第6話「独白」


 それから。エリカは涙まじりに話し始めた。ババアと呼ぶ母親のこと。そして母親が今付き合っている、のことを。


 母親と同い年だというその彼氏は、半年前からエリカの家に入り浸り、酒を食らっては暴れる生活を続けているらしい。どんな仕事をしているのかは知らない。でも、まともな職に就いていないのは確かだという。

 酒が切れれば暴れ、深く酒が入っていても暴れる。どちらにしろ手がつけられない。それにもかかわらず、母親はその彼氏と別れない。そして。


「アイツは最低だよ。家の金を勝手に使って、酒にギャンブルにやりたい放題。でもあのババアも同罪だ。アイツの機嫌が悪くて、あたしが殴られても自分が殴られても、なぜかアイツの肩を持つ。それにあたしが……、あたしが、」


 呟くエリカの指先が震えていた。それが辛い記憶によるものだと、容易にわかってしまう。

 辛いのなら話さなくていい、とは言えない。エリカの悩みの根源。それを聞き出さなければならない。たとえそれが痛みを伴うことだとしても。


「……あたしが。アイツに犯されそうになっても助けてくれなかった。見ないフリをしてた。だから絶対に許せない。アイツらだけは、絶対に」


「お母さん、助けてくれなかったって……、大丈夫だったの?」


「今朝のハナシなんだけど、アイツかなり酔っ払ってたみたいでさ。足元もおぼつかなかったから、思いっきり抵抗して、近くにあった目覚まし時計でアタマ殴ってやったんだ。ちょっとだけ、スッキリしたかも」


「今日の朝ってことは、それが原因で……家出したってこと?」


「うん。それでもう、いろいろ我慢できなくなってさ。ババア……母親に言ったの。アイツと別れてって。でも母親の答えは、『あの人が受け入れられないなら家を出て行け』だった。あたしは思ったよ。あぁ、母親はあたしじゃなく彼氏を取ったんだ、って」


 その後エリカは、捨て台詞を吐いて家を飛び出した。そして例の友人を頼った。高校時代からつるんでいた、イチゴという名の女の子を。

 イチゴは警察情報ログにヒットした、性風俗店で勤務するエリカの友達だ。そしてエリカは、イチゴのツテでこの業界に入る決意をした、という流れだ。


「この仕事を選んだのは、仕方がなかったからなんだ。稼げるって話だったし、それに寮があるから住む場所にだって困らない。ミカ……、あぁ、イチゴって本当はミカって名前なんだけどね。あいつちょっとおかしなヤツだけど、知り合いが近くにいるだけで安心できるじゃん? それにさ、」


「それに?」


「あの家に居たら、あたしはいつかアイツに犯される。それだけは死んでも嫌。絶対に嫌。だったら他の人を相手して、お金に変えた方がいい。それにこの店なら最後まではしないじゃん? それなら犯されるよりずっとマシだから」


 何がおかしいのか、エリカはくつくつと笑っていた。とても悲しい笑い方。どう見たって、泣いているようにしか見えない。


「ここで我慢すれば。ここで頑張れば、あたしは生きていける。アイツらから離れて、一人で生きていける。遅すぎたかもしれないけど、自立する覚悟が決まったんだ」


 ……笑っちゃうよね。乾いた声でエリカは漏らす。ひとつも笑えるところなんてない。それはどこまでも悲しい話だ。


「まぁとにかく、そんなワケ。今まで好き勝手生きてきたツケが回ってきたんだと思う。高校卒業してさ、働きもせずにずっと遊んでた。それで……母親に彼氏ができて、そっちにもお金がかかるようになって。あたしは好き勝手を続けて、まだ手が掛かる子供だって思わせれば、母親はあのクズと別れてくれると思ってた。でも甘かった。だったらもう、一人で生きていくしかない」


「この仕事で、一人で生きていくの?」


「そうだよ。あたしはまだ未成年じゃんか。一人で家も借りられない、どうしようもなくガキなんだ。だからここで、新しい自分になって生きていく。エリカは死んだ。あたしはリカ。これからリカとして生きていくって、そう決めた」


「リカちゃん……、それで本当にいいの?」


「いい。そう決めたから。それで最後に、ケジメとして母親にメッセージを送ったんだ。あたしは死んだと思ってほしい、ってね。だからあたしは、この仕事で生きてく覚悟を持ってるよ」


 強い意志、には見えない。それは後ろ向きな決意だ。エリカ自身が「仕方がなかったから」と言っていたのが何よりの証左ではなかろうか。

 望まずこの仕事をしようとしている女の子は、どうしたって止めてあげたい。それが自分のエゴだったとしても。


「でもね、リカちゃん。新しい自分として生きていくなら、この仕事じゃなくてもいいんじゃないの。他にも仕事はたくさんあるよ。この仕事なんかじゃなくたって、」


「……この仕事?」


 ぴたりと定まるエリカの視線。強い意志が宿ったそれは、強く私を穿つ。まさに覚悟を持った者の眼差し、と呼べるものだ。


「昔、学校で習ったよ。仕事に貴賎なしって。どんな仕事でも、働いてお金を得るのは尊いことだって。だったらこの仕事も尊いんじゃないの? 誰かの役に立つんじゃないの? 誰の迷惑にもなってないよ」


「それは……」


「あたし自身がバカにされるのはいい。蔑まれても憐れみの目を向けられても構わない。それはあたしが今まで、いろんなものから逃げてたからだ。でもこの『仕事』は尊いはず。どんな仕事も等しく尊いはず。だから、この仕事って言わないでよ」


「でも──」


「あたしを本当の意味で護ってくれようとしてるのなら、お願いだから放っておいて。どうか見逃して。あたしを見つけたってアイツらに言わないで。アイツらから護ってほしいっていうのは、放っておいてって意味だよ。お願いだから、そっとしておいて……」


 エリカは涙を拭おうとしなかった。懇願するように、お願いと繰り返すエリカ。その姿を見て、私はどうすればいいと自問するけれど、答えはすぐに出てこない。

 無力な自分を痛感した。エリカを見つけたのに、それからどうすればいいのかわからない。どうすれば、本当の意味でこの子を救えるのか。


 エリカの言う通りにするのがいいのだろうか。このままエリカを見つけられなかったことにして、ここで働かせるのが一番なのだろうか。

 覚悟を持っているとは言ったけど、身体を売るのは肉体的にも精神的にも辛い仕事だ。もちろんどの仕事にも辛さはあるけれど、この仕事だけは特殊。それは間違いのない事実。


 だって、私はそれを知っているから。嫌になるくらい、知っていることだから。


「……昔さ。私の幼なじみに、カヤコって子がいてね。小学校からずっと仲が良かったんだ。小中高と一緒だったんだけど、カヤコは家庭の事情で大学には進学しなかったの」


「上沢さん、いきなりなんの話してるの?」


「──聞いてほしい。私の昔話を、リカちゃんに」


 真っ直ぐにエリカを見つめた。私の目に何かを感じ取ってくれたのか、エリカはそれ以上なにも言わなかった。視線を逸らさずに、私はそのまま言葉を継ぐ。


「カヤコの家は、もともと父親が居なかった。だから、家があまり裕福じゃなかったんだ。それでもカヤコはとてもいい子でね、お母さんを助けるため、高校を卒業してすぐに働き出したんだ。でもね。就職して一年も経たない内に、お母さんが難しい病気になった。保険でも賄えないくらい、お金が掛かる病気だったの。最低限の保険しか、入ってなかったみたいだから」


「父親がいない……、ウチと同じだ」


 カヤコのことを思い出すと、胸が詰まる思いがする。仲のよかったカヤコ。一番の親友だったカヤコ。笑顔が素敵で、心も清らかで美しかったカヤコ。ちょっと抜けてて、でも思いやりがあって。本当に大切な友達だった。


「それでね。カヤコはいろんなところに借金をした。お母さんを助けようと必死だった。でも、お母さんは一年と経たず亡くなってしまったの。カヤコに残ったのは、大きな借金だけだった」


「もしかして……、そのカヤコって人は、に?」


「カヤコは人を疑わない、言い換えれば何も知らない女の子でね。お金を借りたところが悪かったんだ。利息がみるみるうちに膨らんで、カヤコのお給料ではとても返せないところまで来てしまった。その借金取りが紹介した新しい仕事が、夜のお店の仕事だった」


 カヤコは結局、言われるがまま身体を売る仕事に就いた。エリカがしようとしていたこの仕事より、それはもう一段階上の仕事。最後まで身体を売る──、そんな仕事だ。


「借金を返すために、カヤコは働いた。必死で働いていたんだと思う。でも、辛い仕事で心も身体も壊れてしまって。そして」


「まさか……」


「──首を吊って死んでしまった」


 地元の警察から電話を受けた時のことは今でも憶えている。酷暑と言っていいくらい、夏の暑い日。大学が夏休みでサークル活動をしていた時のこと。


 ──確認してほしいことがあるのでご協力頂きたい。鼓滝こだきカヤコさんに関することです。


 電話口で私は、固まってしまった。カヤコが亡くなったと聞かされて身じろぎひとつできなくなってしまった。

 カヤコは借り上げ寮の一室で亡くなっていた。母親は亡くなっていて、身内は誰もいない。天涯孤独の身空。

 カヤコは顔写真付きの身分証を持っていなかったから、警察はその遺体がカヤコ本人であるかの確認が必要だったのだ。

 カヤコは遺書を残していた。それは一番の友人である、私に宛てた手紙。


 その手紙を読んで、私は初めてカヤコが置かれていた状況を知った。お互い時間が合わなくなったけど、それでも合間を縫って二ヶ月に一度は顔を合わせていたのに。でもそんな話、私は全く知らなかった。


 カヤコの最後の言葉。手紙の末尾にあったそれは「ごめんね」という言葉。読み終えて涙が止まらなかった。嗚咽さえ漏れていた。

 警察は遺体の写真を確認してほしいと言ったけど、私は写真じゃなくカヤコに会わせてと懇願した。その願いは聞き入れられ、カヤコの遺体と霊安室で対面した。

 冷たくなってしまったカヤコを見て、言葉は何も出なかった。手紙を読んであれほど涙を流したのに、また涙が溢れて止まらなかった。

 きっと私は一生分の涙をそこで流し切ったのだろう。それから私は、今も泣くことができないでいる。


「今にして思えば、カヤコは私にSOSのサインを出していたのかもしれない。でもその時の私には、わからなかったんだ」


「そんなことが……」


「だからさ、リカちゃん。ううん、ちゃん。これは私のエゴだけど。警察官としてじゃなく、ひとりの女としての言葉だけど。聞いてくれるかな」


「うん……」


「私はね。カヤコを死に至らしめたこの仕事が、憎い。憎くて堪らない。もちろんこの仕事をしてる人みんながそうなる訳じゃない。ごく稀だってこともわかってるよ」


 エリカは口を噤む。私はエリカの目を見て続ける。


「これが逆恨みってこともわかってる。それに何も知らなかった自分も、許せないんだ。だから知った以上は止めたいの。エリカちゃんは望まずこの仕事に就こうとしている。だから絶対に止めたい。この仕事をして、病んでしまって。そして死を選んでしまう人を、私は二度と見たくない」


 紛れもない本心だった。それは私が、警察官を志した動機でもある。

 困っている人を助けたい。あの時、私は助けられなかったから。自分の親友が困っているのを、知りもしなかったから。

 間違った贖罪だと言われてもいい。これは自分が決めたこと。


 この先どんなことがあろうとも。私は自分の生き方を、曲げるつもりはない。




【続】


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