愛憎の行方

第9話「不穏な予感」


「──なんでポリが来てんだ! 帰れテメェら!」


 深夜、幹線道路からほど離れた閑静な住宅街。現在地はとあるアパートの玄関口。

 開け放たれたドアから半身を乗り出しているのは、明らかに興奮した、四十代前後と思われる大柄な男。酒に酔っているのかそれとも薬物か。男はこちらの声をまるっきり無視して喚き続けている。


「帰れポリども! 今すぐ帰れッ!」


「少し落ち着いて、話を聞くから!」


 私は大きく叫ぶが、相手の耳には届かない。というよりきっと、聞く意思がないのだろう。自分の言いたいことだけを言っているところを見ると、まるで子供だ。きっと身体だけが成長してしまったのだろう。


「だからよォ、オレぁやってねぇんだよ! 誰も呼んでねぇ! 帰れクソポリが!」


 喚く男の後ろ、つまりアパートの部屋の中。そこから聞こえるのは女性の悲鳴。助けてと呼ぶ声は、男の怒声に掻き消されそうだった。

 この位置からでは部屋の中はおろか、男の右半身さえ見えない。迂闊には近づけない。刺激して男が激昂すれば、部屋の中の女性に危害が加わる可能性は高い。


「帰れクソポリ! オレぁ何もしてねぇんだ! 誰が呼んだか知らねぇが、今すぐに帰れ!」


「中から女性の声が聞こえる。その人と話をさせて」


「うるせーっ! オレは何も知らねぇつってんだろ! お前もいい加減黙れ!」


 男は視線を部屋の中に。睨まれたであろう女性は、悲痛な金切り声を上げた。事態は切迫している。何か手を打たないと女性の身が危ない。


「テメェら、オレをパクる気だな!? そうなんだな! この女がタレコミ入れたんだろ!?」


「落ち着いて!」


「オレぁやってねぇ!」


 男はゆらりと部屋の中から外に出てきた。右手には大振りなサバイバルナイフ。鋭い刃が、蛍光灯の光を反射させて鈍く煌めく。

 これはまずい。非常にまずい。こっちに向かってくるのか、それとも中の女性に向かうのか。どちらにせよ緊急事態、私は無線をエマージェンシーモードに切り替える。


「至急至急! 揉め事通報対応中、対象の男が刃物を取り出した! 至急応援──」


「うおおおお!」


 それは一瞬だった。無線で応援を呼ぼうとしたところ、男に一気に距離を詰められる。

 無線に伸ばしていた手を、すぐさま腰に吊っていた拳銃の方へ向ける。しかし鋭い切先が私の眼前に迫る。

 ホルスターから何とか拳銃を引き抜き、構えると同時に発砲。二連射。

 しかし私の放った弾丸は、二発ともあらぬ方向へと着弾した。一発目は地面に、そして二発目は男の右斜め後方に。どちらも効果なし、そして。


 ──ざくりとした音と共に、目の前が赤くなった。あぁこれは、これは。


 刺されてしまった、ということだ……。




   ────────────




「……はい、想定終了ー」


 『訓練実施責任者』と書かれた腕章をつけた名谷なたに部長が、手をぱんぱんと叩きながら近づいてきた。リモコンを操作して、スクリーンに映し出されていたを一時停止させる。

 ここは水瓶署の五階、道場。十二月中旬の道場は寒い。暖房器具もない中で、今は道場中央に設置された「映像射撃シミュレータ」での訓練中、と言うわけだ。

 名谷部長はいじわるだ。絶対に難しい想定で当ててくると思っていた。その証拠に、私より前に実施していた他課の訓練者は、比較的簡単な想定だった。なんて意地の悪い人。ていうか、名谷部長が拳銃訓練実施責任者の資格を持っていることがまず驚きなのだけど。


上沢かみさわぁ、刃物を認めたら無線より先に拳銃の取り出し、だろ? 一歩の遅れが今みたいに致命的な結果を生むんだぜ。お前、殉職な」


「すみません……」


「謝るなら市民に謝れ。お前が死ぬとどうなる?」


「二階級特進です」


「おうそうだな、退職金が増えてラッキー! ってそうじゃねぇ。もっと大事なことがあんだろ? はい、わかるひとー?」


 一緒に訓練を受けていた約二十名の中で、手を挙げたのは私の二年下の後輩。私が防犯係に入るまで一緒の交番に詰めていた地域課の巡査長、伊川いかわ眞子まこだった。


「ほい、それじゃあ地域二課の伊川、どうぞ」


詩織しおり先輩が死ねば、先輩の拳銃を被疑者に奪われます。二発撃っていたので、弾倉にはまだ三発残っている。拳銃奪取事案は絶対にあってはならないことです。それこそ、たとえ死んでしまっても防がなければなりません」


「完璧な回答だな。さすが地域二課のエース! 伊川に拍手を!」


 地域課その他内勤を含め、拍手が鳴る。普通は訓練員に向けられるものだけど、私は殉職だ。とても褒められたものではない。


「伊川の言うとおり、拳銃奪取事案はあってはならないことだ。せめて相打ち。死ぬにしても相手を無力化するか、あるいは全弾発射して弾倉をカラにしておかねーとな。残った弾の数だけ市民が危険に晒される。わかったか、上沢?」


「……はい、肝に銘じます」


 あぁ、また失敗だ。溜息が漏れる。これは訓練だったからいいけれど、実際の現場なら本当に死んでいてもおかしくない。

 正直言って、警察官がナイフで刺される殉職事案なんて稀にしか起こらない。でも、発生は稀だけど実際に起こっている事件だ。舐めてかかってはいけない。

 半年に一度の訓練でも、きちんとやらなければならない。それも警察官の大事な仕事である。


「はい次。地域課は……もう終わったから、もう一度内勤で行こうか。それじゃ上沢の上司である鷹取たかとり部長!」


「了解」


 呼ばれた鷹取部長は、スクリーンの前に立つと拳銃を取り出し、弾倉をあらためた。「実包じっぽうなし」と確認し、特殊なレーザーを発射する訓練弾を装填する。そして慣れた手つきで拳銃をホルスターに収めた。

 鷹取部長に貸与されている拳銃は、スミス&ウエッソンのエアウェイト。軽いけど扱いが難しいとされているリボルバーだ。


「……そんじゃ、想定開始!」


 そこからは、圧巻の鷹取劇場だった。想定内容はおそらく最高難度。二人組の拳銃所持被疑者と対峙する想定だ。

 不審な車両に乗る二人組に職質したところ、二人は車を降りてくるや否や、こちらに向かって拳銃のものを構えてくる。

 それが実銃なのかエアガンなのか、撃たれてみるまでわからない。ここが想定の難しいところ。

 しかし鷹取部長は瞬時に拳銃を抜くと、躊躇う間もなく発砲した。片膝をついて、息をつかせぬ二連の膝射しっしゃ。放たれた弾丸は、両被疑者の腕を正確に撃ち抜く。

 映像射撃シミュレータは高機能であり、着弾した場所によって映像の続きが変化する。一瞬の間を経て、地面に倒れ込む両被疑者。部長は拳銃を構えたまま無線発報する真似をする。


「──至急至急。職質中、二人組の男に拳銃ようのものを向けられたため警告なく発砲した。二発の弾丸は命中、両被疑者に意識はあるものの本職ほんしょくの銃弾により重傷の模様。他一般市民に怪我はなし。至急応援並びに救急車の手配願いたい」


「……はい、想定終了! やるなぁ鷹取、シティハンターかよ?」


「いえ。たまたまです」


 誇るでもなく、鷹取部長は言った。ていうか、いくら訓練とはいえ凄すぎる。訓練弾に反動リコイルがないことを加味しても、部長の腕は一級品に違いない。

 ギャラリーから拍手と称賛が与えられるのも納得である。それでも鷹取部長は、毅然とした態度を崩さなかった。流れるような手つきで拳銃から訓練弾を取り出すと、元いた位置に戻ってくる。

 ……なんか面白くない。まるでダシに使われた気分だ。


「はぁー、めちゃくちゃカッコいい。詩織先輩、そう思いません?」


 ちょんちょん、と肩を突いてきたのはさっきの眞子だった。目をキラキラさせて鷹取部長の方を見ている。嘘、こんなのがタイプなの? 私のジト目を無視するように眞子は小声で続けた。


「詩織先輩はいいなぁ。鷹取部長の直部下でしょ? やっぱり、普段からもカッコいいんですよね? 鷹取部長って」


「カッコいい……? 鷹取部長が?」


「カッコいいですよ。知的なメガネに、細く見えるけれど確かな筋肉。そう言えば逮捕術もめちゃくちゃ強いらしいですよ。それにスーツのセンスだっていいし、声も渋くてカッコいい。ウチの署の独身なら一番人気じゃないです?」


「とっつきにくくない? 冷たいし」


「いやそこがいいんですよ。私、防犯係に行きたいです。鷹取部長の下ならきっと頑張れる。実は今度、生安せいあん登用資格試験受けようと思ってるんですよ、私」


「やめといた方がいいよ、それ絶対。憧れで仕事なんかするなって言われるのがオチだよ。それに防犯係、思った以上にキビしいし」


「そんな厳しい部署でさらりと仕事をこなしてる鷹取部長が、ほんとにカッコいいですよね」


 蓼食う虫も好き好き、ってヤツだろうか。それとも私の目がおかしいのだろうか。ちらりと鷹取部長を見ると、何故かこちらに近づいてくる。タイミングが致命的に悪い。


「上沢、訓練終わったなら課室に戻れ。例の相談者のアポ、そろそろだったろ」


「了解、すぐ戻ります」


「鷹取部長、お疲れ様です! 凄かったです、さっきの射撃」


「あぁ、伊川。あんなのたまたまだ。本当の急訴きゅうそ現場で撃てるかどうかが問題だからな。それよりさっきの、お前の答えは完璧だった。よく勉強してるな。さすが地域二課のエースだ」


「そんな、エースだなんてまだまだです。でも今度、生安登用資格試験を受けようと思ってるんです、私。だから色々、鷹取部長に教えてほしいです」


「あぁ、いつでも課室に来てくれ。俺よりも谷上たにがみ班長に教養を受けるといい。あの人も、未来の生安課員は大歓迎だろうからな」


「はい! 谷上班長にも、鷹取部長にも色々教えてほしいです! よろしくお願いします!」


 眞子はぺこりとお辞儀をしたあと、顔を上げてはにかんだ。あざとい。あざとすぎる。

 この「キラースマイル」と、そして「ちょっと不機嫌な膨れっ面」の使い分けで、眞子は事案対応──、特に男同士のケンカ事案なんかをさらりと仲裁してきたのだ。「私、そういうの男らしくないと思います」。膨れっ面でそう言ってから、「でもケンカしない男の人はステキだな」とキラースマイルで笑う。これが眞子の必勝ムーブ。


 これを食らった男たちは何故か、さっきまで荒ぶっていたのに急にデレデレして矛を収める。男ってほんと単純。

 世の中は不平等だ。可愛い眞子は褒められて、そうでない私は怒られる。あぁ、無常。石ころがあったら蹴飛ばしたい気分。


「今ちょっとだけいいですか?」と眞子は言い、鷹取部長と何やら話し込み始めた。必然、私は一人になるわけで。なんか面白くないというか、もやもや感がすごい。


 ……とりあえず。相談者のアポは、午前十一時からだったはずだ。それに遅れることはできない。だから自分の仕事をしよう。まずは拳銃を保管庫に収めなければ。

 仲良く話す二人を尻目に、私は道場の扉から外に出る。


 ……なんだろう、この気分。うまく言葉にできないけれど、なんとなく負の感情が沸き立っているような気がした。

 やっぱり嫌な予感がする。こういう時の私の勘は不思議とよく当たるのだ。次の相談が、ややこしくないことを祈るしかない。

 小さな祈りを胸に、私は道場の扉を閉める。がらがらと音を立てて閉まる引き戸。

 どうか何も起きないでと願いながら、私は課室かしつへと続く階段を降り始めた。




【続】


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