第15話「午後の市民病院」


 翌日の午後二時。水瓶市民病院、そこの八階。南端の病室に鷹取部長は入院しているらしい。私はその部屋の扉の前で、部長のお見舞いに行こうかどうか、まだ悩んでいた。

 きっと部長は「見舞いに来る暇があったら仕事しろ」と言うだろう。そうに違いない。だけど自分の命を護ってもらったことは違えようのない事実だ。それに。

 部長が怪我を負った原因は、間違いなく私の下手打ちにある。


 あの時。偽笹部の人定事項じんていじこうをもっときちんと確認しておけばと、私は唇を噛む。顔写真付きの社員証なんていくらでも偽造できるし、保険証に至っては顔写真がついていない。それを合わせて提示され、その男が笹部賢斗であると誤認したのは完全なミスだ。


 それにヤツは、SNSメッセージも偽装していた。サユリの連絡先を知らない偽笹部は、スマホ二台を使用してサユリとのやり取りを捏造していた。SNSにアップされたサユリの写真をダウンロードし、あたかもそう見えるようにするという用意周到ぶり。


 加えて、偽笹部から例の縫いぐるみを受け取ってしまったことはもう致命的。それの内部にはGPSロガーが埋め込まれていて、結果あの事態を引き起こしてしまった。一歩間違えば、今回の保護対象者であった御影みかげサユリの命も危うかった。

 だから私は部長に合わせる顔がない。どのツラ下げて見舞いに来てんだ、と言われてもおかしくない。


 病室の扉に手が掛けられない。怒られるのが怖い、とかじゃない。純粋に、鷹取部長に申し訳が立たないのだ。

 部長の傷は、かなりの深傷ふかでだったと聞く。何か後遺症でも残ってしまったら、私は部長にどう謝ればいいのだろう。


「……はぁ」


「今度はなんの溜息だ、上沢」


 その声に驚いて振り返ると。そこには果たして鷹取部長がいた。左腕を包帯で巻いている以外はいつもの部長に見える。でもトレードマークみたいな仏頂面は、さらに磨きが掛かっていた。


「……部長、どうしてそこに?」


「電話だ。指定場所でしかできないからな。で、入るのか入らないのかどっちだ? そこに立たれると俺が入れないだろ。邪魔しに来たのか、お前」


「す、すみません部長。そんなつもりじゃないんです」


「まぁいい、入れよ。ここじゃ他の患者の邪魔になるだろ」


 促されて、結局私は病室に足を踏み入れた。白くて無機質な部屋。かすかに消毒液のにおいがする。

 ベッドの近くに置かれていた椅子を勧められ、そこに遠慮しながら腰掛けた。なんていうか居心地が悪い。


「コーヒーでいいか。インスタントしかないが」


「あ、いえ。大丈夫です」


「俺が飲みたいんだよ。一杯も二杯も、作る手間は同じだからな」


 紙コップにインスタントコーヒーの粉を入れ、電気ポットからお湯を注ぐ部長。ふわりとコーヒーの香りが運ばれてきた。それを受け取った私は、話すタイミングを逸してしまう。

 コーヒーを持ったまま無言の時間が続く。でもそれは束の間で。ベッドに腰掛けた部長は、柔らかな口調で沈黙を破った。


「上沢、昨日の報告に来てくれたのか。俺はあの後、ここに搬送されたからな。ことの顛末をよく知らないんだ」


「……その前に部長、謝らせてください。本当にすみませんでした。部長が怪我することになったのは、私が原因です。本当に、本当に……」


「謝るなら、サユリと烏丸からすまさんにだろ。身体は無傷とは言え、心に傷を負わせたのは間違いない。俺のところに来る前に、きちんと謝ったんだろうな?」


「……はい、二人は感謝の言葉をくれました。鷹取部長にもお礼を言ってほしいと」


「そうか。二人がそう言っているならそれでいい。お前は俺に謝る必要はない。あれは俺のミスでもあるからな」


「そんな。鷹取部長に私が必要な報告しなかったから、」


「あの男──、名前は畦野あぜのと言ったか。あいつが本署に来た時、仮に俺が同席していたとしても結果は同じだったかもしれない。顔写真付きの社員証と、そして保険証。ふたつ出されたら俺だって信じていただろう。畦野は本物の笹部ささべ賢斗けんとの同僚だったんだろ?」


「そうです。同僚の彼女に、あいつは横恋慕していたってことです」


 笹部賢斗のフリをしていた、あの男。畦野あぜの寛太かんたは、笹部の同僚だったのだ。表面上仲良くしていた笹部と畦野だったけど、畦野は笹部のことが心底気に入らなかったらしい。

 仕事の実績も笹部が上で、さらには十歳も歳下の可愛い彼女までいた。笹部は全てを持っているのに、自分は何も持っていない。極めて強い劣等感が畦野を支配した。

 そして一度、畦野は笹部を通してサユリに会ったことがあるそうだ。その時から畦野のストーカー行為が始まった。サユリに対する歪んだ愛情が生まれたのだ。


 そして結果は昨日の通り。畦野は鷹取部長に右手を折られ、そして傷害の現行犯として逮捕された。逮捕者は、応援要請を受けて到着した伊川いかわ眞子まこ。私の後輩で、地域二課のエースと呼ばれてる女性だ。

 以上が昨日の顛末。警察官が負傷する結果になったものの一般市民に負傷者はない。警察組織的には最低限の仕事は果たせたというところか。


「畦野の恋は、始まりからおかしかったんだな。ムカつく同僚の彼女が可愛くて、奪いたくなった。でもその行き着いた先は憎悪だった。まぁ、よくある話かもしれない。刃傷沙汰になるのはちょっと珍しいけどな」


 左腕を少し上げて。部長は静かに笑う。痛々しい左腕。私が失敗していなければ防げた怪我だ。

 何針縫ったのだろう。きっと傷跡は残る。自分が刺されればよかったと、心からそう思ってしまう。


「上沢、この傷はお前のミスじゃない。それに見た目ほど重症じゃない、かすり傷だ。大袈裟なんだよ、ここの看護師さんは」


「でも……」


「もう気にするな。畦野は盗んだ笹部の社員証を、自分の顔写真と差し替えたんだろ。公的な身分証でないそれを、俺たちが見抜けるはずがない。それに保険証は顔写真がないとはいえ、笹部の持っていた本物だ。免許証は車の中に置いているとでも言えば、完璧な偽者が完成する。きっと俺でも騙されるだろうな」


「でも鷹取部長なら、畦野から縫いぐるみを預からなかったはずです。あれを預かってしまったから畦野はあの大学に来た。刃物を持って。結果、部長が怪我を負ってしまったんです」


「確かにお前はミスをしたかもしれない。だが俺もミスをした。本署への応援要請に気を取られ、一時警戒を怠った。出足が遅れて、結果怪我を負った。踏み出しがあと半歩早ければ、怪我をしなくて済んだかもしれないしな」


「でもこの結果を招いたのは私の初動ミスです。あれさえ受け取らなければ、こんなことにはならなかったのに」


「あれを受け取ったのは、お前が良かれと思ったからだろ。誰かを思う気持ちは大切なものだ。それを騙して踏み躙ったあの男が全て悪いんだ。ただ今後、一般人から何かを渡されそうになった時は組織に報告して指示を仰げ。そうすればお前がひとりで責任を負わなくて済むからな」


「わかり、ました……」


「わかればいい」


 そう言った部長は、コーヒー啜った。湯気でメガネを少し曇らせながら、ゆっくりと言う。

 サユリにも烏丸さんにも、そしてお前にも怪我がなくてよかったよ、と。


「俺はな、女性を傷つける男がどうしても許せないんだ。そんな男は本気で死ねばいいと思ってるし、あの時もし拳銃を吊っていたら躊躇いなく撃ってただろう。それくらいに許せないんだ。だから誰も傷つけられなくてよかったと、心からそう思う」


「でも部長が怪我を、」


「俺は男だ。男が体力的に女性より優っているのは、女性を護るためだ。傷つけるためじゃない。これはまぁ、古い考え方かもしれないけどな。だから俺は、お前を護れてよかったと思ってるよ」


 いつになく部長が優しい。それに戸惑ってしまう。こんなことなら、いつものように怒られる方が遥かに受け入れやすい。ここまで部長に優しくされたら、私は自分の立つ瀬を失ってしまいそうだ。

 なんて言えばいいのだろう。謝っても謝りきれないし、部長は私の謝罪を受け入れてくれない。無力な自分を、これほどもどかしいと思ったのは久しぶりのことだ。

 私が部長にできることはなんだろう。私は部長にいつも教えてもらってばかりで、ミスをしてもカバーしてくれて。きつく叱ってくれるのは、きっと私が下手を打って死なないためだ。

 この仕事は死と隣り合わせ。今回の件で、私はそれを改めて痛感した。


 ──あぁ、そうか。見つけた。私が部長にできること。いや、今言わなければならないこと。それは普段、ほとんど部長に言ったことのない言葉。

 ありがとうございます。この感謝の言葉だ。


「……あの、部長」


「どうした変な顔して。いや、いつもそんな顔だったな、お前」


「冗談言ってないで、聞いてください。私──」


「鷹取部長ー!」


 出し抜けに病室の扉が勢いよく開いたかと思うと、大きな声を上げながら誰かが入ってきた。ノックもない、本当に突然の出来事。

 瞬く間に私の隣に来たのは眞子まこ。並んだ丸椅子に勢いよく腰掛けて、半ば私に体当たりをかましてきた。ていうか痛い。それに声が大きい。


「鷹取部長、大丈夫ですか? すみません来るのが遅くなって。勤務明けでやっと来れたんです。傷の具合、いかがです?」


「あぁ、伊川か。突然入ってきて誰かと思った。お前、夜勤明けなんじゃないのか。昨日一日、当番だったろ」


「はい、さすがに当番中にお見舞いには来れなくて。遅くなってごめんなさい」


 眞子はそう言いながら、持っていた紙袋を部長に手渡す。某有名パティスリーの名前が書かれた紙袋。お見舞いの品だろうか。そう言えば私、手ぶらだった。


「それ、私の好きなパティスリーのフィナンシェなんです。美味しいです。きっと元気が出ます。なので、もしよかったら」


「ありがとう、後でもらうよ。それと伊川、昨日はありがとな。あの被疑者に手錠を嵌めてくれて助かった。俺たちは丸腰だったからな」


「いえ、私は本当に嵌めただけですよ? だってあの男、私の現着ゲンチャク時にはもう完全に無力化されてましたし。男のクセに泣きじゃくってて、だいぶ引いちゃいましたよ」


「被疑者の容体は?」


「右手の環指かんし小指しょうしの骨折。それよりも重症なのは、心が完璧に折れてたことですかね?」


 クスリと小さく、眞子は笑った。例のキラースマイルで。それを受けた部長も少し笑っている。やりすぎたかな、との言葉と共に。


「相手は骨折か。刃物を落とすためとは言え、少しやり過ぎたかもな。あの状況、さすがに手加減できなかった。処分が来てもおかしくないな」


「でも刃物を奪うために行った適正な職務執行だと、副署長も言ってましたよ。報道機関にも、そう広報してました。相手を制圧したことに関してお咎めはないかと」


 ……部長への処分は、現時点ではなさそう。それがわかってよかった。私に何らかの処分は来るだろうけど、部長にまでそれが来ると本当に申し訳が立たない。

 ほっと胸を撫で下ろすと、隣の眞子が続けた。


「あれ、詩織先輩いたんですか。小さくなりすぎて気が付きませんでした」


「いやいやさっき、思いっきり肩ぶつかったから。それに眞子と私、身長そんなに変わんないから」


「でも今の詩織先輩、めちゃくちゃ小さく見えますよ? そうだなぁ、ポメラニアンくらいかな?」


 クスクスと眞子は笑う。というか邪魔しないでほしい。部長にお礼を言いたかったのに、完全に出鼻を挫かれてしまう。


「でもほんと、詩織先輩も無事でよかったです。鷹取部長が居なかったら今頃、二階級特進してたかもですよ。上沢警部補にならなくてよかったですね!」


「それはその通りなんだけど」


「ようし! それじゃあ今度、お祝いしましょう!」


「お祝い? 何の?」


「詩織先輩の生還祝いと、鷹取部長の署長褒賞祝いですよ! 今朝、警務課けいむか桜井さくらい係長が言ってました。鷹取部長に、たぶん褒賞が出ると思うって」


「……いや、そんなもん出されても困るぞ。昨日の署長指示、聞いたか? 受傷事故防止の徹底だぞ。思い切り指示違反してるじゃないか」


「細かいことはいいんですよ。今度、三人で飲みましょう! 私、お店とかの段取りしますね!」


 にこやかに笑う眞子。そして苦笑いの部長。きっと眞子は、私を元気づけようとしてくれている。交番勤務時代、ずっとコンビだったからわかるのだ。


 ──でも。今は眞子の気遣いも、そして部長の優しい言葉も。私には痛い。自分が本当にダメなヤツだと痛感してしまうから。


 今回の事件は解決した。だけど私は、これからどこに向かえばいいのかわからない。

 これはいわゆる、迷宮入りってヤツに違いなさそうだ。





【第二部 『愛憎の行方』 終】


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る