第23話

 廊下に飛び出たところで、竜はちょうどやってきたエミルとぶつかりそうになった。

「おっと!」

「ごめんなさい!」

「大丈夫か。なかなか降りてこないから、寝ちゃったかと思って見にきたんだ」

「いえ、着替えようとしたところで、これを思い出して…」

 竜は腕時計ベルトをエミルに差し出した。エミルは何気なく受け取ってから、はっとした顔をした。

「…まさか、今作ったのか?」

「はい。こっちがオリジナルです」

 銀色のリボンと一緒に、エミルが買ってくれた方のベルトを差し出す。

「ここじゃちょっと暗いな。キッチンに行こう」

「はい」

 歩き出しながら、エミルが首を振る。

「まったく、竜…」

「はい?」

「ちょっとは休め。昨夜はほとんど寝てないっていうのに」

「でも全然疲れてないです。ほんとに」

 大袈裟にため息をついてみせて、階段でエミルが振り返った。真面目な顔をしている。

「頼むから無理するなよ」

「してません。ほんとです。昨日に比べたら全然難しくないし、今朝もう一つの方のベルトを作った時よりもずっと簡単にできました。慣れたっていうか」

「そうか。ならいいけど…」

 キッチンはパンケーキの匂いと芳しいコーヒーの香りが漂っていた。竜は思わず目を閉じて大きく息を吸い込んだ。昨日の朝の幸せな朝食の時間が蘇る。

「これ、ピエールさんのコーヒーですね」

「当たり」

 言いながらエミルは窓辺に寄って、二つの腕時計バンドをじっと見比べた。しばらくして顔を上げて微笑む。

「完璧だ」

 竜の頬が大きく緩んだ。やっぱりエミルに褒めてもらうのが一番嬉しい、と竜は思った。心がじんと温かくなる。

「なあに?」

 マリーがエミルの手元を覗く。

「竜が作ったんですよ。おっと、ちゃんとリボンを巻いといたほうがいい。どっちがどっちか、まったく見分けがつかないから」

 エミルが言って、オリジナルのベルトに銀色のリボンを結んでくれる。

「作ったって、まさか…」

 ベルトを受け取ったマリーが目を丸くする。

「そのまさかです」

「もう?!」

「そうです」

 エミルが笑って言う。

「すごいでしょう」

「まあ…竜…」

 ベルトと竜を交互に見比べるマリーの驚いた顔がおかしくて、竜もちょっと笑ってしまった。

「はい」

「すごいわ。おめでとう!」

「ありがとうございます」

「お祝いしなくちゃね。ケーキも作って」

 マリーはにっこりした。

「真の時もそうしたのよ。そうだわ、写真も撮らなきゃ。カメラを取ってくるわ。どこに置いたかしら。エミル、パンケーキをひっくり返してね」

「了解」

 マリーが急ぎ足でキッチンを出ていった後、エミルと竜はフライ返しを持って大きな鉄板の前に並んで立った。

「エミル、訊きたいことがあるんです」

「なんだい?」

「マルギリスのバリアは記憶を守ってくれるんでしょう?魔法は守ってくれないんですか?」

「魔法?」

「健太の脚の魔法です」

「ああ、」

 とエミルは頷き、さらりと言った。

「守ってくれるだろうね」

 竜はフライ返しを握りしめてエミルを凝視した。

「ほんとですか!」

 すごい!スティーブンは確か、この種の魔法は世界と世界の境目を超えられないって言っていたのに!マルギリスの波動ってすごいんだ…!なんとか二つの魔法を同時にできるようにして、健太を僕の次元に引き込める魔法を作らなくちゃ!

 二人で四枚のパンケーキをひっくり返しながら、エミルが竜をちらりと見た。

「マルギリスが『歌って』いる間は、だぞ」

「えっ?」

「向こうの世界に戻ったら、どうなるかはわからない。向こうの世界には魔法がないらしいから、こっちでかけた魔法は向こうの世界に入れば消えてしまうっていうのが通説だ。もちろん、誰も試したことがないから、本当のところはわからないけどね」

 誰も試したことがない、か…。竜はため息をついた。

「…真で色々実験してみればよかったですね」

 エミルは眉を上げてちょっと笑った。

「それは考えつかなかったな」

 声に僅かではあるけれど非難の色を感じて、竜は反省した。もちろん、そんなことをするはずがない。これはまるっきり未知の分野の魔法で、どんなことがどんなふうに真の安全に影響してくるのかわからなかったのだから。

「まあ真じゃ、どっちみち役に立つ実験結果は得られなかったよ。公式の魔法じゃなかったし、ジリスとフュリスのシールドがあったし、何より真本人が魔法の使い手だったから。完全に『例外』だ」

「そうですよね」

 竜はまたため息をついて、出来上がったパンケーキを、鉄板から温めてある大皿に移すエミルの手元を眺めた。向こうとこっちの行き来については、本当にわからないことだらけだ。

 でも、と頭のどこかで声がしたような気がした。わからないっていうことは、可能性があるっていうことだ。魔法を持って帰れる可能性があるんだ。竜は隣に立つエミルを見上げた。

「エミル、僕やっぱり、精一杯やってみたいと思うんです」

 エミルの表情が硬くなったのがわかった。

「…何をだ」

「二つの魔法を同時にやる練習も、相手を自分の次元に引き込む魔法を作ることも」

 ため息をついて、エミルは無言のままパンケーキのたねを鉄板に流し入れた。四つの円ができると、エミルは竜に向き直った。

「何のために?」

「健太が記憶とそれからもしかしたら魔法も持って帰れるようにです」

「つまり、今回向こうに戻る前に、あと5日とちょっとで、その二つを完成させることを目標に、目一杯練習するっていうことか」

 念を押すようにエミルが言う。その後に「違うよな?」と続きそうな口調だ。厳しい目をしている。

「はい」

「反対だって言っただろう」

「でもその後でごめんって言いましたよね」

 わざと生意気な口調で言うと、エミルは一瞬なんともいえない表情をして、そのあと笑い出した。

「…まるで真だ」

「弟ですから」

「まったく…」

 まだ笑いながら、諦めたようにため息をついてエミルは竜を見た。

「まあ、そのうちきっとそう言い出すだろうなとは思ってたけど。でもこんなに早くとはね」

 そして真顔になって言った。

「竜。もう一回言うけど、無理すれば、二度と魔法ができなくなるかもしれないんだぞ」

 竜も真顔でうなずいた。

「わかってます。僕だって魔法の喪失は嫌です。絶対に。でも、なんていうか…。さっき二つ目の腕時計ベルトを作った時、すごく簡単にできて…。もっとやれる、って思ったんです。自惚れかもしれないけど、でも、もっと難しいことでも、そんなに無理せずにできるような気がして。もちろん、できないかもしれません。でも、もしできたら、健太の記憶も、もしかしたら健太の脚の魔法も守れるのかもしれないって思ったら、やっぱり精一杯、目一杯、頑張ってみたいって思って」

 エミルはまたため息をついて視線をパンケーキに移した。

 そこへ急ぐ足音とともにマリーが戻ってきた。

「お待たせ!さあ竜、撮りましょう!この窓の近くがいいわ。ベルトを持って」


 エミルと竜がパンケーキを食べていると、カールが散歩から戻ってきた。

「お先に頂いてます」

 竜が言うと、カールは竜のお皿を見ておかしそうに笑った。

「ほんとだ。食べてるねえ」

 竜はちょっと赤くなった。色々な味を試してみたい竜のお皿の端には、ママレード、リルのジャム、苺のジャム、ペアのジャム、りんごのジャムに加えて、

チョコレートクリームもシャンティクリームもキャラメルクリームものっている。賑やかだ。

「竜は甘党だな」

 エミルが笑う。

「ピエールのクッキーも大のお気に入りだし」

 竜は照れ笑いしてうなずいた。甘いものは大好きだ。

「おや」

 カールがテーブルの上に置いてある二つの腕時計ベルトに目を留める。

「果樹園で見たのとは違うね」

「はい。さっき作りました」

「見てもいいかい」

「どうぞ。リボンのついてる方がオリジナルです」

 カールは窓の方へ寄って二つのベルトを時間をかけて見比べ、戻ってくると竜の肩を優しく叩いた。

「よくできた、竜。おめでとう。今夜はケーキだろうね」

 訊かれたマリーがにっこり頷く。

「そうよ。今日はあなたも遅い授業のない日でしょう」

「大丈夫。夕食前に帰れるよ」

 カールが受けあった。


 「竜、さっきの話だけど…」

 朝食の後、二人で食器を洗いながらエミルが言った。

「スティーブンに訊いてみようと思うんだ。魔法の喪失のこと。もしかして、魔法の喪失に至る前に身体に起こる注意すべき兆候とか、そういうものがあるかもしれないだろう」

 竜は嬉しくて思わず手にしていた布巾を落としそうになった。エミルが前向きに考えてくれている!

「はい!それがわかれば、そういう兆候が現れたら気をつければいいんですもんね」

 エミルが竜の頭を濡れた指の節でこつんとやる。

「違う。そういう兆候が現れたら、気をつけるんじゃなくて、即やめるんだ。それが約束できないんなら、僕は一切手助けしないぞ」

「約束します」

 竜は神妙に頷いた。

「よし」

 と言ってからエミルは苦笑して、

「もっとも、僕ができることなんてほとんど何もないけどな。二つの魔法を同時にやることも、相手を自分の次元に引き込む魔法を作るのも、どっちも経験がないから、僕には教えられない。練習を見てアドバイスすることくらいしかできないけど」

「それで十分です、エミル。ありがとうございます」

 竜は心から言った。エミルは大袈裟にため息をついてみせた。

「まったく…。真にも危険なことをやらせて、竜にも危険なことをやらせて。僕は早川姉弟にとっての危険人物だな」

 竜は笑って首を振った。

「何言ってるんですか。恩人ですよ」


 「おはようエミル。竜君も一緒かい?」

 キッチンの電話のスピーカーからスティーブンの声が流れる。

「おはようスティーブン」

「おはようございます」

「ああ、竜君、おはよう。魔法の方はどうですか?」

「はい、おかげさまで順調です」

「順調どころか、すごい勢いで上達してる」

 エミルが笑って言う。

「で、そのことで相談なんだけど。魔法の喪失のことで」

「…え?魔法の喪失?」

「うん。竜はまだまだもっと難しいことにチャレンジしたいって言ってるんだけど、僕は魔法の喪失のことが心配でね。防ぐにはどうしたらいい?」

「無理な練習をしないことだよ」 

 スティーブンがきっぱりと言う。

「自分の力の限界を超えてしまうようなことをしないことだ。練習はほどほどにして、合間にきちんと休み、十分な食事と休養をとる」

「魔法の喪失が起こる前の兆候みたいなものが何かあるかい?」

「そうだね、それは人それぞれで、例えば頭痛だったり、異常な倦怠感だったり、全身に痛みが出たり。でもほとんど全ての例で共通しているのは失神だね」

「失神…」

 竜は呟いた。

「そう。ぶつぶつの出る湿疹じゃなくて、気を失うほうの失神ですよ」

 スティーブンが念を押す。

「バタンと倒れるようないわゆる失神だけじゃなく、例えば練習中にふっと意識が数秒途切れるとか、そういうのも危険信号です。そういう兆候があったら、すぐにその練習をやめてゆっくり休むこと」

「休んだ後、また同じ練習をしても構いませんか?」

 思わず訊いてしまった竜を、エミルがじろりと睨む。

「いや、やめておいた方がいいと僕は思いますね」

 スピーカーから聞こえるスティーブンの答えに、エミルがそら見ろという顔をした。竜は首を縮める。

「魔法の喪失は、一度起こってしまったらそれっきりですからね。取り返しがつかない。もしそれらしい兆候があったら、その練習はやめた方がいいですよ。それにしても、 魔法の喪失を心配しなきゃいけないなんて、竜君は一体どんな魔法にチャレンジしようとしているんですか?」

「二つの魔法を同時にやりたいんです。それと、相手を自分の次元に引き込む魔法を作りたくて…」

「な、何ですって?」

「健太君の記憶と、もし可能なら脚の魔法も守りたいって言うんだ」

 エミルが補足する。  

「…何と…」

 しばらく絶句した後、スティーブンは言った。

「健太君は幸せですね。いい友達を持って」

 しみじみとした口調に、竜は赤くなって口籠った。

「まだ試してみてもいないので、できるかどうかはわかりませんけど…」

「いやいや、できるかどうかはともかく、そんなことをしてくれようとする友達がいるなんて、幸せなことですよ」

「まだ健太には内緒にしておいてください。できるかわからないですし…」

「わかりました。秘密にしておきましょう」

「健太君の練習の方はどうだい?」

 エミルが訊く。スティーブンのため息が聞こえた。声が低くなる。

「まだ意識のコントロールの最初の方、というより、集中のところでひっかかってる。最初に比べればずいぶんできるようにはなってるけど、正直、滞在中に魔法を始められるとはとても思えないよ」

「そうか…」

 エミルは心配そうな目をして竜をちらりと見た。

「昨日の夜も健太君はやる気満々で始めたんだけど、やっぱり二晩続けての徹夜はかなり辛そうだった。昼間はバスケの練習と試合、夕方に少し寝て、夜は意識の集中の練習っていうんじゃ、きつすぎるよ。頑張ってはいたけど、途中で何度か居眠りしてしまっていたし、前の晩よりも出来は悪かった。まだ続けたいって言うのをようやくなだめて、4時ごろにアメリアさんのとこへ送っていったけど、このままじゃ身体を壊してしまう。今日も9時からバスケの試合だそうだしね」

 スティーブンはまたため息をついた。

「…記憶のことさえなければ、楽しい滞在になっただろうに。かわいそうだ。あんな頑張り屋のいい子なのに」

「そうだね…」

 エミルもため息をついた。

 竜は昨日の朝見た夢を思い出して唇を噛んだ。あれが正夢になってしまうのだろうか。


 これからしばらく眠ると言うスティーブンとの会話を終えた時には、竜はかたく決心していた。絶対に二つの魔法を同時にできるようになって、相手を自分の次元に引き込む魔法も作って、健太の記憶と脚の魔法を守ろう。僕の魔法がこんなに速く上達しているのは、きっと、僕が健太の記憶も守れるようにってことなんだ。だからきっとできる!

「竜。約束したことを忘れるなよ」

 ぎゅうっと拳を握って決心を固めていた竜は、エミルの言葉でいきなり現実に引き戻された。

「え?は、はい」

 エミルは腕組みをして竜を見下ろしていた。

「絶対に健太君の記憶と魔法を守ろう!と思ってるだろう」

 竜は首を縮めた。

「…はい」

「絶対にできる!って思ってるだろう」

「…心を読む魔法っていうのもあるんですか」

「ないよ」

 エミルが笑い出す。

「でも、拳握りしめて、宙を見つめて、そんなふうに冒険物語のヒーローみたいな表情してたら、わかっちゃうよ」

 竜は赤くなって、緩めた拳で額を擦った。冒険物語のヒーローみたいな表情だって。

「気を失ったり、意識が数秒途切れたり、そういうことがあったら、絶対に、即、練習をやめて、二度とやらない。約束しろ」

 エミルの真剣さを痛いほど感じた竜は、姿勢を正して、エミルの目をきちんと見つめ返して、厳かに宣誓した。

「約束します」

「他にもスティーブンが言ってただろう。頭痛とか倦怠感とか全身の痛みとか。そういうのにも注意しろよ」

「はい」

 頷きながら、竜はふと昨日のことを思い出した。…そういえば、昨日車の中で小石を歌わせたときの倦怠感…。あれ、凄かったけど、大丈夫なのかな。それから、初めてレウリスを歌わせようとして失敗した時。あの時も、全身を打ちのめされたような感じがした。

「さて、 じゃあまずは『歌わせる』練習からいくか。どこでやる?」

「果樹園がいいです」

「よし、行こう。ライラも行くか?」

 勝手口のドアから出ていくエミルとライラに続きながら、きっと大丈夫だろう、と竜は思うことにした。あれは昨日のことだし、歌わせる魔法はもうずっと楽にできるようになっているんだし。それに、両方とも、「歌わせる」対象と深く繋がりすぎたから、っていうだけだもの。大丈夫。

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