4 一斤染




『おまえの連れ。あいつがどんなやつか知らねえだろ。早く離れたほうがいいぜ』




(…やっぱり、食い逃げをたくさんして、指名手配狐になってるんだ)


 元来た道を辿り、翠が居る場所に戻って来た玖麦の頭の中を反芻するのは、縁の意味深な発言だった。


 怒りはまだ静まってはいなかった為、怜条には半ば八つ当たりのように言葉を投げかけた玖麦は、翠にも声をかけて、足を止めずに外へと繋がる道へと向かった。

 翠は怜条へと小さく頭を下げてから、玖麦の後を追った。

 怜条は背を向ける翠と玖麦に向けて、ひらりと手を流してから、駄々をこねている縁を迎えに行ったのであった。




 洞窟の暗さに慣れた目に、太陽の光は狂気に等しかった。


 光の残像が瞼の裏で落ち着くまで目を閉じた玖麦。翠が間近に迫ってから、くるりと振り返って、瞼を静かに持ち上げて、厳しい目つきで翠を見上げた。

 翠は即座に笑みを引っ込めた。


 玖麦のその雰囲気は、怒りや呆れや同情を湛えた、近しい相手と一緒のものだったからだ。

 声を荒げることはない、だが、その静かに諭す物言いは、何よりの恐怖であった。

 しかし、翠は畏まりながら、内心で首を傾げた。どうして玖麦が今の状態になっているのかがわからなかったのだ。


 思いつくとしたら。と、思考を巡らせ、次には、身体を震わせた。


 自分の正体をばらされたのではないかと。

 もしも。もしもそうならば、きっと、確実に、この旅はここで終了になる。


 絶対に、玖麦は自分を。



(拒む、)



 まるで、光の届かない深海に放り込まれたような絶望感が、翠に襲い掛かった。



 誤魔化さなければ。


 思いを巡らせるほどに、芽吹いた焦りが募っていく。



「翠さん」



 見捨てないで。



 今の翠を見ていると、まるで縋られているかの心地になる玖麦。今から告げる言葉は、捉えようによっては、見捨てられたと思わせるような気持ちにさせるのかもしれないが、そうするつもりは毛頭なかった。


 流石に全額支払うような聖君になるつもりもなかったが、罪を償うまでは会いに行くし、償い終えた後に、花嫁探しも手伝う。なんなら、翠が牢屋に入っている間は、自分一人で探し続けてもいい。



(だから、そんな顔をしないでください)



「翠さん。一緒に警察に行きましょう」



 何をしたかは訊く気にはなれなかった。

 翠の今までの言動からして、食い逃げしか思いつかなかったが、実は、違うのかもしれない。

 もっと、深刻な罪を犯したのかもしれない。

 言いたくないだろう。そう思った。だから、簡潔に用件だけ伝えた。



「警察?」



 ぐるぐるぐる。翠の頭の中には巨大な渦がいくつもいくつも発生していた。



 自分の正体を聞かされたとして、行くべきは警察?



(いや、そうだ。まずは警察だ。身柄を確保して、連絡を入れて、そこから連れていかれる。だが。警察になんて行かなくてもわしは逃げはしないのに。玖麦には直接向かおうという意識がないのだ。警察に引き渡して、お終いにしたいのだ)



 ひどく胸が痛い。そう思い、次には、どうしてか、玖麦の顔が歪んで見えた。

 ひどく驚いている玖麦の顔だった。

 それはそうだろう。



 鬼というだけでも(信じてくれていないが)驚きなのに、それどころか。




(泣いちゃうくらい、ひどいことをしたのかな。それとも、ようやく食い逃げにも罪の意識が芽生えたのかな)



 顔を歪めたり、手で覆ったりなどの前触れもなく、突然、凪のように静かに、まるで真珠のような大粒の涙を流し始めた翠の目元に、優しく手拭いを押し当てた玖麦。使ってくださいと言っても、動かない腕に代わり、押し当て続ける。



「翠さん」



 泣かないでください。そう言いたかったが。やっと、罪の意識を持ち始めたかもしれないのだ。反省すべきは反省すべき。



「翠さん。一緒に警察に行きましょう?」

「い、いや、だ」



 声にも悲しみを滲ませて、翠は小さく被りを振った。

 玖麦は目を丸くした。まさか、罪の意識を持ち始めたのに断るなんて思いもしなかったのだ。



「警察までは私も一緒に行きますよ」

「そこか、らは、わしと、一緒に、行かな、いのだろう?」

「え、ええ。それはそうですよ」



 まさか一緒に牢屋に入るわけにはいかないし。

 戸惑いながらも断言すれば、手拭いが使い物にならなくなるほどに、すごい勢いの涙が流出してきた。



「く、玖麦、は、わしが。わしの、正体を知っても、離れていかないと、思って」



 すびし。鼻水が弾丸のように地面にのめり込んだ。

 あり得ない光景に半歩片足が後退して、けれど、その体勢を維持する。

 離れたらもっと悲しませる。でも、鼻水まではちょっと、絶対拭いたくないかな。思いながら、玖麦はその場に留まり、絞った手拭いを目元に押し当てた。鼻水は無視だ。地面に流そう。



「離れていかないと、思って、たの、に」

「離れませんよ。手続きにも立ち会いますし、時々会いに行きますし。花嫁探しもやっておきます」



 花嫁。

 その単語に、姿を強く思い返せば、涙腺がさらに壊れる。



 ふやけるんじゃないか。玖麦は思った。自分の手は翠の涙でふやけるんじゃないか。



(…もう、手拭いは役目を果たした)



 玖麦は手拭いを絞って、リュックサックの用途のない金具に結び付けてから、翠の両の手にやわく手を添えた。



「花嫁も、きっと、来てくれない」



 それはそうかもしれない。思いながら、口にはしなかった。しかし、無責任な言葉を告げるわけにもいかない。



「翠さん。私は離れません。友達ですから。遠く離れることになっても、大丈夫です」

「む、うぅ」



 友達。

 その単語に、飛び跳ねたくなるほど歓喜する。涙を止めて、ありがとうと玖麦に伝えたい。すごく嬉しいと伝えたい。なのにどうしてか、涙が止まらない。



(というか、わし。いつから泣いているんだっけ?)



 泣いている事実を今更ながらに実感した翠。即刻、両の手で顔を隠した。

 気付いていたら泣いていた。どうしよう。すごく恥ずかしい。止めたいのに、止められない。



(正体を知っても、この場をやりすごす為だとしても、友だと言ってくれた)



 十分ではないか。

 帰るべきだ。しかしやはり、花嫁探しは、続けたかった。玖麦の兄探しも。きちんと。

 全部終わらせたら、きちんと、帰るから。だから。



「く、くむ、ぎぃ。わ、わし、警察には、行く。花嫁、探しと、そなたの兄、捜しを終えたら。だから、それまでは、旅を、続けることを、ゆ、ゆるして、ほしい」

「………」



 逃亡生活をしながら人探し。

 逃亡幇助で自分も牢屋暮らし。



 宇宙の彼方へ遠ざかっていきたい意識を何とか繋ぎ止め続けた玖麦。友達発言をしてしまったのだ。自分も覚悟を決めなければいけない。意気込む。



 考えろ。考えるんだ自分。

 本当ならば今すぐ警察へ行くのが、良策である。罪を償うのが第一である。

 けれどここで、彼の意見を聴かなかったら、逃げられる可能性がある。自分の足では彼を捕まえられない。逃げて、そしてそのまま逃亡生活を続けるのかもしれない。罪が重くなる。



 ならば、騙して連れていくのはどうだ。

 浮かんだ考えに眉根を寄せる。

 嫌だ。それは、嫌だ。最善でも嫌だ。



「……あの、翠さん。師匠に話してもいいですか?」



 私の手に余る。断言できる。ので、玖麦は協力者を求めることにした。

 最も信頼できる二人の内の一人。本当は嫌だけど、とてつもなく嫌だけど。



(私には話せないことも、師匠になら話せるだろうし、師匠と話して、翠さんも気持ちが変わるかもしれないし)


「私たちには協力してくれる人が必要なんです」


 思うとか、曖昧には言わない。絶対、断固として、必要だった。

 不甲斐ないが、仕方ないのだ。怖いが、とても怖いが、仕方ないのだ。






(協力者。確かに。わしと玖麦だけだと、時間がかかる)



 若干涙の量が減るにつれて、冷静さも取り戻しつつある翠。玖麦の発言を肯定的に受け取った。

 追手の問題もある。捕まってしまえば、強制的に連れて帰させられる。

 その時までとは決めてはいたが、できるのならば。



(それに、玖麦のお師匠様ならば、わしの正体を知っても、わしの願いを聞き入れてくれるかもしれない)



「玖麦。わしからもお願いする」



(よかった。断られたらどうしようかと思った)



 か細い声でも肯定してくれた翠に、玖麦は胸を撫で下ろしたのであった。










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