第14話「兇刃」


 サユリは昨日も笹部さんと一緒に居た? どういうこと? 私が笹部さんから相談を受けたのは今日の午前中だ。だったらなぜ笹部さんは、サユリと会った翌日に行方不明の相談に来たのか……?

 理解が追いつかない。状況も飲み込めない。私がこんな状態なのだから、当のサユリはもっと混乱しているだろう。


 ええと何を聞けば。いやまずは落ち着くのが先決か。深呼吸しようとすると、それに先んじて鷹取部長がサユリに問うた。とても落ち着いた声色で。


「御影さん、笹部さんはどんな人ですか。例えば冗談で、警察にあなたの行方不明の届出をするような人ですか?」


「いいえ、賢斗はそんな人じゃありません。賢斗は大人……というか私よりも十歳、歳上で。一年前から付き合ってるんですけど、本当に真面目で優しい人で。きちんとした会社に勤めてますし、自慢の彼氏なんです。だから賢斗がそんなことするなんて、考えられません」


「交際は解消していないのですか」


「もちろんです。昨日も私が泊まってる友達の家に来てくれて、差し入れをしてくれました」


「差し入れ?」


「色々あって、今は自分の家には帰れてないんです。だから生活用品や食事の差し入れを。友達の家に泊めてもらった方がいいって言ってくれたのも賢斗なんです」


「単刀直入に訊きますが、そのというのは」


「……実は。一ヶ月くらい前から、嫌がらせを受けてるんです。それがだんだんエスカレートしてきて。それで避難するために、友達の家に泊まってるんです」


 サユリの表情が曇る。思い出したくもない、と顔が語っている。私は刑事ではないし、取り調べの経験も少ししか経験していない。でもサユリが纏う雰囲気は嘘をついていない人間のそれ。私にもわかるくらい切実なものだ。


「最初は些細なことだったんです。自宅のポストに怪文書というか……、『いつも見てるよ』って、パソコンで打ち出したようなものが封筒に入ってて。気持ちが悪いのでそれはすぐに捨てたんです。そしたら数日後、また手紙が届いて」


「それには何て書いてあったんですか?」


 私の問いに、サユリは顔を顰める。寒いのか気持ちが悪いのか。自分を抱くようにして答えた。


「……また同じ文章の手紙と一緒に、隠し撮りをしたような私の写真が。バイト先で撮られたような写真でした」


「警察に相談は?」


「……していません。事件にはなってないですから、対応してもらえないと思って。それに放っておけばなんとかなるかな、って最初は思ってたんです。賢斗はすぐにでも警察に行くようにって言ってたんですけどね」


 警察は、事件にならないと動かない。それは半分正解で、半分間違っていることだ。どんな相談であれ私たちは対応する。でも四六時中、相談者を護ることはできない。だから事案の軽重によってその対応を変えるしかない。それが警察組織の限界なのだ。


「でもそれからしばらくして。私の家の玄関の鍵穴が、こじられたように傷ついていたことがあって。その時は扉の前に、私の好きなキャラクタの縫いぐるみが置かれていたんです。東京ディスティニーリゾートの。さすがに怖くなってそれも捨てて、友達の家に身を寄せたんです。それが二週間前のことです」


 ……クマの縫いぐるみ。はっとして、自分のカバンを開いた。そこにいたのは、あどけない顔で私を見上げるクマの縫いぐるみ。笹部さんから手紙と共に預かったものだ。


「あの、このキャラクタですか? クマのクーさんの?」


「あ、それと全く同じものです。ディスティニーシー二十周年を記念した、限定品のクーさん。上沢さんもお好きなんですか?」


 ──どういうことだろう。これは何を意味するのだろう。笹部さんはサユリの彼氏。だから好きなものを知っていて不思議はない。サユリに嫌がらせをする理由もないし、むしろ警察に相談に行くように強く説諭していたのは笹部さんだ。

 それじゃあ何故、私にこの縫いぐるみと手紙を託したのか。一体どうして……?


「上沢、状況を説明しろ。その縫いぐるみ、お前個人のものか? 偶然同じものを持っていたのか?」


「いえ、これは笹部さんから預かったものです。行方不明の相談を受けた時、彼女を見つけたらこれと手紙を渡してほしいと、」


「──まずいな。それはまずい」


 鷹取部長は怖い顔でそう言うと、隣に控えていた烏丸さんに「さっきの部屋をお借りしてもいいですか」と問う。気圧されるように烏丸さんが頷くと、部長はポケットからスマホを抜いた。名谷部長に報告をするのだろうか。耳に電話を当てながら、部長は私に指示を飛ばす。


「上沢、さっきの部屋に戻るぞ。周囲を警戒して対象を護れ」


「え? 護る?」


「動け、上沢! 最悪の事態を想定しろ。今、本署に連絡して地域課の応援を要請している。それまで二人で護るしかないぞ」


 何がどうなっているのか。とにかく言われた通り、私は周囲を警戒する。でも警戒って、何からサユリを護るというのだろう?

 ぐるりと辺りを見渡し、そのままゆっくりと正門の方へ視線を向けた、その瞬間。と視線がぶつかった。



 ──どうして。

 どうしてここに、


 その距離、約十メートル。笹部さんは薄く笑い、手に持っていた紙袋から何かを取り出した。

 太陽光を反射させる、細長い銀色のそれ。鋭く尖った抜き身の柳刃包丁。その刃渡りは冗談のように長い。

 紙袋を捨て、ゆらりと姿勢を前傾に。刃を構えた彼は、私たちの方へと歩み始めた。


 異常を認めた烏丸さんが叫ぶ。サユリも声にならない悲鳴を上げる。どうして、と考えるのを私はやめた。それは後回しでいい。

 まるで射撃シミュレータのような状況。違うのは拳銃を吊っていないことだ。私たち防犯係の人間は、普段から拳銃を携帯しているはずがない。


 相手の歩みが駆け足に変わる。距離が近づく。こっちは丸腰、警棒すらない。こうなればもう、自分の身を盾に刃を止めるしかない。


 瞬間、鷹取部長の言葉が思い出される。カルネアデスの板。警察官に緊急避難は認められない──。

 私が逃げ出せば後ろにいるサユリが、あるいは無関係の烏丸さんまで傷つく可能性がある。それだけは避けなければ。それだけは絶対に。


 覚悟を決める。大きく両手を広げる。

 来い。私がそれを止めて──。



 衝撃は思ったより軽いものだった。間抜けにも目を閉じてしまった私は、後ろに押されるようにして尻餅をついてしまう。頬に飛んで来たのは鮮血。刺された。きっと胸だ。

 せめて相手から包丁を奪わなければ。目を開けて自分の胸部を見る前に、飛び込んで来たのは見慣れた背中。


「──部長!」


 鷹取部長の背中を見て、庇われたのが自分だと即座に理解する。部長の左腕から血が流れる。部長が叫ぶ。


「上沢、二人を連れて下がれ!」


「部長、血が!」


「下がれッ!」


 後退りをしながら、自分を盾にサユリと烏丸さんを護る。大学の正門前広場は異常事態に騒然となる。血に濡れた包丁を突き出して部長と対峙しているのは、間違いなくあの笹部さんだ。


「笹部さん、どうしてこんなことを!」


「……!」


 後ろからサユリの叫びが聞こえた。笹部賢斗ではない? 彼女であるサユリが言っているのだ、きっと間違いない。それじゃあ彼は──、一体誰なのか。

 その彼はまたうっすらと笑い、そして大きな声で言った。


「サユリちゃん、探したよぉ。大学に来てるんなら言ってよね。ここ二週間、家に帰ってなかったろ? ずっと探してたのに。いつも見てたのに。家に帰ってこないなんて、酷いよなぁ」


「あ、あなた誰なの……?」


「憶えてないか。一度、直接会ってるんだけどなぁ。悲しいよ、僕は悲しい。でも僕が誰かなんて今、関係あるかなぁ? それよりもさ、からプロポーズを受けたんだって? キミを一生護りたい、ってさぁ。で、キミはそれを受けたんだって? 大学を卒業して自分が就職したら、って?」


「どうして、それを……」


「アイツに聞いたからだよ。嬉しそうに僕に言いやがって、アイツ……! でももういいんだ。キミが人のものになるんだったら、誰にも手に入れられないようにする。そう決めた。アイツの悲しむ姿を想像したらさぁ、まったく笑えてくるよねぇ?」


 最悪だ。理解した。どうして私は気づかなかったのか。彼が警察に来た理由も。身分証として社員証と保険証を提示した理由も。そして手紙とクマの縫いぐるみを私に託した理由も。全部そうだ。全部このためだ。

 

 ──あれは笹部賢斗を騙る偽者。サユリを苦しめていたストーカー。

 友達の家に避難したサユリの居場所がわからなくなったから、ヤツは私たち警察を騙して利用したのだ。この悪魔をここに連れて来てしまったのは、他でもないこの私。

 きっとあの縫いぐるみの中には、GPS発信機が埋め込まれている。だからヤツはここに辿り着いたのだ。


「大丈夫だよサユリちゃん。苦しいのは一瞬だ。僕は優しいからね、キミを無駄に苦しめたりはしない。キミが好きだから。キミを愛しているから。だから僕が、優しくキミを殺してあげるね?」


「やめて、もうやめて……」


「そりゃ僕だってやめたいよ。僕を選んでくれてたら、キミを殺そうとは思わなかったさ。でもキミはを選んだ。会社でいつも僕のことを下に見てるアイツを。アイツは、笹部は! 最低な男だ! 許さない。許されないよサユリちゃん。キミが姿を消して、僕は焦った。焦ったんだ。笹部がキミにプロポーズをしたって聞かされて。そしてキミは姿を消した。このままだとキミは不幸になる。止めないと。殺してあげないと。そう思った」


「もうやめて! お願いだから!」


「やめない。僕は涙を飲む覚悟ができている。だから僕は笹部の社員証と保険証を盗んで、アイツのフリをして警察に行った。警察はバカだからねぇ、ロクに確認もしないままキミの元へ案内してくれたよ。クマの縫いぐるみに仕込んだGPSが──」


「おい、」


 偽笹部の言葉を遮ったのは鷹取部長の短い声。そして部長はふわりと、ヤツに何かを放り投げた。

 緩やかな放物線を描くそれに視線が吸い込まれる。あれは何だろう、車のキー? と思ったのも束の間。素早く一歩を踏み出した部長は、ヤツのどてっ腹に鋭い前蹴りを入れていた。

 くの字に折れる身体。思わぬ一撃を食らい、後方へと倒れ込む偽笹部。そして部長は、ヤツの右手を躊躇なく踏みつけた。

 痛みに叫ぶ声をまるっきり無視して、部長はまたも右手を踏みつける。そして手から落ちた刃物を蹴り飛ばし、続けたのは三度目の踏みつけ。また右手。ヤツの右手はきっともう、折れている。


「……さっきから聞いてりゃ好き勝手ベラベラベラベラ喋りやがって。うるせぇんだよクソ野郎。右手、握れなくしてやろうか? 左手もいっとくか?」


 無慈悲に部長は、自身の右足を大きく上げた。反射的に叫びを上げて、ヤツは左手を庇って身体を丸める。完全に心を折られている。


「古典的な手に引っかかるとは救いようのねぇ間抜けだな。まぁ、お前を救う気なんかさらさらねぇけどよ」


「う、うぅあ……! 痛いっ、手が、手が折れてる!」


「苦しむフリしてんじゃねぇぞ。お前より彼女の方がよっぽど苦しんでんだ。女に手を上げるヤツは最低だ。最悪のクズ野郎だ。てめぇ絶対に許さねぇからな。二度とモノ握れねぇくらい、骨バキバキに折ってやるから覚悟して震えてろ。聞いてんのか、おい」


 こっちが怖くなるほどの冷たい声は、凍てつくような絶対零度。部長が部長でないと感じるほど、それはまるで別人の姿。

 だらりとした部長の左手からは、まだ血が流れ続けている。


 部長に見下ろされている偽笹部は、丸くなったまま動かない。動けるはずがない。

 だって、部長の纏う雰囲気に気圧されて。私までぴくりとも動けないのだから。




【続】

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