第17話
ピエールはエミルの注文した二つの包みとは別に、竜にも小さな包みを一つくれた。車に乗ってから開いてみると、小分けにした何種類かのクッキーが入っていた。もちろんあのとびきり美味しいチョコレートクッキーもある。
「まさか今食べるなんて言わないだろうな」
車を発進させながら、エミルが横目で竜を見る。
「いえ、後でのお楽しみに取っておきます。エミルが買ったのはコーヒー豆ですか?」
「そう。ピエールのところの豆は最高なんだよ。あれを経験したら、他の店に行く気はしなくなる」
「僕もあんなコーヒーは初めてでした。向こうではちゃんとしたコーヒーなんて飲んだことなくて…。コーヒーがあんなにおいしいものだなんて知りませんでした」
エミルは微笑んだ。
「ピエールが聞いたら喜ぶよ。ピエールはね、昔はフリアで魔法植物学を教えてたんだ。僕と同じで子供の頃に飛び級して、早くに大学を卒業して講師になったから、大学の講師の中では飛び抜けて若かった。真面目で丁寧に教えてくれるいい先生だったけど、学内で色々…辛い目にあったらしくて、僕が在学中に講師を辞めてしまったんだ。それ以来なんの噂も聞かなかったけど、昨年あのカフェにふらりと入って、再会した。昔と随分変わってて驚いたけど、今は幸せそうで嬉しいよ」
どんな辛い目にあったのか、気にはなったが竜は聞かずにおいた。あのカフェはとても穏やかな、いい空間だった。エミルの言った通り、ピエールはきっと今幸せなのだろう。
「あんなおいしいクッキーを作れる人は、幸せな人に違いないですよ」
竜が言うと、エミルが笑った。
「そうだな。本当に大丈夫か?あんなに食べて。眠いんじゃないか」
竜は背筋を伸ばして座り直した。
「大丈夫です。いつでも魔法の練習を始められます!」
「よし!じゃあ、準備運動といくか。魔法で僕のネイビーブルーのリュックを取って…いや、簡単すぎるな。リュックの左のポケットを開けて、中に入っている箱を取り出して」
リュックは後ろの座席にあって、竜からは見えない。
「リュックを見ずに、ですか?」
「できるなら」
竜は意識を集中して、その日何度となく視界の中に映っていたはずの、そのネイビーブルーのリュックの記憶を鮮明にしようと試みた。意識してリュックを眺めたことはなかったのでなかなか難しい。でも、記憶の中の映像の焦点を調節するうちに、薄青い空間に浮かぶ光のボールの中で、初めはぼんやりとブレたようになっていたリュックのイメージが、だんだんとはっきりしてきた。
「よし」
口の中で呟いて、竜はさらに強く集中した。光のボールの中のリュックは今や手に取れるくらいにくっきりとした存在になっている。あとは実際に見えている時と同じだった。左のポケットが開き、中に入っている、まだ見えない箱が出てくるのがわかる。実際の世界の竜の手に、掌にのるくらいの大きさの黒い箱がそっと着地した。
「できたな。さすが」
エミルがにこりとする。
「開けてごらん」
魔法で開けてみると、中には綿に似たフワフワした白いものに包まれるようにして、淡い朱鷺色に煌く直径5cmくらいの不規則な多面体が入っていた。
「マルギリスの結晶ですか」
「そう。これの他に四つあるから、四回は練習ができる。まあ、万が一のことを考えて予備を一つ取っておくとして、三回にしておくほうがいいかもしれないな」
「はい」
俄かに身が引き締まる思いで、竜はうなずき、ふとあることに気がついた。
「『歌わせる』魔法は、同じものに何度も使えるわけじゃないんですね」
「自然のものには使えるよ。さっきの小石とかね。人工物でも何度も歌わせることができるものは結構ある。でもこの結晶は、一度歌わせたらそれっきりだ。歌わせると壊れてしまうから。20秒くらいしかもたない、というのはそういう意味なんだよ」
「どうして壊れてしまうんですか?」
「うーん、まあこれも詳しく話すと難しいことになってしまうんだけど、そうだな、簡単に言うと、『歌わせる』魔法というのは、その物質から、その物質だけが持っている特殊な波動を引き出す魔法なんだ。その物質の…何て言えばいいかな、存在を可能にしている、中心の中心、核の核の部分の波動をね。
自然のものは、例外なく自身のその波動に耐えられるけど、人工的に作られたものの中には耐えられずに崩壊してしまうものが結構ある。波動の強さに対して、物質そのものの構造が弱すぎるということだね。
例えばこの結晶。これは魔法による結晶化、つまりまずマルギリスを鉱石から取り出し、それを光にして、その光を結晶化したものなんだけど、これを歌わせたときに引き出される波動は、簡単に言えば、ものすごく強力で、密なんだ。だからその波動の及ぶ範囲内にはどんな物も入ってこられない。でも、結晶自体もその波動に長くは耐えられなくて、20秒くらいで崩壊してしまう。結晶の構造に対して波動が強すぎるんだ」
「なるほど…」
竜はうなずいた。よくわかった。よくわかったけれど、なんだか頭がくらくらしそうだった。鉱物を光にしてそれを結晶にするだなんて。やっぱりここは本当に向こうとは違う世界なんだ。魔法のある世界なんだ。
竜はマルギリスの結晶をじっと見つめた。
「触ってもいいですか」
「もちろん」
そっと親指と人差し指でつまむ。ひんやりしている。まるで今の今まで冷蔵庫の中に入っていたようだ。陽にかざすとほとんど無色透明になって、所々、縁だけが淡い朱鷺色に輝く。
「綺麗ですね」
綺麗だけどなんだか近寄りがたい、と心の中で竜は呟き、そっと結晶を箱の中に収めた。歌わせることができるだろうか…。
竜の考えていることが分かったかのようにエミルが言った。
「こういう類のものは、歌わせるのも自然のものよりちょっと難しい。だからまずは自然のもので練習して、その後これと似たようなもので練習、そして最後にこれで練習、というふうに進めていこう」
「似たようなもの?」
「他の金属の結晶だね。マルギリスの結晶と違って手に入りやすいものがいくつかあるから、その中でも波動の特徴や強さがマルギリスの結晶と似ているものを持ってきた。これをしまって、今度は右のポケットに入っているものを出して」
言われた通りにする。マルギリスの結晶が入っていたのと同じ黒い箱が掌にそっと降りた。
「開けていいですか」
「もちろん」
中には、やはり同じような白いフワフワしたものに囲まれて、薄紫の多面体があった。マルギリスよりも輝きがずっと鋭い。
「レウリスという金属の結晶だ。これは研究でもよく使われる結晶だから、手に入りやすい。存分に練習できるよ」
竜はレウリスの結晶にそっと指先で触れてみた。マルギリスの結晶と同じように、ひんやりと冷たい。
「今、ちょっとやってみてもいいですか」
結晶というのがどんな相手なのか、ちょっと見てみたいと竜は思ったのだが、エミルは首を振った。
「いや、後でにしよう。『歌わせる』魔法の練習は車を降りてからにしたいんだ。運転しながらだと、竜がどうやっているかちゃんと見ることができないからね」
珍しくきっぱりと言ったエミルの口調に少し戸惑いながら、竜はうなずいた。
「わかりました。じゃ、今は何をしましょう」
エミルはにこりとした。
「ちゃんと考えてある。まずはそれをリュックにしまって」
レウリスの箱が元どおりリュックの右ポケットに収まると、エミルが言った。
「物を作り出す魔法をやろう。難しいけど、あれは集中力の質を上げるトレーニングにはもってこいだから」
「やった!」
竜は胸の前で小さくガッツポーズを作った。エミルが笑う。
「何か作りたいものがあるのか?」
「いくつか考えてみたんです。どんなものでも作れるんですか?」
「複雑なものほど難しい。生き物なんかは絶対に不可能だし、服だのアクセサリーだのだってかなり難しいんだ」
エミルは笑って、
「真は最初、サファイアのブレスレットを作りたいって言ったんだよ。とてもじゃないけど無理だって言われて、残念がってた」
それを聞いて、竜は顔が赤くなるのを感じた。出かかっていた言葉が喉元で引っかかる。ため息をついた竜をエミルが横目で見る。
「どうした?」
「実は…僕は腕時計を作りたいって思ってたんです。なんだか姉弟揃っておんなじようなものを…」
エミルはくすくす笑った。
「似てるんだな、やっぱり。同じようなものが好きなんだ」
「ずっと着けてられるものがいいなって思って…。でも、時計なんて複雑すぎて無理ですよね」
「ちょっと難しすぎるだろうな」
「じゃあ、腕時計のベルトはどうでしょう」
これも真のリボンと同じようでちょっと悔しいけど、仕方がない。
「いいね。ちょうどいい難易度だと思うよ。今つけている時計の?」
「はい」
竜は左手首を見た。この前の誕生日に買ってもらった腕時計だ。こっちに来てからは止まってしまっているけれど、好きな時計なので毎日着けている。「星の1時間」という名前の腕時計で、いつもはしんとした深い紺色をしている文字盤が、1日のうち1時間だけぼうっと仄かな青銀色に輝く。それが「星の1時間」というわけだ。「星の1時間」は自分の好きな時間に設定することもできるが、竜はランダムにしていた。寝ている間や着けていない間に星の1時間がすぎてしまうこともあるけれど、たまたま気づくと、「あ、今星の1時間なんだ」と何だか幸せな気持ちになる。
ミヒャエル・エンデの『モモ』という本に、星の時間を表す時計というのが出てくる。もちろんこの腕時計がそれというわけではないのだけれど、似たようなアイディアが気に入って買ってもらった。文字盤に数字はなく、数字代わりの十二個の小さな点と針とフレームは鋭く輝く銀色だった。
エミルはふむ、と考える顔をして、
「そうすると素材は何だろうな…」
オリジナルのベルトはフレームと同じような銀色のメタルだけれど、作るとしたら、深い紺色のレザーか、もしそれが難しかったらナイロンでもいい、と竜は思っていた。
「アルマンサか、ボーテか…」
アルマンサ?ボーテ?竜はびっくりしたが、そうか、そういえばここは違う世界なんだった、と改めて思い出した。
「アルマンサってなんですか?」
「ベルトに一番よく使われる、革みたいな素材だ。革と違って防水だし、汚れない。ボーテは金属みたいに見えるけど、ずっと軽くて傷がつかない。これもボーテだ」
エミルは運転しながら自分の左腕を竜の方に突き出して見せた。スマートな銀色の腕時計が光っている。海のような深いブルーの文字盤は、陽の差し込む海中のように絶えず揺らめいて見える。竜は思わずわあと声をあげた。
「素敵な時計ですね」
「大学に入った時に両親が買ってくれたんだ」
竜はびっくりした。ということは20年くらいも前から使っている時計だ。新品のようにしか見えない。なるほど、傷がつかないというのはこういうことなんだ。
「アルマンサは…そうだな…」
エミルは少し考えて、
「これがそうだし、」
かちゃかちゃ、しゅるしゅるっと音がして、エミルのベルトが外れて竜の膝に置かれた。焦げ茶色のシンプルな革のベルトだ。
「これもそうだ」
後部座席でリュックサックのファスナーが開く音がして、竜のところに深いオリーブ色の革の手帳がすうっとやってきた。ベルトの革よりも柔らかい、鹿皮のような手触りだ。
「あと、これも」
黒い革の財布。これも手帳と似た、鹿皮のような柔らかい手触りだ。
「これ、本当に動物の皮じゃないんですか?本物みたいですね」
「こっちじゃ、動物の皮をこういうものに使わなくなって、ずいぶんになると思うよ。僕が生まれる前からだ」
「そうなんですか。…あ」
また思い当たることがあった。
真がカナダから帰ってから急に、革靴は履かないとか、革の財布は使わないとか言い出したのだ。食用に殺した動物の副産物として出た皮を使っていると分かっているならともかく、そうでないなら絶対に革製品は使わない、と言い張って、母さんと喧嘩になった。
そう言うと、エミルは懐かしそうに目を細めた。
「そうそう!真はね、こっちでは動物の皮は使わないと聞いて、カナダに帰っている間に…つまりそっちの日中に、サマースクールの先生に色々質問してみたんだって。それで中には革製品のために残酷な殺し方をされている動物たちもいるらしいと知って、大憤慨していたよ。今までそういうことをちっとも知らなかった、あの靴も、あのバッグも、あのソファも…とかって数え上げて、深刻な顔して悩んでいたっけ」
竜も、真から話を聞いて、革製品ってちょっと嫌だなあと思うようになっていた。嘘か本当か知らないけれど、生きたまま皮を剥ぐなんていう話も聞いた。
手元の深いオリーブ色の手帳を見る。手帳にはベルトがついていた。表面は鹿皮のような柔らかな手触りだけれど、しっかりと分厚くて、腕時計のベルトにもよさそうだ。
「この手帳のベルトみたいな感じがいいんじゃないかと思うんですけど、でも…これ、表面はこんなに柔らかいのにしっかりしてますよね。中に芯が入ってるとか、別の硬い革と縫い合わせてあるとかなのかなあ。それだと魔法で作り出すのも難しいですよね」
「いや、そんなことないと思うよ。アルマンサは人工物だから、どんな風にも作れる。あ、」
エミルが急にスピードを落として、一つの店の前で車を停めた。時計店だ。
「ちょうどよかったな。ちょっと見てみよう」
竜はダッシュボードの時計を見た。
「まだ8時半ですよ。開いてるんですか?」
「たいていの店は8時から開いてるよ」
竜は目を丸くした。また一つ、向こうの世界との違いを見たと思った。それとも、向こうの世界でも、8時から大抵の店が開いている国もあるのかな…。
店の前の背の高いほっそりとした街路樹がさらさらと葉を揺らし、夏の朝の日差しを受けて店の壁に綺麗な影を作っている。そう大きくない店構えだったが、ぴかぴかのショウウィンドウの中には、いろいろな時計がセンスよく陳列されていて目を引いた。
中は外から想像したよりずっと広く、たくさんの時計が板張りの壁にかけてあり、さながら時計の博物館のようだった。ゆっくり見て回りたい気持ちを抑えて、竜はエミルについて奥のカウンターの方へと向かった。
「おはようございます」
カウンターの奥に座って何かをしていた初老の女の人が、二人を見てにこやかに言って立ち上がった。
「おはようございます。腕時計のベルトを見せていただきたいんですが」
エミルが言うと、女の人は大きなカウンターの下のショーケースを示し、
「たくさん揃えてございますよ。どんな素材がよろしいですか」
「アルマンサで、こんな感じのを探してるんです」
エミルが手帳のベルトを見せる。女の人はベルトに触って、
「かしこまりました。ちょっとお待ちください」
ショーケースの下の方に屈んでゴソゴソやっている。エミルが竜に小声で、
「他に好きなのがないか、見てみろ」
竜はうなずいてざっとショーケースの中を見回した。金属のように見えるベルト、革のように見えるベルト、布のベルト、透明のベルト、何やらキラキラ光るベルト、鎖のようなベルト、ビーズを繋いだようなベルト、色々あって面白いけれど、できるだけどこにでもつけていけるシンプルなベルトにしたいと思っていたので、やっぱりアルマンサにしようと竜は心を決めた。
「この辺りがお好みのものに近いと思いますが、いかがでしょう」
女の人が、柔らかい布を貼ったトレイのようなものの上に十本くらいのベルトを載せて、カウンターの上に置いてくれた。
「手にとってご覧ください。ベルトをつける時計はお持ちですか?」
エミルが竜を見る。
「あ、はい。これです」
竜が腕時計を外して渡すと、女の人は一目見て、
「まあ、お隣の時計ですね」
と目を丸くし、
「その大きさだと…」
と、迷うことなくトレイの上から三本のベルトを取った。
「このサイズですね。もう一度ちょっと拝見してよろしいですか」
今度は拡大鏡のようなもので竜の腕時計を見て、
「大丈夫です。こちらの腕時計と同じやり方でベルトを交換できます」
とうなずいて、竜に時計を返してくれた。
竜は女の人が渡してくれた三本のベルトを丹念に比較した。鹿皮のような柔らかい手触り。それでいて厚みはきちんとあって、適度にしっかりとしている。とてもつけ心地が良さそうだ。もう一本は少し柔らかすぎて頼りない感じがして、最後の一本はちょっと厚すぎてつけ心地も少し硬そうだった。
「どう?」
エミルが竜を見る。
竜は最初の一本を示した。
「はい、こういう感じがいいと思います」
「その時計だと色は、そうですね…」
竜の選んだ一本を見て、女の人の頭はまたカウンターの後ろに消えた。エミルがささやく。
「あっちでからくり時計でも見てろ。すぐ行くから」
竜はうなずいて、ベルトをエミルに渡し、カウンターから離れた。見にきただけであって買うために来たのではなかったから、どうやって立ち去ったらいいのか、ちょっと困ったなと思っていたのだ。申し訳ないけれど、ここはエミルに任せようと思った。
からくり時計は素晴らしかった。ちょうどかなり大きなからくり時計の一つが12時になったところで(もちろん本当の時間はまだ12時ではなかったけれど)、澄んだ綺麗な鐘の音が鳴り、お城のあちこちの窓が鐘の音とともに一つずつ開いて、中から可愛らしいお姫様たちが一人ずつそれぞれのフランス窓の前にある小さなバルコニーに出てきた。そうして十二人そろったところで、今度はそれぞれのバルコニーに王子様たちが現れ、十二組のカップルは美しい調べに乗ってひとしきりワルツを踊り、そうして一緒にそれぞれの窓の中へと入っていった。グリムの踊る十二人のお姫様たちのお話みたいだな、と竜は思った。こっちにも同じお話があるんだろうか。後でエミルに聞いてみよう。
「さ、行こうか」
エミルがやってきて言った。竜がちらりとカウンターの方を見ると、女の人がにっこりして手を振ってくれた。竜もちょっと申し訳なく思いながらも笑顔を返して手を振り、二人は店を出た。
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