギャラリーがあって、その向こうの白い壁に白いドアがかなりの間隔を開けて並んでいる。ドアの前の部分のギャラリーには半円型の窪みがあって、どうもリフトのためのドックらしかった。
リフトは、各エレベーターから各階のギャラリーに伸びている白い空中通路を緩やかに避けながら上っていき、すぐに一つのドックにピタリとはまり込んだ。ドックの向こうには19-Mと銀色で描かれた白いドアが見える。リフトの、ギャラリー側の柵がすうっと下がっていき、ギャラリーの透明なフェンスも横にスライドした。リフトの床とギャラリーの床は見事にぴったりと同じ高さで隙間もなく、色も素材も同じため、まるで元から繋がっていたように見えた。竜に続いてエミルがリフトを降りると、フェンスは元に戻り、リフトの柵は全てリフトの中に吸い込まれ、ただの平たいフリスビーのようになって、下へ降りて行った。
「面白かった!」
息を弾ませて言った竜に、エミルは片目をつぶってみせた。
「ただのエレベーターよりこの方がいいだろ?」
「はい!これ、降りる時はどうするんですか?」
「そこにボタンがついてるだろ?それを押すとリフトが来てくれる」
見ると、フェンスの脇に駐車スペースにあったのと同じような白いポールが立っていて、てっぺんに空色のボタンがついていた。
「ここ、19階なんですね」
銀色の19-Mという文字を見て竜が言うと、
「ああ。部屋は21階までで、あとはオープンスペースになってる」
そう言われて上を見上げると、確かに天辺までの4階分くらいはギャラリーがなく、コントル越しに綺麗な空が見える。そのまま視線を動かして下を見ると、ちょっとぞくりとするくらいの高さだ。
「これ…事故があったりしないんですか?誰かが落ちちゃったりとか」
「もちろん、もし何かや誰かが落ちたら受け止めるように魔法が張ってある。ほぼ毎年、学生が、大抵は新入生だけど、わざと飛び降りたりするんだよ」
そう言いながらエミルが簡単にドアを開けたので、竜はびっくりした。
「鍵とかかけないんですか?」
「これはね、僕の手じゃないと開かないようになってるんだ」
「指紋ですね」
「うーん、そういうわけでもないな。ハンドルが僕の手を覚えているんだ。だからもちろん指紋とかそういうのも覚えているものの中に入るんだろうけど、もっと他のこと、例えば大きさとか、形とか、節とか、皺とか、あとは血管とか、筋肉とか、神経とか、そういうもの全部だろうな」
竜は感心しつつエミルの研究室の中に入った。さっきのリフトや駐車場もそうだけれど、魔法と科学が融合しているこの世界の色々なものは、とても魅力的で面白い。向こうの世界でも魔法が使えればいいのになあ…。
エミルの研究室は広くて、外に面した天井から床までのコントルのせいで、眩しくない程度の心地いい光に満ちていた。白い床の上の、白い巨大なデスクと、壁にかかった巨大なブラックボード、そしてあちこちにある三脚に乗った小さなブラックボードが目につく。三面ある白い壁のうち、ドアと同じ面にある壁は天井まで届く本棚が作り付けになっていて本がぎっしりだ。竜はすぐ近くに並んでいた本を眺めた。「応用魔法物理学」、「魔法量子力学における次元」…。
「あ…」
竜はあることに気づいて本を凝視した。タイトルが読める!
「どうした?」
「…スティーブンの研究室にあった本は、タイトルが読めなかったんです。なのにこれは読める。どうしてなんでしょう」
「昨日だって、アメリアさんの住所が読めて、書けただろ?」
「……」
竜は口を開けたが言葉が出てこなかった。アメリアさんの住所?読めて、書けた?
「だって…」
あれは日本語だった、と言おうとして、竜は混乱した。そんなはずはない。
「とっくに気づいてると思ってたよ」
エミルが、デスクの引き出しをあちこち開けて、リュックサックにあれこれ入れながら、笑って言う。
「向こうからの客人は、こっちに来た瞬間から、例外なしにこっちの人間とコミュニケーションが取れる。聴いたり喋ったりはね。でも、読むのと書くのができるようになる時間には個人差があって、当日からできるようになる人もいれば、何日経ってもできない人もいる。竜は多分、昨日の朝辺りからできるようになったんだろう。一昨日、パン屋ではパンの名前が読めなかったもんな」
「……」
確かにそうだ。それにフリアの駅でも案内板の文字が読めなかった。
「…気づきませんでした。全然。どうしてそんな…、どうやって…」
「それについては昔は色々研究があったらしいけどね、でも結局いくらやっても何も分からなくて、だから今はただ、それはこの世界には魔法があるからだ、ってことになってる」
「魔法があるから…?」
「そう。魔法がある世界だから、魔法が発達して、魔法が使える。隣の世界からのお客も、その魔法の影響を受けて、こっちの世界の人間とコミュニケーションくらいは取れる。それくらいしか説明のしようがないってことだ」
「それは…なんていうか、空気中に魔法がある、っていうことですか?」
「水の中にもね。全ての中に。つまり酸素や、窒素や、水素があるのと同じように、っていうことかな。この世界の構成要素の一つとして魔法がある、ってこと」
そこへドアベルのような音が鳴り響いた。竜は驚いて思わずドアを振り返った。エミルがデスクの上にあるスクリーンに触れる。
「ああ、ジェイク。おはよう」
「おはようございます、ドクター・ブリュートナー。ああよかった、つかまって」
「どうしたんだい」
「すみません、こんな早くに。ルイと実験してたら、徹夜になってしまって。例のワーズワース社のプロトタイプのことで。ジュール波の値を1分毎に見たんですが、あの核のギア、やっぱりシャリスの方がいいような気がするんです。ちょっと見ていただけるとありがたいんですが」
「わかった。今行くよ」
エミルは申し訳なさそうに竜を見た。
「ごめん。僕の研究チームのやってるプロジェクトなんだ。10分くらいで戻ってこられるから。自由にしてて」
「はい」
急ぎ足でエミルが出ていくと、竜はまずさっき見た「応用魔法物理学」の本をそっと本棚から引き出してみた。パラパラとページをめくってみる。確かに読めるが、記号だの数式だのがいっぱいで、ちんぷんかんぷんだ。こんなのをちゃんと理解できるようになるのにどれくらいかかるんだろう。でもいつかきっと!決意も新たに、竜はまた本を本棚に戻した。
次に部屋を横切って、窓の方へ行った。近くにはこの球体より高い建物は一つもないので、遠くまで見ることができた。確かにフリアは大都市だけれど、緑がとても多い。大きな公園らしきものもいくつかあって、遠くの方には海がキラキラと光っている。
景色を眺めながら、竜はさっきエミルが言ったことを考えていた。
この世界の構成要素の一つとして魔法がある。酸素や窒素や水素と同じように。だからここでは魔法が使える。逆に、向こうの世界では酸素や窒素はあっても魔法はない。だから魔法が発達しないし、使えないっていうことなのか…。でも、真はこっちに戻ってくるためのカールの魔法を向こうでも使えた。ということは、こっちから向こうに魔法の道具を持って行ったら、少なくともその魔法だけは使えるっていうことなんだな…。そして、あの道具は魔法の使えない人間には使えないんだから、真が向こうでそれを使えたということは、こっちで身につけた魔法が向こうに帰ったらまるっきりなくなってしまうっていうわけじゃないっていうことなのかな…。
竜は考え込みながら振り向いて、窓から少し離れたところに、本棚に面して置いてある、大きな白いデスクに何気なく歩み寄った。
長方形ではなく、柔らかい曲線を描いているデスクは、この世界でよく見る真っ白でつやつやした素材でできていた。デスクの上面は透明なガラスのような層でカバーされていて、その下にいくつかのメモや、書きかけの書類などがある。その中に一枚の写真があった。砂浜に足を投げ出して座った真と少年時代のエミルが、美しい夕焼けの海を背に、こちらを振り返るようにして笑っている。光の加減で二人の表情ははっきりとは見えないけれど、とてもいい写真だった。なんだか胸がじんとして、竜はその写真に見入った。満ち足りた幸せな空気が、こちらまで漂ってくるようだった。
左の方にはデスクと同じ素材のスクリーンがある。パソコンのスクリーンのようだけれど、キーボードは見当たらない。でもスクリーンのすぐ近くに、透明の小さなペーパーウェイトのようなものがあった。竜は目を見張った。透明なキューブの中央には、穴のところに赤い糸の切れ端のついた、乳白色のボタンが浮かんでいた。ごく普通の、ありふれたボタンだった。パジャマについているような。
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