第16話
「待たせてごめん」
約束通り10分ほど経ってエミルが戻って来た。竜は本棚の近くにあるソファに座って、眉間にシワを寄せて「現代魔法発明学における金属の利用法」という本を読み始めたところだった。
「いいえ。やっぱりシャリスの方がよかったですか?」
エミルは眉を上げてにやりとし、
「いや、ゾルリスの方がいいっていうのが最終的な結論だ」
竜は大袈裟にため息をついて本を膝に置いた。
「金属の種類がこんなにたくさんあるなんて…。しかも、何と何の合金ってなると、また名前が違うし。これ全部覚えないといけないんですか?」
「いけないってことはないけど、ま、学生の時は、テストに出るから覚えざるを得ない。その後金属と関係ない分野に進んだら忘れちゃうだろうけど、魔法発明学をやってて金属を使わないってことはないからね」
竜はまたため息をついてみせた。
「テスト…。この世界も、やっぱりテストがあるんですね」
エミルがおかしそうに笑う。
「そりゃあそうさ。でも意外だな。竜はむしろテストなんか好きなタイプかと思ってたよ」
「そんなことないです。…そういえば、ジリスとフュリスの合金のことはここには出てませんでした」
「そう、新しいものだからね。混合に成功したのはおそらく父が初めてだろう」
竜は目を丸くした。
「すごいですね。じゃあ名前をつけられるんじゃないですか?カールリス、とか」
「いや、父は発表しないだろうと思うよ」
「あの魔法のことも発表しなくちゃいけなくなるからですか?」
「そんなことはないけど、でも…もう引退してるわけだからね。あの事故がなかったら、もしかしたら発表してたかもしれないけど」
エミルは小さくため息をついたが、すぐに気を取り直したようにリュックサックを肩にかけ、
「さ、じゃあ行こうか。ちょっと僕の部屋に寄って、それから朝食を調達して、飛びに行こう」
「はい!…あ、マルギリスの結晶、ちゃんと持ってますか?」
エミルは吹き出した。
「ちゃんと持ってるよ。真じゃあるまいし」
竜もその時のことを考えていたのでエミルと一緒に笑った。
「まったく。あのまま真が向こうへ帰ってしまっていたらと思うと、今でもぞっとするよ」
どうなっていたんだろうな、と竜は考えた。
真は戻ってこない。カールの魔法も戻ってこない。エミルは厳しく叱られて、みんなは真が一体どうなったのか心配しただろう。道具が木っ端微塵になっていなくても、誰も試したことのない魔法だったんだから、真が無事に向こうに帰れたかどうかはわからないはずだし。…いや、でもカールが言っていたっけ。成功かどうかはわかっていたって。
部屋の外に出て、リフトを呼ぶボタンを押す。
「エミルは、どうしてたと思いますか?もしあの時真が向こうに…」
言いかけて、声を潜めた。
「向こうに帰りっぱなしになってしまっていたら。やっぱり…例の発明を目指したと思いますか?」
「そうだな…」
あっという間にやって来たリフトに乗り込みながら、エミルは微笑んだ。
「目指しただろうと思うよ。真にもう一度会いたいと思っただろうからね」
リフトが下降し始める。そんなにスピードがあるわけではないけれど、やっぱりお腹がジェットコースターに乗った時のようにすうっとなって、竜は慌ててリフトの柵を握りしめながら訊ねた。
「あのデスクの上のキューブに入っているボタン…。あれはもしかして真のパジャマの?」
「そう。事故があってからちょうど1ヶ月後に、果樹園で見つけたんだ」
エミルは遠い目をした。
「父は事故の後、毎日果樹園を歩き回って道具の破片を回収したけど、あのボタンは見つけられなかった。僕が見つけたんだ。真とよく登ってた例のりんごの木の上のくぼみでね。あれを見つけた時、絶対に…例のものを発明しようと決めたんだよ。絶対にもう一度真に会わなきゃって思った」
竜はちょっと意外に思った。
「じゃ、エミルは真が生きてるかもしれないって思ってたんですね」
「そう思える時もあったし…、思えない時もあった。思えない時の方が多かったかな…。でも、絶対にもう一度会わなきゃ、と思った。理屈に合わないけどね」
駐車スペースで元に戻した車に再び乗って(もちろん、元に戻すボタンは竜が押した)、二人はエミルの部屋へ向かった。相変わらず人影はほとんど無く、清々しい夏の朝の風景の中、小鳥の鳴き声だけがよく聞こえてくる。なんだか別世界にいるみたいだ、と考えてから竜は気づいておかしくなった。本当に別の世界に来ているんだった。
健太くん、どうしているかなあ。竜は気持ちのいい風に目を細めながら考えた。意識のコントロール、できるようになったかな…。
エミルの「部屋」は、緑に囲まれた、こじんまりとした白いコテージ風の家だった。
「家なのに部屋って呼ぶんですか」
「家っていう感じじゃないだろう、小さくて。一人住まい用の建物だからね」
車を降りながら、竜は苦笑した。日本だったらこの大きさなら十分「家」だ。
あたりには同じような小さな家がいくつかあって、よく手入れされた広い緑の庭園にぽつりぽつりと散らばっている。それぞれの形は少しずつ違っていて、屋根の色も濃い赤から明るいオレンジ色まで、微妙に違っているのが美しい。
「集合住宅もあるけど、僕はこういう方が好きだから」
言いながら、エミルはドアを開けた。ここも鍵なしだ。
入ったところは、小さなエントランスホールのようになっていて、その向こうにリビングとダイニング、さらに向こうにキッチンのカウンターが見えた。白い壁に、床や家具は明るい色の木材が使ってあって、天井は高く、窓も大きい。明るい、住み心地の良さそうな家だ。
「自由にしてて。すぐ済むから。キッチンにあるもの、なんでも食べていいよ」
そう言いながら、エミルはリビングの左側の部屋に入っていった。
「散らかってないですね。すごいな」
竜は遠慮なくキッチンの方へ行きながら言った。エミルの声が笑って答える。
「そういえば真が言ってたな。竜はピアノの楽譜なんかをいつも散らかしっぱなしにするって」
竜はちょっと赤面しながら、カウンターの上のバナナスタンドからバナナを一本取った。まったく真は余計なことを…。
その時、キッチンの右側にある勝手口らしいドアをノックする音が聞こえ、
「エミル?」
と、女の人の声がした。部屋から呻き声が聞こえ、ため息をつきながらエミルが出てきた。
「ごめん。友達なんだ」
竜に言うと、勝手口のドアを開けた。
「おはよう、フィル」
「おはよう。帰ってたのね。…あら」
ジーンズにTシャツ姿のすらりとした人は、竜を見てちょっと驚いたように眉を上げて人懐っこそうに微笑んだ。栗色のショートヘアに大きな黒い目の美人だ。
「竜、こちらフィル。フィル、こちら竜だ」
「はじめまして」
「はじめまして。お隣からね?」
「はい」
「スティーブンの友人のところのお客さんなんだ」
言いながら、エミルは足早に部屋に戻っていく。
「そうなの。…あらっ、ねえ、あなたあの子に似てる」
竜はどきっとした。
「…誰にですか?」
「私の恋敵よ」
「えっ」
フィルは楽しそうに笑って、
「昔ね、エミルのところにも隣からお客さんが来たことがあったんですって。日本人の女の子。エミルはね、その子のことが忘れられなくて、だから私と結婚してくれないのよ。もう何十回もプロポーズしてるのに」
「フィル!」
向こうの部屋からエミルが呻き声とも唸り声ともつかない声をあげたが、フィルはお構いなしに、
「結婚してくれないどころか、恋人にもしてくれないの」
「そ、そうなんですか」
どう反応していいかわからなくて、竜はへどもどしてしまった。
「あなたも日本人?」
「そうです」
「だからなのかしらね。ほんとにあの女の子にとてもよく似てる気がする」
フィルはエミルの部屋の方へ首を伸ばして、
「ねえ、あの子の写真、見せてあげた?」
と言ったが、部屋からは引き出しを少々荒っぽく開けたり閉めたりする音だけが聞こえてくる。フィルはちょっと首を縮めていたずらっぽく笑った。
「怒らせちゃった。エミルのね、研究室のデスクに彼女の写真があるわ。かわいい子よ。ちょうどあなたくらいの年頃で…」
「竜、行くぞ」
部屋から大きな黒いザックを肩にかけたエミルが出てきて、立ち止まらずに通り過ぎた。竜は食べようと思っていたバナナを手にしたまま、慌てて追いかけた。フィルがくすくす笑いながら後からついてくる。
外に出ると、フィルは何事もなかったかのように、エミルに話しかけた。
「しばらく向こうなの?」
「ああ」
「そう。マリーとカールによろしくね」
「伝えとく」
短く言ってエミルが車に乗ってしまうと、フィルは竜と握手を交わし、にっこりした。
「さよなら、リョウ君。楽しい滞在をね」
「ありがとうございます」
竜が車に乗ると、開いた窓越しにフィルがいたずらっぽい笑みを浮かべて、
「あの子の写真、ぜひ見せてもらってね。そしたら日本に帰ってもしあの子に会ったらわかるでしょ。そしてね、会ったらこう言って…」
「フィル」
エミルがうんざりしたように言った。
「いい加減にしてくれよ…」
言いかけたエミルを遮ってフィルが声を上げた。
「ああ、そうそう!ドクター・アハトフがね、例の共同研究の件、喜んでお受けしますって」
エミルが目を丸くした。
「本当に?」
「ええ。今日にでも直接電話があると思うわ。今朝はそれを伝えにきたの。いいニュースでしょ?」
エミルは嬉しそうにうなずいた。
「ああ。ありがとう」
フィルは茶目っ気たっぷりに微笑んで、
「じゃ、結婚してくれる?」
竜はびっくりして座席の背に張りつき、エミルは吹き出した。
「…考えとくよ」
笑いながらエミルが言うと、今度はフィルが目を丸くした。
車がすうっと音もなく動き出し、すぐに曲がったので、びっくりした顔のフィルはすぐに見えなくなった。
「ごめん、変な客が来ちゃって」
「楽しい人ですね」
バナナを剥きながら竜は言った。
「小学校の時の同級生なんだ。僕が飛び級する前のね。今はフリアで魔法化学の研究を続けながら教えてる」
「そうなんですか」
バナナを一口食べ、二口食べている間、竜は迷ったが、やはり訊いてみることにした。
「ほんとに真のことが忘れられなくて、フィルさんのプロポーズを断ってるんですか?」
エミルは明るく笑った。
「いや、あれはフィルが勝手にそう思いこんでるだけだ。…でも、案外、当たってるかもしれないな」
竜は三口目のバナナを危うく喉につまらせるところだった。
「…っそうなんですか」
「ずっと、絶対真にもう一度会わなきゃ、って、そればっかり考えてきたから。他のことは考えられなかったからね。そういう意味では当たってる」
三口目のバナナと一緒に躊躇も飲み込んで、竜はもう一歩踏み込んだ。
「真のこと、好きだったんですか」
「好きだったよ」
さらりと言われて、竜は言葉に詰まった。
「えっと、その…れ、恋愛、みたいな意味でですか」
言った途端顔が熱くなって、竜はバナナにかぶりついた。エミルは竜をちらりと見てくすっと笑ったけれど、真面目な口調で言葉を探しながら答えた。
「そうだね。僕はまだ子供だったけど…本気で好きだった。世界一大事な親友で、世界一大好きな女の子だった。ずっと一緒にいたいと思ってた。ずっと二人でいたいって心から思ってたよ」
遠い目をしてエミルは微笑んだ。
「最後の夜にね、真が、こっちに移住するって言ったんだ。日本に帰ったら家族に話して、それからこっちに『引っ越してくる』って。あの時はすごく嬉しかった。向こうとこっちでは時間の経ち方が違うから、このままじゃ僕の方がずっと早く大人になってしまうし、どうしたらいいんだろうなって思って辛かったから」
竜はちょっと迷ったけれど、思い切って口を開いた。言わずにいられない気がした。
「真…日本に帰ってきてから、エミルの肖像画を描いてました。カナダで好きになった人だって言ってたけど、でも昨日昔の写真を見てエミルだったんだってわかったんです。好きって伝えたの、って訊いたら、伝えなかった、って言ってなんだか悲しそうだったから、今からでも伝えたら、って言ったら、考えとく、って」
エミルはなんともいえない表情をして息を吸い込み、一拍おいてそっと息を吐き出すと微笑した。
「そうか…」
綺麗で、少し悲しそうな微笑だと竜は思った。
しばらくして、エミルは竜を見てちょっと笑うと、
「いいのか、そんなこと話しちゃって。真が聞いたら怒るぞきっと」
竜はぞっとした。
「…内緒にしておいてください」
エミルは片目をつぶった。
「了解」
フリアの中心地を抜けたあたりの、街路樹の多い静かな通りのカフェで、二人は朝食をとった。「時間がもったいないから」テイクアウェイにした方がいいんじゃないのかとエミルにからかわれたけれど、竜はとにかくお腹が空いていたし、それに、運転しながらでは、エミルも落ち着いて朝食を食べられないのではないかと思ったのだ。
トースト、ロールパン、ベーコンエッグ、山盛りのサラダ、フルーツ、ヨーグルト。
「育ち盛りなんだなあ」
最後に残ったトーストに、マーマレードをたっぷりのせて食べている竜を見て、コーヒーを飲みながらエミルが笑った。竜も実は自分で少し驚いていた。
「いつもはこんなにたくさん食べないんですけど…」
食べ物が身体にすいすい吸収されていく感じなのだ。何もかもがすごく美味しい。今食べているこのマーマレードも、今までに向こうの世界で食べたことのあるどんなマーマレードより、ずっと美味しい。素晴らしく美味しい。
「どうしてこんなに美味しいんでしょう、このマーマレード…」
竜はしみじみと、美しい琥珀色に輝くマーマレードを眺めた。
「そういえば真もマーマレードが好きだったな。最初はリルのジャムがすごく気に入ってたんだけど、途中からマーマレードに夢中になって、以来そればっかりだったよ。向こうのとは味が違う、って」
「…ああ!」
思い当たることがあって、竜はうなずいた。
「そうか。あれは、カナダじゃなくてこっちの世界のことだったんですね」
真が、店で売っているマーマレードは美味しくないから自分で作ってみたい、と言って、キッチンで一日中奮闘したことがあったのだ。
「結局それも思った通りの味じゃなかったみたいで、『オレンジの種類が向こうと違うんだわ、きっと』とか、ぶつぶつ言ってたんです。僕はカナダのことを言ってるんだと思ったんですけど、そうか、こっちのことだったんだ…」
マーマレードののったトーストの最後の一口を頬張る。本当に美味しい。
エミルがフラスコからカップにコーヒーを注いでくれる。湯気と香りが立ち上る。コーヒーなのに、なんだかちょっとオレンジとナッツとチョコレートの混ざったような、甘い豊かな香りがする。コーヒーというとなんとなく苦い香りというイメージがあったんだけど、と竜は意外に思った。コーヒーも向こうの世界とは違うのかな。
しきりにコーヒーの香りを嗅いでいると、お店の人がやってきた。四十代くらいに見える男の人だ。艶々した黒い髪に口髭。ちょっとダリの若い頃の写真みたいだと竜は思った。
「おはようエミル。珍しいじゃない、この時間に」
「おはようピエール。竜、こちらピエール。ピエール、こちら竜だ」
「ようこそ、リョウ君。これ、よかったらコーヒーと一緒にどうぞ」
ピエールは竜の前に、美味しそうな照りのあるチョコレートクッキーの何枚かのった小さな赤いお皿を置いた。
「ありがとうございます。いただきます」
早速手を伸ばした竜に、エミルが目を剥いた。
「まだ食べるのか」
「私たちだって、こういう時期があったじゃないの。たくさん食べて、大きくなるんだもん、ね?」
ピエールが竜に笑いかける。竜は一口食べてクッキーの美味しさに目を見開いた。大袈裟でなく、今までの人生で一番のクッキーだ。
「すごく美味しいです、このクッキー!」
「ありがとう。私のお手製なの。愛情たっぷりよ。エミル、いつもの?」
「うん、二袋お願い。家に帰るから」
「オーケイ」
ピエールは竜にもにっこりうなずいて、カウンターの方へ戻って行った。
「ほんとにすっごく美味しいですこのクッキー。食べないんですか?」
エミルは呆れたような顔をしたが、
「じゃ、一枚もらうよ」
と言ってチョコレートクッキーを一枚とった。
「本当に大丈夫か、そんなに食べて」
「大丈夫です。腹八分ですから」
エミルは吹き出した。
「そんなに食べて腹八分なわけないだろう」
「でもお腹いっぱいでもう食べられない、って感じでもないんです。不思議だけど。よっぽどお腹が空いてたのかなあ」
エミルはちょっと考え深げに竜を見た。
「『歌わせる』魔法かな…。確かに慣れないとかなり力を使うけど…」
竜は気にせず、またチョコレートクッキーに手を伸ばした。本当に最高に美味しいチョコレートクッキーだ。コーヒーを飲みながら食べるとなお美味しい。
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