第13話「カルネアデスの板」


「──サユリの位置探査照会の件、キャリアにはやっぱり蹴られたそうだ。名谷部長から電話があった。緊急避難に該当するとは言えないらしい」


 通された学生課の応接室に、鷹取部長の声が響いた。同じ「室」という名前がついてはいるものの、ウチの相談室より随分と広い部屋で、調度品まで豪華だった。机はピカピカだし、ソファだってふかふかである。

 サユリからの折り返しがあった時のために、私たちはその応接室に案内されている。

 サユリのスマホに二回の架電をしてから十五分が経つ。でも未だに折り返しはない。ここまで来ると、事件事故に巻き込まれている可能性を否定する方が難しくなってくる。


 応接室のソファに、私は埋まるように腰掛けていた。ほんとにふかふかで気持ちいい。ウチの相談室とは名ばかりの「取調室」と比べたのは、やっぱり烏滸がましい行為だった。

 たまにだけど、部屋が足りなくて被疑者を相談室に入れて取調べもすることもある。警察組織はどこも貧乏なのだ。


「おい。聞いてるのか、上沢」


「聞いてますよ、もちろん。位置探査はできないってキャリアからの回答ですよね。やっぱり緊急避難には該当しない、かぁ」


「どんな行方不明事案でも緊急避難に該当するなら、通信の秘密もへったくれもない。ここは仕方ないところだ」


「警察は特例で、とか認めてもらえないですかね。緊急避難」


「認められてるだろ、緊急避難に関する警察官の特例」


「え、そんなのあるんですか?」


 思わず私がそう問うと、部長は「そんなことも知らずに警察学校を卒業したのか」と呆れ顔。でも部長は、溜息と共に教えてくれた。


「刑法第三十七条第二項。前項の規定──、つまり緊急避難については『業務上特別の義務がある者には適用しない』と明記されてある。平たく言えば、警察官に緊急避難は認められないってことだ。どうだ、特例だろ」


「いやいや、特例ってそれ……」


 それはプラスではなく、マイナスの特例だ。一般の人に認められる権利が、当たり前のように警察官には認められない現実。警察官って「職業」と言うより、もはや「生き方」な気がする。


「カルネアデスの板って話、警察学校で聞いたことくらいはあるだろ。難破した船に二人の乗組員。荒れ狂う海に投げ出されたそいつらは、一枚の板切れにしがみつこうとする。だが、その板切れは二人が掴まると沈む頼りないものだ。つまり助かるのは片方だけ」


「今、思い出しました。その場合、もう一人を蹴落として死なせたとしても罪には問われない……ですよね」


「相手を蹴落としたのが一般市民だったらな。だが俺たち警察官には適用されない。自分の命と他人の命。そのどちらか一方しか救えない状況になったら、他人の命を優先しなければならない。それが警察官の仕事だ」


「……そんな状況にならないことを祈るしかないですよね」


「祈るな、そうならないように立ち回れ。一般市民の命も自分の命も、どちらも護る。それがいい警察官の条件だからな」


 いつか来るかもしれないその時。自分の命を投げ打つ覚悟を強いられるその瞬間。もし本当にそれが来たら、私は対応できるだろうか。誰かの命を護るため、自分を犠牲にできるだろうか。

 でも確かに、部長の言うとおりだ。その日が来ないことを祈るより、そうならないように準備して立ち回る方が大切。その日が来てしまった時点で、私たちの負けなのかもしれない。



 しばらく虚空を眺めていると、壁に設置された時計が目に入った。時刻は午後一時よりも少し前。そう言えばお昼を食べてなかった。お腹空いたなぁ……なんて思っていると、応接室の扉がノックされた。

 入ってきたのはさっきの烏丸からすまさん。両手にお盆を抱えて、扉を開けにくそうにしている。私が席を立つ前に、鷹取部長が扉を支えていた。私に向けたことのないような笑顔で、大丈夫ですかと問いながら。


「あ、すみません。お茶もお出ししていなくて。コーヒーをお持ちしましたので、もしよろしければ」


「いえ、お気遣いは無用です。こちらが無理を言っていますので。部屋も用意していただいて、ありがとうございます」


「そんな、こちらこそ無理を言っていますので。もし御影みかげさんから電話の折り返しがあった場合、私たちだけでは対応できないと思います。申し訳ないのですが、こちらとしては警察の方にもう少し居ていただければ、と」


 烏丸さんは、机の上にコーヒーを置いてくれた。お茶受けのクッキーまである。嬉しい。後で糖分を補給させてもらおう。


「なにかあれば、その電話で受付にお掛けください。それと御影さんから折り返しがあった場合、そこに転送する手筈になっていますので」


 烏丸さんがコーヒーの横に置かれている電話を示したその瞬間。着信音が鳴った。まさに狙い澄ましたタイミング。


「あぁ、これはきっと私の上司からだと思います。ここに来る前、上司から所用で電話を掛けるからと言われていましたので。少しだけ、お待ちくださいね」


 烏丸です、と電話に出た彼女は、少し間を置いてからその表情を変えた。眉根を寄せて発言する。


「──あれ、御影さん?」


 烏丸さんの声が上擦る。受付との引き継ぎが上手く行ってなかったのだろうか。推察するに、御影サユリから今まさに電話が掛かってきているようだ。受付担当はサユリの名前を聞いて、直接繋いだのかもしれない。

 部長はすぐさま烏丸さんに近づき、懐から取り出したメモに何かを書きつける。『スピーカーに』と書かれたそれを見て、烏丸さんはそのボタンを押した。


「あ、その声は烏丸さん? 御影です。大学から電話を貰ってたみたいで。着信に気づかなくて、ごめんなさい」


「……あ、こちらこそごめんなさい御影さん。ええと、ちょっと、聞きたいことがあって。それで電話をしていたんです」


 部長が続いて書いたのは『本人だと思いますか?』の文字。こくこくと頷きながら、烏丸さんは困ったような顔を見せる。そう言えば、さっき京極きょうごくさんが言っていた。烏丸さんは学生が運営するサークル管理の仕事をしていて、件のサユリとも面識があるのだと。

 本人からの電話で間違いないだろう。とにかく、どこかで電話を代わらなければ。でも烏丸さんが話している以上、彼女から水を向けてもらう必要がある。どうしようか考えているうちにサユリが発言する。


「烏丸さん、聞きたいことってもしかして、サークル関係のことですか? 私もちょうど、烏丸さんに聞きたいことがあったんです。今から学生課に行ってもいいです?」


「え? 御影さん、大学に来ているの?」


「いえ、でもすぐ近くなんです。サークル運営の関係で今日はどうしても来なくちゃいけなくて。あと五分ほどで正門に着くくらいです」


「あ、そうなんですか。それじゃあ──、えと、ちょっと待って下さいね」


 まさかサユリが大学の近くに来ているとは。行方不明でも何でもない。ただ単に連絡が取れなくなっていた、ってことなのか?

 となると、笹部さんが言っていた「新しい男」は本当に存在するのかもしれない。サユリは笹部さんと別れ、単純に連絡を取るのが嫌になった──、ということならそれでいい。笹部さんには申し訳ないけれど、こちらとしてはサユリの無事を確認できればいいのだから。


 しかし、サユリの無事の確認は本人を目視して初めて完了する。胸を撫で下ろすのはそれからでも遅くはない。

 部長はメモに『正門まで迎えに行くと答えてください』と書き殴り、烏丸さんはそれに応じてくれた。かくして、サユリとの約束は取り付けられたのである。

 電話を置いた烏丸さんは、深く息を吐き出した。きっと緊張したのだろう。なんてことない会話なのに、必要以上に脅かしたのは私たちのせいだ。


「──烏丸さん、無理を言いました。ご協力に感謝します」


「はぁ、とても緊張しました。私、受け答えがおかしくなかったですか?」


「問題ありません。それと申し訳ないのですが、正門までご同行願えますか。私たちは御影さんと面識がありませんので」


「お任せください、すぐに行きましょう。あ、でも上司に連絡だけ入れてもいいですか?」


「もちろんです。正門というのは、東側でいいんですか?」


「そうです、東側が正門です。車の出入口とは別なんです。少しだけお待ちくださいね」


 そう言って、受話器を上げる烏丸さん。鷹取部長は私に「準備しろ」と短く言った。もとよりそのつもりだ。私は机に出していた関係書類を纏め、応接室を出ようとする鷹取部長の後を追った。



   ────────────



「あ、あの子です。黄色いコートを着た女性です」


 正門に着いてから、五分と経たずして。件の御影サユリが現れた。遠目に見ても、事件事故に巻き込まれているという雰囲気は感じない。どこにでもいるようなと言えば語弊があるかもしれないけれど、明るい髪色をした可愛らしい大学生だ。

 サユリは烏丸さんを認めると手を振った。その顔は朗らか。小走りをするように、私たちの位置まで近づいてくる。


「烏丸さん、どうして迎えに来てくれたんです? 学生課まですぐそこなのに」


「ええと、それは……」


 ちらりと私たちに視線を投げる烏丸さん。それを受けて、サユリも少し不思議そうな顔をする。無理もない話だ。

 明らかに大学職員とは違う雰囲気の私たちが傍に控えているのだから。烏丸さんは気を利かせて、私たちのことをサユリに説明する。


「御影さん、驚かないでくださいね。こちら水瓶署の警察の方です。御影さんに訊きたいことがあるそうで……」


「警察の人? なんで私に?」


 よし、私の番だ。とにかくサユリを安心させないと。事案にあらずならそれでいい。というかそれが一番いい。私は警察手帳を提示して、サユリに向き直った。


「──驚かせてしまってすみません。御影サユリさん、で間違いありませんね? 私は水瓶署生活安全課防犯係の上沢で、こちらは私の上司の鷹取です。今日は御影さんに、伺いたいことがあって参りました」


「ほんとに警察の人なんだ。久しぶりに見ました、警察手帳。やっぱりカッコいいですね。それで警察の人がなんの用事です?」


 鷹取部長の示す警察手帳をまじまじと見るサユリ。私は隙を与えないように言葉を続ける。


「御影さん。私たちがここに来たのは、あなたが二週間前から行方不明状態にあるかもしれない、との情報を得たからなんです」


「二週間前から? 私は別に行方不明になんてなってないですけど……。親とも三日前くらいに連絡したばかりだし、授業もきちんと受けてますよ。最近はオンライン授業ばかりで、確かに大学には来てなかったけど」


「生活拠点を移されたりは? 長い間、ご自宅に戻られていないようですが」


 途端に「あぁ!」と納得した表情をするサユリ。もしかして、と前置きをして彼女は続ける。


「ちょっと色々あって、ここ二週間ほど大学近くの友達の家で寝泊まりしてたんです。パソコンを持ち込んでるから、オンライン授業は問題なく受けられるんですけどね。もしかしてアパートの大家さんが心配してたり? でもお家賃はきちんと支払ってるんだけどなぁ」


 、というのが気になるところ。状況からしてサユリは、おそらく笹部さんにだけ連絡を取っていない。それが示す理由はきっとひとつ。

 予想どおり笹部さんとの交際は解消し、サユリには新しい男がいるに違いない。そうだとすると、笹部さんへの連絡は難しいものとなるだろう。


「あの、私が行方不明になってるって誰が言ってたんです? やっぱり大家さん?」


 鷹取部長をちらりと見ると、部長は小さく頷いた。これは言ってもいい、というサインだ。


「……笹部ささべ賢斗けんとさん、という方をご存知ですね?」


「え? まさか賢斗が?」


「はい。今日の午前中、笹部さんから相談を受けたんです。御影さんと二週間前から連絡が取れなくなったと。心当たりはありませんか?」


「どうして……?」


 それはこちらが聞きたいことだ。どうして笹部さんと別れたのか。確かに歳上だとは言え、誠実そうな人なのに。やっぱり同世代の方がいいのだろうか。交際相手をころころ変える人の考えは、私には理解できない。


 サユリは驚いた顔のまま、絞るように言葉を出す。

 でもそれは、私の方が驚いてしまう一言。



「……どうして。だって私、昨日も賢斗と一緒に居たのに」




【続】

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