第6話

 「行くって…今すぐにですか?」

 足早に歩き出したエミルに小走りでついていきながら竜は尋ねた。

「できるだけ早い方がいいだろう。今なら午後のフリア行きの汽車に間に合う。スティーブンには講義が終わった頃に連絡を入れよう」

「はい」

 期待に胸をどきどきさせながら、竜はアメリアさんと健太のことを思った。こんな突然挨拶もせずいなくなって、二人とも気を悪くしないだろうか…。でもどうしても、エミルのお父さんに会いたい。真が使っていたのと同じ魔法を僕にも使わせてもらいたい。向こうとこっちを行き来してもっともっと魔法を学べるように!


 大学の正門を出て少し行くとバス停らしきものがあった。待っている人は誰もいない。

「時刻表ないんですね」

 少し息を切らせながら竜が言うと、

「ローカルだからね。5分おきくらいに来るはずだ」

 腕時計を見ながらエミルが答えた。そして、

「まだちょっと早いな。でもバスの中からじゃやりにくいから、ここでしておくか…」

 と呟くと、

「スティーブン。僕だ。竜を父のところに連れていく。詳しいことは後で連絡する。ちゃんと面倒見るから安心してくれ」

 とメッセージを吹き込むような口調で言うと、竜を見てにこりと笑った。

「これでよし」

「どうなるんですか?」

「スティーブンにだけ見える小さい泡みたいなものが、スティーブンの目の前に現れる。指で触れるとそれが割れて、スティーブンにだけメッセージが聞こえるんだ」

「便利ですね」

「ただしこれは魔法を使える相手じゃないとだめだ。やってみるか」

「はいっ」

「じゃ、意識の空間に戻って。蝋燭のときと同じだ。光の球の中に…そうか、見たことがないんだったな」

 エミルは言葉を切ると、少し考えてから言った。

「竜。エミルだ。真は今でも青いリボンをしているか」

 すると竜の目の前にシャボン玉のような小さな泡が現れた。ピンポン球くらいの大きさだ。

「その泡に指で触れる時に、この中にはメッセージが入っていて、今からそれを聞くんだという意識をしっかり持つ。指で触れる、泡が割れる、その中からメッセージが流れ出す。それをしっかりイメージするんだ」

「はい」

「それができたら、そのイメージを保ったまま、泡に指で触れる」

 竜は一呼吸して、右の人差し指でそっと泡に触れた。泡は音もなく割れ、エミルのメッセージがそこから流れ出した。頭の中に響くというのではなく、エミルが普通にそこにいて普通に喋っているかのように、音がきちんと空気を伝わって耳に届いた。本当に周りの人には聞こえないのだろうかと疑いたくなる。

「聞こえたか」

「はい」

「よし。じゃ、今の泡を、意識の空間の中の光の球の中に思い浮かべて。…そう。で、その中にメッセージを吹き込む。ただ喋るだけじゃだめだ。その泡に僕へのメッセージを託す、という意志をしっかりと持って。吹き込み終わったら、その泡が僕に届くところをはっきりとイメージする」

 竜は薄青い空間の中で、光の球の中に浮かんでいるシャボン玉のような泡をじっと見つめて言った。

「エミル。竜です。真は家にいる時はいつも青いリボンをしています。学校には校則違反になるのでしていっていません」

 エミルは驚いた顔をした。

「校則違反?随分厳しい学校なんだな」

 そして顔のそばに指を上げて何かに触れる動作をした。微笑んで頷く。

「よし。上出来だ。スティーブンにもメッセージを送ってごらん」

「はい。えーと…」

 少し考えてから竜はもう一度光の球の中に泡を思い浮かべ、スティーブンにメッセージを送るのだ、とはっきり心に思って口を開いた。

「スティーブン。竜です。突然予定を変更してしまってごめんなさい。アメリアさんと健太君にも僕が謝っていたと伝えてください」

 メッセージを送り終わるとエミルが訊いた。

「アメリアさんには会ったことがある。ケンタ君って誰だい」

「向こうの世界で知り合ったばかりの友達です。一緒にこっちに来たんです」

「二人一緒に来たのか。珍しいケースだな」

 健太のことをエミルに話しているうちに、明るいオレンジ色のバスが向こうのカーブを曲がって近づいてきた。

「あのバスですか」

「ああ」

 バスは静かに近づいてくる。排気音がないのにまだ慣れないので、なんだか変な気がするなあと思いながら、竜はあることに気づいてため息をついた。

「…そうか。健太君も向こうに帰ったらこの世界のことを忘れてしまうんですね」

「100%確かではないけどね。多分そうなるんじゃないかな」

「せっかく歩けるようになったのに」

「…そうだな」

 エミルもため息をついた。

「でも、覚えていたらいたで、それも辛いかもしれない」

「そうですね…」

 答えながら、でも、と竜は思った。僕が健太君なら、きっと覚えていたいと思うだろう。絶対に。

 

 バスは空いていて、十人ほどの乗客がいるだけだった。エミルが二人分の乗車賃を払う。手元の硬貨を興味深げに覗き込んだ竜に気づいて、エミルがポケットからいくつかの硬貨を掴み出して渡してくれた。銀色の大きな硬貨と中くらいの大きさの硬貨と小さな硬貨、金色の中くらいの大きさの硬貨、銅色の小さな硬貨。

 一番後ろの窓際の座席に座ると、エミルは財布から紙幣も取り出して見せてくれた。淡いブルーの紙幣、淡いグリーンの紙幣、淡い紫の紙幣。硬貨も紙幣も、それぞれに違う花の絵が使われている。竜は金色の硬貨が一番気に入った。他の硬貨に比べて少し分厚く、前に父さんにもらったことのある英国の1ポンド硬貨に少し似た感じだった。スミレに似た花の絵がついていて、反対側には50という数字がついている。

 硬貨や紙幣も興味深かったけれど、竜には他に知りたいことがたくさんあった。この世界のこと、魔法のこと、真のこと。質問したいことが頭の中で押し合いへし合いしている。声を潜めてエミルに訊いた。

「エミル、意識の空間で話す方がいいですか」

「僕の例の研究のことと真の使ってた魔法のこと以外なら普通に話したって構わないけど、でもまあそうだな、意識の空間で話そうか」

 しかしこれはうまくいかなかった。意識の空間で話していても、現実の世界のことは見えるし聞こえるし感じる。竜の注意が、窓から見える景色や聞こえてくる物音や匂いにかなり強く引き寄せられてしまうので、意識の空間での会話がうまく続かないのだ。

 一度など、明らかに魔法を使って宙に浮かび、空中で踊ったりとんぼ返りをしたりしている道化師のような格好をした人(何かの宣伝らしい)に目を奪われた竜は、意識の空間からそれこそまるで落ちるかのようにして実際の世界に戻ってきてしまった。エミルが笑って言った。

「普通に話そう。ここにきてまだ2日目なんだ。珍しいものもいっぱいあるだろ」

 そうして竜は、窓の外の景色を存分に楽しみながら、エミルの話を聞いた。エミルの両親のこと。三人の兄のこと。真が初めてこの世界にきた時のこと。

「最初の夜、母がすごく心配してね。女の子だし、ひどいホームシックになるんじゃないかって。でも真は魔法の練習、といってもあの最初の日はまだ意識のコントロールの練習だったけど、それに夢中で…。父が止めるのも聞かずに練習を続けて、ようやくなだめてベッドにいかせたら、疲れ切ってバタンキューだ。次の日の朝は元気に飛び起きて、朝食をもりもり食べて、また練習。ホームシックどころか」

 エミルは笑って、

「竜と同じように、2日目にはもう意識のコントロールはマスターして、魔法の練習に入ってたよ」

「真の最初の魔法はなんだったんですか?」

 エミルはまた笑って、

「パンだったなあ」

「え?」

「朝食の時にね、僕が、あれこれ見せびらかしてたんだよ。普段はやらないのに、わざと魔法を使ってパンをとったり、果物をとったり。君にはできないだろう、と言わんばかりにね。そうしたら、食べ終わって『ごちそうさま』と言おうとしていた僕のところへ、ロールパンがふわりとやってきて、皿の上に降りた。僕がやったんじゃない。兄たちは自分たちの食事とお喋りに夢中だったし、父は新聞を読みながらコーヒーを飲んでいて、母は父に何か話しかけていた。まさかと思って斜め向かいに座っていた真を見ると、僕にニヤリと笑ってみせた後、すましてミルクを飲んでいる。この子がやったんだ!とびっくりしている僕の皿の上のロールパンに気づいた母が、『まあ呆れた。まだ食べるの?』悔しいから黙って食べたよ。もう腹いっぱいだったけどね」

「朝食の時って、着いた次の日の朝ですか?」

「そう」

「誰にも教わらずに?」

「誰にも教わらずにだ」

 竜は舌を巻いた。さすが真だ。

「そのあとはもうすごいスピードで上達していった。竜と同じで、短い間しかいられないんだから、早くたくさん学ばなくちゃ、って寝る間も惜しんでがむしゃらにやってたよ」

「そうでしょうね」

 容易に想像できる。

「…あ」

 竜の目の前に、透明な泡が現れた。メッセージだ。

「スティーブンからのメッセージみたいです」

 意識を集中し、指で触れる。泡が音もなく割れ、スティーブンの声が聞こえた。

「竜君。スティーブンです。了解しました。エミルは信頼できる人ですから、安心して竜君のことを任せられます。また後で話しましょう」

 メッセージはひそひそ声だった。そういえばスティーブンはまだ講義中のはずだ。竜はスティーブンに申し訳なくて首を縮めた。講義の後でお返事下さい、とつけ加えればよかった。

 エミルもメッセージを受け取ったらしい。指で空中の何かに触れ、じっと耳を澄ませている様子をしていたが、やがて竜を見てにこりとした。

「駅で時間があるはずだから、そこからスティーブンに電話しよう」

「はい。…わあ、すごい塔」

 右前方に、見たこともないほど高い塔が見えてきた。細い細いとんがり帽子のような塔だ。

「あれが駅だよ」

 駅にあんな高い塔が?どんなに大きな駅なんだろう。

 竜の思いが聞こえたように、エミルがくすりと笑って小声で言った。

「なんだってあんな高い塔を駅にくっつけたりするんだろうなあ。ソンダースの人達っていうのはなんていうのか、飾ることが好きだね」


 駅は大して大きな建物ではなかった。塔の高さから見れば、むしろ滑稽なほど小さかった。

「どうしてこんな高い塔を…」

 蜂蜜色をした石で作られたとてつもなく高くて細い塔を見上げ、竜はいったいどうやってこんな塔を作ったんだろうと思った。きっと魔法も使われているに違いない。

「今度スティーブンにこの塔の由来を訊いてみよう」

 竜の隣で、呆れるほど高い塔を見上げながら、エミルが笑った。

「フリア行きは5時発車だ。フリアには7時半ごろ着く。夕食は向こうに着いてから食べるとして、途中で食べるものと飲み物をちょっと買っていこう。それからスティーブンに電話をすれば講義も終わってる頃だからちょうどいい」

 塔の一階はパン屋になっていて、サンドイッチバーもあった。パンはどれも美味しそうで竜は選ぶのに苦労したが、エミルに説明してもらいながらミートパイとカスタードタルトを選んだところで、次のトレイに並んでいるなんだか見慣れたようなパンが目に入った。艶のある丸いパンの上に、胡麻のような黒い粒々がのっている。

「これは…」

「アンパンっていう。中に赤い豆と砂糖でできたペーストが入ってるんだ。おいしいよ」

「やっぱり!日本のパンです」

「そうなのか?」

「はい!」

 竜は勢い込んであんパンのことを話そうとしたが、すぐ近くにいた白髪のおじいさんと目があって口をつぐんだ。おじいさんはにっこりして竜に頷いてみせた。気がつくと、近くにいる人たちはみんなそれとなく竜のことを伺っているようだった。こちらのパンの種類を知らない上に、パンの名前の書いてある札も読めない竜のために、エミルがいちいちパンの説明をしていたのだから、竜が隣の世界からのお客だということは察しがつくのだろう。竜は急になんだか恥ずかしくなって下を向いたが、エミルはくすっと笑って、小さい声で

「気にするな」

と言うと、あんパンを一つトレイに載せてから普通の声で

「竜も食べるか」

と訊いた。

「は、はい」

「よし。次、これは中にくるみとチーズが入ってて…」

 

 パン屋から明るい日差しの輝く外に出て、竜はふうっと息をついた。エミルが笑った。

「視線が気になるか」

「はい、ちょっと…」

「まあ、隣からのお客は、いつだって珍しいことは珍しいからな。こっちの人間の間でも、日本人、というか、アジア人のような外見は珍しいし」

「それは僕も気づきました。ヨーロッパ系の人が多いですよね。どうしてなんでしょう」

「いくつか説があるんだけど、有力なのは、向こうの世界とこっちの世界が元はつながっていて、そのつながっていた場所がヨーロッパ、細かく言えばドイツ、オーストリアあたりだったから、という説だね」

 竜は目を丸くした。

「元はつながっていた?」

「そう。昔は『ドア』がドイツ、オーストリアにしかなかったのが、ヨーロッパの他の国々にもできて、次いでアジアやアフリカ、アメリカやオセアニアにも拡がったんだ、という説もある」

「どっちの説も、とにかく最初はドイツとオーストリアなんですね」

「そうだね。それは残されている向こうの世界からの資料の古さとか多さなんかを比べると、そういう結論になるらしい。あと名前だね」

「なるほど…」

 そういえばエミルだってブリュートナーだ。竜は前に輸入ピアノ店で見たことのある、美しいコンサートグランドピアノのことを思い出した。

「さ、それじゃスティーブンに電話をしよう」

 塔に沿ってぐるっと回って歩いてきた二人は、駅の裏側の綺麗な庭園に入ったところだった。あちこちにベンチや、透明で円筒形をしている部屋のようなものがある。

「駅の中にも電話があるけど、まああんまり人に聞かれたくはないからな」

 エミルはそう言って、木陰にある透明な部屋のドアを開けた。大人が六人くらいは楽に入れるくらいの大きさだ。小さな机が一つと椅子が二つ備え付けてあって、机の上には白いつやつやしたボールのような電話と、メモ帳とペンと電話帳らしきものがのっている。部屋の中にあるものはみんな真っ白で、部屋のガラスも一つの曇りもなくぴかぴかしていた。

 竜は向こうの世界で見かけたことのある公衆電話ボックスを思い出した。一度あの中に入って電話を使ってみたいと思っていたのだ。まあこれは電話ボックスというよりオフィスボックスって感じだけど…と思いながら、電話をかけ始めたエミルの隣の椅子に腰掛ける。

「スティーブン、僕だ」

「エミル。今駅かい?」

 デイヴィッドの声が白いつやつやした電話のスピーカーから聞こえてくる。

「ああ。竜とパン屋に行ってきたところだ。スティーブン、アンパンって向こうの世界からきたパンだって知ってたか?日本のパンだそうだ」

 スティーブンが笑って答える。

「もちろん知ってたさ。交流委員になって長いんだからね。それより、そっちの計画を聞かせて欲しいな」

「5時の汽車でフリアに行く。フリア着は7時半頃。そのあとはまだ未定だ。父次第だな」

「というと、…もしかして例のあれを?カールに頼むつもりかい?」

「ああ」

「君達が行くこと、カールは知ってるの?」

「いや、びっくりさせようと思って」

 スティーブンがため息をついた。

「そうだろうと思ったよ。…エミル、頼むから、よく考えてから行動すると約束してくれ」

 エミルは苦笑したけれど、真面目な口調で言った。

「約束するよ」

「あんまりカールを驚かせちゃだめだよ。もう若くないんだから」

「わかってる」

「竜君はそこにいるのかい?」

「はい、います」

「ああ、竜君!メッセージをありがとう。完璧でしたよ。蝋燭の方はどうなりましたか」

「できるようになりました」

「それはすごい!エミルもカールも、僕など足元にも及ばない優れた魔法の使い手です。しっかり教えてもらってください」

「ご謙遜ですね、ドクター・キーティング」

 エミルが笑う。

「いやいや、本当のことだよ。それから竜君、健太君とアメリアさんのことは心配ありませんよ。ちゃんと竜君のメッセージを伝えておきます」

「ありがとうございます、スティーブン。コールとレイとジーナにもよろしく伝えてください」

「伝えますよ。エミル、カールとマリーによろしく」

「伝えるよ。また向こうでの予定が分かり次第すぐ連絡する」

「待ってるよ。いい旅を」

「ありがとう。それじゃ」


 「例のあれ、って、じゃあスティーブンはエミルのお父さんの魔法のことを知ってるんですか?真が使っていた魔法のことを?」

 駅に向かって歩きながら竜はエミルに訊いた。

「ああ。スティーブンの伯父っていうのが…いや、後で話そう。これは意識の空間で話すほうがいい」

 駅の中に入ってフリア行きの汽車のチケットを買うと、乗車時間までまだ少し時間があった。人がまばらな広いプラットフォームに出てベンチに腰を下ろす。エミルが隣に置いた大き目のグレイのリュックサックを何気なく見やって、竜はふと気がついた。

「エミル、何か用があってソンダースに来たんでしょう?日帰りの予定だったんですか?」

「いや、一泊するつもりだった」

「用事はもう済んだんですか?」

「半分くらいね」

「…すみません。僕のために」

「いいんだよ。気にするな」

 エミルはにっこりして言った。

「こっちの方がずっと大事だ。それより、意識の空間で話そう」

「はい」

 淡いブルーとグリーンの混ざり合った空間で二人は向かい合って座った。

「スティーブンの伯父はマーカスっていって、僕の父が学生だった時の魔法発明学の教授でね。その頃から随分父に目をかけてくれていたらしい。色々と無茶な発明をしていた父が実験事故を起こした時も、退学にならないように庇ってくれたり…。父が卒業して研究者となった後も、そんな関係がずっと続いていた。うちにもよく遊びにきたよ。

 スティーブンは魔法大学に入る少し前に両親を相次いで亡くしてね。マーカスのところで暮らしていたから、うちにもマーカスと一緒に来ていたし、僕も小さい頃よく遊んでもらった。その頃からの付き合いだ」

「そうだったんですか」

「二人とも真に会ったことがあるよ。スティーブンは、あの頃元々両親と暮らしていたソンダースに戻って、医者として働き始めたばかりで忙しくしていたから、そうだな、二、三度くらい。マーカスはもっと会ってる。真の才能に驚嘆していたよ」

「じゃあ、もちろん二人とも真が向こうとこっちを行き来しているのを知っていたわけですね」

「そう。僕の家族以外ではマーカスとスティーブンだけが知っていた。幸い僕達は郊外に住んでいたからね。あの頃は今よりもさらに家がまばらで、近所の目もなかったから、他の人には知られずにすんでた」

「その頃も、向こうとこっちを行き来する魔法の研究は禁止されていたんですか」

「ああ」

「どうして?」

「危険すぎるからさ」

「……」

 やっぱりそんなに危険なことなんだ。竜の背筋がぞくりとした。

「昔から、魔法発明学界の最大のゴールの一つは、向こうの世界との行き来を可能にすることだった。たくさんの試みが行われ、たくさんの研究者が死んだ。これだけの年月を費やしても誰も成功しない。死亡者だけが増えていく。それで、魔法学会がついにこの研究を禁止したんだ。父が魔法大学に入ってすぐのことだった。父は正面切ってその禁止令に反抗した。父だけじゃなく、たくさんの魔法発明学を学ぶ学生たちや研究者たちが反抗した。世界中でちょっとした騒動になったそうだよ。むきになって実験を決行する学生や研究者が続出して、魔法発明学関連の死亡率がその時期上がったそうだ」

 竜は想像してみた。その人たちはきっと小さい頃から、自分はいつか向こうとこっちを行き来する魔法を発明するんだ!と夢見てきたのだろう。それを危ないからなんていう理由でいきなり禁止されたら。僕だって絶対にそんな禁止令に従わない。

「エミルのお父さんは、研究を続けたんですね」

「そう。マーカスが、もちろん非公式にだけど、助けてくれたそうだ。彼自身も向こうの世界との行き来を可能にする研究に生涯を捧げていた研究者だったからね。

 父は大学を最優等で卒業して、魔法発明学の研究者になった。やがて魔法発明学界のトップと言われるようになったけれど、裏では相変わらず禁止されている研究を続けていた。そうして、研究を始めてから約20年後、ようやく、ある発明を完成させた。向こうの世界出身の魔法の使い手が向こうとこっちを行き来することのできる魔法だ」

 エミルは立てた膝の上に頬杖をついてため息をついた。

「なぜ父が、向こうの世界の人間のための魔法を発明したかったのかは、僕は知らない。なぜ、向こうの人だけが使えるように限定したのか…。

 あれは僕が10歳の時だった。ある日、マーカスが夕食に来ていて、食後はいつも通り居間で父とあれこれ発明の話をしていた。二人の話はいつも魔法の発明のことばかりで、興味深くて、もちろん子供だったから全部理解できたわけじゃなかったけど、僕はいつも二人のそばにくっついて一生懸命話を聞いていた。でも二人はよく『じゃ、ここからは書斎で』と言って、僕を置き去りにして書斎に行ってしまうんだ。僕に聞かれたくない話をするんだとわかっていたから、いつもは大人しく置き去りにされていたんだけど、その夜はなぜかどうしても二人の内緒話を聞いてみたいと思った。で、そっと父の書斎に忍び込んで、一部始終を見聞きした」

 エミルは宙を見上げた。

「…あの夜僕が書斎に忍び込まなければ、真があの魔法を使うこともなかった」

「真にとって幸運な出来事だったわけですね」

 竜は、この世界に何度も戻ってきてたくさん魔法を学んだに違いない真のことを、心の底から羨ましいと思っていた。僕も絶対にその魔法を使いたい!

 エミルはそんな竜をちらりと見て、小さく笑った。

「今は、真が無事だったってわかったから、そう言ってもいいけど…。あの夜僕が書斎に忍び込んだりしなければ、あの事故も起こらなくてすんだのにって思って辛かった時期もあったよ。

 あの事故があった時、マーカスは魔法学会長だったんだ。だから、もちろんそんなことをするべきではなかったけれど、事故のことをうまく揉み消してくれた。おかげで僕は今こうしていられるし、父も罰されずにすんだ。ただの実験失敗の事故じゃない。禁止されている魔法によって隣の世界からのお客の消息が分からなくなったんだからね。世間に知られれば大事件だ。魔法学会からの追放だけじゃすまなかっただろう」

 竜は少なからず驚いた。そんなに大変なことだったんだ。

「でも…でも真は無事だったんですから、結局罰される必要なんてなかったわけでしょう。マーカスさんが魔法学会長でよかったですよ。今はどうしていらっしゃるんですか」

「マーカスはもういない」

 エミルはぽつりと言った。

「…そうなんですか。お幾つだったんですか」

「死んだわけじゃない。隣の世界との行き来を可能にする魔法の実験に失敗して『消えた』んだ」

「消えた?」

「この分野の実験ではたまにあることなんだ。死ぬよりは成功に近かったということになる。少なくともこの世界からは出られたわけだからね」

「…そんな」

 竜は思わずぞっとしたが、エミルは淡々と言葉を続けた。

「隣の世界との行き来を可能にする魔法の実験に失敗すれば、大抵結果は、消える、怪我をする、死ぬ、の三つのうちどれかだ」

「大抵?」

「まれに、何も起こらないってことがある。研究者にとっては一番屈辱的な瞬間だろうな」

 一大決心をして、死も覚悟して、これまでの研究の成果である魔法を行う。何も起こらない。確かに格好悪い。自分一人だけでやったならまだいいけれど、他の人も見ていたらものすごく恥ずかしいだろう。でも、と竜は思った。

「でも消えたり死んだりするよりずっといいですよ」

 エミルは笑った。

「まあそうだな。さあ、行こうか」

 汽車が来るのと反対方向に体を向けて座っていた竜は、突然目の前に現れた淡いクリーム色のつやつやした車体にびっくりした。

「いつの間に…。汽車も静かに動くんですね」

 汽車というので、なんとはなしに蒸気機関車のようなものを思い描いていたのだが、丸みを帯びた車体は近未来映画に出てくる電車のようだった。車体がシャープな銀色や真っ白でなく柔らかなクリーム色で、しかも所々に綺麗な花が描かれているのがこの世界に似合っている、と竜はなんとなく温かい気持ちになった。 

 汽車の中はクリーム色の絨毯が敷き詰められていた。真ん中に通路があり、座席が二つずつ左右に並んでいる。座席は、よくある乗り物の座席のようではなく、どっしりとした淡いクリーム色のソファだ。前後の座席との間も広く空いていて、それぞれの座席の前に銀色の小さな丸テーブルが背の高いキノコのように立っている。エミルに促されて窓際の席に座った竜は、遠足の時のようにワクワクした。エミルが、さっき買ったパンとサンドイッチとガラス瓶に入ったよく冷えたミルクをそれぞれのテーブルにのせる。ますます遠足の気分だ。

 しばらくして、汽車はすうっと滑らかに動き出した。なんの振動もないので、まるで窓がスクリーンで、そこに映っている映像が動いているだけなんじゃないかと疑いたくなるほどだ。

 座り心地の良い大きなソファの上でそっと伸び上がって首を回してみると、バスの時とは違って車内は満席に近い。

「結構混んでますね」

 竜はひそひそ声でエミルに言った。車内が静かなので、普通の声で話す気にはなれない。

「いつも大体こんな感じだよ」

 エミルも低い声で答える。

「長距離列車だからね。他に個室や寝台車もついてる。始発から終点までだと1日半くらいだ」

「わあ」

 竜は目を輝かせた。前にオリエントエクスプレスの出てくる本を読んで以来、いつか寝台車に乗ってみたいと思っていたのだ。

「いつか…」

 言いかけて、でももう二度とこの世界に戻ってこれないのかもしれない、という思いが頭をかすめたが、竜は言葉を押し出した。

「いつか乗ってみたいです。始発から終点まで!」

 エミルがにっこりした。

「いいね!今度是非やろう。真も一緒にね」

「真はこの列車に乗ったことないんですか?」

「ないよ。フリアの周辺にしか行ったことなかったんじゃないかな」

 竜はちょっぴり優越感を味わった。真に自慢できることが一つできた。

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