第10話

 柔らかい朝の光の中で、竜はまだ半分目を閉じたままうーんと伸びをした。伸びた足先が、ベッドの足元の方の少し冷んやりしたシーツに触れる。微かなハーブの香りのするベッドは心地良く柔らかで、竜は満足のため息をつきながら寝返りを打ち、ふかふかの枕に顔を押し付けた。

 途端に半分開いていた目が全開になった。目の前に、つやつやとした黒い点が三つ。ベッドのすぐ脇にライラが座って、竜を生真面目な顔でじっと見つめていた。

「…おはよう」

 竜が言うと、途端にライラは笑顔になり、尻尾を床にバタバタ打ち付けて、嬉しそうに竜の鼻をぺろりと舐めた。

「今何時かな…」

 ライラの顔を撫でながら竜は部屋を見回した。ベッドサイドのチェストの上に目覚まし時計が置いてあった。5時50分。

「よし、起きよう」

 竜は呟いて、ベッドから出た。ライラも立ち上がってブンブンと立派な尻尾を振る。

「ちょっと待ってね、ライラ。えーと…あった」

 ベッドの足元近くに置いてある背もたれの高い椅子に、昨夜マリーが出しておいてくれた服が畳んで置いてある。そちらに向かって足を踏み出しかけて、竜は魔法のことを思い出した。よし、練習だ。

 

 「ごめんなさい、起こしてしまって…」

「いやいや、もう起きていたからね。朝早く散歩するのが好きなんだ」

 魔法で服を着替えようとした結果は散々だった。最初はうまくいったのだが、あとは靴下を履くだけという時に、ライラが空中を移動する靴下に飛びついて、それを取り返そうとする竜から大はしゃぎで逃げ回り、屑籠を倒したり、目覚まし時計を落としたり、ついには花瓶を割ったりしてしまったのだ。騒ぎを聞きつけたカールがやってきて、

「ライラ」

 と、静かな、しかし威厳のある声で呼ぶと、ライラはすぐに大人しくなった。竜の説明を聞くと、カールはおかしそうに笑った。

「ライラはものが空中を移動するのに慣れていないんだよ。うちではもう誰もやらないからね」

「すみません」

「いやいや、竜は思う存分練習するといいよ。ライラもすぐに慣れるだろうから」

 カールはそばに座っていたライラの頭を撫でた。

「やってごらん。ライラは私が抑えているから」

 少し緊張しながら、竜は魔法で靴下を履いた。昨日よりも速く滑らかにものを移動させることができるようになっている。カールが目を細めて頷いた。

「よくできた。では次、屑籠を元に戻してごらん」

 倒れた屑籠を元に戻すのは簡単だった。

「壊れたものを直す魔法はもう習ったかな?」

「いえ、まだです」

「じゃあ、」

と言いかけて、

「竜は意識の空間を使うのかい?」

「はい」

 するとカールは微笑んで、

「では教えるのはエミルの方がいいだろうね。今は私がやろう」

 そして割れてしまった花瓶を元どおりにし、部品が外れてしまっていた目覚ましを直した。

「真も意識の空間を使っていたね」

「はい、そう聞きました」

「真とエミルと、そして竜も…」

 カールは感慨深げな顔をして呟いた。

「意識の空間を使うのは、珍しいんですか?」

 竜は思い切って訊いてみた。

「そうだね。私が個人的に知っているのは、君たち三人の他に一人だけだ。私の母がやはりそうだったよ」

 そこへノックの音がして、マリーが顔をのぞかせた。

「二人とも早起きね。竜、服のサイズはどう?エミルが昔着ていたものなんだけど、大きすぎなかったかしら」

「大丈夫です。すみません、うるさくしてしまって」

「あら、なんのこと?」

 マリーはきょとんとした。カールが笑って何があったのか説明する。

「まあまあ、ライラったら。竜ももう犬はこりごりじゃないかしら」

「そんなことありません!」

 竜は慌てて首をふった。どんなに悪戯でも、何を壊そうとも、ライラが大好きだ。


 「さて、今日は何から始めるかな」

 少し遅く起きてきたエミルが、バターをつけたトーストをかじりながら竜に訊いた。

「まずは壊れたものを直す魔法だね。ライラのいる家では必須だ」

 食後のコーヒーを飲んでいたカールが笑って言い、何があったかをエミルに話した。

「じゃ、そうしましょう。その後散歩でもしながら、『観察』をしたらいいんじゃないかと思ってるんです」

 カールが頷いた。

「それはいいね。天気もいいことだし」

「観察、ですか?」

「そう。昨日蝋燭に火を灯す時、モデルなしにはできなかっただろう?」

「はい」

「ああいうのをモデルなしでできるようになるためには、例えば火なら火をきっちり観察することが必要なんだ。そうしてそれを意識の中にコピーしてしまい込んでおく」

「なるほどねえ」

 カールが腕組みして微笑んだ。

「そう聞くと、実に単純明快だ」

 そして竜に向かって、

「意識の空間を使えない者には、そんな簡単にはいかないんだよ。観察のために、長い退屈な、まるで修行のような時間を過ごさなくてはならないんだ。意識の空間を使えるということは、非常に有利なことなんだよ」

 そこへ、コツコツ、コツコツ、コツコツコツ、コツ、と妙にリズミカルに勝手口のドアを叩く音がした。竜の足元で、ライラが顔を上げる。

「あら、郵便屋よ。珍しいわね」

「竜にでしょう。昨日スティーブンが言ってた。竜、ドアを開けてごらん」

 エミルに言われて、竜は不思議に思いながら勝手口へ立って行って、ドアを開けた。誰もいない。

「誰もいません…」

 と言いかけて、竜は思わず跳び上がった。脚に何かが触ったのだ。慌てて足元を見ると、そこに大きな灰色の鳥が立っていた。カラスくらいの大きさで、どことなく愛嬌のある丸い茶色の目をしている。

「と、鳥がいます」

 竜は一歩後ずさってしまった。大きな鳥はちょっと苦手なのだ。カラスも怖いし、たまに遊びに行く公園の池にいるアヒルだって、実はちょっと怖い。

「郵便屋という鳥だ。急ぎの手紙の配達をする。左脚に小さな筒が取り付けてあるだろう。銀色のだ。外せるか」

 鮮やかな黄色の大きなくちばしを気にしながら、竜は恐る恐る郵便屋の黒い脚に取りつけられている小さな銀色の筒に手を伸ばした。恐ろしげな長い爪が見える。筒を外そうとする手が少し震えてしまった。郵便屋はさすがに慣れているらしく、身じろぎもせずにじっと立っている。幸い筒はすぐに外れた。竜がじっと詰めていた息を吐き出して立ち上がると、郵便屋は礼儀正しく一礼して、くるりと向きを変え、飛び立っていった。

「…あ、ありがとう」

 その背中に言って、竜はドアを閉め、手の中にある銀色の筒を見た。捻って蓋を外すようになっている。外してみると、中からくるくると巻いた薄い白い紙が出てきた。シールのようなものが貼ってあり、そこに「早川竜様」と書いてある。

「竜君へ 元気ですか。スティーブンから、竜君が魔法の先生と一緒にフリアに行ったと聞きました。スティーブンが竜君は魔法の天才だと言っていました。すごいね!僕は今日バスケの練習試合に出してもらいました。得点もアシストもしました。まだ完全に自分の思うようにはプレイできないけど、ずいぶん速く動けるようになったよ。あとはフィジカルコンタクトに慣れるだけだってレイには言われました。すごく楽しい!明日も試合があるんだ。頑張るよ!前に僕は2、3日で向こうに帰るって言ったけど、僕も竜君と同じように9日間いることにしました。先に帰ってお母さんたちにうまく説明しておくって言ってたのに、ごめんね。二度と来られないんだから、できるだけ長くここにいて、いっぱいバスケをして、一生分のいい思い出を作りたいです。もう紙があんまり残っていないので、この辺で終わりにします。明日の朝、郵便屋という名前の鳥が来てくれて、この手紙を竜君のところまで届けてくれるんだって。どんな鳥なのか楽しみです。アメリアさんがよろしくと言っていました。お返事待っています。健太より」

「すぐに返事を出すかい?私のところに郵便屋の紙があるから、持ってこよう」

 カールが立ち上がりかけると、マリーが

「いいのよ、ここにもあるから。シールとそれからペンも」

 と言って、電話の下にあるチェストの引き出しから縦の幅が4cmくらいの白い巻紙とシールと黒くて細いペンを持ってきてくれた。ペンは先が万年筆のようになっているけれど、もっと細くて尖っている。

「郵便屋用のペンだよ。普通のインクよりも軽くて、万が一手紙が雨に濡れるようなことがあっても滲んだり消えたりしない。でももし郵便屋が誰かに止められてしまったら、あの銀の筒に組み込まれているスイッチが入って、ある種の気体が筒の中を満たし、そのインクで書かれたメッセージは消えてしまうんだ」

 カールが説明する。

「止められるなんてことがあるんですか?」

「まあ我々一般市民にはあまり関係ないことだけれどね。そういうこともあるようだよ」

 竜はちょっと考えた。

「…スパイとか、そういう人たちですか」

「そうだね。人の秘密を盗んで自分の利益につなげようという輩とかね。悪い人間というのはいつの時代もどこの世界にもいるものらしい」

 竜はちょっと意外に思いながら、小さな巻紙を広げた。なんとなく、この世界にはスパイとか陰謀とか悪い人間なんていうものはないよう気がしていたのだ。

 エミルとカールがコーヒーを飲みながら発明の話をしている横で、竜は考え考え健太に返事を書いた。

「健太君へ。お手紙ありがとう。郵便屋のことは知らなかったので、ドアを開けたら人間じゃなくて大きな鳥がいてびっくりしました。鳥が郵便配達をするなんて面白いよね。昨日は汽車に乗ってフリアまで来ましたが、とても静かで速くて乗り心地が良かったです。フリアの駅もすごく大きくて綺麗で静かでした。騒音を取り込んで照明に変える石が壁や床や天井に使われているのだそうです。ここでは魔法の先生エミルの家に泊めてもらっています。すごく大きなライラという犬がいて、友達になりました。昨日は僕と一緒の部屋で寝たんだよ!今も僕の足元にくっついて寝そべっています。とてもかわいいです。バーニーズを白と灰色にしたような感じの犬で、目も鼻も真っ黒です。向こうに帰る日にちのことは心配しないでください。あと7日間お互いたくさん楽しもうね!そうそう、昨日ソンダースの駅のパン屋さんであんパンを買いました。とても美味しかったです。バスケ頑張ってね!アメリアさん、マーサさん、スティーブン、コール、レイ、ジーナによろしく。竜」 

「書けたか?」

 巻き紙を切ってくるくる巻いて、「船橋健太様」と書いたシールを貼っていると、エミルが訊いた。

「はい。この銀の筒に入れちゃっていいんですか?」

「いや、これはもう使用済みだから、あとで郵便局に持っていくんだ。郵便屋に預けてもいいんだけど、嫌な顔をされるんだよ。やっぱり余計な荷物は飛ぶのに邪魔なんだろうな。新しい筒は郵便屋が持ってきてくれるよ。あ、そうそう、宛先の住所を別の紙に書いて」

 竜は健太の手紙の最後にあったアメリアさんの住所を、ちぎった巻紙に書いた。

「よし。じゃ、旗を出そう。来てごらん」

 エミルは立ち上がると、勝手口のドアに向かった。竜とライラが後に続く。外に出ると、エミルはドアの脇に立っていた3メートルくらいの高さの柱についてる細い小さなハンドルをくるくると回した。するすると小さな赤い旗が上がった。旗の真ん中には郵便屋の灰色のシルエットが入っている。

「これを出しておくと、郵便屋が来てくれる。今日は天気もいいし、五分くらいで来るかな。雨だったり風が強い日だったりするともうちょっとかかるけど」

「よく使うんですか?郵便屋」

「そうでもないかな。でも急ぎの用で、書面でのやりとりをしたい時には便利だよ。彼らは最短距離を取れるし、とにかく速いから」

「書面でのやりとりをしたい時?…誕生日のメッセージとかですか?」

 エミルは笑って、 

「うん、例えば何かを注文する時とかかな。実験に必要な、ちょっと特殊なものとか。こちらの欲しいものを自分の言葉で正確に伝えられるし、記録が残るし、間違いが起こるのを防げる」

 なるほどと頷きながら竜はちょっと赤面した。誕生日のメッセージだって。子供っぽいことを言ってしまった。

「さて、じゃあ郵便屋が来るまで、壊れたものを直す魔法の練習でもしようか」

「はい!」

「じゃ、まず手始めに、そうだな…」

 エミルはあたりを見回して、

「これでいいか」

 と、小さめの素焼きの植木鉢を勝手口の脇から持ってきた。もちろん空っぽだ。

「これをこうして、」

 蜂蜜色の石畳の上に落とす。乾いた音と共に植木鉢はいくつもの茶色のかけらになった。

「壊れる前に戻してごらん」

 何の説明もなしにエミルは言って、竜を見た。

「壊れる前に…」

 口の中で呟いて、竜は意識を集中した。薄青い空間。光のボール。光のボールの中に壊れる前の植木鉢のイメージがくっきりと浮かんだ。次の瞬間、実際の空間で石畳の上に散らばっていたかけらたちがパッと光ったと思うと、植木鉢は壊れる前の姿に戻っていた。

「よし、上出来」

 エミルが満足気に頷いた。

「今みたいに、壊れるところを見ていた場合は簡単だ。竜は今、壊れる前の植木鉢のイメージを使っただろう?そうできる場合はいいけど、壊れる前の形がわからないものだったらどうする?」

「壊れる前の形がわからないものだったら…」

 竜は想像してみた。元はなんだったかわからない、地面に散らばったたくさんのかけら達。

「…かけら達に訊いてみます。壊れる前はどうだったのかって」

 言ってしまってから、変なことを言ったと思い、慌てて言い直した。

「つまり、実際にかけら達に話しかけるわけじゃなくて、なんていうか、かけら達に、うーん、思いを…心を…通わせるというか…」

 エミルが我が意を得たりというように頷いた。

「その通り。最初から自然にそういうふうに考えられる人間とそうじゃない人間がいるけど、そういうふうに考えられない人間が、壊れる前の形がわからないものを修復するのは容易なことじゃないんだ。ま、竜なら大丈夫だろうとは思ってたけど」

 楽しそうに笑って、

「なんだか僕が教えなきゃいけないことはあんまりないみたいだな」

「そんなことありません」

 勢い込んで言いかけて、竜は向こうのほうから翼を広げてやってくる大きな鳥に気づいた。

「あ、郵便屋みたいです」

「おっと大変だ。ライラを中に入れないと」

 エミルがライラを勝手口から中に入れている間に、郵便屋が竜の前の地面に舞い降りた。茶色の瞳がじっと竜を見上げる。

「あ、えっと、来てくれてありがとう」

 とりあえず言ってみた。郵便屋はまだ竜をじっと見上げている。

「えーと…」

 どうしたらいいんだろう?

 そこへエミルがやってきた。

「手紙を郵便屋に見せてごらん」

「はい」 

 竜はジーンズのポケットからきっちり巻いてシールを貼った手紙を取り出して、郵便屋の目の前に差し出した。郵便屋は手紙を一瞥すると、おもむろに左脚を差し出した。銀の筒がついている。

「筒を外して、手紙を入れて、筒を元に戻して」

 エミルに言われた通りにする。今度は手も震えることなく、さっさとすることができた。

「そしてこれを見せる」

 エミルが銀色の小さい硬貨を三枚手渡してくれた。チューリップのような花の絵と5という数字が見える。それを掌に乗せて郵便屋に見せると、郵便屋は今度は右の脚を差し出した。そこにも小さな筒がついていたが、こちらは銀色ではなく、公衆電話と同じ真っ白のつやつやしたプラスティックのような素材でできていた。硬貨を入れるのにちょうどいい大きさのスリットが開いている。そこに一つずつ硬貨を入れる。チャリン、チャリン、チャリン、と三回音がしたのを、確かに聞いた、といった感じで郵便屋は頷くと、また竜を見上げた。

「住所を見せて」

 竜は慌ててポケットからさっきの紙切れを出して、郵便屋に見せた。郵便屋はよくわかったと言うように頷くと一礼し、くるりと向こうを向いて、飛び去っていった。

「…字が読めるんですか」

「そりゃそうだ。でなきゃ配達できないだろう」

 エミルが軽い口調で言ったので、竜はまた改めて、やっぱりここは違う世界なんだと実感した。字の読める鳥がいるなんて。

「ソンダースにはどれくらいで着くんでしょう」

「強い向かい風でも吹いてない限り、そうだな、1時間くらいかな」

 竜はびっくりした。

「速いですね」

「直線だからね。それに彼らはとにかく速く飛ぶから」

 あっという間に小さな灰色の点になった郵便屋の後ろ姿を追いながら、竜は昨夜から気になっていたことを思い切って口にした。

「…真がこっちのことを覚えていられたのは、シールドに守られていたからだったんですね」

 エミルがうなずく。

「そういうことだね。ジリスとフュリスの混合なんて、思いもよらなかった」

「ということは、」

 竜は喉がつかえる思いで言葉を押し出した。

「今回はシールドがないんだから、カールの魔法の道具は使えなくて、僕は他の人たちと同じようにやっぱりこの9日間のことを忘れてしまうんですね」

 エミルは視線を落として沈黙した。竜は待った。気持ちのいい風が頬を撫でていく。

「…そうだな」

 ため息と共にエミルは言って空を見上げた。

「…ですよね」

 竜も詰めていた息をそっと吐き出して、空を見上げた。少なからずショックだった。なんとなく、エミルなら、何か方法があると言ってくれるような気がしていた。

 二人はしばらく黙ったまま空を見上げていた。高いところにあるヴェールのような薄い雲の下を、もこもこした白い雲がいくつも楽しげに通っていく。

 あーあ、と竜は思った。やっぱり現実はそううまくはいかない。魔法を学べる別世界に来てはいるけれど、やっぱりこれは現実なんだ。夢でも物語でもない。思い通りにはいかない。

 もちろん、またここに戻ってこられる可能性があるのは嬉しい。でも、この初めの9日間を忘れてしまいたくなかった。どうしても覚えていたかった。

 それに、もし向こうに戻った途端に全てを忘れてしまったら、どうやって真が持っているかもしれないジリスとフュリスの混合物を見つければいいんだろう。向こうに持って帰る予定の、カールの魔法の道具のことも忘れてしまうのだから、例え部品が見つかっても組み込み方なんてわからないんじゃないだろうか。いや、それどころか、道具のことだって忘れてしまっているんだから、もしかしてその何だかわからないものを捨ててしまったりすることだってあり得る。

 …そうだ、紙に書いておけばいいんだ。ジリスとフュリスのことも、道具のことも。それだけじゃない、魔法のことも、意識のコントロールのことも、意識の空間のことも、エミルたちのことも、みんなちゃんと書いておこう。ポケットに入るくらいの小さい手帳を買って…

「竜、」

 呼ばれて竜は白い雲からエミルの顔に視線を移した。エミルが真剣な顔をして竜を見ていた。

「…生きていれば、魔法はまた学べる。楽しい思い出もまた作れる」

「はい」

「この9日間のことを覚えているよりも、とにかく無事に向こうに帰ることが一番大事だ」

「…はい」

「もし真がジリスとフュリスを持っていなかったら、僕が必ず迎えに行くから…」

 そこまで聞いて、竜ははっとした。

「エミルの発明している魔法にも、シールドがあるんじゃないですか」

 エミルは口を開けたままなんともいえない表情で竜を見て、言葉に詰まり、それから片手で額を抑えて呻いた。

「あるんですね」

 エミルは額を抑えたまま大きなため息をついて、空に向かって言った。

「…どうやら僕は物事を隠しておくことのできない人間らしい」 

「あるんですね!」

 エミルは不承不承にうなずいた。

「…ジリスとフュリスと同じ効果を上げるかもしれないものは、ある」

「やった!」

 竜は跳び上がった。

「それを、カールの道具に組み込んで使えばいいんですね!」

 エミルは首を振った。

「そんな単純なことじゃない。第一そんな危ないことを…」

「危なくったって構いません!」

「馬鹿言うな」

 エミルが厳しい顔をした。

「今言っただろう。無事に向こうに帰ることが大事だって。たかが数日間の記憶のために、試してもいない魔法を使わせるなんて狂気の沙汰だ」

「でも真は大丈夫だったじゃないですか」

「あれは…例外中の例外だ。たくさんの失敗例、たくさんの死の後の初めての成功例だ」

「じゃ、僕が二つ目の成功例になります!」

 言ってから、念のために訊いてみる。

「可能なんですか?カールの道具の中に、エミルのシールドを組み込むことは」

 エミルは渋々頷いた。

「可能じゃないかと思う。正確にはシールドじゃないし、まだ父と話してはいないけど…」

「じゃ、今話しましょう!」

「いや、ちょっと待て、竜…」

 止めるエミルにお構いなしに、竜は勝手口からキッチンに駆け込んだ。カールはまだテーブルでコーヒーを飲みながら、何やら大きな黒いノートブックに書き込んでいた。 

「カール!エミルのシールドをあなたのあの道具に組み込んで使うことは可能ですか?」

 カールは鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をした。

「なんだって?」

「エミルの発明で使っているシールド、いえ、正確にはシールドじゃないけど、シールドの代わりに使えるものを、ジリスとフュリスの混合の代わりにあなたの道具に組み込んで使えないでしょうか?」

 カールは竜を、次いで竜の後ろからキッチンに入ってきたエミルを見て、厳しい顔をした。

「エミル…」

 竜はそれを遮った。喋らずにはいられなかった。

「エミルの提案じゃありません。僕のアイディアです。お願いします。僕、どうしても覚えていたいんです。忘れたくないんです」

「竜…」

「お願いします」

 竜はカールの深い茶色の目をありったけの思いを込めて見つめた。カールはそれを静かに受け止めると、腕を組んでゆっくりと椅子の背もたれに寄り掛かった。

「…どれ。考えてみよう」

 竜は息をのんで、次の言葉を待った。

 カールはしばらく眉を寄せて宙を眺めていたが、やがて、「ふむ」と頷いてエミルを見た。

「エミル、竜がここで言っているシールドとは、昨日お前が言っていた結晶化させたマルギリスのことだね?」

「そうです。昨日お父さんと話したあと、考えていて気づいたんです。あれに『歌わせる』魔法を使えば、ジリスとフュリスが作り出すシールドとほぼ同格のバリアになり得るはずだって。性質はまるっきり違うけれど、何物も通さないという点では同じです」

「確かに。しかしあの種の物質に『歌わせる』魔法は、もってせいぜい20秒というところだろう。そこがジリスとフュリスとは決定的に違うところだ。それに私の道具では、ジリスとフュリスを組み込むところにエフタルリスを使っているから、マルギリスを組み込むには向かないだろう」

 エミルが呻いた。

「よりによって…。それじゃ10秒、いや5秒もてばいい方だ」

 竜はたまらず割って入った。

「構いません!5秒あれば十分です。だって、僕がこっちに来た時かかったのは、ほんの2、3秒でしたから。ぱっと暗くなって、音が聞こえなくなって、その次の瞬間にはもうこっちに来ていました」

 カールが首を振った。

「それは竜が感じた時間だ。実際にはもっと長くかかっているかもしれない」

「途中でシールドがなくなったら、どうなるんですか」

「それは…」

「身体的には危険はないはずでしょう。現に、向こうに客人たちを送り返す公式の魔法にはシールドはないんだから…」

 言いさしてエミルはあっと言った。

「そうか!お父さんの魔法でなく、予定通り、公式の魔法で向こうに戻ればいいんだ。それと同時に結晶化させたマルギリスを歌わせればいい。そうすれば20秒間のバリアが確保できる」

 エミルはカールを見、竜もカールを見た。カールは数秒間宙を凝視したまま静止していたが、やがて瞬きをして唇の端を上げた。

「その手があったか…」

 竜は天にも昇る心地でカールとエミルを見た。もしかして、本当に、記憶を失わなくて済むということなんだろうか?

「あの公式の魔法は、単に『属するところに戻れ』と『元いたところに戻れ』だけのものだから、『歌わせる』魔法と併用しても何の問題もないはずだし、マルギリスの結晶の力を弱めてしまうものもないはずだ。…でもまあ一応スティーブンに確認してみたほうがいいだろうな。私が知っているのは私が引退する前のシステムだけだ。あれから何か変わったかもしれない」

「すぐ訊いてみましょう」

 エミルが壁の時計をちらりと見た。

「まだ家にいるな。…スティーブン、エミルだ。至急教えて欲しいんだけど…」

 エミルがスティーブンにメッセージを送っているのを聞きながら、カールが竜をじっと見て低い声で囁いた。

「二つの世界の間の移動に、実際のところどれだけの時間がかかっているのかわからない以上、20秒間のバリアが記憶を守るのに十分だと言い切ることはできない。でも私の推測からしたら大丈夫だろうと思うね。公式の魔法が昔と同じならば、ということだけど」

「はい!ありがとうございます」

 頬を上気させた竜に、カールは微笑んだ。

「私は何もしていないよ。竜はすぐにでも『歌わせる』魔法の練習にかかる方がいい。あれは質の高い集中力のいる魔法だ。それから、…こんなことは聞きたくないだろうが、万が一のことを考えて、必要なことをきちんと書き留めておくといい。ジリスとフュリスのことや、組み込み方なども後で説明するから、細かいことまで書きとめておきなさい」

「はい!」

 竜はしっかりと頷いた。

 スティーブンからの返信はすぐに来た。エミルが指を上げたままじっと聴いている。竜は息を詰めて待った。エミルがうなずいてにこりと笑った。

「大丈夫だ。公式の魔法でやることは、ただ『属するところに戻れ』と『元いたところに戻れ』。それだけだそうだ」

 竜は自分の頬が大きく緩んだのがわかった。

「じゃあ、…じゃあ、本当に僕は覚えてられるんですね?記憶をちゃんと持って帰れるんですね?」

「そういうこと!」

 エミルも嬉しそうだ。

「早いとこ『歌わせる』魔法をマスターしちまわないとな」

「はい!」

「では私は道具にかかろう。竜にも説明できるようにしておきたいからね」

 カールが立ち上がる。

「ありがとうございます、カール」

 カールは竜を見下ろして微笑んだ。

「お礼を言うのは私のほうだよ、竜。竜が来てくれたおかげで、全てが良くなった。ありがとう」

 


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