第7話「たったひとつの選択肢」
「ありがとう、上沢さん。辛い経験、話してくれて」
私の話を聞いてくれたエリカは視線を一旦、下に落とす。そして「でも、」と続けた。
「それでも。あたしはここで生きていくしかないんだ。そのカヤコさんの分まで、って言ったらおかしいかもしれないけどさ。あたしは頑張って生きてくよ。お金がある程度貯まったらもちろん、この仕事は辞めるつもり。ずっとは続けない。そんな甘い仕事じゃないって、上沢さんが教えてくれたんだし」
「どうなるか、わからないんだよ。いいお客さんばかりじゃないかもしれない。嫌な思いだってするかもしれない。他にも手はあるはずだし、エリカちゃんは未成年だ。児童養護施設で保護してもらうとか、まだ手はあるはず」
「──上沢、その手は使えない」
それまでずっと静かに話を聞いていた、鷹取部長が呟くように言った。相変わらず腕を組んだままで。
「エリカは十九歳だ。児童養護施設の保護対象は、原則十八歳まで。例外的に二十二歳まで保護できるよう、近年法律改正がなされたが、それは十八歳までに養護施設に入所していた者に限られる。仮にエリカが既に養護施設に入っていたとしても、十八歳を超えてなお入所し続けられるケースは稀だ。延長措置を受けられる子供は二割にも満たない」
「そんな……」
「親権の問題もある。エリカの話を聞く限りでは、今の母親に親の資格はないだろう。だがそんな親にでも親権は存在する。エリカはまだ未成年だ。何をするにも法律的には親の許可が必要になる。どこかに就職しようとしても、その親権が邪魔をする」
「……ね? 上沢さん。鷹取さんの言うとおりなんだよ。あたし、その辺りも調べたからわかるんだ。親の同意を得ずに働こうとしたら、そういうのに甘い夜の仕事しかないんだって」
エリカは諦めたように笑った。その笑顔は、カヤコのものとよく似ていた。初めから幸せになるのを、どこか諦めていたようなカヤコに。
「でも嬉しかったよ、上沢さん。あたしのこと真剣に考えてくれて。本当に──」
その時だった。小部屋の扉が蹴破られるように勢いよく開けられたのは。
当然、扉の前に居た部長は思い切り前につんのめる。というか背中を強打したっぽい。
げほげほ咳をしながら表情を苦悶に歪める鷹取部長。そしてその後ろから現れたのは、ずんぐりしたクマみたいなシルエット。
「──ハナシは聞かせてもろたでぇ」
部屋に入ってきたのは果たして。我らが防犯係の長、
「は、班長……?」
「おう詩織ィ。それに鷹取、二人ともようやった。で、鷹取は屈んでなにしとるんや。新手の土下座かい、それ」
「……班長が、扉を、」
と、息も絶え絶えに鷹取部長は言うけれど、班長は自分から言葉を投げかけたのに思い切り無視している。エリカの方を向いて、班長はニヤリと笑った。
「ほんで、お前が件のエリカやな? なんや、写真よりえらい別嬪やないかい。夜の仕事なんかせんでも充分稼げそうやんけ。とりあえず無事なんやな、詩織ィ?」
「はい、無事です。まだこの仕事も、本格的に始める前でした」
「間に合った、いうわけやな。よし、ほんまようやったで二人とも。あとで褒めたるわ」
ほくほくした顔で笑う班長。その班長を見て、エリカは怪訝な表情を浮かべる。この人は……? と問うような仕草。
「エリカちゃん、この人は私たちの上司だよ。心配しないで」
「なんか、もの凄い人が入ってきてびっくりした……」
「もの凄い人には違いないでぇ。ワシは谷上いうモンで、こいつら二人の上司や。つまりワシが一番えらいってワケやな!」
ガハハといつものデカい声で笑う班長。その声は、小さな小部屋が微かに震えるほど響く。というか反響して、ほんとにいつもより班長の声はデカく感じた。
「あとな、ワシは極度の面倒臭がりや。そやから端的にいうで、ええな?」
「は、はぁ……」
「鷹取から電話である程度のハナシは聞いとる。この仕事で生きてこう思とるらしいけど、本音はどうなんや。ほんまはこの仕事、したないんやろ? 汚いオッサン相手に愛嬌振りまくんはシンドイでな。普通の仕事して生きていけるんやったら、そらそっちの方がええやろ。どないや」
「でもあたしに普通の仕事なんて……」
「できるできへんのハナシちゃうんや。普通の仕事と風俗の仕事、どっちの方がやりたいんやと訊いとる。ほんで、どっちや」
鋭い視線をエリカに投げかける班長。エリカはやっぱり気圧されて、「普通の仕事がいい……」と答えていた。それを聞いた班長は嬉しそうに「そうかそうか」と言葉を返す。
「エリカ、普通の仕事はできへん思てたんか? 十九歳で親権はまだ親にある。そんな親とは離れて生きたいけど、親に邪魔されるかもしれん。そやから普通の職業には就けへんってか?」
「そう、だよ。絶対に母親が邪魔をする。あたしに家にいてほしいんだ。そうしたら、母親は自分が殴られる回数が半分に減る。家事だって全部あたしにさせればいい。アイツ……母親のクソ彼氏が何かに怒ったら、あたしのせいにすればいい。あたしはあの家では道具なんだ。だから、手放したくないだけなんだよ」
「なるほどな。お前、かわいそうなヤツやなぁ」
ぞんざいに言ったあと、班長はベッドサイドテーブルにあった灰皿に目を止めた。「おうラッキー」と言いつつポケットからタバコを取り出すと、誰に断るでもなく火をつける。たっぷりと煙を吐き出して、班長は続けた。
「エリカのハナシと鷹取の報告を合わせたら、日常的に虐待受けとるってことやろ。実母には道具みたいに使われて、実母の彼氏には暴力を受けとると。ほんで、今は殴られたアザなんか残っとるんか」
「アザはもうないよ。今朝は、犯されようとしただけで暴力は振るわれなかったから。でも前に殴られた時の写真は残してる。いつか訴えてやろうと思ってたから」
「そらええ心がけやけど、これからは殴られたらすぐワシらに通報してくれ。いや、殴られそうになったらでええ。とにかく自分の身を守るんやぞ。死んでしもうたら終わりやからな」
「うん……わかった。これからそんなことがあればそうする」
「まぁ今後、『そんなこと』はワシらが二度と起こさせへんけどな。よし、ハナシ纏めるで。お前が取れる選択肢はたったひとつや」
「ひとつ?」
「おう。一択いうヤツや。ただこのやり方には覚悟が必要やで。ハコヘルで働くなんかより、もっと強い覚悟が要る。どや、お前にその覚悟はあるんか」
「……ある。あるよ。あの親から離れて生きられるなら、どんなことだってする」
「よう言うた! やり方を聞く前に『覚悟はある』と言えるんは、ほんまに覚悟のあるヤツだけや。よっしゃワシに任しとけ。悪いようにはせんからな」
谷上班長はスマホを抜くと、どこかに電話を掛け始める。背中を打って苦しんでいた鷹取部長に「
有無を言わせない凄いスピード。その迫力に気圧されるように、エリカを含めた私たちはその指示に従う他なかった。
とりあえずエリカに通常の服を着てもらう。そして荷物を纏めさせる。幸いというか何というか、エリカの荷物は小さなリュックひとつだけ。
どんな連絡をしたのか知らないけど、必要な措置を終えたであろう班長は、スマホをしまいながらエリカに向き直った。
「さてエリカ。今からワシらに『保護してほしい』って言え。これは必要な儀式みたいなモンや」
「え、どういうこと?」
「儀式、いうたやろ。大した意味なんかない。ただ言ってくれればええんや」
「保護……してほしい、です」
「よし、ほな今から警察法第二条での保護開始や。鷹取、時間取れ」
「了解。午後八時四十三分、保護に着手」
「エリカ、今からワシらがお前の身柄を預かる。さっきもいうたけど悪いようにはせん。そやから大船に乗ったつもりで安心せぇ。なんせ、ワシが乗っても沈まんような大船やからなぁ!」
吸い込んだ煙を両鼻から出して、班長はガハハと笑った。とても頼りになりそうな、そんないつもの笑顔で。
───────────
「ほなエリカ、今から具体的なハナシするで。よう聞けよ」
揺れる車内に、四人の人間が座っている。運転席に鷹取部長、助手席には谷上班長。そして後部座席に私とエリカ。
私たちは車で本署──、つまりは防犯係の拠点たる
ちなみに名谷部長は、「名谷、お前もう一台のクルマ回収な」と班長の命を受けていてここにはいない。
「エリカがやらなあかんことは多い。まずは避難や。ワシら警察としては、暴力受けとると判明した娘をあの家に帰すワケにはいかん。でもお前は十九歳、児童養護施設には入所できん。警察の保護は最長でも二十四時間や。となると、避難先は民間のDVシェルターしかない」
「DVシェルター? あたしがアイツに殴られてたのって、DVになるの?」
「暴力は暴力やし、お前はシェルターに入れる要件を
「お金? お金なら……、昔貯めてたお金が、三万円ちょっとは」
「三万だけか。ちょい厳しいな。ほなこれ持っとけ」
班長は自分の財布から三万円を取り出すと、後部座席のエリカにむりやり握らせた。エリカは途端に目を丸くする。
「それはやるんやない。お前に貸すんや。小遣い制のワシにとったら月給やぞ、それ。でも谷上銀行は優しいからなぁ、無利子で貸したろ」
「で、でも……」
「ええか、必ず真っ当に働いて返せ。期限はワシが死ぬまでや」
ガハハ。車内に響く異様にデカい笑い声。でもその声は、不安を吹き飛ばすように頼もしい。
「とりあえずエリカ、その金で民間シェルターで過ごせ。どう転ぶかわからんから金は多いに越したことはない。そやけど無駄遣いはすんなよ、それはお前の命綱や。タバコなんか買ったら承知せぇへんからな」
と言いつつも班長は、禁煙の公用車でタバコを思いっきり吹かしていた。もちろんダメなんだけど、法律には違反していない。それは班長の口癖。
「ワシみたいにタバコ吸いたかったら、ハタチになって自分で稼いでからや。吸うなとは言わん。ワシは喫煙者には優しいんやで」
「わかり、ました……」
「ほんでや。シェルターに入ったら、次は家庭裁判所に親権喪失の申し立てや。これが認められたら、お前と親の法的な繋がりは切れる。その次は未成年後見人の指定。これも家裁に申し立てる。どっちも受理されたら晴れて、お前は自由の身ってことや」
「班長、それに要する期間って、どれくらいなんですか?」
「なんや詩織、お前知らんのか。人を守ろう思たらそれなりの知識が必要なんやぞ」
「不勉強ですみません……」
「まぁでも、素直に認めるんはええことやな。よし鷹取、お前の部下に教えたれ」
ステアリングを捌きながら、バックミラー越しに私に視線を合わせた鷹取部長。もっと勉強しろというような目で、それでも答えてくれる。
「決定には、二、三ヶ月の期間を要する。だが今回のケースでは保全処分が適応されるだろう。要は、仮決定で親の親権は停止されるってことだ」
「鷹取、
班長は嬉しそうに言うと、車に置いていたであろう缶コーヒーを呷った。そしてまたタバコをひと吸い。なんて不健康な姿だろう。
「本題はここからや。シェルターには多く見積もっても一ヶ月しかおられん。親権喪失の決定がされるんは早くても二ヶ月かかる。ほな足りへん一ヶ月をどこでどう過ごすかいうハナシになるやろ、っておいエリカついて来とるか?」
「ちょっと、話が難しすぎて……」
「もうちょっと耐えろ、ワシも難しいんや。とにかくシェルターを出た後のハナシや」
「どこか別の場所で過ごさなきゃならないってことだよね? 親の目の届かないところで、自由の身になれるまで」
「そういうことや。親から身ィ
「そんな場所、あるのかなぁ……」
「エリカ。お前、老舗旅館の仲居になる気はあるかぁ?」
首だけこっちに向けて問う班長は、なぜか嬉しそうに笑っていた。
【続】
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます