第19話
しばらくして、バタークッキーに次いでチョコレートとママレードのクッキーを食べ終わった竜は、ふと思いついてエミルに言った。
「エミル、歌わせる魔法のお手本を見せてもらえませんか」
キャラメルとナッツのクッキーを口に入れたところだったエミルは、眉を上げて、人差し指を立ててちょっと待てと合図し、クッキーを咀嚼して飲み込んでから口を開いた。
「いいけど、でも大して参考にはならないと思うよ。僕はもう魔法をやるのに意識の空間は使わないから、見えるのは実際の空間で起こることだけだし、『歌』だって聞こえるのは僕だけだ」
「構いません。ぜひお願いします」
竜は身を乗り出した。エミルは手についたクッキーのかすをパンパンとはたき落とすと、
「よし。じゃあやってみよう。何を歌わせる?」
「レウリスはどうでしょう」
「いいよ。こっちに寄越して」
竜は魔法でレウリスの箱を開け、エミルにレウリスを届けた。レウリスは相変わらず冷たく鋭い薄紫色の光を反射させながら、エミルの掌にそっと乗った。
「じゃ、いくぞ」
「破片が飛び散ったりしないんですか?」
「大丈夫。そういう崩壊の仕方はしないから」
エミルが頷いた。
「いくぞ」
「はい」
竜は何一つ見逃すまいと、身体中の神経という神経を総動員して見守った。
すうっとあたりの空気が変わった。エミルの表情は毛筋ほども変わらないけれど、目には見えない何かがエミルに向かってすごい勢いで凝縮されていく。
次の瞬間、竜は一陣の風か、見えない光のようなものが広がっていくのを感じたような気がした。エミルの掌の上のレウリスの結晶の輪郭がぶれて見える。細かく振動しているのだろうけど、振動の速度があまりに速いので動いているようには見えない。ただ輪郭がぼんやりして見えるだけだ。
驚いたことに、エミルはふっと目をあげて竜と視線を合わせ、唇の端を上げてみせた。レウリスの振動はまだ続いているし、エミルの周囲の凝縮されたような空気も変わらないのに。竜がびっくりして笑顔を返せないでいると、なんとエミルは口を開き、
「何か感じるか」
と、いつもの口調で言った。
「は、はい」
あんまり驚いてそれしか言えない竜に向かってうなずき、
「もうすぐ終わる」
とエミルが言った数秒後、空気中からさっきの風のような、見えない光のようなものがふっと失われ、レウリスの結晶がエミルの掌の上で、まるで急に何千年もの時が経ったかのように輝きを失い、透明感を失い、色も失って、その場にぼろぼろと崩れ落ちた。
「…と、まあこんな感じだ」
こともなげに言って、エミルは竜によく見えるように掌を差し出した。レウリスは灰色がかった薄茶色の粉の塊のようになっていた。
「消しちゃっていいか」
「はい」
竜はうなずいた。レウリスの残骸のことなんてどうでもよかった。
「どうして…どうやって話せるんですか?あんなふうに集中している時に!」
エミルは笑ってちょっと肩を竦めてみせた。
「慣れだよ。竜だってそのうちできるようになる」
竜にはそんなことはとても信じられなかった。あんな高い集中力を使う魔法を行っている最中に、あんなリラックスした顔で微笑んだり、何事もないかのように普通に話せるなんて。
そして、あの集中力。スティーブンが健太の脚を治した時も、あたりの何かがスティーブンのところに集まってきたのを感じたし、高い集中力も感じた。でも、エミルの魔法のレベルは全然違う。あの、何かがエミルのもとに集まってきて凝縮されていくときの勢い。強さ。鋭さ。そして集中力の圧倒的な高さ。確かさ。美しさ。
すごい人だ。竜は改めて尊敬を込めてエミルを見つめた。
「なんだ?」
「いえ…。エミルのようになりたいなあって思って」
心から言うと、エミルは照れたように笑った。
「光栄だよ」
その後しばらく、竜は『歌わせる魔法』の練習に専念した。
「石の過去のことなんかを考えすぎないようにする方がいいだろうな」
今朝どうやって小石を歌わせたのか、竜の説明を聞いた後にエミルが言った。「エミルは、なんて話しかけるんですか。歌わせる相手に」
「話しかけたりなんてしないよ。歌わせようとするだけだ」
「歌わせようと?」
「そう。言葉は何も使わない。ただ、歌わせようとするだけ」
そうなのか…。考え込んだ竜にエミルが言った。
「人それぞれやり方は違う。竜は竜のやり方でやっていいんだよ」
頷きはしたが、竜はエミルのやり方を試してみることにした。話しかけてしまうから、相手との繋がりが、関係が、深くなってしまうんだ、きっと。
何度か試してみたが、しかし小石はうんともすんとも言わなかった。第一、話しかけないと、竜自身、一体自分が魔法を行っているのか、それともただ座って石を見つめているだけなのか、わからなくなってしまうのだ。意識を集中しているつもりだけれど、それすらもできているのだかいないのだかわからなくなってしまう。やっぱり僕は、『歌わせる』相手に何か話しかけないとだめらしい、と竜はため息をついた。他の方法を考えなくては。
そうこうしているうちに、だんだん陽が高くなってきた。少し暑くなってきたので、二人は崖から少し離れたところにある大きな木の下に移動した。気持ちのいい風が吹いて、大きく広がった枝が緩やかに揺れ、木漏れ日がちらちらと降り注ぐ。
「そういえばさっき、レウリスが歌っている時、『何か感じるか』って訊いたでしょう?確かに、なんていうか、目に見えない光のような、風のような、そんなものを感じたんですけど、あれはレウリスの波動とは違うんですか」
エミルは首を振った。
「いや、あれはレウリスの波動のそのまた波動とでもいうかな。波動によって生じる空気の揺れ、みたいなものだ」
「『次元』が違っても、感じられるんですね」
「空気の揺れだからね。これも感じられる人とそうじゃない人がいるけど」
「そうか…。波動自体は、やっぱり歌わせている人にとってしか存在しないんですね」
竜は健太のことを考えてため息をついた。
「残念ながらね」
エミルもため息をついて、あぐらをかいた膝の上に頬杖をついた。と、視線を宙に浮かせて、
「お、メッセージだ」
指を上げる。そしてメッセージを聞き、にこりとして竜を見た。
「スティーブンからだよ。ちょっと話せるかって。健太くんのことも訊いてみよう」
そしてすぐにスティーブンと、竜呼ぶところの魔法電話で話し出した。
「スティーブン。今どこだい?…そう。…海岸のそば。大学の帰りだ。うん、一緒だよ」
スティーブンの声は聞こえないので、竜はちょっと残念に思ったけれど、あとでエミルに教えてもらえばいいんだからと思い直して、クッキーをもう一つ食べて休憩することにした。
このあと、今度は小石に話しかけながら歌わせてみよう。ただし、話しかける言葉をうんと少なくして。例えば、もう少しフォーマルな感じで話しかけてみたらどうだろう。そうすれば、繋がりが深くなりすぎるのを防げるんじゃないかな…。
キャラメルとナッツのクッキーをゆっくり楽しみながらあれこれ練習の計画を立てていると、エミルがスティーブンとの会話を終えて、笑顔でこちらを見た。
「健太くんもずいぶん頑張っているそうだよ。まだ意識のコントロールをやっているそうだけど、一晩で随分出来るようになったそうだ」
竜はクッキーの最後の一口を食べようとしていた手を止めた。
「一晩で?」
「ああ。昨夜はほとんど徹夜だったって。絶対にあきらめない、ってすごい粘り強さで、スティーブンの方が参っちまったらしい。頑張ってる健太くんの横で居眠りしてたって」
「徹夜…」
竜は急に、昨晩何の練習もせずに、早くからベッドに入って朝までぐっすり眠った自分が猛烈に恥ずかしくなった。耳が熱くなる。
「スティーブンは午後から講義があるから、午前中眠って、今車の中だけど、健太くんは明け方アメリアさんのところに帰ってちょっとだけ眠って、朝からバスケの練習に行ったそうだよ。魔法もバスケも、どっちもあきらめない、ベストを尽くす、って」
竜は心底自分を恥じた。クッキーを食べて休憩だなんて。何やってるんだ、竜!まだ『歌わせる魔法』もできていないっていうのに!
「…僕も頑張らないと」
唇を引き結んだ竜を見て、エミルは微笑んだ。
「いい友達を持ったな。互いに高め合える友達っていうのはいいもんだ」
決意も新たに、竜は『歌わせる魔法』の練習に励んだ。小石に話しかける言葉を変えたり、口調を変えたり、言葉尻を変えたり、速度を変えたり。色々やっていくうちに、少しずつ手応えが感じられるようになってきた。それまでは、何を変えても、何の変化も感じることができなかったのが、ある時から僅かではあるけれど、小石の反応の微妙な変化を感じられるようになってきたのだ。こうなってくると、気分も上がってくる。エミルが感心したように言った。
「そういうことが感じられるようになってきたっていうことは、集中力の質も上がってきてるってことだ。一石二鳥だったな」
「はい!」
もう一息だ。竜は水泳のレース前やピアノの演奏の前にいつもやるように、深い呼吸を二回して、また意識を集中した。光のボールの中の小石を見つめる。小石の過去には一切思いを馳せずに、ただ心を込めてこう呼びかけてみた。
初めまして。僕は竜。君は誰?
実際の空間の掌の上で、小石が細かく振動し始めた。輪郭がぶれる。あたりの空気が、今朝車の中で聞いたのと同じ風のような笛のような音でいっぱいになった。やった!竜は心の中で静かにガッツポーズをしながら、小石の歌に耳を傾けた。実際の空間での小石の振動が掌に感じられる。小石の歌の中に入り込みすぎないように気をつけながら、竜は歌が終わるのを待った。
やがて音は微かになって消えていった。竜はふうっと息を吐きながら、そっと意識の空間から実際の空間に戻った。微笑んだエミルと目が合う。
「できたな。気分は?」
竜は注意深く自分の感覚を探った。
「…大丈夫、みたいです。全然眠くないし…疲れてもないみたいです」
念のため立ち上がって、伸びをしてみたり、行ったり来たりしてみた。エミルと目を合わせ、頷く。
「大丈夫です」
「やったな!」
エミルが片手を上げる。ハイファイブ。二人の笑い声が木漏れ日と混じり合って辺りにきらめいた。
半時間後、竜は心地いい疲れを感じながら、窓の外の流れる風景をぼうっと眺めていた。エミルが運転しながら、今朝フィルが言っていたドクター・アハトフと魔法電話で話している。共同研究を始めるとかいう話で、エミルは嬉しそうに話していたけれど、今は休暇中なので、1週間後に大学でお会いしましょう、と言っていた。それを聞いて、竜は少し悲しくなった。1週間後。その日には僕はもうここにはいないんだ。
「ごめん。長くなっちゃって」
ドクター・アハトフとの会話を終えたエミルが言った。
「いいえ。すみません、僕のために休暇を取らせてしまって」
「何言ってる。ところで、ランチだ。何が食べたい?」
二人は丘の家に急いで帰る途中だった。
小石を歌わせることに成功した竜が、辺りにある他の小石をはじめとして、大きめの石も、岩も歌わせることに成功したところで、カールから魔法電話がかかってきた。今から1時間後には家を出なければいけないから、その前に車を戻してもらえるとありがたい、と言われて、そのことをすっかり忘れていた二人は大慌てですぐさま車に飛び乗った。幸い、二人のいた崖と丘の家は、同じ丘のあちら側とこちら側で、20分もあれば帰りつける距離だから、途中でランチをとって帰ろうということになったのだった。
「僕は何でもいいです。エミルはいつもはランチにどんなものを食べるんですか?」
「そうだな、急いでる時はサンドイッチとか、ハンバーガーなんかの時もあるし、大学の食堂でゆっくりスープだのサラダだの魚だのの時もある。ピエールのところに行くことも結構ある…」
竜をちらりと見て、
「言っとくけど、クッキーじゃないぞ」
「わかってます」
竜は首を竦めて笑った。さっき、最後のクッキーを食べていた時に、少しでも長持ちさせようとちびちび食べているのをエミルに気づかれて、大笑いされ、また連れて行ってやるからと約束してもらったのだ。
「この辺だと…よし、展望台に行こう。ちょうど通り道だし、あそこならいくつか店があるから、見てから決めればいい」
展望台は、さっきまで二人がいた崖よりもさらに上った丘の頂上にあった。大きな公園のようになっていて、見晴らしの邪魔にならないようにだろう、真ん中あたりにかたまっていくつかの小さな洒落た店やレストランがある。
竜はハンバーガーを選んだ。パンや具や肉の焼き具合を自分で注文できるようになっていて、目の前で作ってくれる。鉄板の上で美味しそうな匂いをさせてジュージュー焼けているハンバーグやオニオンやマッシュルームを見ていたら、俄然お腹が空いてきた。
丘の上からは、海も、さっきまでいた崖の一部も、フリア魔法大学も見えた。エミルの研究室のあるあの建物は、ここから見ると本当にシャボン玉のようで、今にもふわふわと浮かび上がりそうだった。
「家があっちのあの辺だ。ここからだとあそこの木立でちょうど見えないけど。で、大学までずうっと行って、それからこっちに出てピエールのところ。時計店。で、そのままずっとこっちに来て崖。で、こっち側に上ってここに来たわけだ」
見晴らしのいい外のテーブルに座ってハンバーガーにかぶりつきながら、エミルが指で示して教えてくれる。その指を追いながら、盛りだくさんな朝だったなあ、と竜はしみじみ思った。
カールと果樹園で話して、車の中で小石を歌わせて、大学に行って、車がミニカーになったり、コントルを通り抜けたり、リフトに乗ったり。そうそう、字が読めることに気づいたし、真のパジャマのボタンも見たし。フィルさんにも会った。ピエールさんのところに行って、時計店にも行って、ものを作り出す魔法を始めて。崖のところでは飛んだし、でもその後歌わせる魔法の問題点がわかって…。そしてエミルの魔法を見せてもらった。健太くんの頑張りも知った。いっぱい練習していっぱい失敗した。そしてついに、自然のものなら難なく歌わせられるようになった…。
竜はハンバーガーを食べながら、ふうっと息をついた。竜の気持ちを読んだかのようにエミルが言う。
「ずいぶん色んなことがあった朝だったな。練習もたくさんしたし。よく頑張ったよ」
「午後もまだまだ頑張ります」
胸の前でガッツポーズを作ってみせると、エミルが労わるように微笑んで、
「まあしばらくは休憩だ。食べて、景色でも見て、休め」
ハンバーガーは最高だった。マッシュルームとキャラメライズされたオニオン、目玉焼き、そしてジューシーなハンバーグ。かかっているほのかに甘酸っぱさのあるソースがものすごく美味しい。メニューにリルのソースというのがあったので、さっきピエールの店でエミルが真がリルのジャムが好きだったと言っていたのを思い出して、選んでみたのだ。
あっという間に大きなハンバーガーを平らげた竜をエミルがからかった。
「さすが育ち盛りだな。ほとんど凶暴と言ってもいいスピードだ」
「リルってどんなフルーツなんですか」
ハンバーガーについてきたサラダに取りかかりながら、竜は訊いた。
「これくらいの大きさの」
エミルは親指と人差し指で直径3cmくらいの輪を作ってみせて、
「薄緑の実で、中はピンク色をしてる。木に生るんだけど、大抵ひと房に三つずつ固まって生るんだ。生でも甘酸っぱくて美味しいけど、食べきれなくてジャムにすることが多いかな。うちの果樹園にも何本かあるから、あとで食べよう」
エミルはサラダを食べていたフォークを止めて微笑んだ。
「真ともよく食べたよ。果樹園で過ごすことが多かったからね。何でだったか今ではさっぱり思い出せないけど、リルのことで喧嘩したこともあるんだ」
竜はちょっと驚いた。
「喧嘩もしたんですか」
「何度かしたよ。言い合い程度ならしょっちゅうだった。どれもたいした喧嘩じゃなかったけど」
竜はこれもハンバーガーについてきた美味しいパンプキンスープを食べながら、改めて、真はブリュートナー家で本当にリラックスしていたんだなあと感心した。喧嘩だなんて。
「真は口が立つから…」
竜がため息まじりに言うと、エミルが身を乗り出す。
「そうなんだよ。すごいんだ。言葉が高速で出てくる」
「そうなんですよね。怒れば怒るほど早口になって」
「そう!それでその途中で言葉に詰まったりすると、怒りが増してもっとすごいことになる」
「そうなんです!」
二人は一緒に笑った。
「僕が小学校に入ったばっかりの頃、学校の帰り道に、年上の男子生徒に捕まって、いじめられたことがあったんです。そうしたら遠くから僕たちを見つけた真が走ってきて、その男子生徒に向かって猛烈な勢いでまくし立てて…。あれはすごかったですよ。真はまだ二年生で、その男子生徒は多分五年生か六年生だったと思いますけど、謝らせちゃったんですから」
まだ笑いながら竜が言うと、エミルは頬杖をついて目を細めた。
「守ってくれたんだ。真らしいね」
そういうつもりで話したのではなかったけれど、まあ確かに守ってくれたな、と竜が考えていると、
「真は、なんていうのかな、女の子らしかったり、優しげに見えたりしないんだけど、実は結構女の子っぽいところがあったり、優しいところがあったりして、…不思議だったよ」
懐かしそうにエミルが言った。
竜は首を捻った。女の子っぽいところ?優しいところ?あったかな…。
答えに窮している竜を見て、エミルはおかしそうに笑った。
「まあ、弟である竜には、そういう面はあまり見せないのかもしれないけど…。
そういえば、一昨日、スティーブンの研究室で、竜が真の名前の話をしただろう?あれを聞いた時、懐かしくておかしくて…大笑いしたいのを堪えてたんだ。僕もよく、真を怒らせようとしてマコって呼んだんだよ。あれはほんとに効果覿面だね」
「そうなんです。一体なんであんなに嫌がるのかわからないんですけど、とにかく怒るんですよね。すごい目で睨んで」
「そう!『どうして人が嫌がることをするの?!』」
「似てる!」
竜は笑いこけた。本当に似ている。
「それで僕のことをエムって呼んで、『どんな気がする?嫌でしょ』って鬼の首を取ったように言うから、『全然』って言ったら余計怒っちゃって」
「エム?」
「そう。それ以来よく僕のことをエムって呼んでたよ」
昨年の秋、真の誕生日に、竜は可愛いらしい顔をした小さなホッキョクオオカミのぬいぐるみをあげた。真はそれをいたく気に入って、エムと名前をつけて勉強机の上に置いている。竜は、エムというのはMakotoのM(エム)だとばかり思っていたのだけれど、どうやら違ったらしい。
そういえば、竜が知っている限りでは、真が学校に行く時とスイミングに行く時はいつも、例の青いリボンは、ちょこんと座ったエムの真っ白な首の周りにきちんとかけられている。
そうだったのか…。
竜が一人頷いていると、エミルが眉を上げた。
「なんだ?」
「いえ。真のお気に入りのぬいぐるみが、エムって名前なんです」
そう言ってくすっと笑った竜は、エミルの表情を見て驚いた。
「…どうしたんですか」
「そのぬいぐるみ…、もしかして白いオオカミか犬みたいなのじゃないか?」
竜はうなずいた。
「ホッキョクオオカミです」
エミルは信じられないという顔で首を振った後、ちょっと笑ってまた首を振った。
「まいったな…」
「え?」
エミルは頬杖をついて少し沈黙した後竜を見た。
「変な話なのは百も承知だけど…、夢を見たんだ。ずいぶん前に。すごくはっきりした夢だった。今でもよく覚えてる。見慣れない部屋にいて、机の上に白いオオカミのぬいぐるみがあった。気づいたら、…夢だからね、変だけど、気づいたら僕はそのぬいぐるみになっていた。そうしたら、黒いシャツを着た真が部屋に入ってきて、髪につけていた青いリボンを解いて、僕の首にかけた。そして、『じゃあね、エム。行ってきます』って言って、白地に銀色のラインが入ったバッグを肩にかけて、部屋を出て行ったんだ。そこで目が覚めた」
「…それ、いつ頃ですか」
「事故があってから4年後くらいだ。僕は大学の寮にいた」
竜はちょっと考えた。こっちの4年後は向こうの2ヶ月後。辻褄は合っている。
「…あのぬいぐるみは、僕がこの前の真の誕生日にあげたんです。昨年の10月4日に。それ以来、僕が知ってる限りではずっと真はそうしてます。あのぬいぐるみを机の上に置いて、スイミングの時と、中学になってからは学校に行く時にも、青いリボンをとって、ぬいぐるみの首にかけて出かけるんです。真が向こうに帰ったのが8月末だから、約2ヶ月後で10月末。白と銀のバッグは真がスイミングに行くときに使ってるバッグだから、それは、昨年の10月末に真がスイミングに出かける時だったんだと思います」
二人は無言で見つめあった。エミルが笑い出した。
「…まいったな。僕はそういうのは信じないことにしてるんだけど」
そして空を見上げて目を細めた。
「僕はきっと…ずいぶん真のことが好きだったんだね」
竜もそう思った。
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